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2019年2月25日 (月)

「短歌と天皇制」(2月17 日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(1)

 

「その反省から出発した戦後短歌」って、ホント?

 

すでに、1週間以上も経ってしまったのだが、217日『朝日新聞』の「歌壇時評」の見出しは「短歌と天皇制」であった。皇室情報がメディアにあふれ出ているこの時期に、埋もれそうな見出しであった。しかし、見出しと同じ書名の著書(『短歌と天皇制』 風媒社 1988)を持ち、そのテーマで書き続けている私としては、ほっとくわけにもいかず、読んでみた。執筆者の大辻隆弘(1960~)は、未来短歌会の選者でもあり、評論もこなす歌人である。しかし、その内容は、やはりというか、自身の「結論」に導く強引な論法には、かなりの問題があることがわかった。その文章は次のように始まる。 

「太平洋戦争中、短歌は戦意高揚の具であった。天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された。その反省から出発した戦後短歌は、皇室と関係を結ぶことに慎重だった。戦後短歌には天皇制に対するアレルギーがあったのだ。が、今、そのアレルギーは薄らいでいるように見える。・・・」

 まず、「その反省から出発した戦後短歌」という認識は、かなり「美化した」というより、当時の短歌状況を歪めていることにならないか、と思ったのである。もちろん私にしても、当時の歌壇や歌人の状況をリアルタイムでは知りようがない。戦後生まれの大辻は、何を根拠にしているのだろうか。いくつかの戦後短歌史は、敗戦直後の短歌状況をつぎのように述べている。 

「短歌は、戦意昂揚に踊らされていたために、衰弱がひどくて真の文学的立ち直りを見ることができなかった。戦後の虚脱状態がしばらくつづくのである」(木俣修『昭和短歌史』明治書院 1966年再版 571頁)

「終戦直後の内部的な混乱、また第二芸術論による外部からの追討ちにもかかわらず、このころ歌壇はもうこういう「年齢的、歌歴順の秩序」をすっかり回復している。割切っていえば――ということは、一時期における左翼『人民短歌』運動の強勢と、若手「新歌人集団」グループの急激な進出を別にすれば、歌壇は、敗戦によって格別の変化を蒙ることがなかったといっていい。とは言え、戦後はすべての歌人にとって再出発だった」として、歌人によっては、解放であり、試練であり、喪失であり、それが創作活動の刺激となり「戦後短歌の多彩な収穫を約束した」とする(上田三四二『戦後短歌史』 三一書房 1974年 89頁)

「この人たち(茂吉、文明、空穂、善麿、夕暮など近代短歌の大家)にとって国家からの桎梏から解放されるということは、悲しみに富んだ悔しみにほかならなかったのである」とし、この「悲傷の極限」から始まる戦後は、戦時中の弾圧から解放された歌人たち「渡辺順三らが『人民短歌』誌上で、いくぶん戦争責任の問題を取り上げたが、みずからの禍根を払っての公式的な攻撃であったきらいもあって、ついに歌壇の一般問題にならなかったのである」(篠弘『現代短歌史Ⅰ』短歌研究社 1983年、22頁)

 これらの「短歌史」に「反省」という言葉が出てこない。だが、その一事をもって、断ずることはできないし、これらの執筆者の言は当然検証されなければならない。私も、必要に迫られて、限られた範囲ながら、敗戦直後の主な短歌総合雑誌や復刊間もない結社雑誌に目を通し、当時の短歌や歌人たちの文章をたどるだけでも、「戦後短歌の出発」にあたって「短歌は戦意高揚の具であった」こと、「天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された」ことへの反省があったとは受け取りがたかった。逆に、GHQの検閲文書を収録したプランゲ文庫により短歌雑誌の検閲記録には、天皇制賛美を理由として削除された短歌や文章も決して少なくないことも知るようになった。


 
 上記の上田三四二の文中にある、歌壇における「年齢的、歌歴順の秩序」とは、1949年から50年代にかけて、10年余を短歌ジャーナリズムに身を置いた中井英夫が、敗戦後も変わることのない歌壇の状況を端的に表した言葉だが、「昭和二十年~二十三年」の歌壇の状況についても言及している。俳句に向けられた第二芸術論の余波で歌壇も大揺れに揺れたことに触れて、「大部分の歌人の胸中に深く巣食っていたのは、戦争中に戦争協力の歌を作るのはまったく当たり前のことではないかという、当時の日本人は考えて怪しまず、そのまま今日まで持ち越されてしまった手前勝手な論理であった」(中井英夫『増補黒衣の短歌史』潮出版社 19751920頁)と述べ、その典型として、佐藤佐太郎の一文(『アララギ』19461月)をあげるのである。

 

 戦後短歌の出発を語るからには、せめて、これらの短歌史をひも解く謙虚さが必要ではなかったか。

 

 

 

 

 

 

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在位30年記念式典にやはり登場した、天皇・皇后の短歌

 

  

きょう224日の政府主催の在位30年記念式典は、NHKだけが、14時から1時間の予定でフルの中継をしていた。もう一度録画で見るつもりだが、とりあえずの感想を述べておきたい。どこで少し狂ったのか、式典は、10分近く延びて、NHK15時から5分間のニュースが1510分から始まった。
 入場と同じく、安倍首相が先導して退場する天皇夫妻は、舞台に整列している祝辞を述べた人たちや演奏をした人たち、ひとり一人に言葉をかけ、挨拶をしているようだった。途中で、招待客1100人ともいう会場の人々に対しても、天皇は、ながらく手を振る場面もあって、首相と菅官房長官は、夫妻の前後で、少し戸惑っているようにも見えた。想定外だったのかもしれない。

 最初に画面で示された式次第のなかに、「御製、御歌の朗読」というのがあった。沖縄出身の歌手が、天皇の「琉歌」に皇后が作曲した「歌声の響」を歌うということは、かなり前からマス・メディアで喧伝されていた。「御製・御歌」を波乃久里子が朗読することを私は知らなかったが、 朗読されたのは、二首とも、2003年歌会始の「御題」の「町」として発表された短歌だった。選歌は天皇夫妻の希望であったのだろうか。

・我が国の旅重ねきて思ふかな年経るごとに町はととのふ
(天皇)

・ひと時の幸分かつがに人びとの佇むゆふべ町に花降る
(皇后)

 つぎに、登場した、上記の「歌声の響」は、天皇夫妻が皇太子時代1975年、初めての沖縄訪問時に、屋我地島(名護市)の国立療養所沖縄愛楽園を訪れ、その別れ際に、ハンセン病の入園者たちから、「だんじょかれよし」という地元の船出歌で見送られたことに、心打たれた夫妻、のちに天皇が琉歌を作り、皇后が曲を付けたものを愛楽園に送ったという、経緯を持つ楽曲だった。歌い手が三浦大知、ピアノ千住明、バイオリン千住真理子であった。その琉歌というのは、沖縄に伝わる八・八・八・六という三十音の歌謡であり、式典では、繰り返しなどを取り入れて歌われていた。

だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔 目にど残る

だんじよかれよしの歌や湧上がたん ゆうな咲きゆる島 肝に残て

 この琉歌の舞台となっている沖縄愛楽園は、その前身は、1938年に国策であったハンセン病者の強制隔離のために開設された国立国頭療養所であり、1972年沖縄の本土復帰とともに厚生省に移管となり国立療養所沖縄愛楽園となった。1996年、らい予防法が廃止された後、今日に至るまで、元患者の方々のさまざまな差別や苦痛が続いている現実もある中で、昨年、沖縄愛楽園は開設80年を迎え、『沖縄タイムス』は、社説で、次のように述べている。

  「愛楽園は1938年11月10日開園した。80年の間に延べ3904人が入所し、2100人が退園、1372人が園で亡くなった。現在も142人の入所者が暮らす。
 入所者の平均年齢は84歳。(中略) 元患者たちの、家族や親族、社会から受けた激烈な差別の記憶は鮮明だ。実名を明かせないまま生涯を終えた人は数知れず、長い年月を経て今ようやく語り始めた人たちもいることを思えば、国の誤った政策の影響の甚大さ、根深さを知る。」

「社説」の全文は、以下を参照ください。

◇沖縄タイムス社説
[沖縄愛楽園80年]謝罪・反省に終わりなし(2018122日)
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/353190

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  いわば、政府主催の天皇の「お祝いごと」としての式典で、こうした入園者たちとの交流というエピソードがことさら、一つの物語、美談のように流布されることには、どうしても違和感というか、やりきれなさがともなってしまう。そして、上記社説は、「隔離政策の根拠となった「らい予防法」が施行(96年に廃止)されて1世紀以上たつが、元患者や家族の人権回復は道半ばだ。国策にならい、ハンセン病への差別と偏見を助長してきたメディアの責任も重い。過ちへの謝罪と反省に終わりはない。」と結んでいる。
 メディアの責任とともに、国策に積極的にかかわって協力していた貞明皇后はじめ皇室の責任も決して軽くはないはずである。この件については、以下の私のブログを参照いただければと思う。

◇冬の沖縄、二つの目的をもって~難しいと逃げてはいけないこと
(1)屋我地島、愛楽園を訪ねる(2017214日)
 
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-eeb9.html

◇皇室とハンセン病と―名護市屋我地島の「御歌碑」(201822日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/02/post-abe5.html

 さらに、式典最後の天皇の「お言葉」では、その結びの部分で、皇后の次の歌を紹介していた。

  「平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇(りょうあん)の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。
しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。」

 ともどもに平(たひ)らけき代(よ)を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ(皇后)

*皇后の歌集『瀬音』(大東出版社 1997年)の「平成二年」の最後の 一首として収録されている。

 しかし、この結びの部分は、「お言葉」の中ほどの段落で、次のように述べている個所と共通する一面を持っていると思えたのである。全国各地からの寄せられた言葉を「皇室と共に平和な日本を・・・」ととらえ、下記のように「務めをはたしてこられたのは、この国の持つ民度のお陰」と述べている点であった。こんなとき、「民度」なんていう言葉を使うのかなあ、というのが正直な気持ちだった。「国民に寄り添う」という言葉も実体がとらえにくいなか、それにしても「寄り添いながら」「民度」を見極められているのかなとも。

  「これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。」
 当日にと思って、書き始めたのだが、日付が変わってしまった。きのうは、沖縄県民投票の日であったのだ。

 

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2019年2月23日 (土)

青葉の森公園は梅の見ごろでした

 2月21日、千葉市ハーモニープラザでのハーモニー歌会は、体調を崩して欠席の方々がいらして、少し寂しかったのですが、終了後、皆で近くの青葉の森公園に繰り出しました。まさに梅の見ごろで、30種類以上約1000本の梅は、久しぶりのことでした。ちょうど、この季節、吟行と称して、公園のあずまやで歌会を開いたことを思い出しました。

 

 北口の駐車場から入ると、梅園があり、さらに進めば原っぱに梅林がひろがります。「白加賀」「おもいのまま」「鶯宿」などなど優雅な品種名の札をたよりに楽しみました。

 

 青葉の森は、もともと農林水産省の畜産試験場の跡地で、1917年設立され、畜産技術研究発祥の地と言われているそうです。かつては牛馬が放牧されていたとのこと、近くに住むHさんの話でした。試験場が筑波学園都市に移って、1980年代の後半から、グランドや庭園、さまざまな施設が徐々に整備されてきたといいます。
 2002年、公園に近い男女共同参画センターの短歌講座の参加者らによって発足した、この歌会は、私にとっても、毎月楽しみな歌会になっています。ガラケーでの撮影だったのですが・・・。

20190221162523_2 「大盃」のトンネルが続く

2019022116263 「玉牡丹」、名の通り、こんもりとした花がかわいらしい

20190221161657_2

 河津の桜はすでに満開に近いとのテレビ映像も流れていたが、千葉では、まだ
 ・・・

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2019年2月18日 (月)

私の「1950~60年代の池袋」ベスト5は~「アド街」を見て

先週土曜日の「アド街」は池袋だった。、しかも「昭和の」がついていたのである。池袋生まれの私は、見逃すわけにはいかない。ほんの時々だが、アド街は、見ることはあったが、聞き流しの程度のことが多かった。

録画こそ取らなかったが、テレビの前に座った。私は、生れも育ちも池袋で、社会人となり、家を離れた1970年代初めまで暮らしていた。敗戦後の池袋の様子を、育った環境を振り返りたくなった年になったのだろう。昨年の夏には、くすりやの娘としての体験を、このブログでも書き綴ってしまった。

参照

20190216 21:00 - 21:54

出没!アド街ック天国~昭和の池袋~

https://yomu.tv/CodWY

 

この番組は、どういう基準なのかわからないが、20位のランク付けによって、20位から順に、場所や店、人物などが紹介される。いわば、話題性が低いか高いかなのだろう。今回は、流行した歌などにひっかけているのが、特徴なのかもしれない。「私の昭和」とは、ほぼ1015年ほど、いわば一回りくらいはずれ込んでいる感じではあったが、知らなかったことも沢山あって、それなりに楽しかった。

私にとって、池袋といえば、なんだろう。「昭和」というより1950年代、60年代の池袋である。

<ヤミ市>

番組では、どういうわけか「ブラックマーケット」と呼ばれていたが、いつからそんな呼び方をするようになったのだろう。出演者の内の高齢者?に入る荒俣宏(1947~)と渡辺えり子(1955~)は「ヤミ市」と口にしていたようだった。私たち家族には、敗戦後の暮らしの衣食がかかっていた西口の「ヤミ市」であり、子ども心に、強烈な印象を残している。西口のヤミ市の入り口のヘビ屋?は不気味で怖かったが、アイスキャンデーを売っていた食堂の「のとや」があったし、大抵の食料や日用品はそろうのだった。母の買い物にはよくついていった。ヤミ米を調達したのもここだった。

 

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「戦後池袋~ヤミ市から自由文化都市へ 展示資料解説」(池袋=自由文化都市プロジェクト実行委員会編刊 2015年9月)より

<映画>
 高校からの学生時代には、ずいぶんと通った映画館である。番組でも登場した、東口の人世坐(19481968)、文芸座(19561997)、文芸地下劇場(1955~)、西口のシネマロサ(1947~)はもちろん、もっとさかのぼれば、ロサの近くにはエトワールというのもあって、邦画の二本立て、三本立てがかかっていて、ジメジメして、周りに怖いオニイさんがいるような、なんか一番居心地の悪い座席だったような気がする。ロサには、その後、シネマセレサ、シネマリリオなんて言う名の映画館も併殺されたのは、1950年代半ばだったか。さらに駅近には、ピース座(⇒松竹名画座、19511990)というのもあって、池袋演芸場(19511990、新築1993~)と同じ建物だった。さらに、さかのぼれば、旧豊島師範の先、ヤミ市を抜け出たところに邦映座というのがあった。小学校の映画教室でも入ったような気がする。下の地図で言えば東横百貨店の向かいの「東宝シネマ」ということになるのか。東口には、今のジュンク堂の先、旧雑司ヶ谷5丁目の一角に山手劇場(194671957~?)もかなり古く、松竹映画専門だったような記憶がある。家の近くの銭湯「平和湯」の脱衣所の天井近くには、映画館のポスターがぐるりとひしめいていた時代である。

下の図は、手元にあった『新旅行案内5 東京』(日本交通公社 19556月初版、19604月Ⅶ版)の「池袋付近」(84P)の地図である。これによれば、今の池袋駅北口を出たところの東口に抜ける地下道を上がった、現在のパルコ別館とビックカメラ本店のあるところ、丸物デパート(19571969、現在パルコ)の向いに、池袋日活、池袋東急、池袋日勝館の三館が並んでいるが、この辺りにも映画館は建て込んでいた。多分、この中の池袋東急だったのか、高校の映画教室で、『エデンの東』を見た記憶がある。『エデンの東』の日本封切りが195510月とあるから、高校1年か2年生の時だったのか。今でも映画教室なんてやっているのかなあ。池袋東急は、池袋東洋劇場として1949年には開館、改築後のビルで1998年からのシネマコンプレックスとして2011年まで営業していたらしい。

日勝館は、戦前からあった映画館だったらしいが、焼け跡にいち早く開館したのが1946年、1960年には池袋松竹となり1963年池袋スカラ座になっているが、日勝地下や日勝文化劇場というのも記憶にある。いずれも、ハタボーリング場などで知られる旗興行の運営だったというが、1995年再開発のためすべて閉館したという。

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      『新旅行案内5東京』(日本交通公社 19556月初版、19604月Ⅶ版)より

参照

・豊島区映画館・池袋東口地区

https://www.japan-post.com/me/data2/res-me-std.php?FRTWID=FW000237

豊島区映画館・池袋西口地区

https://www.japan-post.com/me/data2/res-me-std.php?FRTWID=FW000238

 

現在はヤマダ電機が入っている旧三越の裏手にも、いくつかの映画館があった。巣鴨プリズン跡のサンシャイン60がオープンしたのが19784月というから、私は、結婚・転職・出産、すでに両親もなくなっている池袋の生家に帰省することはめったになかった10年余を過ごしていた。この間の池袋の変貌ぶりは、大きかった。

 

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         『東京区分地図』(国際地理学協会編刊 1990年5月)より

<立教大学>
 1945414日未明の城北大空襲で、池袋は焼野原になったが、立教のキャンパスだけは大方焼け残った。長兄は、戦前に立教中学校を卒業しているし、次兄は、戦後、疎開先から立教中学校に編入し、そのまま大学に進んでいる。時代は下るが、私も娘も社会人入学した修士課程で世話になっているだけに、我が家には縁のあるキャンパス。私の場合、メデイア史をと思って入学したが、原書購読はきつかった。若い院生に助けられながら、何とか単位も取れ、修論も提出できた。学内外のメンバーで立ち上げられた天皇制研究会にも参加することができたのは貴重な体験で、その後の仕事にも活かすことができたのではないかと思っている。愛校心ともちがう、育った池袋と一体となって立ち現れる、何かと気になるキャンパスにもなっている
 「アド街」の習いによれば、私にとっての「昭和の池袋」ベスト5ということになれば、上記の「ヤミ市」「映画」「立教大学」に続くのは、やはり、「百貨店」だろうか。西口の東横・東武であり、東口の西武である。5番目が、生家のある「平和通り」か。いまは「へいわもーる」というらしいが、その商店街としての変貌ぶりを見ると、懐かしさよりは、やはり寂しさの方がまさってしまう昨今ではある。思いは、いろいろこみあげてくるものがあるのだけれど・・・。

・<池袋学>夏季講座に参加しました~生活者の視点が欲しかった―池袋のヤミ市への熱い視線は、“男のロマン”にも似て―2015年9月15日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/09/post-9a00.html

2015年、戦後70年企画として、立教大学が中心になって開催された「戦後池袋 ヤミ市から自由文化都市へ」という展示とシンポジウムをのぞいてみた。その時の報告は、以下の記事にもあるが、「自由文化都市」といわれても・・・の思いは変わらない。シンポの講師4人のだれもが池袋に住んだことのない研究者ばかりだったのである。

下の地図は「戦後イケブクロ会場案内MAP」『戦後池袋 ヤミ市から自由文化都市へ』2015年9月)より

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2019年2月 9日 (土)

直近のスーパーが撤退、コンビニと空き家が増えてゆく街

 

店に入って、すぐ、売り場が、やけに広々としているな、と思っていた矢先、近くのスーパー、マックスバリュが、2月いっぱいで閉店するという、小さな「お知らせ」の看板が目についた。10年間の感謝も述べられていたが、そう、20094月、地元のディベロッパー山万とイオンの鳴り物入りでオープンしたスーパーだった。 

このスーパーの入るビルの建設・開店にあたっては、当時、地元住民との間で、24時間営業の是非、屋上の駐車場の是非が問われていた。一戸建ての住宅街と300世帯余りの高層マンションに挟まれた、住宅街の真ん中での24時間営業の悪影響が懸念されたが、採算が取れなかったのだろう、開店7か月後の200911月には9時~24時営業に短縮、現在では、さらに9時~22時に短縮されている。それでも、マンション前のスーパーは、マンション販売の「売り」でもあった。 

 我が家からも、あるいて56分のところなので、週に1度ほどは出かけていたが、レジで、お客さんが並ぶことはめったになく、「トップバリュ」というプライベートブランドの品ばかりが目立ち、品数がめっきり減ってきたことが気になっていた。「間に合わせ」の買い物も用が足りなくなってしまった。加えて、最近、何棚かの百均コーナーのようなものができたり、売り場がちょくちょく変わったりしていて、戸惑うこともあった。 

 折しも、ユーカリが丘駅から123分以上歩いたところに、2016610日、イオンタウンがオープン、ユーカリが丘駅近くの、山万所有ビルのイオン跡(元サティ、1992年3月6日開店、イオン2016年6月5日閉店)の1階の一部に生鮮食品中心のオーケーストアが、20171128日にオープンした。マックスバリュの客足は、ますます遠のいたのだろう。 

 イオンタウンとても、1階部分のイオンスタイルというスーパーこそ、それなりの賑わいを見せているが、23階の専門店街は、閑散としていて、たまに出かけると、どこかの店が閉店セールをしているような有様である。私も、オープンしたばかりのころ、眼鏡を新調した店は、1年少しで撤退してしまった。
 

 マックスバリュの跡はどうするつもりだろう。イオンと山万は、一体何を考えていたのだろう。山万は「千年優都」とか銘打って、ユーカリが丘一体の「まちづくり」を目指しているというが、順天堂大学誘致を前提にしてのユーカリが丘北口開発は、市長選までからめてのなりふり構わない様相を呈したが、とん挫したばかりだ。10年先も読めなかったことになる。それに前述のイオン跡の1階は、オーケーと数店舗で埋まったが、この1月には、オープン間もない水産会社が撤退している。2階はいまだ、がらんどうだ。3階の半分は、これも下記の当ブログでもふれたが、佐倉市が年間賃料80万で、10年間借り受け「スマートオフィススペース」として、貸し出すそうだ。佐倉市の皮算用では5年で採算がとれるというが、借り手が思うようにつかない場合の損失は、納税者市民の負担になる。国からの交付金と山万の提案に乗った形の市長提案は、最大会派とすったもんだがあったが、どういうわけか、最終的には、そのための予算は成立してしまったのだ。
 この街に、いつの間にか増えたのが、コンビニと空き家だ。路地では、食材や総菜・食事の宅配業者の車をよく見かけるようになった。我が家では、生協での買い物が増えるだろう。電動自転車での買い出しも増えるに違いない。

 

佐倉市は、不動産屋に?山万の空きビルの一部を借り上げて、貸室業をやるらしい!

 20181210日)
 
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/12/post-2945.html

<参考> 

スーパー、マックスバリュの進出が決まったころ、当時発行していた地域のミニコミ誌に書いた記事です。近隣の自治会員も参加しての対策協議会のメンバーとして、山万や市役所、県庁、幕張のイオン本社などに何度か話を聞きに行ったことを思い出します。

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2019年2月 6日 (水)

1950年前後、何して遊んでた?金井さんのエッセイ集を読んで

金井恵美子さんから、お送りした拙著への感想と『暮しの断片(かけら)』(平凡社)という、新著エッセイ集をいただいた。画家の金井久美子さんとの合作の、いわば、大人の絵本ともいえる素敵な本だった。猫のエッセイや絵も多く、ねこ派の読者には、魅力満載の本にちがいない。私は、金井さんとは小学校ですれ違うくらい年上なので、暮らしの中のさまざまな記憶で重なることが多いのはやや意外にも思うのだった。私の生家はくすり屋で、池袋の焼け跡から再スタートしているが、1940年代後半から50年代末までのくすり屋にまつわるモノの記憶をたどって、このブログでも、昨年の夏ころ、だいぶ長々と書いてしまった。

                             

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 『暮しの断片』はどこを開いても、なつかしいモノや光景に出会うことができて楽しかった。なかでも、「あそびの記憶」として、一月「雪うさぎ」で始まり、二月お手玉という風に月を追って、竹馬、おはじき、はなかんむり、しゃぼん玉、七夕飾り、西瓜割り、竹とんぼ、影踏み、縄跳び、十二月の「ごむまり」が紹介される。エッセイは、どれもなつかしく、あのモノのない時代、それに連なる私の思い出が、なんともあったっかいのが不思議だった。

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     十月影踏み、十一月縄跳びの頁

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      金井家で17年間暮らした黒トラ「トラー」
 

池袋の焼け跡の原っぱで、盛んに遊んだのは、かくれんぼや鬼ごっこはもちろんだが、缶蹴り、ゴム段、大人自転車の三角乗り、馬飛び、縄跳び、石蹴りなどだった。竹馬は、まず、竹などの調達は難しかったのだろう、同じ高さの空き缶を見つけ、穴をあけ、ひもを通した「缶ぽっくり」を作って、替わり番に、歩いたり、かけっこをしたりした。空き缶もなかなかの貴重品だった。

戦前のあそびの延長だったのだろう、なんの疑問を持つこともなく、「スイライカンチョウ(水雷艦長)」で走り回り、まりつき歌「あんたがたどこさ」とともに「イチレツダンパンハレツシテ、ニチロセンソウハジマッタ・・・」と、歌っていた。さらに、じゃんけん遊びでは「グリコ・チヨコレイト・パイナツプル」と大声をあげていたものの、グリコやチョコレート、ましてパイナップルなど口にしたことも、見たこともないものだった。

しゃぼん玉やまりつき、お手玉、おはじき、自転車乗りなどは、一人でも少人数でも遊べるけれども、「通りゃんせ、通りゃんせ」や「はないちもんめ」などにしても、かなりの人数がいないと面白くはないだろう。そのころ、焼け跡に建つ家は、まばらだったし、だいぶ復興した後でも、遠くから子どもが集まって来たし、友達の友達で、名前を知らない子とも遊ぶことがあった。

 

 家の中での遊びといっても、どの家もバラック住まいで、家の中で、子どもが集まって遊ぶスペースなどなかった。焼け跡のコンクリのたたきなどが残っているところやバラックの軒先にゴザを敷いて、お手玉やおはじき、ままごとやぬり絵、着せ替え人形と、少しは女の子らしい遊びもした。家族合わせなどというゲームをした記憶もある。ぬり絵については、かつて下のような記事を書いたこともある。

 

〇書庫の隅から見つけた、私の昭和(1)きいちのぬりえ

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http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/04/post-a273.html

 

 着せ替え人形というのは、女の子と家族のひと形と様々な服の絵が描かれている一枚の紙を絵の通りに切りぬいて、服の肩には、のり代のような白い紙が突起しているので、それを折り曲げて、人形に着せては、取り替えたりして、セリフ入りの芝居をさせたり、着せたい、好きな服を画用紙に描いたりした。

 家族合わせというのは、お医者さん、政治家、会社員などの父親の職業別の家族、両親と息子と娘のカードをバラバラにしてカードを配り、順番にカードのやり取りをして、早く多くの家族をそろえた方が勝ちということだった。各家族が職業に合った、ダジャレのような名字や名前が付けられているのが面白かったのだが、なかなか思い出せない。当時の家族観や職業観が理想や期待を交えて、如実に反映していたのではないか。

思い出は尽きないが~。

ネットでも調べてみよう。

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1月16日「歌会始」の天皇の短歌

また、「歌会始」の話となってしまう。思いがけず、旧著『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001)が「週刊金曜日」に紹介された記事を当ブログでお知らせしたばかり。①  その時の執筆者の太田昌国さんが、以下のような論考を執筆されているのを、ネット上で知った。② そこでは、岡井隆の歌会始選者就任時の衝撃や今年の歌会始の天皇の「贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」にも言及している。「歌会始」のテレビ中継や新聞記事を読んでの感想はさまざまだと思うが、少しでも批判的な要素のある内容のものは、なかなか目に触れにくい。関心のある方はぜひお読みください。後半では、短歌と天皇制をテーマにした旧拙著3冊にも触れている。

 

 2019年、歌会始は終わったが~召人は二人?

(2019 1 17日)

 

②太田昌国のみたび夢は夜ひらく[104] 歌会始と天皇が詠む歌

(201924)

『反天皇制運動 Alert 』第32号(通巻414号、201925日発行)掲載

http://www.jca.apc.org/gendai_blog/wordpress/?p=836

 

 今年の天皇の歌は、阪神淡路大震災の10年後の追悼式典で渡された、亡くなった少女の自宅跡で花を開いたひまわりの種を詠んだものである、というエピソードが、復興の象徴として、テレビ中継はじめ、当日116日、翌日の117日のテレビや新聞で繰り返し報じられた。大震災は、まさに24年前の117日の早朝のことだったのである。これは、たんに偶然のこととは思えず、限りなく意図的なものに、私には思えたのである。天皇、選者、宮内庁の意向などもろもろが勘案、忖度が働いていたのではないか、と。

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2019年2月 5日 (火)

なぜ元号にこだわるのか~使わないワケとは

 私が会員になっている『ポトナム』の2月号に発表した「短歌時評」です。もともと表題はついていませんが、上記のように付けました。何度でも同じことを言っているような気がしますが、新しいファクトにもとづいて、言い続けるしかないかとも思っています。

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 私の周辺で、「いまの天皇っていいひとだよね」との言について、異を唱える人は少ない。短歌に関心のある人たちの間では「皇后のうたはさすがだね」と盛り上がったりする。昨年末、誕生日会見での「大嘗祭は身の丈で」という発言が報じられると「秋篠宮を見直した」との声も聞かれた。

 歌壇の現況を知る手立てとも思い、最新のカドカワムック『短歌年鑑』①と『短歌研究』一二月号の『短歌年鑑』②の二冊を通覧した。やはりというか、「平成」の文字が目立った。①には「巻頭言・『平成』に持続する前衛意識」(篠弘)、「回顧と展望・平成三十年を振り返る」(坂井修一)と、「平成」の文字こそないが「特別企画・歌会始の三十年」(岡野弘彦・篠弘・今野寿美)の記事がある。「編集後記」には、「平成最後の『短歌年鑑』ですが、五月に改元が予定されているため〈二〇一九年版〉という西暦表記になっています」とのことわりの一文が入っていた。②には、「座談会・二〇一八年歌壇展望 平成の『終わりの前』になにが起こったか。」(佐佐木幸綱・三枝昂之・栗木京子・小島ゆかり・穂村弘)、「歌人アンケート『平成の名歌』」などが目を引く。「編集後記」には「一年を通じて、特集のタイトルに平成という言葉を何度も使いましたが、その都度、“タイムカプセルの機能”を意識しておりました」とある。さらに『短歌研究』一月号の予告には、総力特集「平成の大御歌と御歌」のもと、鑑賞座談会(芳賀徹・園池公毅・寺井龍哉・今野寿美)と特別寄稿(岡野弘彦・春日真木子・加賀乙彦・篠弘)があった。三月には、現代歌人協会主催「現代短歌フェステイバル イン京都(平成時代の短歌を振り返る)」が開催されるという広告も目に入った。『短歌年鑑』①も、西暦・元号併記の時代も長く、西暦だけの時代もあったが、平成二年以降は、たしかに元号表示のみとなっていた。②では、西暦と元号の併記が続く。

 元号法は一九七九年六月に成立・施行されたが、元号は皇位が継承された場合に限り、政府が決める、という主旨の短い条文でしかない。国際化やグローバル化が進む、このインターネト社会において、各省庁のデータは西暦に統一、郵便切手や金融機関の一部でも西暦表示が進み、運転免許証も西暦表示に切り替わるなど、さまざまな場面で、その利便性から西暦表示に移行し始めている。

 昨年末の『朝日新聞』(一二月七日)に、代表的な文芸誌『すばる』(集英社)、『新潮』(新潮社)、『文學界』(文藝春秋)、『群像』(講談社)の一月号の広告が並んでいた。すべて「20191月(号)」の表示であった。なぜ、私が、これほどまでに元号にこだわるのかと言えば、そもそも、天皇という一個人の死や健康状態による改元が時代区分の指標になることへの疑念であった。

 現代にあって、短歌と天皇との深い関係を標榜し、短歌史を元号で括る意味がどれほどあるのか。かつては「明治短歌史」「大正短歌史」「昭和短歌史」という書物、『昭和萬葉集』という大部なアンソロジーも編まれた。しかし、この時代に、短歌と天皇との関係をより深めたいと望む歌人たちに「ワケ」があるとすれば、イデオロギーというより、短歌メディアと歌人たちによる、いわば一種のもたれあいのもと、「平成最後」を利用しているのではないかという思いにも駆られる。五月以降は、歌壇でも改元特集が組まれるかもしれない。天皇や皇室への親密性が、その歌人の評価にもつながるという時代が続くかもしれない。「平成を振り返る」というならば、象徴、文化、伝統、お人柄などという意匠やオブラートに包まれて存在し続ける天皇という制度を考えるよいチャンスにできればと思う。

(『ポトナム』2019年2月)

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