「短歌と天皇制」(2月17 日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(1)
「その反省から出発した戦後短歌」って、ホント?
すでに、1週間以上も経ってしまったのだが、2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」の見出しは「短歌と天皇制」であった。皇室情報がメディアにあふれ出ているこの時期に、埋もれそうな見出しであった。しかし、見出しと同じ書名の著書(『短歌と天皇制』 風媒社 1988年)を持ち、そのテーマで書き続けている私としては、ほっとくわけにもいかず、読んでみた。執筆者の大辻隆弘(1960~)は、未来短歌会の選者でもあり、評論もこなす歌人である。しかし、その内容は、やはりというか、自身の「結論」に導く強引な論法には、かなりの問題があることがわかった。その文章は次のように始まる。
「太平洋戦争中、短歌は戦意高揚の具であった。天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された。その反省から出発した戦後短歌は、皇室と関係を結ぶことに慎重だった。戦後短歌には天皇制に対するアレルギーがあったのだ。が、今、そのアレルギーは薄らいでいるように見える。・・・」
まず、「その反省から出発した戦後短歌」という認識は、かなり「美化した」というより、当時の短歌状況を歪めていることにならないか、と思ったのである。もちろん私にしても、当時の歌壇や歌人の状況をリアルタイムでは知りようがない。戦後生まれの大辻は、何を根拠にしているのだろうか。いくつかの戦後短歌史は、敗戦直後の短歌状況をつぎのように述べている。
「短歌は、戦意昂揚に踊らされていたために、衰弱がひどくて真の文学的立ち直りを見ることができなかった。戦後の虚脱状態がしばらくつづくのである」(木俣修『昭和短歌史』明治書院 1966年再版 571頁)
「終戦直後の内部的な混乱、また第二芸術論による外部からの追討ちにもかかわらず、このころ歌壇はもうこういう「年齢的、歌歴順の秩序」をすっかり回復している。割切っていえば――ということは、一時期における左翼『人民短歌』運動の強勢と、若手「新歌人集団」グループの急激な進出を別にすれば、歌壇は、敗戦によって格別の変化を蒙ることがなかったといっていい。とは言え、戦後はすべての歌人にとって再出発だった」として、歌人によっては、解放であり、試練であり、喪失であり、それが創作活動の刺激となり「戦後短歌の多彩な収穫を約束した」とする(上田三四二『戦後短歌史』 三一書房 1974年 8~9頁)
「この人たち(茂吉、文明、空穂、善麿、夕暮など近代短歌の大家)にとって国家からの桎梏から解放されるということは、悲しみに富んだ悔しみにほかならなかったのである」とし、この「悲傷の極限」から始まる戦後は、戦時中の弾圧から解放された歌人たち「渡辺順三らが『人民短歌』誌上で、いくぶん戦争責任の問題を取り上げたが、みずからの禍根を払っての公式的な攻撃であったきらいもあって、ついに歌壇の一般問題にならなかったのである」(篠弘『現代短歌史Ⅰ』短歌研究社 1983年、22頁)
これらの「短歌史」に「反省」という言葉が出てこない。だが、その一事をもって、断ずることはできないし、これらの執筆者の言は当然検証されなければならない。私も、必要に迫られて、限られた範囲ながら、敗戦直後の主な短歌総合雑誌や復刊間もない結社雑誌に目を通し、当時の短歌や歌人たちの文章をたどるだけでも、「戦後短歌の出発」にあたって「短歌は戦意高揚の具であった」こと、「天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された」ことへの反省があったとは受け取りがたかった。逆に、GHQの検閲文書を収録したプランゲ文庫により短歌雑誌の検閲記録には、天皇制賛美を理由として削除された短歌や文章も決して少なくないことも知るようになった。
上記の上田三四二の文中にある、歌壇における「年齢的、歌歴順の秩序」とは、1949年から50年代にかけて、10年余を短歌ジャーナリズムに身を置いた中井英夫が、敗戦後も変わることのない歌壇の状況を端的に表した言葉だが、「昭和二十年~二十三年」の歌壇の状況についても言及している。俳句に向けられた第二芸術論の余波で歌壇も大揺れに揺れたことに触れて、「大部分の歌人の胸中に深く巣食っていたのは、戦争中に戦争協力の歌を作るのはまったく当たり前のことではないかという、当時の日本人は考えて怪しまず、そのまま今日まで持ち越されてしまった手前勝手な論理であった」(中井英夫『増補黒衣の短歌史』潮出版社 1975年19~20頁)と述べ、その典型として、佐藤佐太郎の一文(『アララギ』1946年1月)をあげるのである。
戦後短歌の出発を語るからには、せめて、これらの短歌史をひも解く謙虚さが必要ではなかったか。
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