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2019年4月30日 (火)

改元の狂騒の中で~「寄り添う」という言葉のうらおもてを考える

 きょう、4月30日の朝日新聞は、異様な紙面構成だった。これは丸ごと保存しておかねばならない!一面トップと二面とにおいて、新元号に安倍首相が関与したことを示す記事と「退位の日『象徴』と『統合』模索は続く」と題した社説で一見バランスをとるかのようではあるが、1面からテレビ番組欄の32頁まで、天皇の退位・即位、改元関連記事で埋まる。わが家の他の購読紙3種と比べても、力の入れようが違っていた。今回の新元号関連記事は他に突出して多かったように思う。どう扱っても、祝賀ムードからは逃れられないのが、この種の記事である。今日のNHKもしかりで、読者や視聴者の関心は、もはやそんなところにはなく、復旧もままならない被災者は住まいや生計自体の不安を抱え、多くの国民は、連休の間の生活の備えは大丈夫か、消費税増税はやりきれない、公共料金・保険料や物価の値上げは続くのか、高齢者には、医療や医薬品、介護にかかる経費が心配でしかたない、というのが本音に近く、報道に登場するような、天皇の姿を見て涙したり、天皇に感謝したりするゆとりなどないのが大方ではないか。

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2019年4月30日『朝日新聞』朝刊一面

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2019年4月30日『朝日新聞」テレビ欄も・・・。

   元号が替われば<新しい時代>が来るかのような幻想を振りまいているのは誰なのか。過去の不正を、犯罪をなかったことにしたい政治家や官僚たち、商機と捉える人々、それに踊らされている一部の人たちにすぎない。10日の連休とて、満足に休暇とれる労働者は3割程度ということだし、時給で働いている人たちの減収、保育を要する子供たち、治療や介護を要する人々の多くが半ば置き去りにされる状況もあるなか、閣僚たちの<海外視察>が目白押しという。
 天皇が代わっても、当然のことながら、日本の安全保障環境の対米依存は揺るがず改元の狂騒に紛れてのトランプ大統領の来日は、アメリカからの武器爆買いを確固たるものにし、沖縄の辺野古基地新設工事は進んでしまう。労働者の正規と非正規の格差は広がるし、家庭内、教育やスポーツ界の現場における暴力問題は見えにくくなるだろう。そして何よりも恐ろしいのは、情報があふれるネット社会とは逆行するように、必要な情報が入手しにくくなる情報環境の格差・隠蔽、政府や企業、メデイアによる情報操作が助長されることなのではないか。

 今、私は、太平洋戦争下の雑誌を見ているのだが、たまたま、以下のような雑誌や新聞のコピーを見出して、妙な感覚にとらわれている。以下は、<紀元2600年>と喧伝された1940年の新聞と雑誌のコピーである。たしかに、<紀元2600年>をうたわないことには、紙も来ないし、検閲も厳しくなる時代であったと思う。しかし、メディアが競うように、積極的に体制に順応していった側面を見るような思いがする。現代も権力による情報統制は、悔しいながら、見えないところでがんじがらめになっていて、その不自由さは察しられる。

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1940年1月『婦人画報』グラビア

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1940年1月1日『東京朝日新聞』「紀元二千六百年本社の新事業」の社告

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1940年1月1日『東京朝日新聞』の「誰ぞ”紀元”の生みの親」の記事。朝日新聞は「紀元」や「新元号」をたどるのが、よほど得意なのか。少なくとも庶民にとっては、天皇も元号も、政治や企業が利用するものにしかうつらない。

  しかし、現代は、戦時下やGHQ占領下のような暴力的な検閲に比べれば、ある程度の自由は確保されているように思われる。それは、紙面や記者たちの書きぶりからもうかがわれる。そして何より、現在のところは、インターネット上の表現の自由は、ある程度確保されているので、NHKや大手メディアが報じない情報も浮上する。もちろん無責任な虚報もあり、玉石混交なので、そのリスクも負わねばならない。

 さらに、いまは手元の資料だけになるが、昭和天皇の死去と改元報道の一端を振り返ってみたい

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左が1989年1月7日『読売新聞』夕刊、右が『毎日新聞』夕刊。「ドキュメント『昭和』の終わり全報道記録」(マスコミ市民編1989年3月1日)

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1989年1が7日『毎日新聞』夕刊、中央に新元号「平成」の識者のコメントが並んでいた。『新聞紙面で見る20世紀の歩み』(毎日新聞社編刊 1998年7月)より。

  そして、いま、「平成」を振り返る報道が氾濫しているが、その解説には、頻繁に登場するのが、「寄り添う」という言葉だろう。天皇が国民の統合の象徴として、国民に「寄り添って」来たことが強調されている。象徴である天皇が国民に「寄り添う」ということはどういう意味なのか。寄り添い、寄り添われるという関係が「象徴」を介在して成り立つのだろうかと。家族や友人や仲間として、あるいは職業、報酬を伴うサービスとして成り立つものではないかと考えている。とすると、天皇と国民の関係に置き換えたとき、寄り添われた国民に生じる感情は、励まされた、ありがたい、うれしかったというレベルから尊敬の念にまで至るようなのだが、この関係が、本来「寄り添われる」べき、多くは、さまざまな意味での弱者であって、そこに届くべき政策や施策の脆弱さを覆い隠していなかったか、との思いがぬぐい切れない。その効用を天皇・政府サイドがともに了解し合っての行動にも思えてくる。まさに、天皇の政治的な行為となるであろう。

 さらには、11月に行われる大嘗祭はもちろんだが、改元前後の神道にのっとっての儀式、報じられる姿を見ているだけでも、「国民統合の象徴」とはとても思えない。こんな宗教的な儀式で、退位・即位する天皇が「象徴」ではありえない姿ではないのか。生身の人間が象徴になることはもはや不可能に近く、次にあげるような主な宮中祭祀をみただけでも、これらの宗教的儀式をおこなう以上、もはや国民の統合の象徴とはなり得ず、憲法の基本的人権を奪われた人間を前提にした「象徴天皇制」だったのである。庶民には異様な光景にしか思えない儀式ではないか。不平等を前提に特別扱いすることはすべての差別につながることから、憲法との整合性が問われ、直ちに見直さなければならない、と考えている。

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1989年2月24日、昭和天皇大喪の礼

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1990年2月23日、即位礼正殿の儀。宮内庁のホームページより。

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主要祭儀一覧 (宮内庁ホームページ)より
http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html

 

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2019年4月26日 (金)

5月18日、「斎藤史」について報告することになりました。

 今年の1月に『斎藤史『朱天』をから『うたのゆくへ』の時代』(一葉社)を出版しました。そんなこともあって、「短歌サロン九条」から「斎藤史」について報告をとの依頼がありました。「短歌サロン九条」は、隔月で、開催されている勉強会で、すでに60回も続いています。私が初めて参加し、「沖縄にける天皇の短歌は何を語るのか」の報告をしたのが、2017年1月でした。その後、昨年1月には、寺島博子さんの「葛原妙子と斎藤史」についてのお話を聞くことができました。今回は、「斎藤史」について報告しますが、斎藤史の短歌の愛読者の方はもちろん、関心のある方の参加をお待ちしています。そして、ご意見などお聞かせいただければうれしいです。

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「短歌サロン九条」第61回例会

日時:2019年5月18日(土)午後2時~

場所:八丁堀・珈琲パンドラ(東京都中央区八丁堀2-8-1)
                                       (03-3553-7487)

報告:内野光子「斎藤史について」

会費:1000円(珈琲代含む)

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会場の「パンドラ」は、地下鉄日比谷線「八丁堀」、日比谷線・東西線「茅場町」、都営浅草線「宝町」のいずれからも近いですが、店名や番地で検索してみてください。八丁堀2-9の「八丁堀中央局」の隣の街区になります。

なお、今回の拙著を事前にお読みいただければ幸いですが、当日配布の報告要旨や資料も準備中です。その後半では、拙著からはやや離れ、次のような流れになるかと思います。

  1. 今回の私の本は、資料部分が半分近くを占める構成になっています。その一部を使って、まず、『全歌集』への収録の際に『朱天』における削除・改作の実態を知り、その意味を探ります。
  2. 実態を知るにつれ、戦時下の作品について、後世~戦後になって、どのように対応・処理するのかという、多くの歌人が直面した共通する課題と重なりました。彼らの選択のパターンを何人かの著名な歌人で検証します。
  3. それらの選択を、自覚的にせよ、無自覚的にせよ、受容してきた戦後歌壇、現代歌人たちについて考えます。

 

また、新拙著には、次のような紹介や書評をいただいております。ありがとうございます。私信やツイートなどでいただいたご批判やお励まし、ありがとうございます

・会澤清:紹介『斎藤史『朱天』』から『うたのゆくへ』の時代』

  (ちきゅう座   2019114日)

・紹介『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』

 (日本古書通信1075号 20192月)

・江田浩司:評論月評第6・7回 (『斎藤史『朱天』』から『うたのゆくへ』の時代』に触れて)

  (短歌往来   20193月・4月)

小石雅夫:『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』紹介(50人に聞く2018年のベスト歌集・歌書特集)

 (短歌往来 2019年3月)

・今井正和:歌壇時評29   (くれない 2019年2月)

・吉川宏志:言葉にうおって事故の人生を染め替えようとする意識~なぜ歌人・斎藤史は言葉を変えたのか                

   (図書新聞 201946日)   *以下一葉社のホームページからもご覧になれます。

https://ichiyosha.jimdo.com/齋藤史-朱天-から-うたのゆくへ-の時代/

・田中綾:書棚から歌を (北海道新聞 2019年4月28日)*三浦綾子記念文学館田中綾館長特設サイト「綾歌」からもご覧になれます。

  https://www.aya-kancho-hk.jp/?page_id=32

・寺島博子:ゆるぎない視座 (現代短歌新聞 2019年5月5日)

  

 

わが家のウラシマソウが苞をつけました。草むしりをすると、飛び出してくるトカゲも・・・。                                 

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2019年4月22日 (月)

わが町の市長選も終わってみれば、現職を破った新人というが?

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4月21日、投票日午後、違反ポスターは、ここにも。

  4月15日の当ブログ記事で、現職だった市長と地元業者との関係、麻生太郎との二連違反ポスターについて伝えたが、その候補者は、新人に敗れた。その開票結果は下記の通りだ。

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4月22日『毎日新聞』千葉版より

  新人といっても、市議、県議を経ての立候補であった。現職は、自民党推薦、新人は自民党の推薦は受けられず、市議会の最大会派の保守系「さくら会」が応援していた。「さくら会」は、落選の前市長とは何かともめていたらしい。元をたどれば、4年前も、順天堂大学誘致をめぐって、推進派の地元業者と組んで新人を推したのだが、前市長に敗れたという経緯がある。
 自民党が敗れたのは、沖縄と大阪の衆議院補選ばかりではなかったことになる。違反ポスターの麻生の写真がマイナスイメージを助長したのかもしれない。
 前市長を全面的に支援してきた地元業者山万は、どうするのだろう。今度は、新市長とどう折り合いをつけるのかなど、つい勘繰りたくもなってしまう。
 それにしても、いわば野党系が大同団結して支援したはずの女性弁護士の候補は、大敗した。個人的には、もう少し無党派層を取り込めると思っていただけにがっかりしているところだ。
 新市長と市議会の最大会派「さくら会」が、ここぞと暴走する気配もする。市民は、しっかりと監視しなければならない。

 

◆佐倉市長選挙開票結果
file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/JDLUCL85/20190421kaihyokekka2315_shicho.pdf

◆「内野光子のブログ」2019415 ()
違法ポスターをはずさない、現職市長候補~佐倉市では、また、こんなことが

http://app.cocolog-nifty.com/cms/blogs/190233/entries/90912481

 

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新緑の多摩動物園の坂もきびしかった!

 選挙の騒音を逃れて、といっては候補者に失礼なのだが、週末は、少し遠出をしての動物園だった。京王線に乗るのも久しぶりで、高尾山の山歩きスタイルの乗客も多い。動物園は、高幡不動で乗り換え、多摩モノレールからは一駅で、日野市に位置する。初めての動物園、シニアは入園料300円にはいささか恐縮、やはり家族連れが多い。

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正門を入って左右に、イノシシ、シカ、ヤギ、ムフロン、ヒマラヤタールなどを見ながら、ひたすら坂をのぼる。広く、工事中のエリアもあって、高い塀が続くところもある。連れ合いが楽しみにしていた、今日のガイドツアーは、ユキヒョウ舎前、11時集合。一番奥になるのか、ゆるやかながら、登り坂がどこまでも続く。途中、シャトルバスにと思うが、すでに満員であった。50ヘクタール余の丘陵地帯を切り開いての開園、1958年だそうだ。日本で初めて柵を設けない動物園だったとのこと。都営ながら、いまは、東京動物園協会が指定管理者になっている。

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この日のツアーは「アジア山岳地帯の動物」ということで、ユキヒョウ、レッサーパンダ、ターキンについて、丁寧でもあり、楽しい説明を聞くことができた。ユキヒョウの絶滅の危惧(4000~6500頭)に関しては、密猟が絶えないのは、山岳地帯の住民たちの経済的な背景、その問題の解決も課題であるとの話にも及んだ。レッサーパンダの背中が茶色、腹部の黒っぽいのは、天敵から身を守るためとか、ターキンなどは、説明を聞かなければ、面白い顔立ちだな、と通り過ごしてしまうところ。

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ツアーの面々・・・

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ツアー参加者に配られた冊子とバッチです。

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何を考えているのか、ユキヒョウ

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右と奥にいる毛の深いのがメスのターキンで、左手前のつるっとした毛並みがオスで、体も大きい。足の二本の太い爪で、どんな岩場でも器用に上り下りするという。

 

オランウータンが、高い綱を渡る、スカイウォークを見上げながら、ぶらぶらと気ままに坂や階段を上がったり下りたりしながら、森林浴も楽しんだ。トラ、ゾウ、サイを経て、フクロウの愛らしい表情に癒されながら、向かいの巨大なケージの天井近くを翼を広げてゆったりと飛ぶワシたちの姿にも見とれてしまう。もっと広い空を飛びたいだろうにと。

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オランウータンの見事な空中演技

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上:アムールトラ、下:シロフクロウ

少し遅くなったが、サバンナキッチンというセルフサービスの食堂でランチを済ませた。見おろす広場で、キリンの群れがゆったりと歩き、ペリカンの群れは細長い池をせわしく行き来している姿は、遠くからでも近くからでも、さまざまなパフォーマンス見せてくれるので、目が離せず、思わず長居をしてしまうほどである。

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上:キリンとペリカン 下:ヒマラヤタール

もう一つの大きな工事現場に近い窪地にはライオンが寝そべり、その隣の池にはフラミンゴが、重なり合うように群れていた。ああもうすぐ入り口に戻る。どっと疲れが出そうなところ、ともかく駅まで頑張って帰路に就くのだった。この日は、家に着くまで13460歩であった。

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上は、タスマニアデビルの絵葉書、買いました。下は、サバンナキッチンのはし袋です。

 

 

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2019年4月15日 (月)

違法ポスターをはずさない、現職市長候補~佐倉市では、また、こんなことが

私たちの佐倉市も、市長選、市議選の選挙が始まった。もう数週間前から気になっていたのだが、現職市長と財務大臣の顔と名前が大きいポスターが、街のあちこちにいっせいに張り出された。大臣の名前の上には「弁士」となっているから、申し訳のような演説会予定みたいなものも刷り込んではいるのだろうが、事前運動にしては半端ではない数なのだ。それも、地元の不動産会社山万のマンションや分譲地の塀にしっかりと結び付けられ、山万所有の空き地には、木枠のついた立て看板が100mいや50mごとに並ぶこともある。買い物や散歩に出るたびにいやというほど目にして、気分が悪くなるほどである。

この間、麻生・安倍の忖度道路スキャンダルもあったし、新札発行の発表を何でこのタイミング?の疑問も残る財務大臣の顔だけに、やりきれない。そのポスターは、告示日が過ぎても、いっこうに撤去される様子もない。

 

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 計画道路沿いの空き地に続く<二連>の立て看板。

 念のため、市の選挙管理委員会に電話をしてみた。そのポスターの存在は把握していて「告示日以降は完全に違法です。事前に指導はしていたのですが」と話していた。「通報もありますので、通告、指導します」とのことだった。どのくらい「本気」でやってくれるのかな。

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なかには、こんなものが。貼り忘れたのか、誰かがはがしたのか。といっても数十メートル先にはたっていました。

 その上、この現職市長候補Wと地元業者には、もう一つスキャンダラスな要素が加わるのだ。というのも、4年前の市長選の<狂騒>を知っている人から見れば、「エッ?!」なのである。4年前の市長選の折にも、ユーカリが丘駅前への順天堂大学誘致をめぐって、市に25億の助成金を伴う誘致に慎重だった現職と推進派の候補者との熾烈な醜い争いだった。誘致推進を前面に押し出した現職の対立候補の後ろ盾は、大学誘致を駅前開発の目玉にしたかった山万で、その選挙活動は、実にえげつないものだったことは記憶に新しい。その一部は、このブログでも10本近い記事にしているので、関心のある方は、参照いただきたい。

 ところがである、前回市長選で、対立候補N陣営は、現職候補についてさまざまな怪文書を街中に配布したり、山万の管理地には対立候補Nと地元の著名人?マラソン指導者Kの顔写真のポスターを張りまくったりしたのである。告示後の選挙運動中にも、そのポスターが撤去されることはなかった。なんとポスターの顔が変わっただけの今回の展開なのである。

 前回、再選された現市長に、そして山万に、「節操」というものがないの? いやはや、現代は、右も左も「節操」なんて死語になってしまった感もある。目の前の「利益」に動かされて身を処することが横行している。今回、山万がかつての攻撃対象の現市長を担ぎ出したのには、あまりにも露骨な経過があった。これもすでに、当ブログで記事にしている。

・佐倉市は、不動産屋に?山万の空きビルの一部を借り上げて、貸室業をやるらしい!
(2018年12月10日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/12/post-2945.html

 佐倉市が、国から補助金約5000万を引き出した上、駅前の山万のビルの空きスペースを「スマートオフィススペース」と称して、年間840万円の賃料で借り、起業家などの市民に貸し出すという計画、予算が、市民の知らない内に議会を通ってしまったのである。山万は少なくとも、佐倉市という安定したテナントを10年間確保したことになるし、市長は、地元業者の支援を確実にすることになった。その互酬関係のために、国の税金と佐倉市の税金が投入されたことになる。貸しオフィスの利用がフルに稼働しても、元が取れるのは5年先だという。もし、利用者が少なかったら・・・、なんとも心もとない計画である。納税者の市民は、もっと怒ってもよいのではないか。

 現職市長の選挙事務所に「あのポスターは公職選挙法違反ではないですか」と電話すると、「すぐに撤去します、徐々に撤去しているところです」とはいうが、前回は、投票日の翌日に撤去するまで、放置された。警察は、「適切に処理する」と、どこかの総理大臣みたいなことを繰り返している。日本は「法治国家」なんですよね。選管や警察は何をしているのだろう。

 

ご参考までに、4年前の市長選の記事の一部を紹介します。佐倉の懲りない面々・・・。

◆2015年4月25日 (土)

明日が投票日だというのに~佐倉市長選挙、あふれる違反ポスター、虚偽中傷ネット広告を取り締まらない、取り締まれない?!

ネットの広告は、煩わしく、うるさいのだが、ブログなどただで使えるのだからとスルーするし、自分の検索ワードが自動的に反映されるのも気味の悪いものだが、それも受忍してきた。

しかし、2日ほど前から、「公式佐倉市民の皆様へ 順天堂大学からの公式発表です。」という動画広告が出るようになった。「公式発表?」動画を見てみると、当ブログでも触れた「順天堂大学の誘致を実現する集い」(4月16日開催)の、佐倉市と交渉にあたったというこの3月末日、その職を退いたS学部長のスピーチだったのだ。現在は何の責任もない大学退職者のスピーチが公式見解などとはとても思えない。その“公式見解”とは、現市長の中傷に終始するものであった。これって、対立候補妨害情報なのではないか。公職選挙法でネット上の活動が緩和されたからと言って、このスポンサーは誰なのか、これほどの費用を投入しているのは誰なのか。順天堂大学の学部の担当者に尋ねてみても、いまの時期、そんな「公式見解を大学は出すはずがありません、出していません」ときっぱり言っていた。少し驚いた展開となった。大学の担当者は、さらに「S前部長は、学部スタッフのOBではあるが、個人的な発言にすぎない」と明言していた。まさに虚偽広告を流すのは、だれなのか。

それに、これも前の記事でも触れたが、佐倉市内にやたらと貼られた、新聞全紙4枚ほどの大きなN市長候補とマラソンの小出監督とのポスターは、やはり公職選挙法違反ポスターだった。小さい字で書かれた講演会通知を標榜するこのポスター、告示後は完全なる違反ポスターなのだ。市の選挙管理委員会は、4月19日告示前も告示後も、候補者にはただちに撤去するよう、警察署には取り締まるよう通知している、とはいう。警察も、民有地に貼られている以上、撤去は出来ない、という。選挙管理委員会は、「通知しかできないで、歯がゆい」とまで言う公職選挙法って?

25日朝現在、私の知る限りユーカリが丘近辺の違反ポスターは野放しだ。N候補の選挙事務所は、違反ということなので「回収中」「撤去中」というのみで、まるで蕎麦屋の出前が遅れたときのセリフ「今出ました!」ではないか。明日が投票日、事務所では、200枚中30枚回収したと言っているそうだが 

◆2015年4月28日 (火)

佐倉市長選挙余話~N候補の違反ポスター撤収は、投票日の翌日27日だった!

きのう、ある交差点で小学校の下校時交通見守りに参加していると、この記事でも何度か触れた、N市長候補の公職選挙法違反ポスターを撤去している人に出会った。「大変ですねえ、何枚くらい回収するの」と尋ねてみると、「200枚かな」とあっさり答えていた。「これって違反じゃない?」といえば否定もせず、ポスターを留めてあるテープをカットしながら、ポスターに候補者と並んだ、例の小出監督を指して「このヒゲ面と酒ヤケの顔がイケなかった」(それが敗因?)とブツブツといいつつ、車に運んでいた。支持者か業者だったのか。投票日の前日、選挙事務所が回収中と答えていたのは、方便だったのだなあ。翌日撤収の200枚という枚数は信憑性があるかもしれない。それにしてもそのポスターの下に小さく記してあった5月30日の二人のユーカリ駅前の演説会は中止なのかしら。

告示後の当ブログへのアクセス件数は、日ごとに増えて、投票日翌日の27日には普段の5倍を超えたのには驚いている。ネット上でも、違反ポスターと虚偽バナー広告の動画はかなり話題になっているようだった。どう始末をつけるつもりかしら。

 

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 2019年4月、芽吹きの良い季節なのに。東側のモクレンが頑張っていました。

 

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2019年4月12日 (金)

1960年代、池袋の映画館~こんなチラシが出てきました

 身辺整理が一つも進まない中、映画館のチラシが十数枚出てきた。残念ながら、上映や封切り予定の月日がわかっても「年」がわからないものが多い。チラシに明記されたものだけを選んでみた。市民運動の集会やデモのチラシも同様で、年月を経ると、年の明記がないと、何年のものかがわからない。必要があって、それを知るには、内容から「時代考証」をする手間がかかることになる。それでも特定できない、ということを何度か経験している。それはさておき、2月のテレビ「アド街・昭和の池袋」につられ、下の記事で、1950~60年代の池袋の映画館についても書いたので、あわせてお読みいただければと思う。

私の「195060年代の池袋」ベスト5は~「アド街」を見て(2019年218)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/02/post-0013.html

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1964年9月上旬号とある恵通チェーンの冊子で、1頁が池袋劇場で、2頁新宿座は武智鉄二の「紅閨夢」と「のぞかれた美女」「痴情の家」の三本立て、3頁新宿地球座は「座頭市シリーズ大会」、4頁新宿名画座、渋谷日活地球座のいずれも3本立ての上映案内だった。
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人世坐系列の1965年8月の上映スケジュールである。池袋の人世坐、文芸坐、文芸地下、弁天坐というのは、東上線板橋駅前にあったが、私は入ったことはない。このころは「サンカ」小説の三角寛(1903~1971)の経営だったことでも知られ、「人生」ではなく「人世」、「座」ではなく「坐」に文士のこだわりがあったのだろうか。「人間の条件」の「終夜興行」といわれても・・・、結局「人間の条件」は見ることがなかった。第6部までの全巻で夜の10時
30分から翌朝の8時まで、入場料は200円とある。
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池袋大映劇場のチラシだが、年号の記載がないが、1966年秋の封切り予告ではないか。キャストは拡大してみてほしい。そうそうたるメンバーである。主演の田宮二郎を民芸や文学座の新劇人たちが支えている。脚本橋本忍、監督山本薩夫。何度か映画化やドラマ化されているが・・・。
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1968年1月の池袋世界館のチラシなのだが、世界館ってどこにあったのだろう。広告で見ると、どうも西口の三業
通りににあったようなのだ。手元にある池袋日本館のチラシも、三業通り、トキワ通りの店が広告を出しているので、二館は並んでいたのだろう。上映作品を見ていると、クレイジー・キャッツ、高倉健、ドリフターズ、ザ・タイガーズ全盛時代の感がある
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この池袋日本館のチラシには年の記載はない。裏は松竹文芸大作、総天然色「紀ノ川」(1966年6月公開)と東京オリンピック長編記録映画「世紀の感動」(1966年5月公開)とあるから、2番館、3番館だったろうから、1966年後半~67 年ころか。このチラシを受け取ったころ、私はどんな映画を見ていたのだろう。一時期メモしていた映画の手帳がどこかにあるはず・・・。
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1957年6月、特集文芸春秋の「映画読本」が、本棚の隅から出てきました。懐かしい名前がズラリ・・・。(4月26日付記)

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2019年4月 9日 (火)

「松本昌次さんを語る会」に参加、その前に「東京都戦没者霊苑」へ

  3月30日の「文学散歩・春日・小石川」に続いて、4月6日にも丸ノ内線「後楽園」で下車、2週続けての後楽園である。少し早めに出たので、先日の文学散歩で素通りしてしまった「東京都戦没者霊苑」へ向かった。駅前の礫川公園の端の春日局像の前を西へ富坂をのぼるとすぐ左手に霊苑の入り口があった。その並びには中央大学理工学部のビルが建つ。霊苑に入ると、ここも桜が満開だったが、ひっそりとして、人はまばらであった。 まず目についたのが一つの碑だったが、近づいてみると「御製」とある。ああ、ここにも天皇の歌が、の思いであった。

             

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 昭和天皇が「日本遺族会連合会創立三十周年式典」(1977年11月)に際して詠んだ一首の入江相政侍従長の筆になる歌碑。
「みそとせをへにける今ものこされしうからの幸をたゝいのるなり」

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桜の木の間からは、後楽園遊園地のジェットコースターが。

 

 さらに進むと、満開の桜の背後には、後楽園のドームと遊園地のジェットコースターが空を占める。はや散りかけた一本の桜のもとに、霊苑の「由来文」を角田房子が書いていた。1931年の満州事変から太平洋戦争終結までの東京都関係戦没者16万人の霊を追悼する施設で、鈴木俊一都知事の時代に建設され、1988年に全面改修されたという。

 

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正面の桜の木のもとに、角田房子による「由来文」碑があり、右の鎮魂碑は山本健吉の揮毫であった。 
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鎮魂碑から振り返ると、文京区シビックセンターが、まるで巨大湯沸かしポットのようだ。
また高層ビルが建設中なのか。
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霊苑より礫川公園の花壇を見下ろす。正面が文京区シビックセンタービル。

 霊苑から階段をくだれば、礫川公園になる。そして、今日の目的でもある、文京区民センターでの「松本昌次さんを語る会」の会場へ急ぐ。松本さんは、知る人ぞ知る、戦後出版史を語るには欠かせない名編集者で、今年1月15日、91歳の生涯を全うされた。私も長らく図書館員だったこともあって、その名は、未来社、影書房の編集者として見聞きはしていた。もちろん面識はないのだが、その著作の幾冊かには目を通していた。それに、今年、拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』を手掛けてくださった一葉社の和田さん、大道さんから、よく話は聞いていたのである。その一葉社から、『いま、言わねば 戦後編集者として』が、生前には間に合わなかったが、3月15日刊行されたのだった。この日の「語る会」は、葬儀も追悼会も要らないとしていた松本さんの遺志を尊重、いわば出版記念会を兼ねたような会になるのではないかとも聞いていた。

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「語る会」の受付風景、盛況だった。 
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当日、参加者に配布された冊子
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会場に展示された、松本さん著作の数々・・・

 発起人やかかわりのある人たちのスピーチは、さまざまな出会いや長い交流があるだけに、熱が入り、長くなりやすかったのだが、そこからは、編集者としての作家や評論家に対する厳しい目とともに、市民団体や市民運動の担い手への支援に意を砕いていたことがわかるのだった。

 今回の新著『いま、言わねば』は、2013年から17年にかけて、レイバーネット配信のエッセイや市民団体のミニコミ誌に連載していた文章などが収録されている。鋭くそしてわかりやすい発言が続くなかで、紹介したいエッセイは、たくさんあるが、私が関心を寄せている、まず短歌の話題から。

・当選者よ民の代表と思うならば派手な万歳などせずともよろし(狩集祥子)

 「朝日歌壇」(8月11日)の佐佐木幸綱選の一首を引用して、「選挙が終わるたびにくりかえされる、あの「万歳」には、うんざりです。」で始まる。戦争中の皇民化教育によって、自分の日常に絶えずつきまといつづけるのが、君が代、日の丸、万歳という「三点セット」であったという。国内のみならずアジア諸国への植民地支配・侵略戦争の行く先々でその威力をふるったことについて、自分の無知に対する悔恨の思いとともに、この三点セットを拒否する、と言う主旨であった。(「万歳をなぜ拒否するのか」2013年8月25日、76P)
 今回の4月7日の地方選挙にあっても「万歳」は、何の自覚もないまま横行している現状を私も憂えるばかりである。

   もう一つは、「戦没者を悼むとは何か」(2016年8月28日、118p)で、2016年8月15日の「全国戦没者追悼式」における安倍首相の「反省」の文言もなく、哀悼などどこ吹く風の「心なき常套句が並べられているだけ」の「式辞」は、「かつての日本帝国主義の侵略戦争で死んでいったアジア諸国の人びとへの侮辱であるのみならず、三一〇万の日本の戦没者たちへの侮辱でもある」と書き起こしている。続けて、西ドイツのヴァイゼッカー大統領が、敗戦40周年の1985年5月8日に行った演説「過去に目を閉ざす者は現在にも目を閉ざすこと」であることを強調し、戦争による死者たちへの追悼の仕方に言及したことに、心打たれたと綴る。ヴァイゼッカーが、ヒトラー政権下での、ユダヤ人大虐殺による死者、ソ連・ポーランドでの死者をまずあげ、そののち自国ドイツ人の死者を追悼し、さまざまな差別をされていた少数者の犠牲者へ敬意と哀悼の意を捧げていることと日本の首相や天皇の追悼の仕方とを比べていたのである。毎年、8月15日や例祭に国会議員が群れを成して靖国神社に参拝する報道に接するたびに、「追悼」のパフォーマンスには腹立たしい思いをし、天皇の慰霊の旅の政治的な役割を思わずにはいられなかったので、共感を覚えたのであった。                         

 数年前、編集者でもあった若い知人から「松本さんに会いたいです。ご一緒しませんか」と誘われていたことを思い出した。お目にかかりたかったなあ、と。また、20年も前に、私は、松本さんの支援者でもあった庄幸司郎さんを偲ぶ会に参加していた。庄さんが刊行していた、市民運動の情報誌「告知版」で、当時、私たちが、地域で発行していたミニコミ誌やイベントの紹介をしてくださったこともあったからだろうか、中野まで出かけたのだった。影書房、松本さんのお話もあったのではないか、いまでは記憶が薄らいでいる。そんな思い出に浸りながら、皆さんの話を聞いていた。休憩のお茶の時間に、思いがけず、早稲田大学の20世紀メディア研究所の山本武利先生を見かけた。プランゲ文庫のデーターベース作成・普及・研究活動をしている同研究所の研究会には、2・3年に一度?くらいしか参加していない身ながら、思い切って声をかけ、拙著の『斎藤史…』のチラシをお渡しすることができた。同書には、プランゲ文庫を利用して、斎藤史がGHQの検閲を受けて削除された短歌があることも知って言及している個所もあるので、その件を伝えると、興味を示してくださったのだった。一緒に参加していた連れ合いは、一足先に失礼していたが、私も、最後の歓談の時間に、そっと抜け出し、帰途についた。

 一葉社の和田さん、大道さん、去年の12月は、松本さんの本のことで大変なところ、拙著の追い込みと重なり、過密なスケジュールだったのだろうなと。「松本さんを語る会」の盛会なによりでした。お疲れさまでした。

一葉社の新刊情報:https://ichiyosha.jimdo.com/

 

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2019年4月 8日 (月)

「文京区春日・小石川=坂と文学をめぐって」に参加しました(2)伝通院から安藤坂・牛坂・金剛寺坂・今井坂・吹上坂・播磨坂を経て石川啄木終焉の地へ

 善光寺坂から伝通院へは新しい道ではなく旧道をのぼる。徳川家康の生母、於大のために建立、千姫の墓所もある。大河ドラマの世界にはあまり関心はないのだが、ここには、古泉千樫、佐藤春夫、柴田錬三郎らの墓地もある。かつては、一帯でもっとも見晴らしのよい高台であったというが、いまでは、林立するビルしか見えない。ようやくここで休憩をとることになって、ホッとする。お休み所に入ると、熱いお茶もセルフサービスで飲める。

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山門の左手には、淑徳学園がある
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著名人墓所案内、高畠達四郎。橋本明治の名もあった
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墓石の文字は釈迢空の筆になるという

 お休み所の裏側の広い窓からは正面に「簡野道明」(18651938)の墓石が見えた。「えッ、誰だっけ、見たことのある名前!」と思っていると、参加者の一人が「漢和辞典の人よ」で、思い出す。そう『字源』(1923年)の編者ではなかったか。差し入れの和菓子をごちそうになり、15分間の休憩もあっという間に過ぎた。清河八郎のお墓参りができてよかったと、参加者のお二人が感想を述べていたのが少し意外ではあった。

 伝通院前の広い道を進み、春日通りの交差点を渡った左手に、一葉の妹、樋口邦子(18741926)が夫妻で営んでいた礫川堂文具店があったところ、書籍も扱っていたという。関東大震災で家を失った幸田露伴に、先の善光寺坂の家を紹介したのが邦子だったらしい。青木玉の作品、ムクノキの前の「小石川の家」である。春日通りを渡った先が安藤坂で、その中ほどに、中島歌子(18411903)の「萩の舎跡」の立て札のみが立つ。ここに樋口一葉、田辺龍子(三宅花圃)も伊藤夏子も通ったはずだ。

 私たちは、安藤坂をくだって、牛天神(北野神社)に向かった。神社までの階段は急で、私にはかなりきつかったが、ここを牛坂と呼ぶらしい。のぼりきって本殿の右手には、中島歌子の歌碑がある。一息ついてくだった先には、かつて神田上水が流れていたところで、いまは暗渠となって、巻石通りとよばれている。

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牛天神参道の牛坂
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中島歌子歌碑「雪中竹」と題して
「ゆきのしたにねさしかためて若たけの生ひいてむとしの光ぞおもふ」
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 かつては、牛坂下のあたりまでが入江であったとも

ふたたび安藤坂に戻り、のぼって左折したところには、川口アパートメントが現れる。案内の大和田さんからは、川口松太郎・三益愛子と川口浩・野添ひとみなどという懐かしい名前が飛び出した。川口家の住居を兼ねたマンションであった。1964年、いわゆる高級マンションのはしりとして話題を呼び、多くの芸能人が住んでいたことでも有名だったのではないか。こんなところにあったのだ。外観はだいぶ、年季が入っているようにも見えた。反対側は永井荷風の生家跡で、荷風の父親がこのあたりに大きな屋敷を構えたというが、いまはマンションが立ち並ぶ。そして突き当たるのが、金剛寺坂で、漱石「それから」の代助が三千代のもとに通う坂だったとの説明を受けると、なんだか義務感で読んだ小説の一つではなかったかと思い出すのだった。

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川口・三益夫婦の子息たちは、何かと話題の多い人たちだったと記憶しているが、早世だったのでは。今はどんな芸能人が住んでいるのかな

 金剛寺坂を巻石通りへとくだって西に進むと右手に、金富小学校、本法寺がある。本法寺は夏目家の菩提寺という。漱石自身の墓は、雑司が谷墓地に立派なものが建てられていて、私も、一度お参りしたことがある。少し戻って、金富小学校の横の坂、今井坂をのぼると、「徳川慶喜公終焉屋敷跡」という表示に出会う。植栽が整えられた庭園に見えた。塀に沿って行くと、「国際仏教学大学院大学」の門があるのだが、初めて聞く名前だな、と思って帰宅後調べてみると、霊友会の研究所が基礎となって1996年設立された大学院のみの大学で、5学年20名の定員だそうで、2010年にこの地に移転したという、日本で一番小さい大学か?キャンパス内になるのか、慶喜の時代の大イチョウだけは健在のようだった。

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文京区が大幅な町名変更を開始したのは、1964年からだったので、私はすでに、大学を卒業、生活圏は、このエリアからは離れている。この案内板の最後にはつぎの短歌が記されていた。
「この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶふかくなりたり」(釈迢空)
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本法寺の桜が見事であった。この本堂に向かって左に、夏目漱石が1888年1月、墓参の折に母を偲んで詠んだとされる句の碑がある。
「梅の花 不肖なれども 梅の花」
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金富小学校脇の今井坂を上ると左手に「国際仏教学大学院大学」の門があり、そこから見えるイチョウ、「徳川慶喜公屋敷大銀杏」と記された石柱が
右端に見える

 さらに、小日向台の住宅街を抜けて春日通りに出ると、同心町、竹早町の旧町名表示版に出会う。私には、新しい中学校の印象があるのだが、なんと開設は1960年だった茗台中学校、その角を左に曲がると、突然、長い石段の坂を見下ろすことになる。これが庚申坂である。この谷を下った先が切支丹坂ということになるらしい。私たちは引き返し、信号を渡って、吹上坂をくだることになる。

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この庚申坂をくだって、地下鉄のガードを越えた先に切支丹屋敷跡がある。
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急な庚申坂と緩いのぼりの切支丹坂なのだが、庚申坂が切支丹坂と間違われることがあるといい、つぎの短歌も、この庚申坂を詠んだとされる。
「とぼとぼと老宣教師ののぼりくる春の暮れがたの切支丹坂」(金子薫園)

  途中、マンションの横の細い道を入って行く一行の後に続くと、石垣とマンションの間に細い枯山水のような庭の奥まったところに「極楽水跡」があった。極楽水とは、伝通院開祖の上人が、引き出した名水の泉であったということで、田山花袋(18721930)の「蒲団」にも登場しているというが、そんな記憶はもちろんない。いまは、小石川タワーマンションの敷地の一部の細い緑地帯となって残っている。

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奥に井戸が見えるが、現在は、水が湧き出ているのだろうか。こうした形で残されていることに、ほっとした気持ちになった。

 

 緩い坂をさらにくだれば、正面の街並みの背後に広がる緑は、小石川植物園で、交差するのは千川通り。右の角には、共同印刷があるはずである。現在は、白い工事シートで全面覆われ、改修中で、社屋の姿はみえない。千川通りは、もともと千川、小石川とも呼ばれるどぶ川であって、洪水も起こっていたらしいが、1934年、暗渠となり千川通りになった。千川の上流は、池袋の立教大学の北側に流れる谷端川で、私の子供のころは、そのあたりのことを長崎とか千川と呼んでいたことを思い出す。こちらの千川が暗渠となる前の小さな工場街を舞台にしたのが「太陽のない街」(1929)で、作者の徳永直(18991958)は、共同印刷の植字工であった。

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改修中の共同印刷社屋、正面の茶色い看板には、大きく「吹上坂」とある。 
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 かつて、小石川には河童が出るなどといわれた寂しいところで、この坂下には「播磨たんぼ」が広がっていた。大正時代はその面影を残していて、つぎのような短歌も読まれていた。
「雑然と鷺は群れつつおのがじしあなやるせなきすがたなりけり」
(古泉千樫)

 時代は下って、1960年代の大学のころ、友人からは、よく氷川下セツルメントへの誘いを受けていたのだが、当時の私の関心の向くところではなかった。今から思えば、少しでも参加しておくべきだったかなとも。今回の散歩コースからは外れるが、植物園の西側に、簸川(ひかわ)神社とその脇の氷川坂の下には、氷川下セツルメント発祥の地の記念碑が建っているそうだ。また茗荷谷駅前の春日通りを渡った直ぐ先に、「大橋」の表札のある大きな門構えのお屋敷があった。まったく人の出入りのない、開かずの門だったような記憶があるが、博文館創業の大橋佐平家一族の住まいだったのだろうか。今回ちょっと足を延ばして、確かめておけばよかったとも思った。

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播磨坂、桜並木の遊歩道、週末なだけに、かなりの賑わいであった。

 文学散歩は、いよいよ最終盤に入り、つぎは、週末の花見客でにぎわう播磨坂の桜並木の遊歩道を、ふたたび春日通りに向かってのぼる、その中ほどを右に折れると、マンションとマンションの間に、石川啄木の歌碑があり、その横にはガラス張りの顕彰室があった。ここが、石川啄木終焉の地であったのだ。歩き始めてすでに3時間余、私の足はすでに疲労の極度に達していた。折も折、大和田さんから、写真撮りましょうかと声をかけていただいたので、啄木の歌碑の前で撮った一枚は、なんとも情けない疲れ切った姿であった。さらに進むと左手に小石川図書館があり、その前には「団平坂」の表示板があり、道の向かいは竹早公園であった。

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石川啄木終焉の地
啄木は、1911年8月、本郷の喜の床から、この地の借家に移り住んだが、翌年1912年(明治45年)4月13日26歳の生涯を閉じる。碑面には晩年の二首が、原稿用紙一枚の草稿そのままに写し取られている。
「呼吸すれば、 胸の中にて鳴る音あり。 凩よりもさびしきその音!」
「眼閉づれど 心にうかぶ何もなし。さびしくもまた眼開けるかを」
(啄木)

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          ガラス張りの、広くはない顕彰室は、歌碑と共に、数年前に市民有志により建てられたという、新しいものである。

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  小石川図書館の前に建てられた、この案内板にも、啄木の最晩年の直筆ノートから一首が記されていた。
「椽先にまくら出させて、ひさしぶりに、ゆふべの空に親しめるかな」(啄木)

迷っていた二次会だったが、どこか座りたい、休みたい一心で、参加することにして、茗荷谷駅前の路地を入った、たしか「和来路」という店ではなかったか、十人ほどで、にぎやかにおしゃべりをしているうちに、何とか帰途につく気力をとりもどすことができた。早めに失礼して、7時半過ぎ、家の近くのバス停で、初めて傘を開いた。降られずによかった、この日の万歩計は16100歩であった。

  ふたたび、小石川の坂の名前のおさらい・・・。

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2019年4月 3日 (水)

「文京区春日・小石川=坂と文学をめぐって」に参加しました(1)富坂から堀坂・六角坂、善光寺坂へ  

 新元号発表、代替わりの迫る中ながら、3月30日、日本社会文学会が開催する「文学散歩」に初めて参加した。今回は、「春日・小石川」ということで、何とか参加したいと思っていた。というのは、池袋で育った私は、地元の池袋第五小学校(今は廃校・統合され池袋小学校)の卒業後、中学校から大学は、文京区竹早町、大塚町、大塚窪町(旧町名)にある学校に通っていたこともあって、10年間もウロウロしていたエリアだったのである。池袋東口始発の都電17番線には、伝通院行、春日町行、数寄屋橋行があって、中学校は、停留所の同心町で下車していた。高校・大学は丸ノ内線の茗荷谷下車で、余裕をもって登校することができなかった、当時の私は、茗荷谷駅から教室まで、いつも駆け足のギリギリセーフのような日々だった。それにしても、いま思えば、あまりにも周辺のことを知らな過ぎたし、無関心でもあったのだ。その後、何かのついでがあれば、すっかり変貌してしまった学校近辺を歩く程度のことしかしていなかった。

 週末の午後、後楽園駅の礫川公園前に集合、総勢15人、案内は大和田茂さん。参加者がそろうまでの間、近くで「天皇制を終わりにさせましょう」とビラを配っている人がいた。その日は、近くの文京区民センターで、「終わりにしよう天皇制」ネットワーク、「おわてんねっと」の集会が開かれる。実は、そちらの集会も参加してみたかったのだが、時間がまるでかぶっているのであきらめたのだった。

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後楽園駅頭で配布していたチラシ

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大和田さんが苦労しての散歩コース地図

 

 礫川(れきせん)公園は、文京区シビックホールや区民センターでの催しの際、横を通り過ぎるだけだった。サトーハチローの「小さい秋みつけた」の碑とハゼノキ、幸田文家庭から移植されたハンカチの木、はじめて見て回った。サトーハチローは向ヶ丘弥生町に住んでいて、そこに記念館があったそうだが、閉館の折、庭から移植したのが、童謡にも登場する、このハゼノキだったらしい。公園には、立体的な段状の噴水があり、壁泉というそうだが、水は流れていなかった。振り返れば、左手の空には、ジェットコースターが轟音と共にめぐってくる。ここからが西富坂というところには、春日局の像があったが、いかにも新しい。といっても、1989年の大河ドラマ「春日局」放映後に建てられたらしい。彼女の辞世「西に入る月を誘い法を得て今日ぞ火宅をのがれるかな」の歌碑もある。この辺一帯は、水戸藩の屋敷だったのを、庭園の後楽園のみを残し、1875年陸軍の東京砲兵工廠となったが、1933年小倉へ移転、跡地を後楽園スタジアムに売却している。後で知ったのだがすぐ近くに、東京都戦没者霊苑があったのだが、知らずに、お参りはできなかったのが残念だった。

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手前がハゼノキ、奥がハンカチの木、ビルの上には、後楽園遊園地のジェットコースターが見える

富坂には進まず、春日通りを渡って、源覚寺=こんにゃく閻魔さんで有名な浄土宗の寺に向かう。眼病の老女が好物のこんにゃくを断って供え、祈願し続けたところ、夢に現れた閻魔王みずからが片目を差し出して治してくれた、というのがいわれらしい。閻魔王の片目がないのが、お堂の中が暗すぎてよくわからなかったが・・・。一葉の「にごりえ」にも登場するという閻魔様の縁日は今でも続いているらしい。山門の正面の通りを300mほど行くと一葉の終焉の地丸山福山町だという。「にごりえ」はもう一度読みなさねばならないが、いまの私によみがえるのは、今井正監督のオムニバス映画『にごりえ』(1953年)の「にごりえ」である。「酌婦」のお力の淡島千景と山村聡、お力へ入れあげ、身を持ち崩してしまったが、思いを断ちきれない源七の宮口精二と妻の杉村春子。高校生の頃、どこかの名画座で見た記憶がある。暗い画面の中の宮口・杉村のセリフを聞きとるのに精一杯だったような。

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閻魔王に供えられたこんにゃくの山

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ここが急な堀坂、 若い人にもややきつそうな、まして・・・

 源覚寺を裏道から少し歩いたところに現れたのは、急な堀坂だった。通りの片側は、大きなマンションが建築中であった。上りつめた丁字路の左手には、島木赤彦(18761926)が下宿し、『アララギ』の編集所にもなっていた「いろは館」跡の碑があった。右手に少し進むと、「三浦梧楼将軍終焉の地」という碑があった。三浦梧楼(18471926)といえば、山形有朋の宿敵、陸軍中将から政界入りをして、枢密院顧問になっている。朝鮮の公使時代、1895108日閔妃暗殺を企てたとされる、あの人で、1962年、富坂二丁目町内会名の解説によれば「政界軍部の御意見番として隠然たる勢力」を持ち、町内会設立にも尽力、「将軍の偉徳を偲んで」建てたと記している。こうした評価だけが定着してしまうことには、危惧を感じるのだった。

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堀坂の戸建ての家の壁にはこんなポスターが張られていた

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いろは館跡の、小倉遊亀の筆になる小さな碑。右手にはいろは館という小さなマンションが建つ 

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「三浦梧楼卿終焉の地」とある


小石川2丁目となった、その緩い坂、六角坂をさらに下ると、左手には、「前川」の表札のある大邸宅の塀が続き、下った先の右の角には、立花隆の仕事部屋兼書庫という円筒のような猫ビルがあった。

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六角坂を下りきった角に立つ猫ビル 

くねった道沿いに進めば、そこは善光寺坂と呼ばれる坂で、右手、中ほどには伝通院の塔頭の一つである善光寺があり、さらに進むと、慈眼寺、沢蔵司稲荷が続き、上り切ったところには、道の中央に大樹がそびえている。その手前には幸田露伴の旧邸があり、次女の幸田文が住み、現在はその娘の青木玉が住んでいるとのことだが、背の高い木戸の脇には「幸田・青木」の表札が見えた。

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慈眼寺の芭蕉の句碑「一しぐれ 礫や降って 小石川」

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沢蔵司稲荷の狐のねぐらだった「お穴」をのぞく

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善光寺坂を上りきったところの道の真ん中に立つのは、ムクノキ、沢蔵司(たくそうず)の魂が宿ているといわれている。角の石塀に囲まれた家が幸田露伴の旧邸、戦後建て直しているが、次女の幸田文とその娘の青木玉が住む。

 

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2019年4月 2日 (火)

新元号発表狂騒でシャッフルされてはならないこと

   きのう、41日、午後の数時間、家を空けていたが、10時半頃から、新聞やテレビを飛び飛びに読んだり、見ていたりした。元号発表が何で「秒読み」までされて報道されなければならないのか。政府は、これまでの、山と積まれた失政の数々を、この政治的ショーという茶番で、シャッフルしたい思いがありありで、うんざり感にさいなまれた。マス・メディアは、分かっていていながら、その茶番に乗って、これでもか、これでもかと、どうでもよい情報を流す。アナウンサーやコメンテイターたちも、皇室や元号に詳しい<専門家>たちも、菅官房長官発表時と安倍首相談話時の背後のカーテンの色が違うとか、緊張した息遣いだったとか、一瞬、表情が緩んだとか、などなど、いい加減やめてほしいと思った。記者たちの違った質問に、首相は、元号の出典や込めた思い?として、国語の教科書や参考書程度のフレーズを間違えないように繰り返すだけであった。

 出典が「国書」というけれど、漢文と漢字による万葉仮名の和歌で成り立つ万葉集だし、万葉集よりも数世紀前の中国の詩文「帰田賦」(張衡)に「仲春令月 時和気清」の一節があり、当然万葉集もそれを踏まえているので(「座談会・新元号のメッセージ」『朝日新聞』、「初の酷暑万葉集出典 中国古典踏まえ」『東京新聞』、「中国古典の影響残す 『文選』孫引きの指摘も」『毎日新聞』ともに42日)、「国書」云々を強調すること自体、ミスリードしていることになろう。「初めての国書から」とする分野外のノーベル賞受賞者やワケのわからない出で立ちの大学教授が、有識者懇談会の模様を語っていたが、その舞い上がっている姿は見苦しかった。

 この出典に関して、日本文学研究者のローバート・キャンベルと歌人の岡野弘彦が、「元号」自体を前提にしてのことだと思うが、ともに、国書か中国の古典かにこだわる必要はない、と語っている(『東京新聞』)42日)のは、その限りでは、日本文学の成り立ちから言っても当然のことだと思った。

 安倍首相は談話で、「(万葉集は)日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、わが国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書」というけれど、 日本の文学史において、「天皇から庶民まで」の歌集として「万葉集」像がクローズアップされるのは、たかだか、1890年以降のことである。「読み書きを知らない人たちが口頭で謡ったり、唱えたりしたものにしては、形式が整いすぎてはいないだろうか」と東歌や防人歌の作者に疑問を呈する研究者もいる(品川悦一『万葉集の発明』)新曜社 2001年、82p)。定型短歌は文字社会の産物であり、文字は文明の産物であり、列島社会の文化でもなかったことから「中華文明を継受した支配階層が発達させた文化」と考えるからである(前掲書84p)。

 幅広い階層の人々の歌を収めたという万葉集が、戦争に立ち向かう全国民的な民族意識、ナショナリズムの高揚の必要性と正岡子規らによる和歌革新運動とがあいまって、万葉集教育の普及、万葉集研究に支えられ、「国民的歌集」になっていった歴史を知る必要があるだろう。マス・メデイアの役割も欠かせない要素であった。この「国民的歌集」は、日中、太平洋戦争中にも、もてはやされることになる。学徒出陣世代の方から、斎藤茂吉の『万葉秀歌』上下(岩波書店 1938年)を愛読する者が多かったと聞いたことがある。

 一過性で終わるとも考えられるが、現在、書店では万葉集関係書のコーナーができたり、出版社では増刷を決めたりしていると、42日の夕刊各紙が伝えている。また、歌人たちが、出番とばかりに、メディアをにぎわすかもしれない。

 そんな、騒々しいなかで、「えッ、きのうから、令和に替わったんじゃないの」という人も現れるほどだが、42日の朝刊の片隅には、「森友問題 特捜部に起訴要望」(『朝日新聞』)、「公開の法廷で白黒を 森友不起訴不当受け申立書」(『東京新聞』)の記事があった。森友問題での公文書改ざんをめぐり、佐川元局長らの不起訴処分を受けて、市民団体が大阪地検の検察審査会に起訴を求めて申し立てをしていた。先週、佐川元局長らの不起訴相当、一部不起訴不当の議決を受けた、その市民団体が、さらに大阪地検特捜部に厳正な再捜査を求めたという内容で、いくつかの市民団体が大阪地検の検察審査会に申し立てをしているがそのうちの1件だった。地道に、森友・加計問題の幕引きに異議を唱え、闘い続けている市民たちもいる。

 天皇代替わりの「新しい時代」のどさくさと演出で、数々の違法・不法・不当・不都合な事実をチャラにしたい政府、許してはいけない。

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大谷石の塀と側溝のすきまにスミレが、今年が初めてか

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