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2019年4月 9日 (火)

「松本昌次さんを語る会」に参加、その前に「東京都戦没者霊苑」へ

  3月30日の「文学散歩・春日・小石川」に続いて、4月6日にも丸ノ内線「後楽園」で下車、2週続けての後楽園である。少し早めに出たので、先日の文学散歩で素通りしてしまった「東京都戦没者霊苑」へ向かった。駅前の礫川公園の端の春日局像の前を西へ富坂をのぼるとすぐ左手に霊苑の入り口があった。その並びには中央大学理工学部のビルが建つ。霊苑に入ると、ここも桜が満開だったが、ひっそりとして、人はまばらであった。 まず目についたのが一つの碑だったが、近づいてみると「御製」とある。ああ、ここにも天皇の歌が、の思いであった。

             

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 昭和天皇が「日本遺族会連合会創立三十周年式典」(1977年11月)に際して詠んだ一首の入江相政侍従長の筆になる歌碑。
「みそとせをへにける今ものこされしうからの幸をたゝいのるなり」

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桜の木の間からは、後楽園遊園地のジェットコースターが。

 

 さらに進むと、満開の桜の背後には、後楽園のドームと遊園地のジェットコースターが空を占める。はや散りかけた一本の桜のもとに、霊苑の「由来文」を角田房子が書いていた。1931年の満州事変から太平洋戦争終結までの東京都関係戦没者16万人の霊を追悼する施設で、鈴木俊一都知事の時代に建設され、1988年に全面改修されたという。

 

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正面の桜の木のもとに、角田房子による「由来文」碑があり、右の鎮魂碑は山本健吉の揮毫であった。 
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鎮魂碑から振り返ると、文京区シビックセンターが、まるで巨大湯沸かしポットのようだ。
また高層ビルが建設中なのか。
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霊苑より礫川公園の花壇を見下ろす。正面が文京区シビックセンタービル。

 霊苑から階段をくだれば、礫川公園になる。そして、今日の目的でもある、文京区民センターでの「松本昌次さんを語る会」の会場へ急ぐ。松本さんは、知る人ぞ知る、戦後出版史を語るには欠かせない名編集者で、今年1月15日、91歳の生涯を全うされた。私も長らく図書館員だったこともあって、その名は、未来社、影書房の編集者として見聞きはしていた。もちろん面識はないのだが、その著作の幾冊かには目を通していた。それに、今年、拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』を手掛けてくださった一葉社の和田さん、大道さんから、よく話は聞いていたのである。その一葉社から、『いま、言わねば 戦後編集者として』が、生前には間に合わなかったが、3月15日刊行されたのだった。この日の「語る会」は、葬儀も追悼会も要らないとしていた松本さんの遺志を尊重、いわば出版記念会を兼ねたような会になるのではないかとも聞いていた。

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「語る会」の受付風景、盛況だった。 
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当日、参加者に配布された冊子
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会場に展示された、松本さん著作の数々・・・

 発起人やかかわりのある人たちのスピーチは、さまざまな出会いや長い交流があるだけに、熱が入り、長くなりやすかったのだが、そこからは、編集者としての作家や評論家に対する厳しい目とともに、市民団体や市民運動の担い手への支援に意を砕いていたことがわかるのだった。

 今回の新著『いま、言わねば』は、2013年から17年にかけて、レイバーネット配信のエッセイや市民団体のミニコミ誌に連載していた文章などが収録されている。鋭くそしてわかりやすい発言が続くなかで、紹介したいエッセイは、たくさんあるが、私が関心を寄せている、まず短歌の話題から。

・当選者よ民の代表と思うならば派手な万歳などせずともよろし(狩集祥子)

 「朝日歌壇」(8月11日)の佐佐木幸綱選の一首を引用して、「選挙が終わるたびにくりかえされる、あの「万歳」には、うんざりです。」で始まる。戦争中の皇民化教育によって、自分の日常に絶えずつきまといつづけるのが、君が代、日の丸、万歳という「三点セット」であったという。国内のみならずアジア諸国への植民地支配・侵略戦争の行く先々でその威力をふるったことについて、自分の無知に対する悔恨の思いとともに、この三点セットを拒否する、と言う主旨であった。(「万歳をなぜ拒否するのか」2013年8月25日、76P)
 今回の4月7日の地方選挙にあっても「万歳」は、何の自覚もないまま横行している現状を私も憂えるばかりである。

   もう一つは、「戦没者を悼むとは何か」(2016年8月28日、118p)で、2016年8月15日の「全国戦没者追悼式」における安倍首相の「反省」の文言もなく、哀悼などどこ吹く風の「心なき常套句が並べられているだけ」の「式辞」は、「かつての日本帝国主義の侵略戦争で死んでいったアジア諸国の人びとへの侮辱であるのみならず、三一〇万の日本の戦没者たちへの侮辱でもある」と書き起こしている。続けて、西ドイツのヴァイゼッカー大統領が、敗戦40周年の1985年5月8日に行った演説「過去に目を閉ざす者は現在にも目を閉ざすこと」であることを強調し、戦争による死者たちへの追悼の仕方に言及したことに、心打たれたと綴る。ヴァイゼッカーが、ヒトラー政権下での、ユダヤ人大虐殺による死者、ソ連・ポーランドでの死者をまずあげ、そののち自国ドイツ人の死者を追悼し、さまざまな差別をされていた少数者の犠牲者へ敬意と哀悼の意を捧げていることと日本の首相や天皇の追悼の仕方とを比べていたのである。毎年、8月15日や例祭に国会議員が群れを成して靖国神社に参拝する報道に接するたびに、「追悼」のパフォーマンスには腹立たしい思いをし、天皇の慰霊の旅の政治的な役割を思わずにはいられなかったので、共感を覚えたのであった。                         

 数年前、編集者でもあった若い知人から「松本さんに会いたいです。ご一緒しませんか」と誘われていたことを思い出した。お目にかかりたかったなあ、と。また、20年も前に、私は、松本さんの支援者でもあった庄幸司郎さんを偲ぶ会に参加していた。庄さんが刊行していた、市民運動の情報誌「告知版」で、当時、私たちが、地域で発行していたミニコミ誌やイベントの紹介をしてくださったこともあったからだろうか、中野まで出かけたのだった。影書房、松本さんのお話もあったのではないか、いまでは記憶が薄らいでいる。そんな思い出に浸りながら、皆さんの話を聞いていた。休憩のお茶の時間に、思いがけず、早稲田大学の20世紀メディア研究所の山本武利先生を見かけた。プランゲ文庫のデーターベース作成・普及・研究活動をしている同研究所の研究会には、2・3年に一度?くらいしか参加していない身ながら、思い切って声をかけ、拙著の『斎藤史…』のチラシをお渡しすることができた。同書には、プランゲ文庫を利用して、斎藤史がGHQの検閲を受けて削除された短歌があることも知って言及している個所もあるので、その件を伝えると、興味を示してくださったのだった。一緒に参加していた連れ合いは、一足先に失礼していたが、私も、最後の歓談の時間に、そっと抜け出し、帰途についた。

 一葉社の和田さん、大道さん、去年の12月は、松本さんの本のことで大変なところ、拙著の追い込みと重なり、過密なスケジュールだったのだろうなと。「松本さんを語る会」の盛会なによりでした。お疲れさまでした。

一葉社の新刊情報:https://ichiyosha.jimdo.com/

 

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