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2019年5月31日 (金)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人たちを振り返る、1958年

 ネット上で知り合い、メールでのやり取りはありながら、遠隔なので、お目にかかってはいない知人から思いがけず、1959年から60年にかけての『短歌研究』の数冊をいただいた。近年、私は、斎藤史、阿部静枝の著作年表を作成し、一部を論稿の資料として活字にしてきた。資料環境が進展し、検索やコピーが容易になったとはいえ、歌人研究には基本的な資料である『短歌研究』の原本はありがたい。デジタル資料、とくに遠隔で、目次を頼りに検索・複写をしている限り、多くの見落としもあるし、目的以外の資料はスルーしがちである。原本を閲覧することにすぐるものはなく、思いがけない作品や文章に出会い、一冊、一冊が、その時代の雰囲気を伝えてくれる。

 この1960年前後は、敗戦直後は別にして、私の体験した日本の戦後史では、まれに見る激動の時代であった。そして、自身にとっては、母を亡くした、学生時代の前期にあたる。 

 いま、手元にあるのは、晩年の母が購入していた『短歌』や『短歌研究』の端本、私が後に図書館で複写した目次や記事と今回いただいた『短歌研究』である。何から書き出すべきか、迷うところでもある。

『短歌研究』1958年1月号(編集者杉山正樹/日本短歌社):

 <新年作品特集>佐藤佐太郎・五島美代子・宮柊二・生方たつゑ・木俣修らと塚本邦雄、田谷鋭・寺山修司の30首前後の作品が並ぶ。<新鋭女流作品集>も組み、石川不二子・大西民子…北沢郁子・清原令子・冨小路禎子ら10人の作品が並び、菱川善夫の「新世代の旗手」が始まり、第1回は中城ふみ子である。前年からの近藤芳美「或る青春と歌12」、木俣修「昭和短歌史10」、高安國世「イタリー紀行7」の連載では、近藤のひたすら甘く抒情的な文章にはいささか戸惑い、高安のヨーロッパ旅行に憧れたことなど、かすかな記憶がよみがえる。

・明治六年若き天皇皇后と一夏駐輦と記録に残れり(四賀光子「箱根遊草」)
・戦後うやむやに終りて水無月の道黒く市電の内部につづく(塚本邦雄「出日本記」)

 

『短歌研究』1958年3月号(編集者杉山正樹/日本短歌社)

 <現代女流歌集>の冒頭は読売文学賞第一作として生方たつゑ(「苛斂の土」40首)、五島美代子(「原野の犂」30首)野二人の作品が並ぶ。「女歌の行方」として男性の論者5人が生方・五島を語り、女歌を論じている。そして、阿部静枝らのベテラン7人と、斎藤史、葛原妙子、森岡貞香の3人が別枠で並ぶ。そしてもう一つの特集が<沖縄の歌と現実>であった。吉田漱「“二つの日本”を訴える」、霜多正次「沖縄島の哀歓」と、吉田の編集による「沖縄作品集」からなる。吉田は、沖縄の歴史と当時置かれている政治、経済、社会の実情を丁寧に具体的に報告し、沖縄の歌壇にも言及する。沖縄の戦後の短歌は、ハンセン病療養所の「愛楽園短歌会」に始まり、本土のアララギ同人の呉我春男の尽力で「九年母」が1953年3月に結成、翌年会誌が創刊されたが、沖縄では発表できない作品が本土の『アララギ』『未来』『樹木』などに掲載されるという時代であった。

・墓石の片がはにいま陽が匂ひ子の名一つがくきやかに見ゆ
(五島美代子)
・遺りゐる礎石配置に日のうすき斑があり人間の悲話よみがへる
(生方たつゑ)
・絶望に通ずる道を歩むに似たり一日一日の悲しきいとなみ
(比屋根照夫)
・憚らず土地を接収せしされつ米琉親善をいふ双方の高官
(天久佐信)

 杉山正樹によると思われる編集後記「読者への手紙」では、<現代女流特集>について「雛祭りや才女時代に因んだわけではありませんが」の前書きがあって、文学賞受賞の五島・生方と各世代の俊秀の力作を自負していた。三月号の女性歌人特集が定例化するのは、1969年31人でスタート、1974年に123人、さらに人数はふくれ上がり現在に至っている。一方、ちなみに、5月号の男性歌人特集は、1972年、70人でスタートしている。

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『短歌研究』1958年1月号目次

 

 なお、沖縄特集の文中で出会った比屋根作品にはいささか驚いた。後に、大学のOB会で知ることになる比屋根さん、政治思想史の研究者なのだが、若いときには『琉球新報』の「歌壇」に投稿されていたという。OB会で上京された折や電話で、現在の沖縄を深く憂い、ときには、短歌論や拙著への感想などを聞かせてもらうこともある。

『短歌研究』1958年10月号(編集者杉山正樹/日本短歌社):

福田栄一「夜の谺(44首)」
ししが谷法然院の河骨の黄の花硬しこころやむわれ
争ひしあとさき先生と飲まざりしふたたび叱りてくるる人なし
死にて亡き先生に逢ひポトナムの友には逢はず争はなく
金閣寺裏山ときき先生の死にしところより寂しき金閣

 この号の第一特集は「アララギの五十年」であり、この結社の「内側の声」五味保儀ほか「外側の声」前田透ほか各数人が語り、アララギの中堅・若手、宮地伸一・我妻泰らの作品を掲載する。もう一つが「異郷に歌う(海外日本人の短歌)」で、ハワイ、ブラジル、北米の移民歌人たちの現状と作品を紹介する。木村捨録「歌壇交流記4」は大日本歌人協会の出発と解散の経過が語られている。もう、リアルタイムで当時を知る歌壇人はいないだけに興味深い。
 冒頭の福田(1909~1975)の4首は一連の中ほどにある作だが、『ポトナム』を創刊し、主宰であった小泉苳三(1894~1956)の追悼歌である。福田は、『ポトナム』の若手メンバーとともに「思索的抒情」を掲げ、1946年10月『古今』を創刊・主宰している。小泉との確執があったと思われるが、その自死の後の墓参の折の複雑な心境を歌っている。法然院には、小泉の墓と歌碑がある。私は、この『ポトナム』に1960年に入会することになる。

 

『短歌』1958年12月号(編集発行人角川源義/角川書店):

 <アンケート特集>と銘打って、一つは、「警職法改正案と中河発言をめぐって」であり、一つは「現代短歌の問題点―推進すべき方向と作品(87氏回答)」である。前者は、58年10月、岸信介内閣は、警察官の職務権限の拡大を主眼とする警察官職務執行法改正案を国会に提出し、日本社会党はじめ総評、文化団体など幅広い反対運動が展開していた時期、衆議院地方行政委員会公聴会で中河幹子が歌人の肩書で改正案賛成の意見を述べたことに由来する。しかも、その意見があまりにも俗っぽく、雑駁だったことから、多くの批判を浴びることになった。注*『短歌』編集部は、中河公述人の意見と山田あきの反対意見を載せ、20人の歌人にアンケートをとった結果をまとめている。回答があった17人は、結論的には全員反対との回答を寄せている。回答がなかったのは、土岐善麿、岡山巌、大野誠夫とわかる。問題の公聴会は、11月3日に開催、11月5日アンケート発信、12月号に掲載というスピード感と緊張感がある編集になっている。当時の実質的な編集者であった中井英夫の名で、特集末尾の「特集に添えて」において、
「歌人代表の意でないことは当然だが、これを歌人一般とはつゆさら関係ないとして楽観できるほど、『歌人という存在』に信用があるかどうかが、これが意見の岐れ目であろう。」
 さらに続けて、「このことはしかし、もう我々がタンスの奥深くに樟脳を―『戦争になれば国民として協力するのが当然』という、あの樟脳をつけて手軽にしまい込んだ戦争責任の問題を引張り出さなければ解決はつかない―」と特集の意図を記している。

 国民的な反対運動により、1958年11月22日、岸首相は、警職法改正案の提案を断念した。戦後政治史にあって、国民的な反対運動が実った稀有な出来事となった。                                            

注*以下の議事録によれば、この11月3日の公聴会公述人には、「歌人 中河幹子」「作家 高見順」が並び、東京大学教授鵜飼信成、総評事務局長岩井章らがいた。
第30国会衆議院地方行政委員会公聴会議事録(1958年11月3日)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/030/0342/03011030342001.pdf

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『短歌』1958年12月号<警職法改正案と中河発言をめぐって>アンケート回答。

 もう一つの特集のアンケートは、「現代短歌の問題点」についてのアンケート回答を、編集部がテーマごとに仕分けをしてまとめたという。その回答は、実に多岐にわたるが、みな真面目であった。その一端をのぞいてみると・・・。

三国玲子「単なる当込」:「最近、台頭してきた一部の新人達の実験的な作品には興味を持っているが、その多くは生活実体から遊離した官製の遊戯であったり西欧詩他のジャンルに於て試みられている方法論を、短歌という土壌に機械的に移植したに過ぎないように思える。言葉やポーズのきらびやかさ、華々しさに反して内容空疎主体性を欠いているから単なる当込という印象を免れないのだ。実験と当込とは自ら峻別すべきであろう・・・」。(「非写実を排す」)

玉城徹「<彫り>の深さ」:「(前略)私は古典的な方法も前衛的な方法も、または口語歌も、いずれもあつてよいと思う。しかし、そのいずれにしても、もっと<彫り>ふかく、スケッチ歌体を脱却すべきだ。これが、昭和の、特に戦後歌風の一ばんの病弊なのだ。・・・」(「深みへ降りる」)

春日井建「美の呪縛」:「皮相な日常詠やスローガンの素描から抜けだして美の深さを測ることはもつと怖れないで試みられていいことのひとつであろう。美だけに賭けることは退嬰であり徒労であるかも知れない。しかし本来抒情詩である短歌を純化するための逞しい勇気であるには違いない。・・・」(「若い世代の声」)

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5月31日のアジサイ、ドクダミの繁殖力に脱帽、さてどうしたものか。勝手口近くのフキは、湯がいて煮て、お昼にいただきました。

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