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2019年6月 7日 (金)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人を振り返る(2)1959年

 当ブログは、2006年1月に開きましたが、今回の記事がちょうど1000件目にあたります。雑多で、つたない発信ですが、楽しいときもあり、苦しいときもありました。お訪ねくださる皆さまに支えられ、続けることができました。予想外の反響に励まされ、思いがけない出会いや情報交換のチャンスにも恵まれました。ありがとうございます。そして、リンクをしてくださっている方々には重ねてお礼を申し上げます。更新は、遅々たるものですが、ときどきの思いを綴っていきたいと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。

 

~主題制作と長期連作の試み~

『短歌研究』1959年1月号/2月号

 現在の短歌総合雑誌の新年号といえば、若干の違いはあるものの、老若男女の著名歌人総出のアンソロジーだったり、老大家を前面に押し出したり、中堅層を集めたりと、やはり「おめでたい」感がぬぐえない。今年の『短歌研究』1月号は、なんと総力特集「平成の大御歌と御歌」であった。
 1959年、杉山正樹は、1月号の編集後記に「<新春作品特集>は、旧来の総花式なアンソロジイを排して短歌の可能性を探る試みを開始しました」として、「主題制作・生きている”戦後“日本人の心の記録」のもとに、近藤芳美・宮柊二・木俣修にはじまり、岡井隆・田谷鋭・葛原妙子・寺山修司と続き、福田栄一・坪野哲久・斎藤史の『新風十人』メンバーの作品が奈良原一高の写真とともに30・14首の交互で並ぶ。ベテランの佐藤佐太郎・吉野秀雄、新人の山崎芳江・小崎碇之介・山下富美の30首も配するが、この新年号のもう一つの試みというのが50首に近い大作の「連載短歌」で、吉井勇「人の一生」、生方たつゑ「火の系譜」、塚本邦雄「水銀傳説」である。座談会「日本の詩と若い世代」(大江健三郎・江藤淳・岡井隆・寺山修司・嶋岡晨・堂本正樹)がもっとも新年号らしいといえば言えるかもしれない。

・靴音の近付き聞こえ闇に消ゆ心よぎりし何の恐怖か
(近藤「五八年冬」)

・たたかひの後を生きつつ身に疼くくらき痛みを語りあへなく
(柊二「おもい光」)

・壓を加へんとするものはことば柔らかにわが書きものを閲(けみ)しゆきたり(修「黄の鎮み」)

・尾行(つけ)られていると信じ初めしより昂然と雷雨の街を歩めり(隆「少年行」)

・揉みあひて階のぼる群を狭(せば)めつつコンクリートの壁(へき)ありと見つ(鋭「野の靄」)

・窓に碍子(がいし)黒き夜 星黒き夜 われはなにゆゑに群(むれ)、を怖れし(妙子「風 衝」)

・一本の樫の木やさしそのなかに血は立つたまま眠れるものを
(修司「洪水以前」)

・せばめられてゆく自由われも守りたしわれの守られゆく背後なく
(栄一「一枚の罪」)

・拳銃を斜に帯びて移動する道化の一群 制服の青
(哲久「水甕交響」)

・云ひ立てて無實叫ばぬ白鳥を撃つ たはむれに基地の兵の銃丸
(史「流木」)

 

 この作者たちの思想・信条は異なりながら、共通するのは、直接的には、教員の勤務評定反対闘争、警職法改正反対闘争などで国民的な盛り上がりは見せたものの、教員の管理強化、小中学校における「道徳」の導入など国家権力による統制強化、1960年に向けて、日米間安保条約改定交渉が開始されることなどによるじわじわと締め付けられるような危機感であり、閉塞感ではなかったか。
 さらに、編集後記で、杉山は「短歌が日本人の心の記録という意味を持つとすれば憲法改定への暗い動きが底に流れる今日、戦後の心象を刻みつけたこの企劃も、ひとつの意味をもつかと思われます」とも記している、その時代背景へのスタンスも留意すべきだろう。

 翌2月号では、この企画の反響を、批評特集「現代短歌の突破口」としてまとめている。魚返善雄・大岡信・楠本憲吉と歌人6人の反応は各様だが、企画自体を評価する大方の中で、やはり、その中身、短歌作品や写真とのコラボに疑義、言及する評者も多い。「連載短歌」の吉井勇、生方たつゑ、塚本邦雄の連作は続く一方で、<新・戦後派作品特集(30首+作者のノート>(我妻泰・石川不二子・杜沢光一郎・小野茂樹ら7人)、<新鋭作品集(15首)>(石牟礼道子・水落博・中井正義ら7人)が組まれている。

・墓碑銘のなき死つぎつぎよみがえる海へきざはしふかき月かげ
(石牟礼道子「母たちの海」)

 この記事を書いているさなか、6月5日の毎日新聞(『石牟礼文学の原点発見 本紙熊本版に短歌21首投稿』)を目にする。記事によると、石牟礼の短歌のスタートは毎日新聞熊本版「熊本歌壇」(蒲池正紀選)の1952年11月11日~53年5月31日までの21首の入選作だという。その記事には、当時の「熊本歌壇」欄の2首が載っていた。

・舞ひ下りてふはりと羽をとざしたる秋の揚羽はしずかなるもの
(毎日新聞「熊本歌壇」1952年12月28日)

 かつて、私は、石牟礼道子(1927~2018)が短歌にかかわっていた時期は決して短くはなかったことを知って、「短歌に出会った女たち」の一人として、彼女の短歌との出会いと別れをたどったことがある(「石牟礼道子『苦海浄土』にたどりつくまで」『短歌に出会った女たち』三一書房 1996年)。彼女が短歌を作り始めたのは、10代の戦前までさかのぼることがわかっている。そして、『短歌研究』でのデビューはと遡ってみると、手元の資料から2件見出すことができた。バックナンバーの現物が以下の画像である。

・傷つきしけものも花も距りぬ変身の刻近づく暗さ
(「変身の刻」『短歌研究』1956年9月)

・岩礁のさけめよりしばし浮揚する藻と生々しわれの変身
(『海女の笛』『短歌研究』1956年11月)

 1首目は、五十首詠特選1人と推薦4人に続く入選者15人の一人として14首掲載されたのだが、そのうちの1首であり、2首目は、9月号で五十首詠<特選>であった小崎碇之介とともに入選8人の入選後第一作20首詠のなかにある。当時、すでに、水俣病は工業廃水が原因であるとする漁民や患者たちと認めようとしない日本チッソと闘争は激化していた。石牟礼が水俣病にかかる文章を発表しはじめるのは、少し後の1963年以降で、1970年『苦海浄土 わが水俣病』(講談社)の第1回大宅壮一ノンフィクション賞を辞退した石牟礼だったが、その後の歩みや曲折は別稿に譲りたい。

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石牟礼道子「変身の刻」1959年9月号

 

~「歌会始」が問われ始めたが~

『短歌研究』1959年3月号/4月号/5月号                  

 前年、1958年11月27日の明仁皇太子の婚約報道以降、いわゆるミッチーブームのさなか、1959年の「歌会始」は、1月12日に開催されている。「窓」の題のもと選者は、吉井勇・土屋文明・四賀光子・松村英一・五島美代子・木俣修、陪聴者には、久保田万太郎・芹沢光治良・高見順らがいたと伝え、続けて、現代歌人協会・日本歌人クラブ・女人短歌会の共催で、預選者を祝って、選者、入江相政侍従ら宮内庁詠進歌委員など90名が参加して、預選者を祝ったと報じている(『短歌研究』1959年2月号)。そして、選者に新しく、若い木俣と女性二人目として五島が加わったことが影響したことになるのか、戦後最高の応募歌数2万2400首を越えたことが注目された。

 そして、4月10日の皇太子結婚を控えた、このタイミングで、『短歌研究』3月号では、「編集部S」の名で、「歌会始はだれのものか?歌壇から選者を送って十二年 もはや遠い儀式ではない」<特別記事>が掲載された。「歌会始」が選者に民間歌人を加えて10年余を経、「現代短歌の飾窓」として、その短歌は誰の目にも止まる存在になったことで、歌会始が現代短歌と無縁な別世界の出来事ではなくなった。それを受けて、編集部は、各世代の歌人30人、短歌に関心のある文学者10余人にアンケートをとったという。質問も、回答の全容も不明ながら、当時の儀式「歌会始」の実態とその様式が定まったのは明治期に入ってからの第二期であると歴史をたどった上で、「あれはあくまで尊重すべき儀式である」とした回答が最も多かったと報告している。新しい選者の木俣のように、新聞や雑誌の短歌コンクールと同様に選歌し、よりよいものにしていけばよい、とする考え方と現代短歌と歌会始が近づいたということは、現代短歌の文学的な堕落を意味する(杉浦明平)、「(短歌)が文学であるならば、天皇制と結びついて国家権力に守られたくない。現代短歌のためにはこのままでおくべきでない」(岡井隆)という意見、選者も召人も断り続けていた土岐善麿の「われわれが歌を作るのとはモチーフが違うもので、自由自在な表現が可能かも疑問だ」との意見も紹介されている。ではどうすればいいのか、おそらく執筆者であろう杉山はつぎのような文章で締めくくっている。
 「あの第二芸術論や短歌滅亡論が、宣戦の詔勅にも終戦の詔勅にもひとしなみに感動した歌人の姿勢にはっしたことをおもいあわせれば、近く迫つた皇太子の御成婚式も短歌にとつては危険な瞬間かもしれないといえる。その意味からも、今こそ、広い眼で現代短歌の置かれている状況を見つめるべきではないだろうか」(『短歌研究』1959年3月)

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「歌会始は誰のものか」『短歌研究』1959年3月号

 また、翌月4月号で、水野昌雄は「敗北の記録を超えるために」において、歌会始の根本的矛盾は選者たちがすぐれた歌を選ぼうとするほど、天皇制のために役立つことによつて非文学化せざるを得ないとの指摘をしている。さらに、5月号では、秋村功が「道化師を操るもの」を寄せ、1月1日の新聞に(昭和)天皇の「御製」が掲げられているの目の当たりにして、暗い回想、悲観的な行方、現状への激しい憤懣という複雑な気分に包まれたという。「皇室のプライベートな慶事がそのまま庶民のめでたさに通じるかのごとく錯覚させるむなしい報道」によって、「現在の天皇には親近感に似た尊敬の念さえもつ」という庶民像が形成されてゆく。そんな中で「年に一度、天皇が主催する文学の祭典に、日本の文学の源泉である短歌をもつて」のぞむとする選者の木俣に限らず、選者たちは「誰かが作りあげた筋書きの上で踊つている悲しい道化であるかもしれない」とする。では、どうすればいいのかについて、歌会始に応募する2万人以上含む日本人の精神構造を、より合理的でより自主的な判断力をもつものへと変容させる重要性を指摘する。

 さらに、5月号の編集後記「読者への手紙」では、つぎのように記す。
「祝婚歌が巷にみちみちたあとにくる季節こそ、本当は注目すべきなのかもしれません。(中略)祭式の合唱隊と化したマス・メディアが合言葉をくりかえし告げているうちに、たれもが同じ受身の姿勢で無邪気に合言葉をかわしはじめる危険なムードが、戦後これくらいありありと感じられることはなかつた」(『短歌研究』1959年5月)

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「読者への手紙」と奥付『短歌研究』1959年5月号

 1959年、あれから、まさに60年後の今、私たちが経験している「天皇代替わり」における時代の空気を予想しているかのように思われた。私たちは、マス・メディアは、そして歌人たちは、過去に学ぶということを忘れたしまったのではないか。
 また、5月号の「歌人の日記」において、我妻泰はつぎのようにも書いていた。現在、こんな趣旨の発言ができる歌人は存在するだろうか。
「一九五九年冬 *月*日 俺の中で天皇及び皇太子は絞殺しなければならぬ制度として俺の一部分とともにのたうつているのに、日本中は皇太子妃で他愛なくにやついている。まるでシンバッドに出てくるビニールフィルムに隔てられた一眼人のように、見えていながら俺たちは手も足も出ないのか・・・・」(「九年間の状況」『短歌研究』1959年5月)

 

 

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