6月15日で、思い起こすこと
香港で身柄を拘束された犯罪容疑者の中国本土への引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正をめぐって、香港での大規模な反対運動がつづき、12日には負傷者も出る衝突となった。香港政府は、きのう6月15日、議会での審議の延期を発表、6月20日の採決は困難になった、との報道があった。そして先週は、天安門事件の30年にもあたる活動や報道の規制が厳しくなされていることも、かなり詳しく報道された。
しかし、この日本で、今から59年前の6月15日に何があったかについて、報じる新聞やテレビはみあたらなかった。天皇の代替わり報道がいささか静まったと思ったら、トランプ大統領の訪日、先週は、金融庁の年金2000万円赤字報告書の件、自衛隊の秋田市新屋駐屯地へのイージスアショア配備計画の説明資料の不正、説明会担当者居眠り事件、そして安倍首相がイラン訪問時、ホルムズ海峡での日本の海運会社のタンカーが襲撃された事件が飛び込んできた。どれも大事なニュースなのだが、振り返ることで、学ぶことはたくさんあるのではないかとも思う。
1960年6月15日、やはり、私には衝撃的なことであった。
1960年1月には日米安保条約が調印されたが、日本のアメリカへの軍事協力強化に反対する国民的な運動が、前年から盛り上がっていた。5月19日、安保特別委員会は新安保・新協定の批准が自民党単独によって強行採決がなされ、本会議では、警官隊が導入され、5月20日の未明、強行採決されたのである。その後の多くの国民の怒りは、抗議集会や「岸を倒せ」「安保反対」の請願デモの運動となった。在学中の大学自治会でも、学内外の活動は活発となり、いわばノンポリでもあった私は、自治会の指示によって、集会や国会へのデモにも参加したり、しなかったりの生活だった。6月10日には、アイゼンハワー米大統領の訪日を前に下見のハガチー大統領秘書の車が羽田でのデモで立ち往生、ヘリコプターで脱出したとき、座り込んでいた私たち学生の直ぐ近くで、ヘリの離着陸で巻き起こすあの爆風の強さを実感したのだった。6月15日は、国会議事堂近くまで出かけていたが、私は、当時、霞町にあったシナリオ研究所の夜間講座に通っていたので、夕方6時には、すでに、講義を聴いていた。終わって、青山1丁目のお蕎麦屋さんで遅い夕食をひとりとっているとき、店のテレビで国会周辺での混乱の模様を伝えていた。女子学生が一人亡くなったのを知ったのは、池袋の家に帰ってからだと思う。後の報道によれば、新劇人・主婦たちのデモの隊列を右翼が襲撃したことをきっかけに、全学連の「主流派」の学生たちが、国会の南門から突入、武装した機動隊ともみ合いになった時の出来事であったという。
6月16日に、政府は、米大統領の訪日を中止した。そして、さらに、衝撃だったのは、翌6月17日の新聞一面の囲みで発表された在京新聞社七社による「共同宣言 暴力を排し 議会主義を守れ」というものだった。その内容というのを見ての違和感は、拭い去れるものではなかった。当時の私には、まだ、マスコミについては「無冠の帝王」なる言葉も聞くともなく聞いていて、権力批判の機能を果たしているという認識がどこかにあったのだろう。将来は、マスコミの世界で働きたいとも思っていた頃だった。
「6月15日の流血事件は、その事の依ってきたる所以を別として、議会主義を聴きに陥れる痛恨事であった」とあり、「民主主義は言論をもって争われるべきものである。その理由のいかんを問わず、またいかなる政治的難局に立とうと、暴力を用いて事を運ばんとすることは、断じて許されるべきではない」ともあり、「社会、民社の両党においても、この際、これまでの争点をしばらく投げ捨て、率先して国会に帰り、その正常化による事態の収拾に協力することは、国民の望むところと信ずる」ともあったのである。あたかも、学生たちが暴力集団であるかのような、野党が暴力的に議会の混乱を招いたかのような口吻に読める。マスコミって、事件の真相を究明し、原因と責任を明らかにして、解決と再び起こることのないような方向性を示すのが、役目だったのではないの、その機能を自ら放棄して、ときの政府・与党に加担し、国民の自由な活動やジャーナリストたちを萎縮させる結果をもたらすに違いないと思ったのだった。
ひるがえって、現在の政府与党は、「議会主義」や「法治国家」を標榜しながら、議会では、数の力での強行採決を連発して、世論や民意を無視することが横行するばかりに思える。それには、官邸指導による官僚たちやマス・メディアをコントロールする仕組みを作り上げ、これまた、資金と地位に縋りつく面々を引き連れた形でもっぱらアメリカと経済界に、積極的に加担する。一方、国民に向けては、とりやすい所から税金を取り、後手後手の対策でお茶を濁す。ときには、利用するためにだけにある皇室をもって、国民の心をくすぐる。ああ、60年前と何一つ変わっていないではないか。
そして、暮らしの足元から揺らいでいる少子高齢社会における国民の不安を背景に、細るだけ細ってきてしまった野党も、巧妙な政府の目くらましに、右往左往する。署名をしても、集会に出かけても、投書をしても、選挙に行っても、なにも変わらないというむなしさは、深まるばかりである。たしかに、60年前、米大統領の訪日を阻止し、岸内閣を倒したが、そのあとの池田勇人に替わってなされたことを振り返れば、暗然たる思いにいたる。それでは、いったい私たちには、何をすればいいのか、何ができるのだろうか。ともかく、誰かの指示を待つのでなく、気を使わなくてもよい、自分の思いを、考えをとにかく発信してみる、行動に移してみることが、大事なのではという平凡な結論にいたる。誰かに頼るのではなく、縋るのでもなく・・・。疑問に思ったら、自分で調べてみること、情報の海に漕ぎ出してみよう。ゴミにもぶつかる、高波にも出会うだろう。
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