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2019年8月31日 (土)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(17)ハンブルグ歴史博物館を最後に、旅も終わる

午後にハンブルグを発って、ドゴール空港乗り換えで、帰国する日がとうとうやって来た。午前中に、きのう休館で見学しそこなった歴史博物館は見ておこう、と今日ばかりは、少し遠回りだが、市庁舎広場を通り越して、jungfernstiegからU2でシュランプ乗り換えでサンクト・パウリへと行く。博物館の中は、私たちにはやはりわかりにくいが、貿易により大発展を遂げた海運都市時代の展示も、ゆっくり見たら面白いのだろうけれど、ともかく現代を中心にということで、大急ぎの見学になった。

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ガイドブック。

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博物館中庭。

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館内から ドームを見上げる

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ナチスの時代。

 見学もそこそこに、はやめにハンブルグ空港に向かい、念のため、荷物がどうなっているか、訪ねてみることにした。そして、係員と一緒に案内されたのが、バッゲジ・トレース・センター、到着時にロスト・バゲッジを申し出たところだ。すると、一緒に探しにということで、ターンベルトの横に置き去りになっている、いくつかの塊の中に、ないかという。え?こんなところにまだほっとかれているの?そしてさらに、そうした荷物が、床いっぱいに置かれている部屋3つくらいまわっても、もちろん見つからない。そして、4つ目ほどの部屋だったろうか、夫が探し出したのである。ナンバーを照合して、落着。何のことはない、ずっとこんな具合に、ほっと置かれたのである。腹立たしいKLMの対応に、怒りが収まらない。ともかく見つかったのだから、良しとしようか。いろいろあったけれど、無事に帰れそうではあった。(了)

 

 

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はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(16)ハンブルグ市立美術館へ

 7月2日(火)風が強く、外へ出ると、寒い。まずは歩きで歴史博物館へと思う。まるで冬支度のコートとマフラーの出勤途上の女性もいれば、半そでの男性もいる。何度も往復したルーディング・エアハルト通りのビジネス街をミヒャエリス教会方面に向かって歩く。

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何度か渡った橋、ホテルゾフィテル方面を見る。

  途中、ミヒャエリス教会の右手の向い辺りにブラームス記念館があると入り込むのだが、旧市街の趣で、何度聞いてもたどり着かずに、ひとまず、歴史博物館に急ぐ。ところが、なんとこの週だけ月・火の連休とのことで、残念ながら、ハンブルグ最終日の明日に来ることにした。それでは、とうことで、辺りを見渡せば、広い植物園であって、博物館はその一画にあったのだ。道路を渡ってビスマルク公園に入ってしばらく歩くとなんと、巨大なモニュメント、カメラに納まりきれない石像が立つ。その土台には、街ではあまり見かけなかった「落書き」がすさまじかった。というわけで、午前中の収穫は少なかったのだけれど、交通のターミナルでもあるサンクト・パウリ駅U3→シュランプU2→中央駅北口から市立美術館へと歩く。

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広い植物園、ジョギングの人たちもちらほら、羨ましい。

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ビスマルク石像、大きさもさることながら、この落書きにも圧倒される。

 

ハンブルグ市立美術館に入館(14€)し、フロアガイドに沿いつつ歩き始めるが、広くて複雑そうなので、現代の部は省いて、まず3階の18世紀以降をと見始めた。小さい部屋続き、その横には大きな部屋が、全館であわせて60室以上あることになる。

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上が、市立美術館の全景、下が向かいの市民ホール。朝の涼しさはどこへやら。

 

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中央の絵葉書が、マックス・レーバーマン(1847~1935)で、ドイツ印象派の主要画家であった。チケットがマネの「ナナ」、下の横向きの絵葉書は、美術館の宣伝用らしく、カスパー・ダーヴィル・フリードリヒの「雲海の上の旅人」と題されている

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右がハンブルグ市立美術館の三か月の予定がびっしり書かれているリーフレットで、広げると新聞大のレンブラントの自画像(1630年)のポスターになる。左は、すでに終了した「ハンブルグ派」特別展のガイドであり、中央が開催中の北欧の特別展だったのだが、素通りしてしまったのか、気づかなかった。リーフレトによれば、デンマークのハンマースホイの作品もあったのである。私はいつから、この画家の、モノクロの静かな室内画の、淡い光と陰に魅せられたのだろう。来年1月から都美術館で、ハンマースホイ展が開催されるそうで、楽しみにしている。

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ドームと本館との渡り廊下を、行ったり来たりも・・・。

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いずれもフィリップ・オットー・ルンゲ(1777~1810)の作品、早世したが、ドイツロマン主義の代表的な画家。上段、左が自画像、右が両親を描いたものらしい。(17室)

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紛れ込んだ図書館だったが・・・。

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上段は、アドルフ・メンツェル(1815~1905)の「「ベルリン三月革命における棺の安置」?と題される作品(20室)、ほかに労働者を描いた作品が何点か見られた。下は、現物は見ていないが、夫のチケットで、アルブレヒト・デューラー「恋人」(1492-4)であった。

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階段室も豪華な。

 やはり、疲れ切って、途中で、CUBEといカフェで一服。レンブラントは6室と言われて、駆けつけると、たしかに2点あり、見落としていた。そんな名画はたくさんあったと思う。それでも、クールベやコロー、パウル・クレー、ムンク、ゴッホ、セザンヌ、シャガール、モネ・・・・、たしかに見た記憶がある。どんな絵だったか、思い出せないほうが多い。もう少し時間をかけて回りたかった。というより、体力の問題なのかもしれない、と思う今回の旅の美術館巡りだった。

 この日の夕食は、中央駅のフードコートで、焼きそば・春巻など軽いもので済ませ、ホテルで、たっぷり果物でも食べようということになった。明日の出発にそなえて、荷物の整理をしなければならないし、といっても、夫の荷物はとうとう戻らなかった。着替えや洗面道具は何とか調達したが、充電器や電子辞書、若干の土産・・・、いったいどうなるのだろう。10日も経って、自宅に荷物が届いていた、なんていう話も聞くが・・・。

 

 

 

 

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2019年8月29日 (木)

オランダとハンブルグへの旅は始まった(15)ハンブルグの交通路線図にようやく慣れて

 7月1日、やや涼しい朝となった。この日も朝食前の散策にと7時前にホテルを出る。夫にとっては、家にいる時はまるっきり違う生活のサイクルではある。空襲の当時のまま残されているという、茶色い黒焦げた尖塔、ニコライ教会跡に向かう。

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ホテルの玄関前のラベンダーが真っ盛り、よく手入れをしているのを見かけた。

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ホテル最寄りのU3の駅Rodingsmarktの線路の下をくぐって交差路の左手ウィリー・ブラント通りを進むとすぐ左に、あの尖塔が大きく見えてくる。

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車の往来は激しいが、人影のない教会の廃墟の前庭に立つ。147mの尖塔は、ハンブルグ空襲の標準点になり、いまは残骸をさらす。昼間は、75mまでの展望台へのリフトが動き、地下の展示室も見学できるという。1842年の大火後はネオ・ゴシック様式の美しい教会だったろう。見えにくいが、向かって左に「地上の天使」像が立つ。

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「試練」と題されるモニュメントは、比較的新しく2004年に建てられたらしい。銘板には、ハンブルグ郊外の北ドイツ最大のNeuengammeノイエンガメ強制収容所から送られてきた収容者1万人が、Sandbostelで死に至ったことが書かれていたが、この像の下には「真実を変えることは世界中の誰もできない。真実を求め、それを発見し、それを受け止めることはできる・・・」とでも訳すのだろうか。

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 朝の散策のおかげで朝食も進む。TVのニュースでは、米朝会談の映像が流れ、いつのこと?とびっくりする。日本KLMと電話が通じ、荷物の行方を尋ねれば、ハンブルグ空港には着いているはずだから、今日中に届くだろうとの情報にホッとして、ホテルを出る。いわば山手線のような環状線のU3で、中央駅を通り越して、いくつ目かのmundsburgという駅に向かう。駅前のロータリーに、この地の空襲の犠牲者の慰霊碑があるというのだ。往来の激しい交差点の分離帯の中にひっそりとあった。

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インパクトのあるモニュメントであった。「1943年7月30日夜、空襲で370人が亡くなった。彼らの死を忘れるな。二度とファシズムを台頭させるな。二度と戦争を起こしてはならない」と記されていた。カールシュタットデパートの地下防空壕で、亡くなった人々である。

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駅の反対側の公園の奥には教会があったが、そこまでは足が延ばせなかった。 

ムンズブルグ駅から、ふたたびU3で中央駅とは反対方向にぐるっとまわって、schulumpシュランプで、U2に乗り換え、北上すると、Hagenbecks Tierpark動物園駅というのがある。

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動物園駅を降りて道を渡ると、一見、え!と驚くのだが、キリンもその背中の少年もモニュメントとわかる。

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中国風の動物園入り口。

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「案内図」とチケット(20€)、かなりの迷路で、回り切れないところも・・・。園内には、突然、中国やタイ風の建物、そして日本の鳥居、トーテムポールなどが現れて、創立者のハーゲンベックさんの意図がわかりかねることもあったが、とにかく、動物とはなるべく触れ合える工夫が様々になされていたので、見ているだけでも楽しかった。

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アルパカの親子かな

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にぎやかな一団、先生も一苦労か・・・。

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大人も、子どもも楽しそうな。
 

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何を考えているのか。

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動物園駅から、U2で、市庁舎にも近い、アルスター湖が目の前のjungfernstieg駅に降りてみる。いくつもの路線が交差するターミナルで、辺りは若者たちが多く活気に満ちていた。下は、アルスターアーケードだが、今日はその先にテントが見える。

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念願かなって、オールド・コマーシャル・ルームでの夕食。なかなか雰囲気のある店で、個室ではないが、三方が壁で囲まれる。壁いっぱいに、来店の著名人の写真が並ぶ、だいぶ古い人もいるが、大方は分からずじまい。注文は隣席に座りこんで、いろいろ相談に?のってくれる。夫は、シュニツエル、私は白身の魚のソテー。今日だけは私もビールを。


 今日も1万7512歩。そして、夜、バゲッジが届けられたのである。どうしたことか、私のだけで、夫のは今夜も届かずじまい、いったい?!

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2019年8月27日 (火)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(14)ハンブルグ、フィッシュマルクト、市庁舎見学

 日曜日、この日も暑そうだったが、7時前、フィッシュマルクトに出かけることにした。ホテル最寄りの地下鉄駅からは一つ先のバウムヴァルで、その先は工事中で、一駅歩くことになる。人の流れについて歩いてゆくが結構な距離、川沿いのコンクリートの道は、かなり暑い。ようやく、市場の賑わいが見えてきた。大変な人出。野菜のスライサーのデモには、かなりの人だかりができるのは日本でもおなじみの光景か。何でもそろいそうで、いろいろな店が次々と現れる。連れ合いは、戻らぬバゲッジの着替えの代りにと、所狭しとぶら下がるTシャツの値札を覗くと、46€!少し高すぎない?と見送る。私たちは、ホテルで夜にでもとイチゴを2€ほどで買うが、なんと果物かごいっぱい、スイカ、リンゴ、バナナ、プラム、ブドウ、見たこともない果物・・・もちろんイチゴも山ほど盛り合わせたものが15€で、威勢のいい掛け声とともに売られてゆく。別の店では、大きな紙袋に、大盛りの果物が、10€、バナナの一房はおまけと、さらに積み上げる。ああ、買って帰りたいが。大型車の日陰で、若い女性のグループ56人、観光客なのか、その大盛りの果物を、楽しそうに分け合って食べているではないか。ああなるほど。もちろん、魚の大きな切り身、丸ごとだったり、フィッシュバーガーだったり、買って帰ることもならず。少し歩き疲れ、帰ろうとした矢先、一台のタクシーのドライバーが何やら口に頬ばりながら、叫んでいる。ホテルまでと頼むと、シェアのお客がいるということで、地元の男性のお年寄りと同乗し、無事7€でホテルに到着した。やや遅い朝食となった。

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 朝食後、一休みしてから、市庁舎のガイドツアーに参加しようと出かける。11時からの英語コース、156人で、ガイドさんにどこからかと問われて、国を名乗らされる。アメリカ、カナダ、フランス・・・。市役所として、州議会議場として現役ながら、豪華な部屋が幾室も続く。ガイドさんの英語が半分でも聞き取れたならの思いしきりだったが、ちょうど一時間で終了、それでもなかなか楽しいコースだった。

 

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中庭の噴水には、ギリシャ神話の健康と衛生の女神、1897年コレラの大流行で市内で8000人も亡くなった由、市民の衛生意識を高めるためにもと設置されたらしい。

 

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州議会の議場に繋がる階段は赤じゅうたんである。下は州議会議場。

 

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豪華なシャンデリア、絵画にも囲まれる部屋、部屋、部屋・・・。

 

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掲げられているのは、"Concordia res parvae crescunt Discncordia maxiae dilabuntur"と読めるのだが?後で調べてみると、「小さなものでも調和によって成長する、最も大きなもので不調和によってバラバラになってしまう」とか。

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市長室だそうだ。

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途中通路には、ビスマルク(1815~1898)の胸像も。後日、見上げる、ビスマルク公園の巨大なビスマルク石像の汚れ様はすさまじかった。

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 市庁舎内のレストランも日曜で閉まっているし、近くの商業施設ヨーロッパ・パサージュへ出かけてみるがここもほとんどが閉店、「働き方改革」が徹底しているのは、日本と大違い。開いていたスタバで、ベ-グルのサンドイッチを買い込んで、ホテルで済ます。朝からのフィッシュマルクト、市庁舎ツアーは、やはり私たちにはきつかったのか、横になると、結構な昼寝をしてしまった。荷物は届かないが、思い直して、ミヒャエリス教会近くの、きのうのガイドさんもお勧めだったオールド・コマーシャル・ルームというレストランに行ってみることにした。残念ながら、予約制ということで、明日ということになった。ホテルまでの、休日のビジネス街を往復したことになる。夕食は、ホテルのレストランでとることにした。値段も手ごろのようで、宿泊客というよりは、女性一人だったり、家族連れだったり、男性同士の飲み会?だったりのお客さんが多いようだった。お料理もおいしくいただき、よく歩いた一日が終わった。この日、1万7418歩。

 

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展望台からの眺めは満喫したが、教会内の見学は、6時ですでに閉館。周りは閑散としていた。

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上段が昨日のミヒャエリス教会見学チケット、下段がこの日の市庁舎見学のチケット。

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明日の夕食を楽しみに。ラプスカウスという料理が有名だそうだ。 

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きのうもガイドさんに案内してもらっていた、レモン売りのおばさんの像で、左手の人差し指に触れると運が訪れる?とかで、やけに光っていた。彼女(1841~1916)は晩年の20年間は街でレモンを売っていたそうだが、なぜ像になるほど?聞きそびれてしまった。

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スープもおいしかったです。どちらが私のか。

 

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2019年8月26日 (月)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(13)ハンブルグへ、旅のつまづき

 旅も後半、アムステルダムからハンブルグへ飛ぶので、その日の朝、娘にメールをすると、大阪のG20の報道が、やかましい、ホテルがどうの、夕食のメニューがどうのと、中身のないことばかり・・・、との返信。私たちもホテルで現地のテレビのニュースを見ていたが、G20関係は数十秒の世界で、安倍首相の姿が映ったと思ったらすぐ消えた、程度のことだった。

 早めにスキポール空港に着いて、少しばかりの買い物を済ませた。10時45分には離陸、地上は、しばらく、細長い白いビニールハウスが目立っていたが、やがて細長い畑のモザイクに変わっていった。うとうとしているうちに、ハンブルグ空港に着いた。ところで、ここで、思わぬトラブルにふたたび遭遇することになった。

 ふたたび?というのは、思い出すのもイヤで書かなかったのだが、実は前日、ユダヤ歴史博物館に向かう途中で、私が、自転車道と歩道の境目に躓いて、派手に転倒してしまったのだ。ズボンの膝は破れ、手にしていたカメラが遠くに飛んで行ってしまったのである。前後に歩いていた人が寄ってきて気遣いの言葉をかけてくれるし、日本語とは違うアクセントで「マッサージ、いいよ、マッサージ!」といって通り過ぎる女性もいた。ともかく幸いにも、膝は、冷房用に着けていたズボン下と、ひざ痛の貼り薬のおかげで、傷はなかった。ただ飛んで行ったカメラの調子が悪くなって、望遠のまま動かなくなってしまったのである。これからは、妙な望遠での写真か、夫のカメラから頂戴した写真となる。

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これは転んだ日の写真ではないけれど、自転車道と歩道との境はこんな風で、微妙な段差がある。自転車道の往来は一方通行で、かなりのスピードを出しているので、気をつけてはいるのだが、少しはみ出して、後ろから大声で叱られることもあった。

 ハンブルグ空港では、予定通り12時前には手続きが終わったのだが、指定のベルトで荷物を待っていても、いっこうに、私たちの荷物が回って来ない。同じ便の客たちはとっくにいなくなっていた。こんなことは初めてのことで、近くの係員に訊くと、次の便になった、ともいう。途方に暮れて、バゲッジのトレースセンターに並び、事情を話せば、こともなげに、運がよかったら、今晩か明日にはホテルに届くはずだと、日常茶飯のような対応だった。そんなことにも手間取って、一度ホテルに入ってから出かけるつもりだった、午後2時から、市内ガイドの方との待ち合わせに遅れてしまった。かなり重い手荷物を持ったまま、約束の市庁舎前まで、たどり着く。幸いホテルは、近くのゾフィテルだったので、まず手荷物のザックはホテルに置いていきましょう、というガイドのYさんの勧めで、チェックインをした。やはりここも、シャワーだけでバスタブがないのはいささかがっかりしたものだが、荷物は最小限度にして部屋を出た。Yさんは、フロントで、今晩にも届くかもしれないバゲッジのことをしっかりと確認してくれていた。

 だいぶ遅れたが、市内のウオークツアーでは、予定通りのコースとはいかなかったけれど、市庁舎→ミヒャエル教会→旧商工組合福祉住宅→エルベトンネル入り口→船でフィルハーモニー→市庁舎、ということにだった。ちょうどこの日は、オートバイの日とかで、ドイツの各地から、自慢の愛車で走りまわっているので、道路を渡るときは気を付けてくださいと、Yさんおことばだった。荷物の心配もあり、なんと昼食抜きのどこか落ち着かない一日だったが、聖ミヒャエリス教会展望台からの眺めは素晴らしかった。この日、1万2009歩。

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1897年に完成した市庁舎は今でも使用している。647室もあってバッキンガム宮殿を凌ぐというが、地盤は決し堅固な土地ではないので、土台には4000本の樫の杭が打たれているそうだ。外壁の窓の上の飾りには、貿易で繁栄した自由都市らしく、市民の職業にまつわるものや相手の国の象徴のようなものが彫られていて、豚の頭だったり、ケーキだったり、ちなみに日本は、菊の紋章が彫られている由。高くてよく見えなかったが。また、正面のバルコニーには、ラテン語で「先人たちの勝ちとった自由を後世の人々が厳粛に守らんことを」が掲げられているという。

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ホールまでは誰でも入れる。正面に市長の部屋に通じる階段で、さまざまな客を迎えるが「私は誰にも膝まづかない」といういうのが引き継がれているとも。翌日の市庁舎ガイドツアーに参加することにした。

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市庁舎の近くの路上にあった「stolper stein つまづきの石」と呼ばれるもので、この場所近くに住んでいたユダヤ人がナチスに連れ去られ、亡くなった人の名前と日付などが彫られた銅板が敷石の間にはめ込まれ、それを後の人も記憶に留め、追悼しようとすものである。そういえば、、ベルリンン国会議事堂の横の広場にも少数民族のシンチ・ロマのナチス時代の犠牲者追悼記念碑に囲まれた丸い池の周辺の敷石には、犠牲者の名前が記されたこと、ホロコーストの追悼施設が議事堂ブランデンブルグ門の間に置かれていたことなどを思い出していた。日本人の歴史認識と、これほどまで違うのはなぜなのか。

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上の三葉は、ミヒャエル教会の展望台からエルベ川を望む。

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展望台から市街地の方を望む。中央の高い尖塔がニコライ教会跡。その右手がカタリーナ教会、左手の市庁舎の先の聖ペトリ教会と聖ヤコビ教会と思われる。ニコライ教会跡は、ホテルからも近いので、後日、朝食前の散歩で出かけた。

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木組みの旧商工組合福祉住宅に挟まれた路地、17世紀、1676年に当時の商工組合員の未亡人のために建てられた住宅だった。日本はまさに江戸時代の初期、「福祉」などという発想があっただろうか。1863年から100年ほどは市の老人ホームだったのを、1970年代には改修の上、博物館と店が入ったそうで、レストランも来られるといいですよ、とYさんもお勧めだったし、いろいろな楽しそうなお店もあったので、ぜひと思っていたが、再訪は果たせなかった。

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トンネルまでは、大型のエレベーターで降りる。1911年完成当時、車も乗れる巨大なエレベーターが何基も備えられ、驚異の的だったらしい。現在は車のほとんどが1975年完成の新エルベトンネルを走る。

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派手な黄色い船がHVV運営のれっきとした公共交通機関の定期船で、上の白いのが遊覧船であった。定期船は、地下鉄などと共通の一日乗車券で乗れる。

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甲板はまるで遊覧船の気分である。

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右の奇妙な建物が、2016年完成した、エルプフィルハーモニーの建物で、完成までには、工費の拡大で、すったもんだがあったらしい。

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私たちは、たった10分にも満たない船の旅だったが、川風に汗も一時引っ込んだようだった。

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ホテルにも近い、運河沿いのアルスターアーケードのレストランでの夕食となりました。

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2019年8月21日 (水)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(12)ユダヤ歴史博物館へ

 ハーレムからアムステルダムに戻り、ユダヤ歴史博物館に向かうことにしていて、中央駅前の14番のトラムに乗る。地図を見れば先日、ガイドさんと回った市役所、ワーテルロー広場とそんなに離れてはいない。博物館の周辺は、かつてのユダヤ人街だった。ナチスの迫害が始まる前には、アムステルダムのユダヤ人人口は14万人だったのが、大戦後は3万人に激減したという。
夕食は、中央駅近くの中華料理屋さんで、海老の料理と焼きそばとチャーハンをシエアしたが、美味しかったのにやはり残してしてしまった。午前中のハーレム行きとあわせて、この日、2万814歩。

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案内書とユダヤ関係施設の共通チケット、ただ、私たちは、閉館時間のこともあって、ユダヤ歴史博物館の「1900年~現代」の部分とユダヤレジスタンス博物館を大急ぎでしか見ていない。どこも、かしこも時間不足なんだなあ、と。

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展示は、様々工夫されていて、各コーナーには、かつての写真や実写の動画が編集されていて、操作一つで見られるようになっている。比較的裕福なユダヤ人が多かったというアムステルダム、その日常生活が、突然中断されて、収容所での恐怖に直面する市民の姿が、強烈な印象となった。噴霧器の写真には、かつての敗戦直後の暮らしを思い出させられた。東京池袋で焼け跡のバラック店舗で暮らし始めた私たちは、こうした噴霧器でDDTをかけられた経験はなかったが、この噴霧器とアースの殺虫剤や平たい円形の容器をパクパクさせるDDTの粉の噴霧器、よく使いもしたし、実家は薬屋だったのだ、よく売れた商品だったのである。

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続くシナゴーグ、アムステルダムには、ユダヤ人だけを特定区域に集めたゲットーは設けられなかった、という。

 

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2019年8月20日 (火)

8月20日の朝刊一面は「昭和天皇の“反省”“肉声”報道」が氾濫した~「NHKスッペシャル・昭和天皇は何を語ったのか」の拡散、これでいいのか  

 

 一昨日818日の当ブログ記事では、NHKへのもろもろの不満の中で、817日放送のNHKスペシャル「昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録『拝謁記』」について書いた。この数日、NHKニュースは、「NHKスペシャル」などの特別番組と共に「昭和天皇賛美」キャンペーンが半端でない。改元初の八月を期して「ここまでやるか」の印象で、先々の報道の偏向、国策報道への暴走がすでに始まったのではないか、の思いがする。

 

 今朝8月20日の朝刊は、NHKが「独自に入手した」田島道治の「昭和天皇拝謁記」の一部がメディアに公開されたのを受けて、わが家購読の三紙と毎日8月19日夕刊・20日朝刊、朝日20日朝刊、東京20日朝刊で、読売、日経はどうであったろうか。今朝のテレビといえば、「あおり運転」の容疑者宮崎某の学歴や職歴をはじめ小中学校からの友人知人、これまでの事件の実写や関係者の証言が盛られた。  

 

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   昭和天皇の「おことば」に「反省」の文字を入れることを吉田茂首相に拒まれたという個所に焦点があてられる。一方、「象徴」の在り方を模索したといいながら、かなり早い時期から「憲法改正をして、再軍備をしなければ」などの政治的な発言を政府に伝えようとしたことを田島に止められていたことにも触れる。「内奏」という形での情報収集や政府への介入を試みていたことは、ほかの資料でも明らかである。

 これらの発言、田島との密室でのやり取りが、検証もなく、即「肉声」として取り上げられること自体、そしてそれがたとえ事実だとしても、発言の時代的推移における矛盾については、検証されないままである。そして、「先の戦争への反省」「平和への思い」が「平成」を経て現在の天皇に受け継がれているという「定説」は、むしろ覆されたのではないか。そして、天皇の「先の戦争への反省」「平和への思い」を過大評価することによって天皇賛美への道を確固とすることは、結局、誰を利するのか、国民は冷静に考える時期に直面している。私たちは、政府の、メディアの情報への、そして同調圧力へのリテラシーこそが問われているのではないか。

 

 

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2019年8月18日 (日)

NHKの良心的な番組って、何ですか~”NHKが独自に入手した資料が明かす・・・”ドキュメンタリーの虚実

 

 ほんとうに、近頃は、NHKと民放のテレビ番組の区別がつきにくい。チャンネルを回して、数秒間見ている限りでは、民放のコマーシャルも入らないのでわからない。なんかどこかで見たことがある芸人たちが並んで、まん中にまたどこかで見たことのあるタレントが仕切っているような・・・。アナウンサーらしき人が真ん中にいても、あとの二人はタレントであったり、タレントを助けるアナウンサーの役だったりする場合もある。こんな番組、どこかの民放で見たことあると思ったらNHKだったということもしばしば。NHKは潤沢な予算と人員を擁しながら、恥も外聞もなく民放の番組をパクったり、民放で売れ始めたタレントを横取りしたりする。

 N国の出現に危機を感じたNHKが頼み込んだのか、政府が、NHKに恩を売ったのか。中谷一馬衆院議員(立憲)の質問への答弁書という形で、8月15日の閣議で、「受信契約が成立した段階で、受信料の支払い義務が生じる」などという閣議決定をした。受信料の支払い義務は、放送法上の根拠がない。これまでも「義務化」の立法を画策しているが、法律は成立していないことからしても、「受信料支払い義務」はあり得ない。そこのところを質問した議員もわかっていないし、応える閣僚たちの立法府・議会軽視も甚だしい。支払わない人対策はNHKに投げるほかない。スクランブル化についてはNHKの公共放送の性格からして、やるべきではない、とも。現在のNHK報道番組は、政府広報に堕していると言ってもよい。これまでも、番組編集や人事に政府の介入や圧力があった、NHKサイドから政府に忖度をしたという「事案」は数知れない。

  そんな中で、毎年八月になると、NHKスペシャルは、NHKが独自の資料を入手したとして、ブックトラックで恭しく運ばれた資料を、ときには手袋などして、番組担当者や研究者が、重々しく頁をめくる映像が流される。「これぞ超一級資料新発見!」として、既視感たっぷりに番組は始まる。資料と証言で編集されるものと思えば、物々しい再現映像がこれでもこれでもかと挿入されるのも、いつものパターンである。

 今年は、二つの番組を見た。

①NHKスペシャル「全貌 二・二六事件~最高機密文書で迫る~」(2019年8月15日、総合午後7時30分~(73分)再放送:2019年8月18日、午前0時35分

  これまでも謎が多い二・二六事件で、出てくる資料は陸軍側のものが多かったが、今回、海軍側の「最高機密文書」をNHKが入手したという。やはり、画面に大写しされたのは、「極秘」の印が押された赤表紙の資料で、二・二六事件発生後、リアルタイムで刻々集まってくる情報が記録されていた文書であった。1945年9月2日ミズリー号船上での降伏文書調印式に海軍側の随員として参加していた富岡定俊少将のもとにあった資料だったらしい。その辺のことは詳しく説明がないまま、番組は進む。調べてみると、富岡は、戦後、旧海軍大学校のもとに設けられた「史料調査会」に席を置き、戦史の研究にたずさわっている。ということは、もちろん資料は個人のものではない。本来ならば、防衛省防衛研究所戦史研究センターに保管されるべき資料ではないか。資料の公開が待たれる。

  陸軍側の皇道派の蹶起部隊の将校や幹部の意見の食い違いや変化を追うとともに、海軍側に集まる情報と対策が克明に記されている資料による事態を明らかにしてゆく。反乱軍として鎮圧し、事態の収拾を図りたい天皇と海軍との連携が浮き彫りになる。海軍と陸軍の対立の構図がここでも強調されていた。しかも、海軍側の資料によれば、すでに事件の1週間前の2月19日には、蹶起が近く、そのリーダーの将校の名前など具体的に記録されていたことがわかる。ということは、海軍側は、事件発生は予想できたにもかかわらず、放置、傍観していたことになる。というよりは、海軍による鎮圧まで計画していたというから、いずれにしても、1936年以降、この事件を利用して、軍部、天皇による軍国化・天皇神格化が一挙に進んだことになる

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 相変わらずのドラマ仕立てで、蹶起部隊と陸軍幹部、陸軍と海軍、天皇との「攻防」の苦悩や緊張感のみが高められる形で進めようとする番組という印象が免れず、この時代の軍部や天皇の核心に迫る姿勢が感じられなかった。

 

②NHKスペシャル「昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録『拝謁記』」(総合2019年8月17日午後9時~(59分)再放送

 17日当日の「ニュース7」のトップが、なんと「昭和天皇 拝謁記<象徴天皇>初期の模索明らかに」というこの番組の宣伝を長々と放映していた。16日前日の「ニュース7」でも、「昭和天皇『拝謁記』入手 語れなかった戦争への悔恨」として、この番組の宣伝がかなりの時間放映された。ほかにも伝えるニュースはあったはずである。この連日のキャンペーンには、どこか不穏な臭いもする。ただの「八月ジャーナリズム」に終わらないような気もする。

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敗戦後の宮内府長官田島道治の昭和天皇「拝謁記」が、遺族から提供されて、初めて公開されたのだという。田島が、天皇とGHQ・マッカーサー・首相らと間の仲介役であったことは知ってはいたが、「拝謁記」があることは知らなかった。にわか勉強と原武史のツイートなどにより、以下のことを知ったのである。

原は、8月16日のツイートで以下のように綴る。
「またNHKが「独自」と称して宮内庁長官田島道治が昭和天皇の肉声をメモしていていた膨大なメモが見つかったとするニュースを長々と流していたが、今日のニュースを見る限り、加藤恭子『昭和天皇と田島道治と吉田茂』(人文書院、2006年)ですでに明かされたこと以上の発見はほとんどなかった。」

また18日には、以下のようにもツイートしていた。
「学者の世界では、先行研究ですでに明らかにされていることをきちんと踏まえた上で、新たな史料によってわかった知見は何なのか、その範囲をくっきりと浮かび上がらせることが求められる。連日のNHKのキャンペーンは、このルールを全く無視しているようにしか見えない。」 

  私などが、ぼんやりと感じていたことを、原は、研究者として的確に言いおおせていたと思う。私は、加藤恭子の『昭和天皇と田島道治と吉田茂』は未見であるが、ネットで以下のような資料に出遭った。加藤恭子のある研究会での報告であるが、彼女は、田島道治の上記伝記執筆を依頼されて、遺族とともに大量の文書と日記を苦労しながら解読作業をしていることが分かる。その成果が、前掲書にも記されているのだろう。「拝謁記」と名付けられての執筆記録なのか、日記に拝謁記録が混じっているのかが不明で、加藤が読んだものとの関係も一切触れていない。加藤の「報告」で1952年5月3日の「独立式典」でのスピーチ草稿の経緯は、はっきりしていた。だから、<初公開>とか<秘録>と言えるのかとも思う。NHKの番組のために編成された?解読研究プロジェクトのチーフでもある古川隆久も、自著『昭和天皇』(中央公論社 2011年)で、加藤の資料は「田島日記」として引用している。<第一級>の<新資料><独自資料>を裏付けようとするために、研究者の言を拾うのはNHKの得意とするところでもある。原のツイートでの怒りがわかるような気がした。

*加藤恭子研究会報告(2003年)file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/XLUAEPA6/50kato_k.pdf

 ところで、番組が伝える中身なのだが、「拝謁」部分の会話は、あくまでも密室でのやり取りであって、その信ぴょう性にも言及する必要があるのではないか。そこを素通りして、天皇と田島のやり取りが、俳優二人によって「信頼厚く、誠実で」あり続ける演技が展開されるのである。昭和天皇を演じた俳優には気の毒だが、「人柄を滲みださせようとする演出」は、過剰にも思われ、無理がある。

  昭和天皇が過去の戦争への「反省」にこだわるのは、当然のことではあり、その上、多くの国民を他国の人々を犠牲にしたという自覚があったからだと思うが、吉田茂首相によっての削除を結果的に認めてしまうほどの「反省」ではなかったか。すでに「下剋上」の世界では自分の意見を言えなかったといった主旨の言い訳は、「反省」や「悔恨」とは真逆の認識ともいえよう。東京裁判終結後も「退位」云々に触れ、「退位した方が気が楽」とも語ったとされているが、むしろ、東京裁判後の「安心感」からでた「愚痴」の域を出なかったのではないか。

その後の「沖縄メッセージ」隠蔽工作、戦争責任「ことばのアヤ」発言などとの整合性などを思えば、「発言」や「言葉」の軽々しさはぬぐいようもない。

現代においても、天皇の「おことば」の一語一語の過大評価が横行しているが、意味がないばかりか、評者自身の自立性すら疑いたくなるほどである。

文句ばかり言うのなら、見なければよいのだが、やはり「短歌と天皇制」について、考え続けている身としては、はずすわわけにはいかなかったのである。

 

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2019年8月17日 (土)

はじめてのオランダとハンブルグへのへ旅は始まった(11)ハーレムへ

  アムステルダム中央駅9時17分発、ハーグ行きでハーレムへ、途中のライデンでは、学生たちの乗降が多い。20分弱でハーレム着、ホームや駅前も何となく閑散としていた。

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ホームの階上には、木造の待合室か。


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地味なたたずまいのハーレム駅舎、駅前の花屋さんが店開き。

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新しそうな銅像だが、ガイドブックによれば、オランダ独立戦争、80年戦争(1568~1648年)時代、ハーレムの知事だったヴィッグボルト・リッペルダ男爵と防衛隊の女性の銅像だという。

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駅から、クライス通りを進んで、路地に入ると、ユダヤ人をかくまった町の時計屋さん、その隠れ家は、いまは、コリー・テンボーム博物館となって、公開されている。私たちが訪ねた時は、どうも閉館中らしく、ツアーの人たちがガイドさんの話を聞いているところだった。

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グローテ・マルクト広場と聖バッフォ教会、立派なパイプオルガンがあって、ヘンデルもモーツアルトも演奏したという。中も見学したいところだが、先を急ぐ。フランス・ハルス美術館もスルー。

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市庁舎の観光案内所で、1ユーロの地図を買い、テイラー博物館への道を教えてもらう。日本からですかと、歓迎される。

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広場の裏手はすぐ川になっていて、跳ね橋が見える。係員がひとりいて、通行人や自転車は、橋が上がると赤信号で待つ。

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垂直に立った橋、小さな船が過ぎてゆくのどかな風景。

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実は通り過ぎていた、目当てのテイラー博物館、右手中央の黒い建物だった入り口は狭いが、中の広さと豪華さに圧倒される。

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博物館のフロアガイドとハーレム、私たちが歩いたところ。↓下はテイラー博物館のホームページ・

https://www.teylersmuseum.nl/en/teylers-museum#/en/frontpage/walter-isaacson

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ここでもレンブラントの特別展が5月から開催中で、多くのデッサンが展示されていた。

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博物館のカフェのアップルケーキもおいしかった

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これは「デンハーグの花市」、ヨハネス・クリスティアーン・クリッケンベルグという画家の作品ということが、絵葉書で分かった。

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風車の変遷を示す展示も。

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コレクションの主、銀行家のテイラー(1702~1778)の肖像、絵画ばかりでなく、化石から始祖鳥、万物?の歴史をたどる展示物。とくに失われがちな古い道具や機械類の収集にも圧倒される。

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テイラー博物館からスパーネル川に沿って歩いていくと、大きな風車が見えてきたが、ここも博物館になっていて、見学には20分はかかるということで、パスすることに。途中にあった警察署に寄って駅までの道を尋ねると、川沿いの道から、線路沿いの道へ左折せよとのことで、人っ子一人通らない広い炎天下の道を歩きに歩いて、30分?ハレーム駅に着いた。アムステルダムに戻る予定が大幅に遅れてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年8月14日 (水)

 「表現の不自由展・その後」展(あいちトリエンナーレ2019企画展)への公権力介入による中止への抗議と再開を求める署名、今なら間に合います。 

 河村名古屋市長と大村県知事へ提出する署名です。今晩、夜中の12時が第一次締め切りです。ご賛同いただけるようでしたら、ネット署名、よろしくお願いいたします。こちらは、メッセージも記載できます。提出分以外は、名前は公表しませんので、他の方のメッセージもお読みの上、ご記入ください。

ネット署名(入力フォーマット)→  <https://t.co/frbAafjYcq> http://bit.ly/2YGYeu9

署名集計並びにメッセージ ➡ http://bit.ly/2LZz0RR

 用紙署名の方は、今日の局留めで締め切りです。昨日は休み明けだったため、郵便局には一日で2600筆近くが届いていました。開封の手伝いをしたのですが、おひとりで数百筆集めてくださった方も、おひとりの署名を速達で送ってくださった方もと様々です。署名用紙と共に、封筒から出てくる長文のメッセージや一筆箋での励ましの言葉、一通一通、一筆一筆の熱い抗議の思いが伝わってきます。

台風10号のさなかの?名古屋、8月15日に、県庁・市役所へ、発起人の3人が届け、記者会見の予定だそうです。ご協力お願いいたします。

<8月15日付記>本日夕方の朝日デジタル報道です。記者会見にはほかに数社か来ていたようですので、明日の朝刊等ご留意ください。

「不自由展、再開求め申し入れ 学者ら『屈してはならぬ』」

  <https://www.asahi.com/articles/ASM8H578QM8HOIPE012.html> https://www.asahi.com/articles/ASM8H578QM8HOIPE012.html

 

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2019年8月13日 (火)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(10)ハーグ国際裁判所へ

 世界史でよく聞く、ハーグ条約、国際裁判所・・・ 、正式には「国際司法裁判所」と呼ぶらしく、裁判所一帯を「平和宮」とも、ガイドブックにはあった。夕方6時近いのに、日差しは強い。

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門の外からの見学だったが、日本語を話す母娘さんがいらしたので、どちらからですか、と尋ねると「カナダからです」とのことだった。

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駅へ向かう帰り道、どうしたわけか中華街に迷い込んでしまった。

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ようやくたどり着いたデン・ハーグ中央駅だった。

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 この日の夕食は、アムステルダム中央駅にある、カフェ・ファーストと決めていた。かつて、列車の一等席の客専用の待合室だったところが今はカフェになっている。なかなか風情のある店内で、写真ではやや見づらいが、正面に三個の時計が掛けられている。真ん中がアムステルダム、右が東京の時刻が示され、時差がわかるようになっていた。地元のグループやカップルも多いようで、看板鳥なのか、カウンターの脇でオームがはしゃいでいた。チーズと野菜たっぷりのサラダとパンで、もう十分という感じだった。ビールのおいしかったこと。この日、21705歩。

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カフェ・ファーストから階段を降りると、こんなスペースもある駅だった。

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はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(9)デン・ハーグ市立美術館のモンドリアン

 ハーグ歴史博物館を素通りして、次に向かったのがハーグ市立美術館である。ここでのお目当ては、モンドリアンコレクションだった。モンドリアンといえば、色鮮やかな幾何学模様の絵がスカーフになったり、さまざまな商品のデザインに取り入れられているので、ご存知の方も多いだろう。私はどういうわけか、1960年代の終わりころ、モンドリアンに出会って衝撃を受けてしまったのだ。私の第一歌集『冬の手紙』(1971年)の「あとがき」は、つぎのような書き出しである。

「モンドリアンの抽象に出遭ったとき、あの冷徹さに戸惑いながら惹かれていったのはなぜだろうかと考えています。そこには猥雑なものをいっさい拒否しようとする、ひとりの人間の生き方の美と思想があると思いました。この画家の幾何学的構成にいたる過程は、<樹木>連作が雄弁に語っています。さらに光と影から解放された垂直と水平の世界の展開を見せられたときの感動を忘れることができないでいます。主観的な表現を極度に排し、求めてやまなかったものはなんであったろう。・・・」

 なんとも気恥ずかしい書きぶりであるが、モンドリアンの絵画の出発が、「彼の生地、オランダの日常的な海であり、砂丘であり、なんの変哲もない一本の樹木であったのです。対象にはひと一倍鋭い感受性とこまやかな愛情を重ねていた時期は決して短くはありませんでした」ということを知って、自らを省みたという顛末を記していたのである。そのモンドリアンに、このデン・ハーグで、会うことができるのである。1987年の夏、池袋の、今はなくなってしまった「西武美術館」でのモンドリアン展には、その頃暮らしていた名古屋から見に来た記憶がある。まとめてみるのはそれ以来か。その後、私の、暮らしや短歌においても、モンドリアン熱は冷めたけれども、やはり懐かしい。

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ハーグ市立博物館、左右に人工池を見て、進む。

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入場券は、エゴンシーレ(1915)で、パンフの表紙はモンドリアン(1908)であった。入場券は16€。

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手前が、「明るい色による市松模様のコンポジション」(1919年) 

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左が「ドンブルフの風車」(1909)、右が「赤い樹木」(1908~10)

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 パンフレットより:モンドリアンのオランダ時代、パリ時代、オランダ帰還時代、ニューヨーク時代の作風の変遷を簡単にたどっている頁もあった。

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「モンドリアン展」(1987年7月25日~8月31日、西武美術館)パンフの表紙より。上段「樹Ⅱ」、中段「灰色の樹」、下段「花咲くりんごの樹」、いずれも1912年制作。

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思いがけず、モネにもモランディにも出会えた。

 

 

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2019年8月12日 (月)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(8)マウリッツハイス王立美術館へ

 ビネンホフに接する池に沿う中世の建物は超高層ビルを背負っていた。美術館は意外にこじんまりした外観だった。受付には、日本の若い女性もいらして、にこやかに迎えてくださった。

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レンブラントの「自画像」(1669)とフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」(1665)に出迎えられて

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アムステルダム―デン・ハーグ乗車券と美術館チケットとフロアガイド。

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ヨハン・マウリッツ(1604~1679)像。大航海時代、オランダは、ブラジルを制し、マウリッツは 総督として1644年まで務めたのち、デンハーグのこの地の邸宅に住む。砂糖貿易で大儲けをして建てたとして「砂糖の館」と中傷もされたらしい。邸宅は、オランダ王室に買い取られ、ウィレム五世が築いた絵画のコレクションは、オランダ政府に寄贈された。その後もナポレオン時代のフランスに渡ったりして受難は続いたらしい。それにしても、見聞きしてきた名画が多く、ここでも時間が足りないほどだった。

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ルーベンスの「ローソクを持った少年と老婆」に思わず立ち止まった。

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上はフェルメールの「デルフトの眺望」(1660~61)、下がロイスダールの「ハーレムの風景」(1670 ~75)。今回デルフトは訪ねることはできなかったが、ハーレムは翌日訪ねることにしていた。どちらも雲の描写がすばらしい。フェルメールの絵の前で、夫に写真を撮ってもらおうとうろうろしていると、地元の?年配の男性から一緒にとってあげるよと言われて収まった。旅行中二人の写真というのは貴重なのだけれど、後で見ると、ともにお疲れ?の様子だった。

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美術館から、歴史博物館を望む。この博物館にもモンドリアンの絵などもあるはずだったが、時間の関係で素通りになってしまった。

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館内のカフェで、私はクリームパスタ、夫はコロッケのランチとなった。

 

 

 

 

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2019年8月 9日 (金)

「女性作曲家ピアノ曲マラソンコンサート」に行ってきました。

 おそらく、荻窪の駅に降りるのも、杉並公会堂も初めてのはずである。荻窪駅北口から青梅街道の賑わいはかなりのもので、駅に隣接する商業施設から始まり、歩いて7・8分の間にスーパーやコンビニ、ドラッグストアなどが複数あり、個人商店も健在の中、池袋の商店街育ちの私には、何となく気になるところ。コンサートの開場には少し間があったので、ショーウィンドーをのぞいたり、中に入ってみたり・・・。池袋にしても、いま住んでいる佐倉の街も、「商店街」は年々寂しくなってきているので、なおさらである。

 今日のコンサートは、知られざる作品を広める会主催の女性作曲家のピアノ曲“マラソン”だという。会は、谷戸基岩さん・小林緑さん夫妻の進行で行われた。理屈はともかく?谷戸さんのリラックスして楽しんでくださいの言葉通り、楽しいコンサートだった。クラシックの世界に、こんなにも魅力的な女性作曲家がいたというんだということをに素人の私でも少しづつわかってきたような気がする。学校の音楽室にいまだ彼女らの肖像画は飾られることがないようなのだ。

 8月8日は、セシル・シャミナード(1857~1944)の誕生日だそうだ。フランスのサロンでは「小さなモーツァルト」とも呼ばれていたそうだ。この日の午後の部でも、アラベスク、スカーフの踊り、ピエレット、森の精が四人のピアニストにより演奏された。また、バダジェフスカの「乙女の祈り」の本格的な演奏は初めて聞いた。姉妹篇とも呼ばれる「叶えられた祈り」とあわせて、エミィ轟シュワルツさんの甘いだけではない硬質な演奏が心地よかった。最後がノルウェーのグレンダールの「夏の歌」、夫も今日のコンサートの楽しみの一つだったのだが、所用のため来られなかった。

 

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2019年8月 6日 (火)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(7)ハーグへ

  オランダの国会議事堂も王宮も、アムステルダムではなく、ハーグに、デン・ハーグ(というらしい)にある。それに、目当ての美術館もあるので、一日かけて出かけることにした。

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アムステルダム中央駅、9時34分発より9時49分発の方がデンハーグには先に着くはず。

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インターシティの車窓から。下は、帰路の車窓から、風力発電の風車が当たり前の景色になっていた。

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デンハーグ中央駅からメインストリートを進むといきなり高層ビルが。高いクレーンが交差していて、まだまだ建設たけなわのようであった

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ライデン大学ハーグキャンパスがこんなところに

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こんなところに荒物屋さんが、日本では見かけなくなってしまったが。ちょっと寄ってみたいような。道案内の矢印➡が頼りなのだけれど、結局観光案内所にはたどり着けず、国会議事堂を目指す。

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迷い込んで、工事の人にビネンホフはどこか、と尋ねると怪訝な顔をして、この辺全部だよ、と。そして現れたのが、右の「騎士の館」国会議事堂だった。あたりに警備の警官が立つでもなく、のんびりした中庭である。日本の、あの警備は、いったい何を恐れているのだろう。たしか、ベルリンの国会議事堂前の広場だって、実に和やかで開放的だったが。

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トラムの通り側から議事堂を望む。

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池のホフフェイファから13~17世紀の中世の建築群を望む。この右手の奥がマウリッツハイス王立美術館のはずである。鳩を見守るのは?

  

 

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