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2019年9月14日 (土)

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(3)「地理の書」の改作と削除

 

「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。」のリフレインのある「樹下の二人」(1923年3月11日作『明星』同年4月)も、そうなのだが、「葱」(1925年12月28日作、『詩人俱楽部』1926年4月)という短い詩の前半にも見るように、光太郎の詩には地名がよみ込まれている作品が多い。

「葱」
立川の友達から届いた葱は、
長さ二尺の白根を横(よこた)へて
ぐっすりとアトリエに寝こんでゐる。
三多摩平野をかけめぐる
風の申し子、冬の精鋭。
(後略)

 光太郎は、地図帳に親しみ、地理好きの人間なんだな、くらいの思いだった。智恵子は1938年10月に亡くなるのだが、1937年辺りからの作品になると、たんなる地理好きとは違う様相を呈してくる。1937年7月7日盧溝橋事件を機に、全面的な日中戦争に入り、1938年4月国家総動員法公布とともに言論思想統制はますます強化され、作家の従軍、戦争文学隆盛の時代に入った。ちょうど、その頃、光太郎は「地理の書」(1938年5月9日作、『改造』同年6月)を発表している。私は、かつて入手した大政翼賛会文化部編のアンソロジー『朗読詩集地理の書他八篇』(翼賛図書刊行会 1941年7月)で「地理の書」を読んだ。また、最近、光太郎の単独詩集『大いなる日に』(道統社 1942年4月)を入手した。いわゆる「戦争詩」と言われる「秋風辞」(1937年9月29日作)で始まり、「昭南島に題す」(1942年2月20日)というシンガポール陥落をよんだ作品で終わる37篇を収録した詩集である。

「地理の書」
深い日本海溝に沈む赤粘土を壓して
九千米突の絶壁にのしかかる日本島こそ
あやふくアジヤの最後を支へる。
崑崙は一度海に没して又筑紫に上る。
両手をひろげて大陸の没落を救ふもの
日本南北の両彎は百本の杭となり
そのまん中の大地溝(フォッサマグナ)に富士は秀でる。
(中略)
稲の穂いちめんになびき
人満ちてあふれやまず
おのづからどつと堰を切る。
大陸の横壓力で隆起した日本彎が
今大陸を支へるのだ
崑崙と樺太とにつながる地脈はここに尽き
うしろは懸崖の海溝だ。
退き難い得意の地形を天然は
氷河のむかしからもう築いた。
これがアジヤの最後を支へるもの
日本列島の地理第一課だ。
(「大いなる日に」道統社1942年4月。『朗読詩集・地理の書他八篇』大政翼賛会文化部編 翼賛図書刊行会 初版1941年7月27日、1942年10月10日修正再版)

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『大いなる日に』の「地理の書」の冒頭部分。

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『髙村光太郎全詩稿』より。「地理の書」の冒頭部分。
  Img292

 

『髙村光太郎全詩集』の「地理の書」冒頭部分。

 「地理の書」は、65行に及ぶ長い詩だが、「日本列島の地理第一課だ。」という最後の一行でも明らかなように、日本列島の成り立ちや地形・位置を事細かに、執拗に語り続ける。私なども中学校の社会科や理科で習ったが、大方忘れかけている用語がふんだんに使用されている。当時の中学生や青年たちが学んだばかりの知識がちりばめられていて、刺激にもなったろうし、大人たちにとっては、妙な説得力を持つ内容であったのではないか。先の朗読詩集の「地理の書」には、編者の大政翼賛会文化部によると思われる、つぎのような解説文が付されていることからも、作者光太郎の意図も大政翼賛会がこの詩の普及に努めたのも、大陸進出の必然と正当化をもくろんでいたことは確かであろう。

「これは日本列島の地理地形の説明にことよせて、われわれ民族の性格と運命と決意をうたつた詩であります。地質地形の術後は中学校程度のものに限つて使用してあります。国土の位置や気候風土の特色によつて、われわれ民族の特質美点も形づくられ、又それがおのづから世界に対するわが国の使命となつてあらはれて来ます。日本が太平洋にアジヤの最東端に在ることの意味を思ひめぐらしてみませう」

 今回、北川太一による『髙村光太郎全詩集』(新潮社 1966年)を繰っていて、この詩に目を止めたところ、「えッ?」と驚いたのである。その1行目が「深いタスカロラ海溝に沈む赤粘土を圧して」となっていたのである。「日本海溝」が「タスカロラ海溝」になっているのだ。
 北川太一『髙村光太郎全詩稿』(タブロイド判の2分冊、厚さ8センチの箱入り豪華本、重い!)の解説も慌てて読んでみると、どうも、『改造』の初出は、「タスカロラ」で、『大いなる日に』に収録する際に、「日本」と変えたが、北川は『髙村光太郎全詩集』収録の際に初出に戻した、ということらしい。「タスカロラ」はどこかで聞いたことがあるが、今回、調べてみると、宮沢賢治の『風の又三郎』には「タスカロラ海床」として登場していたのだ。光太郎は賢治を敬愛してやまなかったから「タスカロラ」を使ってみたかったのかもしれない。そもそも「タスカロラ」は海溝ではなく、カムチャッカ・千島海溝の南端部に9000m近い「海淵」があるのを、アメリカ人が1873年発見し、その船の名の「タスカロラ」号から名づけられたという。だから、カムチャッカ・千島海溝の南端近くにあるのが「タスカロラ海淵」で、「日本海溝」はそれに続いて日本列島に沿う位置にあり、まるで別物なのである。2行目にある「九千突米」の「突米」はメートルのことで、フリガナがふられている詩集もある。日本海溝は、最深部でも8000mであって、9000mの絶壁も存在しない。

 1942年4月発行の『大いなる日に』への収録にあたって、なぜこんな改変をしなければなかったのだろう。日本列島の成り立ちから言って、どちらが学術的に正確なのか、私にはわからないのだが、「タスカロラ海溝」という用語自体は、あまり正確でないことに気づいてなのか、それとも他の理由によるものかを考えてみた。   
 前年の12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争は始まり、日本放送協会が開局翌年1926年から続けてきたラジオ英語講座は12月8日の朝を最後に中止され、年末にはアメリカ映画の上映が禁止された。「敵性語」であるということから、1942年4月1日から、ラジオアナウンサーが「放送員」と改められた(ちなみに、1943年4月1日からはニュースが「報道」と改称している)。さらに、1942年7月8日文部省通達により高等女学校での「英語」は、随意科目となり、時間は減らされている。43年2月からは、カタカナ雑誌名の改題が続いた。『キング』が『富士』(1942年2月~)に、『エコノミスト』が『経済毎日』(1943年2月~)に変更されたことなどがよく知られている。学校名や会社名なども続々とカタカナ名を日本語に改められた。

 光太郎が『大いなる日に』の「序」を書いたのが1942年3月、「支那事変勃発以来皇軍昭南島入城に至るまでの間に書いた詩の中から三十七篇を選んでここに集めた。ただ此の大いなる日に生くる身の衷情と感激を伝へたいと思ふばかりである。」とある。その前月の2月15日にはシンガポールが陥落し、光太郎も、これを主題とした三篇の詩を作り、すべて収めた。

「シンガポール陥落」
シンガポールが落ちた。
イギリスが砕かれた。
シンガポールが落ちた。
(中略)
大英帝国がばらばらになつた。
シンガポールが落ちた。
つひに日本が大東亜を取りかへした。
(後略)

 この詩の末尾には、1942年2月12日に「A・K〈東京放送局〉に渡す」と記されている。ということは、「陥落報道」の前に、見込原稿というのだろうか、予定原稿というのだろうか、事前に用意されていて、陥落報道の翌日2月16日は、陥落祝勝放送や新聞報道が満載の中、この詩が朗読放送(山村聰)されている。また、「夜を寝ねざりし暁に書く」も陥落をテーマにした詩である。

「夜を寝ねざりし暁に書く」
あのざッ、ざッといふ音は何だ。
あの轆轆たるとどろきは何だ。
あの堂堂として整然たるひびきは何だ。
(中略)
シンガポールだ。
皇軍シンガポール入城の耳がきくのだ。
堂堂として整然たるあのひびきの中に
一切の決意と栄光がある。
(後略)
(1942年2月18日作、『朝日新聞』同年2月21日掲載の際には、「戦捷の祝詩―夜を寝ねざりし暁に書く」となっている)       

 同年2月27日には「戦捷の祝詩」としてラジオで朗読放送(北沢彪)されている。陥落直後、シンガポールは「昭南島」と名付けたことを受けたのだろうか、光太郎は、2月20日には「昭南島に題す」として制作、『週刊朝日』3月8日号に発表したのがつぎの誌面である。

Img289

『週刊朝日』1942年3月8日号から。

 また、「地理の書」に戻るのだが、カタカナの言葉が、和語に改変している個所がもう一つあった。六段落目の最初の一・二行に「水蒸気この島にヴエイルをかけ/天然の強もてを中和する」とあるのが、『大いなる日に』では「ヴエイル」が「ぼかし」に直され、「強(こは)もて」が「恐(こは)もて」と漢字が直されていた。後者のような修正は、詩集収録の際にはよく見られるケースで、カナふりを加筆したり、漢字をカナに変えたり、その逆などもよく見られるのだが、前者の直しは、いささか気になるのは、「日本海溝」に直したのと同様、前述したように、「敵性語」排除の大きな流れの中での配慮ではなかったのか、と考えられるのである。

   なお、敗戦後1951年から、『髙村光太郎選集』全6巻(中央公論社)が出版されたが、第1巻・2巻に詩が集められた。そこの収録された「地理の書」からは、 最後の段落の前半の5行が削除されている。この選集の編者は、明確ではないのだが、草野心平があたったとされ、光太郎自身も校閲に携わっている、という。繰り返しになるが、削除されたのは以下の5行だった。

稲の穂いちめんになびき
人満ちみちてあふれやまず
おのづからどつと堰を切る
大陸の横圧力で隆起した日本彎が
いま大陸を支へるのだ。
                                                                                         

   この稿では、「地理の書」を中心に、戦時下での書き換えや敗戦後の削除の一例を見てきた。こうした一件は、髙村光太郎においてどのような意味を持つのか。敗戦後、出版した詩集『典型』(中央公論社 1950年)の自序において、戦時下を振り返ってのことなのだろう「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたかを見た。そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、ひとつの愚劣の典型を見るに至つて魂の戦慄をおぼえずにゐられなかつた。」と述べ、そこに収録された20篇の「暗愚小傳」をもって「自省」したとした髙村を高く評価する流れも検証してみたい。

 

 

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