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2019年9月24日 (火)

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(7)敗戦後、天皇をどうよんだか

 光太郎は、前述のように1950年に『典型』という詩集を出版し、敗戦後の詩作品をまとめた。そこには、「暗愚小伝」という題でまとめられた20篇からなる詩があり、これは、雑誌『展望』の1947年7月号に一挙に掲載されたものである。これらの詩を念頭においてだろうか、光太郎は『典型』の「序」において「昭和二十年十月私がこの小屋に移り住んでから以降の作にかかるものであり、それ以前の作は含まない。終戰直後に花巻町で書いたものや、ここに來てから書いたものでも、その頃の感情の餘燼の殘つてゐるものははぶいた。それらのものは、いはば戰時中の詩の延長に過ぎないものであるからである。」とも書き、「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたかを見た。そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、ひとつの愚劣の典型を見るに至つて魂の戦慄をおぼえずにゐられなかつた。」と。さらに、敗戦後五年間の「これらの詩は多くの人々に悪罵せられ、軽侮せられ、所罰せられ、たはけといわれづづけて来たもののみである。私はその一切の鞭を自己の背にうけることによつて自己を明らかにしたい念慮に燃えた。その一切の憎しみの言葉に感謝した。」とも記す。当初は、この潔さに着目したのだが、実際に収録された作品やその後の戦争詩への扱い方について知るに及び、大きな疑問が残ったのである。
 「暗愚小伝」については、多くの詩人たちが、いわゆる戦争詩について、光太郎ほど「自省」をした文学者がいただろうか、との高い評価をしていることや私自身の読み方については、別稿に譲るが、ここでは、他の作品にも触れてみたい。 

「東洋的新次元」
東洋は押石(おもし)のやうに重く、
東洋は鉄鍋のやうに暗い。
君主と英雄と先輩と親分とは
六千年の昔から頭上にあつて人を圧し、
人は虫けらとなつて営営なほ且つ痩せた。
この伝統が何に由るかを知らず、
しかもこの伝統は争ひ難い習性となつて、
千百の変貌をとげながら
綿々として今も尽きない

東洋の民の吐息は詩となるほかない。
詩は弁論の矛を持たない。
詩はただ訴へる。
東洋の詩人は民の吐息を総身にあびる。
(後略)
東洋はのろいが大きい。
東洋的新次元の発見は必ず來る。
未見の世界が世界に加はる。
東洋の美はやがて人類の上に雨と注ぎ、

東洋の詩は世界の人の精神の眼にきらめくだらう。
(後略)

(1948年8月21日作。『知識人』1948年11月、『典型』収録)        

 「詩集」の中で11頁にも及び100行に近い長詩ながら、「東洋の美」は絶対で、熱が入れば入るほど揺らぎを見せない。疲弊している敗戦後の、占領下の日本国民を励まそうとでもいうのだろうか。「東洋の美」も「東洋的新次元」の実態や具現の方向性もない。「民の吐息を総身にあびる」という詩人としての自負というか、エリート意識が顕著にも見える。戦時下の、この詩人の意識と変わらない。もっとも、光太郎自身も、この詩集の中で、つぎのように明言している。

「月にぬれた手」
わたくしの手は重たいから
さうたやすくはひるがへらない。
手をくつがへせば雨となるとも
雨をおそれる手でもない。
(後略)
(1949年10月10日作。『大法輪』1950年1月、『典型』収録)

「鈍牛の言葉」
(前略)
おれはのろのろのろいから
手をかへすやうにてきぱきと、
眼に立つやうな華やかな飛び上がつた
さういふ切りかへは出来ないが、
おれの思案の向ふところ
東西南北あけつぱなしだ。
(後略)
(1949年11月2日作。『群像』1950年1月、『典型』収録)

 後者の「鈍牛の言葉」の中には「今こそ自己の責任に於いて考へるのみだ。/随分高い代償だつたが、/いまは一切を失なつて一切を得た。」という個所もある。また詩集の題名にもなった「典型」(1950年2月27日作。『改造』1950年4月、『典型』収録)は、「今日も愚直な雪がふり/小屋はつんぼのやうに黙りこむ。小屋にいるのは一つの典型、一つの愚劣の典型だ」で始まり、「典型を容れる山の小屋、小屋を埋める愚直な雪、雪は降らねばならぬやうに降り、一切をかぶせて降りにふる。」でおわる。これらのフレーズの中の「一切」がキーワードではないのか。「典型」の結句「一切をかぶせて降りにふる」と「たやすくはひるがえさない手」とに通底するものは何なのか、を考えてみる必要がある。戦争詩でも数多く登場する「一切」などという言葉は、断定を伴い、論理性を排除する言葉だけに「たやすく」使用すべき言葉ではないはずなのだが。
 どうしても「暗愚小伝」の作品にも触れなければならない。20篇の詩の最初は、「土下座(憲法発布)」なのだが、これは、1883年生まれの光太郎が、1889年2月11日大日本帝国憲法発布の翌日、上野行幸啓の祝賀行列のときの天皇体験を綴ったものである。誰かに背負われて行列に近づいたが、人波をこじあけて、一番前に出て「土下座」をさせられた、というわけである。

「土下座(憲法発布)」
(前略)
錦の御旗を立てた騎兵が見え、
そのあとの馬車に
人の姿が二人見えた。
私のあたまはその時、
誰かの手に強く押へつけられた。
雪にぬれた砂利のにほひがした。
―眼がつぶれるぞ―

 その後の日本の戦争体験と父親らの天皇体験を重なり合わせ、自らの海外体験、デカタンスな生活、智恵子との出会いと別れも綴られ、日中戦争における厳しい戦局のさなか、太平洋戦争に入ると、詩人としての大政翼賛にのめりこんでいく過程が描かれる。詩によって、いわば敗戦に至るまでの「精神史」を形成したとされる。
 「真珠湾の日」と題する作品には「天皇あやふし。ただこの一語が私の一切を決定した。」とある。また、「終戦」では、つぎのように綴られているが、「六十年の重荷」と認識されていた「天皇」から解放されたのだろうか。Img295
「終戦」の前半、3頁目は省略している。『記録』より。

 ここで、吉本隆明の「高村光太郎」を開いてみると、彼は、髙村光太郎の戦争責任のつきつめ方をつぎのように分析する。「戦争責任というものに軽重があるとすれば、髙村光太郎のそれはもっとも重いかもしれなかった。髙村が、内的な世界にどのような過剰な要素をかくしていたとしても、公的な文学活動によって、いいかえれば大衆にたいする影響によって裁断するとき、戦争への没入は、たれよりも強く、かくれがなく、大きな影響を与えた」ことを前提に、「天皇(制)にたいするもの、大衆への影響、自身の思想にたいするものに分けてかんがえることができる」(「髙村光太郎論」『吉本隆明全著作集8』勁草書房 1973年166頁)とする。「天皇(制)」の問題は、光太郎にとって、天皇崇拝の父髙村光雲を持つ出自もあり、あくまでも「骨がらみの内的な問題」であって、思想の問題とはなり得ず、「意識のなかで、ひきずり落としたのではなく、ただ、追いはらったにすぎない」という(前掲書172頁)。
 吉本は、別の論稿で、光太郎の戦争詩は「自我意識に固執しながらも、もっとも典型的に日本的な近代性と庶民性との綜合された性格」をもつとした。日本人の自然観が伝統的な感性を掘り起こすことによって「必然的に絶対主義的な天皇制によって推進された戦争の肯定、讃美、プロパガンダに入った」とし、「近代意識の庶民的な意識への接着から庶民意識を超越的な論理をもちいて積極的に意味づける過程」として捉えている(「詩人の戦争責任論」『吉本隆明著作集13』 勁草書房1969年。468~469頁)。
 しかし、私は、吉本のいう光太郎の「庶民的な意識への接着」にしても、このシリーズの記事でも触れた中村稔が『髙村光太郎の戦後』でも強調していた暮らしや詩作の「庶民性」には、違和感を覚えざるを得ない。光太郎は、その出自や生育環境、海外体験、恋愛・結婚生活、詩人・彫刻家としての活動、敗戦後の花巻での山小屋蟄居生活をたどってみても、その作品をたどってみても、「庶民」というよりは、「庶民」とは隔絶した高みから、庶民を啓蒙、リードしようという意識が垣間見えてしまうのである。吉本のいう「超越的な論理」、すなわち「東方の倫理」「天然の叡智」「宇宙理法」「東洋の美」などという実体のない言葉で「煙に巻いて」いるようにも読めてしまうのである。

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