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2019年9月11日 (水)

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(2)「食」へのこだわり

 中村稔の新著『髙村光太郎の戦後』には、敗戦後の花巻市郊外での七年間にわたる山小屋蟄居生活が日記や書簡によって詳しく紹介されていた。今回の、髙村光太郎について読み始めた目的は、おびただしい数の戦争詩と敗戦後「暗愚小傳」として発表した20篇の詩(『展望』1947年7月、『典型』所収)との関係を知りたいためだったのだが、日記や書簡から見えてくる、光太郎の「食」へのこだわりに、まず驚いてしまった。

 光太郎は、1945年秋から旧鉱山の飯場小屋を解体・移築した山小屋暮らしを始めている。住まいの整備や日常的な手伝いや日用品、農産物などは、分教場の教員佐藤勝治はじめ部落の人々の厚意による提供であったし、疎開の当初から世話になっている宮沢賢治の主治医だった花巻病院長佐藤隆房、宮沢賢治の弟の宮沢清六からは手厚い支援を受けるほか、見知らぬ間ながら、ひたすら光太郎を敬愛す人たち、仕事上の出版社や編集者たちからの届け物は、頻繁にして多種多様なものであったことが、日記や書簡から明らかになる。その上、光太郎は自ら小屋の近くを開墾、畑とし、さまざまな作物を収穫している。それを、光太郎は、日記や書簡に、誰から何を、どのくらいの量かなどをこと細かく記録しているのである。

 例えば、県内宮古市の水原という中年男性からは、「スルメ四束、玉子1、バタ四半斤、馬肉百匁ほど、蠣一皿、タバコなどもらふ(日記1946年1月9日)また、カレイの大きなもの一尾、赤い魚キチジ五尾、イカ塩辛、煮干、アルミ鍋、引き回し鋸一丁、ペンチ一丁、タバコ、ランプの芯二本もらふ」(日記1946年3月21日)とあり、訪問は続く(40~41頁)。
 また、東京の椛澤ふみ子という若い女性との交流の中で、さまざまな、当時は貴重な品々が送り届けられているし、幾度かの訪問も受けている。彼女は、自作の詩を持参して、光太郎に聞いてもらっていたようだ。その詩を絶賛する手紙なども光太郎はしたためているが、その詩はどこにも残されていないという(88頁)。光太郎が、山小屋から彼女に送った礼状や近況報告の葉書と手紙は、80通ほどになるといい、これほど多くを、送ったのは、縁者の宮崎稔を除いては他にいないという(24頁)。彼女からは、1946年3月3日付の小包で、新聞のバックナンバーだろうか一束と、光太郎の3月13日の誕生祝ということで漢和辞典が届き、その礼状として2枚続きの葉書を出している。なお、光太郎の誕生祝い、智恵子の命日の墓参などにも気遣いを見せる椛澤との和やかな情報交換は続くが、中村は、一九四八年五月の訪問の記述を受けて、当時二十代の椛澤と光太郎との関係を、父と娘のような清潔な交際だったように見える、と述べている(124頁)。

 1946年、この年、春になれば、「地面の掘り起し、東側四坪になる。小屋前に、ササゲ(手なしササゲ)を一うねまく。堆肥人糞を基肥に入れる。尚胡瓜豫定のうねに人糞を入れおく。外にタンカル土にまぜる」(日記1946年4月23日)などの農作業も続く(57頁)。この後5月11日の日記に「詩の事。『余の詩をよみて人死に赴けり』を書かんと思ふ」とあり、後に触れる作品「わが詩をよみて人死に就けり」の構想ができあがりつつあったのだろうか。

 翌年1947年の正月には、分教場の先生から餅をもらい、2日には書初めをし、正月配給の酒5合で独酌をするが、2月には、唯一の親友だった水野葉舟の霊前には3百円の小為替を送り、『農民芸術』の「宮沢賢治研究」(1947年4月30日発行)の稿料500円のうち200円を返却、支援するといい、限定版(3000部)の『髙村光太郎詩集』(鎌倉書房 1947年)を編集した草野心平には、印税から1000円を小為替で送金するなど、気前の良さであった。「宮沢賢治研究」では、やはり賢治の食生活にも触れ、「雨ニモマケズ」中の「玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」の「食生活」を批判して、「私は玄米四合の最低から、日本人一般の食水準を高めたい。牛乳飲用と肉食とを大いにすすめたい。日本人の體格を數代に亙って改善したい」とも書いている。光太郎自身も、小岩井農場との関係者とも思われる人から、定期的にバターを入手する算段もしている。3月には、筑摩書房の竹之内静雄が「バタ、カマボコ、パン、かん詰一個など」(日記1947年3月6日)を手土産に訪問、「暗愚小傳」の打ち合わせにやってきている(78~79頁)。その年の『展望』7月号に「暗愚小傳」20篇が一挙に発表されたのは、本稿冒頭に記したとおりである。当初は、本人は30篇くらいとも書いていたが、20篇に落ち着いたらしい。前年の日記に登場していた「余の詩をよみて人死に赴けり」は、この20篇にも入っていなかったし、敗戦後の詩集『典型』にも収録されず、後に「わが詩をよみて人死に就けり」と改題された作品が『髙村光太郎全詩集』(北川太一編 1966年 新潮社)に収められるのである。この「暗愚小傳」が、光太郎の戦争責任の取り方、「自省」ではないかと議論の端緒にもなるのである。

 この「食」への執念について、吉本隆明は、「高村光太郎論」で、つぎのような分析をしている。「自分と、自然の整序があれば、その両者がスパークするとき美が成り立つという思想」に基づき、「美意識と生理機構の複合物としての食欲であった」(「戦後期」『吉本隆明全著作集8』勁草書房 1973年、183頁)とも。吉本らしい、小難しさではあるが、私などは、より平たく、光太郎の戦前の暮らしにおける西欧趣向やブランド信仰にも起因する飢餓感と結核も発症していた自らの健康・体調への不安からという現実的な背景を思うのだった。

 なお、偶然にも『歌壇』という雑誌の最新号(2019年9月)に面白い記事が載っていた(小山弘明「『明星』文学者、四季の食卓③髙村光太郎~苦しい中でも工夫して」)。執筆は、髙村光太郎連翹忌運営委員会代表である。「明星研究会」での報告の再録なのだが、興味深いものがあった。連翹忌運営委員会(代表)によるブログがあり、光太郎についての情報収集と光太郎顕彰に努めている。その顕彰のスタンスは別にして、私もずいぶんと参考にさせていただいている。
 報告は、光太郎の著作から食生活をたどるものであった。幼少期からの食生活から始まり、ニューヨーク、英仏での暮らし、父光雲からの仕送りと後半は海外実業練習生として農商務省からの給付も得ていたので、豊かとはいえないまでも、工夫もあって充実していたように見受けられる。智恵子との生活も、普通の夫婦とは違って、福島の実家にいることも多かった智恵子だったので、自炊は苦にならなかったらしい。 
 とくに、敗戦後の花巻での山小屋蟄居暮らしでの食生活は、前述の通りなのだが、配給の食料のほか、畑の野菜、部落の人たちの差し入れや漁港や東京からの到来もののほかに、牛肉やバターなどは苦労して調達していたようなのだ。
 
私の幼少時のわずかな疎開体験と比べてみても、光太郎の食生活は、途方もなく贅沢に思えた。千葉県の母の生家の庇の部屋に身を寄せた後、旧馬市場の管理人亡きあとの、つっかい棒のある傾いた家に移ってからの近隣農家との物々交換や家族総出の開墾生活に支えられた食生活であって、到来ものなどは望むべくもなかった。ふかしたオキナワ、タイハク、カボチャ、クズじゃがなどが主食といってよかった。父親がどこからか調達してきたサツマイモをリュックから取り出すのを見守った。ゴロゴロしたオキナワ(100号?)と聞くと少しがっかりした。ノウリン1号?、中が白っぽくて、少しは甘かったタイハク(太白)などの品種名を覚えている。美味しいとは言えないあの味は、今、ふかし芋やてんぷら、茶巾などで、紅あずまや金時を食するたびに思い出してしまう。

 『髙村光太郎の戦後』の中村は、斎藤茂吉に比べて、光太郎の「庶民性」を強調するが、ほんとうの庶民は怒ってしまう。疎開先で、10代だった兄二人が、たまに出た芋入りのごはんを、2杯食べた、まだ1杯しか食べていないと、ちゃぶ台を挟んで大げんかになったことを忘れはしない。1945年4月13日から14日にかけての東京城北大空襲で池袋の家を焼かれ、父と学生だった長兄が逃げまどい、ともかく私たちの疎開先にたどり着いたときのことを、母は繰り返し口にし、「家族みんながともかく生き延びたのだから・・・」が口癖だったことも思い出す。

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「雪にもめげず 疎開の両翁を東北に訪ふ」と題して山形県大石田の斎藤茂吉と岩手県花巻郊外山口の髙村光太郎両人の訪問記で、たった1頁の記事だった(『週刊朝日』1946年2月24日号)。茂吉1882年5月生まれ、光太郎1883年3月生まれ、満で言えば63歳と62歳も、当時は「翁」であった。今年の6月に光太郎の山小屋を訪ねた友人は、いま、すっぽりと小屋は覆いがかぶさって「記念館」なっていて、近くには、ここが耕していた畑だったと案内されたそうだ。私もぜひ出かけてはみたい。

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