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2019年11月27日 (水)

いったい、文化勲章って、だれが決めているのだろう~その見えにくい選考過程は、どこかと同じ?  

 「桜を見る会」は、時がたつにつれて、実態が明らかになってきた。国費を使い<功労者>顕彰を標榜する催事の実態が明白になった以上、即刻廃止すべきだろう。
「見る会」の招待者名簿は、慌ててシュレッダーにかけたなど、子供じみた回答をする官僚たちが情けない。ホテルでの前夜祭で、安倍事務所後援会が会費領収書をホテル名義で発行していたことなど、まず常識的では考えられない商行為、その裏の仕掛けがあるに違いない。次から次にと疑惑を増幅する事実が出てくるが、私たち国民が知り得ないことも知る立場にある野党やマス・メディアもこれまで追及できなかったのはなぜなのか。一方、相変わらず安倍政権を支持している国民が半分近くいるという世論調査結果も現実である。
 今回だけではない。森友・加計問題における公文書廃棄・改ざんでも、私たちは、同じような体験をしている。直近の大学入試共通テストの英語の民間試験導入、記述式問題導入も、業者が絡むその導入過程を示す文書が公開されない。教育ビジネス、受験ビジネスの黒い霧が晴れない。たださえストレスの多い受験生を困惑に陥れている。国民をなめているとしか言いようがないが、それに甘んじている多数の国民がいることも確かなのである。

 少し間が空いてしまったが、前の記事の続きでもある。この間、私は、文化庁と何回かのやり取りをしていた。といっても「文化功労者選考分科会の名簿は何を見たらわかるか、その名前を知りたい」という質問への対応に多くの疑念が残った。この単純な回答に2週間もかかったのである。この文化庁の対応にも、その情報管理において、国民との遮断、閉鎖性の一端を知ることになった。「シツコイ」といわれるかもしれないが~。

 まず、文化庁の代表番号に電話をかけた。内線番号がわかっている場合は、続けて番号を押せとの音声が流れた。知らないので、交換には、用件を伝えて、担当部署につなぐよう伝えると、
「それはできないので、<意見・問い合わせ>の窓口につなぎます」
 簡単なことなので、担当部署に回すように再度伝えると、
「それはできないことになっています。ここでは、担当の内線番号を共有していません」
 ちょっと信じられないことを言うのだが、ともかく、その窓口につないでもらうと
「しばらくお待ちください。順番におつなぎしてます」
 という音声が数十秒ごとに流れて、それだけもうんざりして、何分待たせるのだろうかと。電話を切らせる意図がありありと見える。ともかく待つこと5分近く、これだけでも忍耐のいることなのだ。ようやく担当窓口が出たので用件を伝えると、
「折り返し、電話で回答しますので、電話番号と名前をどうぞ」
たちどころに回答できる内容なので、担当部署に回すように再度伝えても、
「それはできないことになっています」
と、繰り返すばかりなので、ともかく、折り返しの電話を待つことにした。数時間しても電話はないのでないので、もう一度代表番号からかけなおすと、また5分以上待たされて<窓口>がでたので、回答はまだかと尋ねると
「まだ回答は届いていません。担当者にも業務の手順?があるので、しばらくお待ちください」
 翌日も、電話をするが、まったく同様の返事なので、こんな簡単な質問にどうして時間がかかるのかといえば、催促しますとのこと。それでも、数日間、半分は忘れかけていたが、どうしても確認しておきたい内容だったので、2度目の電話の1週間後、再度電話してみると、
「まだ回答がありません・・・。ちょっと待ってください。確認してみます」
といって、しばらく待たされた後、
「申し訳ありません。回答が来ていました。ただいまから選考委員の名前を読み上げます」
いったい、回答はいつ届いていたのか、と問えば、
「2度目の電話をもらった、そのあとに回答は届いていたようです。申し訳ありません。ただいまから、名前を読み上げます。12人です」
ちょっと待ってください。回答が来てから1週間も放置していたのですね、12人の名前って、読み上げは不正確ですから、ファックスして下さい、といえば、
「申し訳ありません、ファックスはできないことになっています」
ほかの役所では情報提供ということで、ファックスしてもらったことがありますよ、とこれまでの経験を話せば、ほかは知らないがここではできないことになっているとの繰り返しであった。結局「文化功労者選考分科会」の委員の名前と肩書をメモしたのだが、以下の通りである。

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岩崎千鶴(萩原):お茶の水大学名誉教授
岩谷徹:東京工芸大学芸術学科教授・日本デジタルゲーム学会
笠原ゆう子:俳人
笹本純:筑波大学名誉教授
田中明彦:政策研究大学院学長
都倉俊一:作曲家、日本音楽著作権協会
富山省吾:神奈川映像学園理事長、日本アカデミー協会事務局長、映画プロヂューサー
坂東久美子:日本司法支援センター理事長、元文部科学省審議官
丸茂美恵子:日本大学芸術学部教授、舞踊家
村瀬洋:名古屋大学院情報学研究科長
山本一彦:理化学研究所生命医科学研究センター副センター長
渡邊淳子:東北大学院生命科学研究所教授

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 上記委員の発令は2019年9月2日とのこと。肩書のメモはやや不正確かもしれないが、『官報』で確かめてほしい。ただし『官報』は30日間はネットで無料で閲覧できるがそのあとは有料なので、紙の『官報』で確かめるかいずれかとなる。最初の質問で、何を見ればその名簿が出てくるのかを尋ねているのに、その回答がないので、文化庁のホームページのどこに出ているのか、出ていなければ何を見ればわかるのか、の回答を再び待つことにした。そして、1週間待てど回答はないので、今度は、他の検索でわかった文科省の大臣官房人事課栄典班という部署を知ったので、内線にかけてみた。名簿は何を見れば知ることができるのか、ホームページに載せていないのかを尋ねると
「9月2日の発令ですから9月3日の官報に掲載されています。ホームページには載せていません。ほかの文化審議会の委員と違って、会合は1回しか開催されないので、ホームページには載せないことになっています。1回きりなので、いつまでもホームページに名前を載せるのはどうも・・・」

 ことほど左様に、市民が国の情報を得るのには、いくつものバリアがあり、その困難さは半端ではない。情報社会といわれる中で、必要な情報の獲得がいかに難しいかは、これまでも当記事で、何回か伝えてきた。私が住む佐倉市でも、その情報公開制度の在り方を少しでも改善したいと思い、かつて、市の情報審議会に市民応募枠で、委員を2年間務めたことがある。専門的知見も怪しげな委員が何期も務め続けて居座り、いわば市の承認機関に成り下がっていた。もちろん私は再任されることはなかったのである。

 ところで、本題の文化勲章は、文化功労者の中から選ばれる。その文化功労者選考分科会は、なんと、年に1回しか開催されていない。ということは、一つ前の記事でも記したように、文部科学大臣から推薦された者について分科会の意見を聞き、内閣府賞勲局で審査を行い、閣議に諮り決定するのである。

 文科大臣というけれど、大臣官房人事課が用意した候補者名簿を承認するだけの分科会であることがわかる。多分野の以下の21人に対して、意見も言いようのない委員たちであろう。選考委員など何のチェック機関にもなり得ないのが実態であろう。候補者名簿がどのように作成されるのかは明らかではない。さまざまなルートを使って、官僚が選出することになるわけだが、そこに、さまざまな団体での活動や政府への貢献度が一つの目安となり、各団体の長や政治家の恣意性が入り込む余地が少なくないのは、他の褒賞制度や「桜を見る会」とも共通するではないか。にもかかわらず、文化勲章、文化功労者の受章者たちを、この上もない栄誉として追いかけるメディ
ア、その選考過程にも目を向けるべきであろう。文化勲章は親授式で天皇から直接手渡される勲章でもある。その本人たちには、350万円の終身年金も保証されるが、ほんとうに必要な人たちなのだろうか。

 「文化」を育て、継承していく方向性に間違いはないのか。

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<2019年文化功労者>

石井幹子(照明デザイン)猪木武徳(労働経済学、政治思想史)宇多喜代子(俳句)大林宣彦(映画)金出武雄(ロボット工学)興膳宏(中国古典文学)小林芳規(日本語学)近藤孝男(時間生物学)笹川陽平(社会貢献・国際交流・文化振興)佐々木卓治(作物ゲノム学)佐藤忠男(映画評論)田渕俊夫(日本画)萩尾望都(漫画)馬場あき子(短歌)坂東玉三郎(歌舞伎)藤原進一郎(障害者スポーツ振興)宮城能鳳(組踊)宮本茂(ゲーム)柳沢正史(分子薬理学)吉野彰(電気化学)渡辺美佐(文化振興)

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2019年11月12日 (火)

「桜を見る会」と「勲章」も同じ構図では

 今年の文化功労者の中に、歌人の馬場あき子の名があったし、秋の叙勲では永田和宏が歌人として瑞宝中綬章を受章していた。<注1>上に「文化」が付こうと「芸術」が付こうが国が取り仕切る栄典制度の一環である。拙著でも何度か触れていることだが、「シツコイ」といわれても、大事なことなので繰り返しておきたい。

 この度、「桜を見る会」が国会で問題になっているが、日本の現行の栄典制度には、同様の曖昧さと疑念が残る構図になっていることがわかる。要は、各行政省庁に自治体やさまざまな関係団体から上がってきた名簿を内閣府や文化庁、官邸などが最終的に調整する仕組みである。「桜を見る会」と一緒にしてもらっては困るという人は多いかもしれない。「桜を見る会」の招待者が決まる過程が徐々に明らかになればなるほど、そのあけすけな露骨さが問題にならなかったことの方が不思議でもある。大方のメディアは、宮内庁が取り仕切る園遊会にしても、一種の風物詩のような扱いで、主催者と人気者のツーショットを映像やコメントで報じる程度である。それというのも、首相は、報道関係者や「文化人」、タレント、スポーツ選手らとさかんに懇談や会食に勤しむことによって、牽制、懐柔を重ねてきた結果だろう。

 ところで、日本の栄典制度は、大きく分けて、春秋叙勲・文化勲章・褒章がある。 生存者叙勲授与は、1946年閣議決定より一時停止されたが池田勇人内閣の1963年「閣議決定」により翌年から再開、現在は毎年4月29日、11月3日に春秋叙勲として実施されている。 候補者は、栄典に関する有識者の意見を聴取した上、「要綱」や「基準」なるものに基づき、各省各庁の長から推薦された候補者につき、内閣府賞勲局が審査、閣議に諮り、決定される。ここでの「栄典に関する有識者」の会議とは、会社社長や大学教員らが召集され、一年に一度か二度開かれる。その議事要録を見ても、民間人や女性を増やせ、地方やNPOの活動にも目を向けるべきとか、井戸端会議的な意見が記録されているに過ぎなく、形式的なもので、実質的には、役人が選出する受章者なのである。

 その上、1964年から復活した生存者叙勲制度の根拠は「閣議決定」だけであって、法律的な根拠がなく、「要綱」のみで運用しているに過ぎない。敗戦後1948年来、幾度も「栄典法案」なるものが国会に提出されながら、反対意見は根強く、廃案が続く中、「閣議決定」という強引な方法により実施されることになった経緯があった。法律に基づかない制度として、当時は、憲法違反という研究者の声も大きかった。日本国憲法7条7号天皇国事行為の一つとして定める「栄典を授与すること」のみを根拠とし、法律ではない、政令(太政官布告、勅令)・内閣府令(太政官達、閣令)・内閣告示などに基づくという、明治の遺物のような制度なのである。

 文化勲章についても同様で、1937年文化勲章令(勅令)に基づくもので、1951年「文化功労者年金法」は、「文化勲章」への通過点である「文化功労者」の年金について定めているにすぎない。その年金は、現在は350万円だが、憲法14条「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない」に抵触しないかの疑念は払拭できない。その選出方法も文化庁「文化審議会」の中の「文化功労者選考分科会」委員の意見を聞いて文部科学大臣から推薦された者について内閣府賞勲局で審査を行い、閣議に諮り、決定されるのだが、その委員の名簿も公開されていないようだ。最近はノーベル賞の後追いのようなケースも目立ち、内閣はもちろんだが、かかわる役人たちの推薦、審査の評価の基準が曖昧な上に、評価のできる人材もいないという証拠だろう。

 こうした勲章を「名誉」として、嬉々としてもらう人たちがなんと多いことだろう。政治家や官僚、実業家たちはいわば仲間内の事情での授受であり、芸能人、スポーツ選手たちなど「人気商売」ならいざ知らず、多くの理系・文系の研究者や文芸にかかわる人たちまでが、はしゃいでいる姿、ほめそやすメディアを見るのは、この国の民度を思い知らされるようだ。

 文芸に関しては、国家的な褒賞制度として「日本芸術院会員」制度、<注2>「芸術選奨」制度もある。これについても何度か書いていることだが、前者については、分野ごとに定員制が採られ、会員の選考基準は政令「日本芸術院令」により、部会ごとの候補者を部員の過半数をもって推薦し、総会の承認を経て、文科大臣が任命する。芸術院賞の選考基準・手続きについての法令はなく、各部会に対して推薦を求め、全会員による選考で絞り、各部会の過半数で内定するのが慣習となっているようである。ということは、新しい会員や賞を決める過程で、関係分野の会員が直接関与できるという内向きな制度で、その恣意性は免れないであろう。「芸術選奨」については、かつて、私が作成した「芸術選奨(短歌関係)選考審査員・推薦委員・受章者の一覧」(『天皇の短歌は何を語るのか』82頁)を、あらためて眺めてみると、受賞者が選考審査員や推薦委員がなり、数年づつ続き、選考審査員と同じ結社の歌人が受賞者となるケースも何回か見られる。歌人に関しては、これらの加え「歌会始選者」という「ステイタス」もある。

 世間では、というよりはマス・メデイアでは、これらの栄典、褒賞制度における受章者や受賞者にライトをあて、その権威や栄誉を強調するけれども、その選考過程に目を向けることはない。しかし、こうした栄典・褒賞制度の閉鎖性や公平性、さらには、政権や天皇制との直接的な関係にこそ、焦点があてられるべきではないか。

<注1>褒賞履歴

馬場あき子(1928~):1993年紫綬褒章、2001年日本芸術院賞、2003年日本芸術院会員、2019年文化功労者

永田和宏(1947~):2004年芸術選奨文科大臣賞、歌会始選者、2007~9年芸術選奨推薦委員、2009年紫綬褒章、2015~17年芸術選奨選考委員、2019年瑞宝中綬章

<注2>「文芸」部門の現在員27名中の9人が「詩歌」関係で、歌人の会員は、岡野弘彦、馬場あき子、佐佐木幸綱、岡井隆の4人である

<参考>褒賞制度概要一覧~選考過程と根拠法令

ダウンロード - hosyousennkousosiki.pdf

 

昨年の4月にも怒っています!!

2018年4月27日 (金)

「桜を見る会」・「春の園遊会」と「歌会始」~そこに共通するのは

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/04/post-7492.html
(しばらくの間、このURLが間違えていました。訂正しお詫びします)

 

 

 

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2019年11月11日 (月)

「大丈夫」って?何が?「嵐」が歌った即位を祝う歌

 11月11日は、新聞の休刊日なので、朝のテレビを見ていると、昨日祝賀パレードが、「良かった」「感動した」「素晴らしかった」「すごかった」「おきれいだった」など、キャスターもゲストも晴れやかに語るのだが、何がどうよかったのかがわからない。たしかに天気は良かったので、我が家では布団を干した。そして、前夜11月9日の民間団体が開催したという「国民祭典」での「嵐」の歌にも、同様に「良かった」「感動した」「素晴らしかった」などの言葉が繰り返された。ここでの「奏祝曲」というのは、第一楽章オーケストラによる「海神」、第二楽章辻井伸行のピアノ演奏、第三楽章が「嵐」の歌という、組曲「RAY OF WATER」をいうらしい。その歌詞の一部はつぎのようなのだ。皆さん、聞き取れていただろうか。

大丈夫 鳥は歌っている

大丈夫 空は輝いている

大丈夫 水は流れている

大丈夫 海は光っている

君と笑ってゆく 君と歩いてゆこう
(岡田恵和)

 これって、新しい「君が代」? 言葉はやさしいし、幼稚園生でも覚えられる。まだ台風や大雨の被害から立ち直れない人々、あの氾濫した濁流に孤立した人たち、浸水で家が住めなくなった人たち、牛舎やビニールハウスを押し流された人たち、避難勧告情報が届かなかった人たちの恐怖や不安を逆なでするような「大丈夫」。東日本大震災の津波や原発事故、その後に続く被災者たち、いや今回の台風や大雨の被害を直接受けなかった千葉県民の私でさえ、「大丈夫 水は流れている」と歌われたら、ドキッとする。天皇が、被災者へお見舞いを述べようと、復興を願おうと、内閣改造に専念する首相、「私的な視察」をして登庁しない県知事は、後追いで「速やかな対策を指示」するばかりである。辺野古で進む基地建設、いつ落ちて来るかもしれない戦闘機やオスプレイ、「放射能はアンダーコントロール下にある」「東京は温暖」とうそをつき、IOCの誰彼を買収した疑念などある中で招致が決まった東京オリンピックが来年という。

 児童虐待、学校での犯罪、大学入試の不正や民間導入による不安、雇用や過労死の不安、セクハラの横行、年金や医療への不安、税金の不公平・・・、老若男女、国民は決して守られてはいない。犯罪や失策を、政治家や官僚、経営者は、頭を下げたり、言い訳を繰り返したりして一件落着、だれも責任を取らない日本って、大丈夫なのか。

 メディアもだらしない!国民はなぜ怒らないのか!大雨でどろどろになった家庭菜園で掘ったというサツマイモを届けてくださったご近所の方と期せずして嘆いたのであった。

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天皇への「親しみ」と「畏れ」は何を意味するのか~祝賀パレードの今昔

 10月22日の新天皇即位の儀式に、2018年6月23日沖縄慰霊の日に、平和の詩「生きる」を朗読した女子中学生が招待されていたことを後で知った。招待者をどのように決めたのかは定かではないが、招待した側も、それに応じた側の双方に、大人の論理、じゃなくて、打算があったのではないかと、キナ臭さを感じたのだった。追い打ちをかけるように、メディアは、本人に参列の感想を述べさせるのを目の当たりすると、シナリオ通りにことが進んでいるのだということを実感させられた。

 そして、11月9日、皇居前広場で、財界や超党派の国会議員連盟などが主催の天皇即位を祝う「国民祭典」が開催された。一部テレビの中継やニュースで見ていたが、天皇夫妻正門石橋から退場し、姿が見えなくなるまでの「天皇陛下万歳」がしつこいほど繰り返されていた。会場は日の丸が盛んに振られてはいたが、俯瞰する映像を流しはしなかった。どれほどの人が集まったのか。思わず、目を蔽い、耳をふさぎたくなるほど、生理的な嫌悪感にさいなまれた。

 その前に、子役で人気だった芦田愛菜(2004年~)が振り袖姿で?述べた祝辞が、“大人”以上に敬語満載の、不自然きわまりない“操り人形”めいて、むしろ痛ましかった。

 この2件で思い起こすのは、十分“大人”のビートたけし(1947年~)が、今年4月10日に開催された平成天皇の即位三十年を祝うという「感謝の集い」で述べた祝辞だった。笑いを取ろうとしたのかワザとらしい演出とその内容に違和感があった。活舌があまりよくなく、聞き取れない部分もあったのだが、とくに、祝辞の中のつぎのようなクダリがあるのを知って不思議に思った。

「母は私の頭を押さえ『頭を下げろ。決して上げるんじゃない』とポコポコ殴りながら、罰が当たるぞと言いました。私は母の言う通り、見たい気持ちを抑え、頭を下げていました。そうしないと罰が当たって、急におじいさんになっていたり、石になってしまうのではないかと思ったからです。
 そういうわけで、お姿を拝見することはかないませんでしたが、お二人が目の前を通り過ぎていくのは、はっきりと感じることができました。」

  1959年4月10日の天皇結婚記念のパレードのときのことらしい。タケシは1947年1月生まれだから、中学校入学の年ではなかったか、タケシ初の天皇(皇太子)体験だったようだ。しかし、上記のようなことがあり得たのか、そんな“純朴”な中学生だったのか・・・。少しできすぎた話ではないかなと。

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1959年4月10日「結婚の儀」を終えたばかりの皇太子夫妻 写真:共同通信社

 そしてさらに想起するのは、高村光太郎が、戦時下におびたしい戦争詩を発表していたことを、敗戦後「自省」の意味を込めて「暗愚小傳」と称して、発表した20篇ほどの詩であった。その冒頭がつぎのような作品だったのである。

「土下座(憲法発布)」 

誰かの背なかにおぶさつてゐた。
上野の山は人で埋まり、
そのあたまの上から私は見た。
人払をしたまんなかの雪道に
騎兵が二列に進んでくるのを。
誰かは私をおぶつたまま、
人波をこじあけて一番前へ無理に出た。
私は下におろされた。
みんな土下座をするのである。
騎馬巡査の馬の蹄が、
あたまの前で雪を蹴つた。
箱馬車がいくつか通り、
少しおいて、
錦の御旗を立てた騎兵が見え、
そのあとの馬車に
人の姿が二人見えた。
私の頭はその時、
誰かの手につよく押さへつけられた。
雪にぬれた砂利のにほひがした。
―眼がつぶれるぞ―

(『展望』1947年7月)

 高村光太郎(1883~1956年)が、この詩を作ったのが1947年、テーマは、1889年2月11日明治憲法公布時の祝賀行幸啓の光景だろう。光太郎は3月生まれだから、1カ月ほどで7歳になる頃だった。沿道の人群れの中を大人に背負われ最前列に出て、土下座をして馬車を見送ったことになる。光太郎の幼少時の天皇体験だと言える。

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聖徳記念絵画館壁画「憲法発布観兵式行幸啓」(片多徳郎画)明治22年(1989)2月11日 桜田門(東京)

 ちなみに、今年の代替わり前後4~5月に行われたいくつかの世論調査では、若干質問のニュアンスは異なるものの、70~80%が皇室への親しみを示している。上記の「畏れ多い」という対応と「親しみ」という対応のギャップは、興味深い。どちらにしても、宗教的な、閉じられた狭いせまい世界を、情報操作によって、利用するためにこそ天皇(制)を維持しようとする人たちがいることは確かなのではないか。

朝日(4月18日):今の皇室に親しみを持っているか―持っている72%
共同通信(5月3日):即位の新天皇に親しみを感じるか―感じる82.5%
毎日(5月20日):天皇に対して好感を持つ34%、親しみを持つ27%、尊い9%、畏れ多い3%―合わせて75%

 今回の新しい天皇の即位を祝う「即位の礼」「国民祭典」、平成の天皇在位30年「感謝の集い」、さらに、さかのぼって明治憲法公布祝賀行幸啓と、場こそ異なるものの、天皇と国民がわずかに接する場であった。その虚実のほどは検証を要するが、その時代、時代の年少者の天皇体験を垣間見ることができる。

 今日11月10日の即位祝賀パレードを沿道で迎えた人、メディアを通じて接した人たち、特に若い人は、この光景をどう受け止めたのか、どんな感想を持ったのだろう。将来、どんな記憶となって、あるいは、作品となって残されるのだろうか。同時に今の若い人たちや子どもたちが、何のわだかまりもなく、違和感もなく、大人たちの、十分、意図的な天皇賛美の思惑を素直に受け入れてしまっていたら、やはり、日本の歴史の不幸は繰り返されるのではないか。

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2019年11月10日、即位祝賀パレード(『毎日新聞』)、沿道の人出は、11万9000人とされ、前回の平成天皇即位祝賀パレードの「奉祝者数」は11万7000人ということになっているが、ここにも微妙な配慮が推測される。

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2019年11月 4日 (月)

首里城焼失、「心を一つに再建を」への不安

 私が初めて沖縄を訪ねたのは2014年11月11日だった。ホテルに荷を預け、最初に向かったのが首里城だった。長くて高い城壁を見上げながら進んで、歓会門から入り、いくつかの門をくぐり、奉神門からは有料ということであった。中庭から南殿、正殿、北殿と順路に沿って回ったのだが、建物といい、調度品といい、日本とは違う、その絢爛豪華さには、目を見張るものがあった

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正殿と南殿の間から中庭と北殿をのぞむ

 米軍による空襲で、跡形もなく灰塵に帰したあと、1992年大方が完成し、まだ、復元は続いているときいた。外形は、中国風もあり、日本風もあり、正殿には双方折衷の跡がたどれるという。屋内は撮影禁止なので、うまく伝えられない。しかし、私には、その内装は琉球王国の、ただ、ただ絢爛たる印象が強烈だった。当時の思いは、当ブログにも記したが、その印象はいまでも変わりはない。

2014年11月19日 (水)沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行>2014年11月11日~14日(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141111142-57f.html

  今回の火災では、主な建築物7棟が全焼し、調度品・収蔵品・資料なども焼失してしまったという。復元への道のりは、もちろんカラー写真はなく、設計図などの資料が残されていなかったので困難を極め、人々の叡知と労力の賜物だったことを知ると、多くの県民の喪失感には、私たちには計り知れないものがあるのかもしれない。

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『琉球新報』(11月2日)「首里城焼失 国が防火設備撤去 安全管理のに通しの甘さ浮き彫り」の記事より。今回の火災時に水が吹き出る装置ドレンチャーは作動したが、「放水銃」は熱気のため作動できなかったという。

  一方、この首里城の地下には、1945年3月の空襲激化に伴い、移転してきた第32軍司令部があった。 この地下壕は、地下30m以上、坑道は1000mにも及ぶという。1945年4月1日、米軍の本島上陸後の攻撃により、司令部は、5月22日には、南部の摩文仁への再度の移転が決定した。以降、軍民混在のままの悲惨な敗退で、多くの犠牲者を出している。司令官であった牛島満陸軍中将は、降伏を拒み、戦災と死者をさらに拡大していった。これらの経過は、2012年2月に設置された司令部跡の説明板にも、以下のように記されている。 

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  なお、つぎの「壕内のようす」の説明文については、歴史研究者の委員たちが執筆した原稿が、県によって一方的に了解なく、削除された部分があり、県議会などでも問題になったというが、現在も、そのままで、修正されていないそうだ。3行目、「女性軍属、慰安婦などが」との案文から「慰安婦」が削除され、この案文の最後に続いていた「司令部壕周辺では、日本軍に〈スパイ視〉された沖縄住民の虐殺などもおこりました」が削除されたのである。(『沖縄の戦跡ブック・ガマ』改訂版 沖縄県高教組教育資料センタ―『ガマ』編集委員会編 2013年) 

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 そんなことを考えていると、復元された首里城は、沖縄を、沖縄文化を象徴する存在ではあるかもしれないが、マス・メディアが口にする「沖縄の平和の象徴」ではありえないのではないか。たとえば、河野防衛大臣は、嘉手納基地での夜間のパラシュート降下訓練は日米協議事項、違反だと抗議したが、無視されたままなのである。こんな時こそ、呼びつけて「無礼者?!」とも言うべきではなかったか。いや、それ以前に、日米安保体制下の地位協定の名のもとにアメリカに従属するばかりで、沖縄の米軍基地は、いわば使い放題の上、沖縄県民の権利と生活を脅かし続けているにもかかわらず、日本政府は、アメリカに「寄り添い」続けているではないか。そんな政府と「心を一つに首里城の再建を」「再建に心を寄せ合って」と言われても、不安を感じてしまうのは、私だけだろうか。「再建」に政府は、なにほどのことをするのだろう。選挙や県民投票にあらわれた民意に耳を傾けようともしない政府が、この「首里城再建」を基地問題の対立にからめて利用するのではないかという不安に駆られてしまう。玉城知事は、本土復帰50年にあたる2022年をめどに具体化したいと表明している。

Photo_20191104021101 『毎日新聞』(11月2日)11月1日首相官邸にて。会談は冒頭のみ公開され、玉城知事は「県民の心のよりどころである首里城は必ず再建しなければいけない」と強調。菅氏も「政府として財政措置も含めてやれることは全てやる。一日も早く再建に向けて全力で取り組む」と約束した。 玉城知事は、復帰50年にあたる2022年には具体的な計画を表明したいとしている。焼失前の復元については33年間で総計240億円がかかったとしている。

 

 

 

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