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2020年1月28日 (火)

60年前の1960年、50年前の1970年、今、何が変わったのか(2)1970年の私

 身辺の資料を整理していると、思いがけないところから、意外なものが見つかり、思わず読み入ってしまい、まるっきり片付かない日があったりする。私が在職していたころ、1970年代の国立国会図書館の組合関係の綴りが出てきた。私は、組合の役員をやったこともないのに、総会資料や機関誌、情宣ビラの一部などが結構まとめて残されていた。私は、レファレンス担当の法律政治関係の課に在籍、かなりの頻度で組合役員を出すような「自由な」雰囲気の職場だった。入館当初、直接の上司が組合の委員長でもあった。印刷カードのかなふりのローマ字が訓令式だったのを、突如ヘボン式への変更を強行しようとした、鈴木隆夫館長の<外遊みやげ>と闘っていて、館長を辞任にまで追い込んだと意気軒高!に思えた組合だった。周辺の課では、課長を除いて全課員が組合員であった。輪番制で職場委員になったこともある。当時は「婦人部」というのがあって、昇格人事における女性や学歴、それに発足当時来の非試験採用職員への差別などがいつも問題になっていた。それに、産休前後8週間要求(当時は6週間)、保育所難問題、女性職員の宿舎入居資格などが、よく取り上げられていた印象が強い。保育所入所難は、現在に至っても解消されていない大問題であるが、当時、職場内保育所設置が問題が浮上すると、「文化の殿堂たる図書館に、オムツがはためくんですかね」という男性職員も現れたりしたのだった。また、婦人部のあっせんで、「ハイム化粧品」が月一で、館内で店開きするのを手伝ったりした。安くて余計な添加物が少ない化粧品ということで、現在、生活クラブ生協でも扱っているので、私も利用することが多い。ただ、当時、池袋の実家の薬屋では、資生堂化粧品のチェーン店となって、その売り上げアップに必死になっていたころで、私も店に立てば、お客さんの花椿会入会を勧めていたりもしていた。また、女子休養室の新設が実現したので、「利用せねば」と昼休み出かけたりしたが、利用者に出くわすことはまれであった。
 そんな組合活動とは、つかず離れずの職員だったが、ある事件によって、組合というものに、一気に不信感を持つようになってしまった。私と同期入館ながら少し若い職員が、1969年11月16日、いわゆる佐藤訪米阻止闘争で逮捕され、12月初旬に起訴、年末に休職処分となる。組合執行部は、「民主勢力の統一と団結を乱す」から支持しない、組合の機関決定によらない行動だからという理由で救援しないことを決めたのである。
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組合の機関誌『スクラム』222号(1970年1月27日)。1969年の年末にでた休職処分について、各職場代表により特別委員会が設置されたことを報じる。それ以前に開かれた評議員会では、その職員の行動は、組合の決定によるものでもなく、運動方針に沿うものでもないが、基本的人権の観点から、判決前の休職処分の不当であることを確認、今後、執行部は、特別委員会の助言による旨が記されている。

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館内の有志「6/15統一行動への参加を呼びかけた会」から出された『窓』、第1号(1969年6月30日)の巻頭には、「窓をあけましょう。このままでは息がつまりそう。」とある。その編集後記では、「逆セクトは望まない。とはいっても相手のあること、どうなるかわからない。『窓』の誌名はいつでも捨てて良いと思っている。窓は壁よりこわれやすいものなのだから。自らに問い自己理解を深め、新しい意識へ、そのための広場としたい」とあった。「6/15統一行動」とは、中核など8派政治組織と15大学全共闘と市民団体が加わり229団体による「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6・15集会実行委員会」が開いた「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6・15統一行動」で日比谷野外音楽堂における5万人の集会で、デモのさなかに吉川勇一ら71名逮捕されている。誌面は、テーマも自在で、広く内外の政治問題から市民運動の在り方、館内の諸問題を語り合う場であったようだ。出入り自由の集いであったが、私は参加せずじまいで、昼休みの会のあと、処分職員救援や組合批判について熱く語る僚の話を聞くことが多かった。

  各職場での討議が重ねられたが、組合の決定に疑問や不信を募らせる職員も多かった。そして、処分職員を支援する会が発足した。組合は、権利の問題として処分の撤回を求め、公平委員会が開催されることになる。請求者職員の代理人として羽仁五郎や吉川勇一、直接の上司らが陳述した。中山伊知郎委員長と使用者側・職員側各二名と中立代表が衆参議院運営委員長(自民党)という構成の公平委員会のもと2回にわたる公開審査がなされた。

 初めて開催された公平委員会となって、その規程にも様々な不備が指摘される中、館当局も組合も請求者側も苦労が多かったようだ。傍聴者数も限られていたが、私も一回だけ傍聴することができた。傍聴席からヤジも飛んだりして、緊張した雰囲気の中で行われていた。記録によれば、請求者の陳述は、1万字を超えるものであった(『十一・一六佐藤訪米阻止闘争と国立国会図書館―公平委員会の記録』記録刊行会 1971年4月)。陳述で訴えたのは、自分自身の日常の生活を佐藤訪米阻止に賭けることになったのは、<真理は我らを自由にする>という国立国会図書館法前文の精神を冒涜し続けている図書館の日常、「当局者のみならず、組合さえも、その中で昇任昇格や、手当の増額しか考えず、ベトナムの問題もその手段としか考えていない。そんな状況の中で目をつぶることが出来なかったのです。王子で(1968年、野戦病院設置反対デモの野次馬であったとき)機動隊が平然と『黙れ、朝鮮人』と言ってのけるような現実を聞き流していいのでしょうか」と、その動機を述べていた。さらに、「日米安保条約のもとで参戦の道を歩み、しかもその方向がなお一層進められている私たちのまわりにはさまざまな抑圧された状況が作り出され社会不安がうずまいています」、そうした中での「佐藤訪米」「日米共同声明」の持つ意味は何なのか、と訴えている。アメリカのアジアの軍事的支配によって朝鮮、台湾、ベトナム、ひいては日本自身の平和と安全が確保され、日本への沖縄72年返還によって基地が強化されることを前提にするものであるとも述べている。自分がとった行動は「反戦という目的のため」であるにもかかわらず、「図書館内外にわたって好ましくない影響を与える恐れがあると判断し、それらの支障未然にふさぐため」といった抽象的一般的な推測をもって休職にすることは不当であり検察庁と一体となって政治的弾圧を加えていると断ぜざるを得ません」と述べている。この陳述で述べられた状況は、今でも変わっていない上に、処分理由においても「好ましくない」「恐れ」「それらの支障」「未然に」などどいう、具体性のないものであった。

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1970年9月末に開かれた組合定期総会の議案書の表紙と「起訴休職処分反対の闘い」と題した総括部分である。1.組合としての救援活動は行わない。2.館当局の同君に対するいかなる処分にも断固反対し、これを口実とする組合活動への干渉・攻撃と闘う。3.これを機会に安保廃棄、沖縄即時無条件全面返還を真にかちとるため、どう団結を強め闘うかについて積極的に組合内の合議をおこす」とある。

 1970年6月に、公平委員会は、委員の4対3の多数決で、休職処分には違憲性も違法性もなく手続き上も問題なく、承認するという判定がなされた。9月には、休職処分取消を求めて提訴し、行政訴訟の段階に入った。長い準備手続きを経て。4回の口頭弁論の末、1972年11月に原告の請求はいずれも棄却されるという判決であった。

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館内有志による会やミニコミ誌がいくつか出され、組合の朝ビラ、情宣が盛んに撒かれた時期であった。上段は、処分職員を支援する会が70年2月に創刊された「会報」で、途中で「広場」と名を変えている。行政訴訟で第一審の判決が出た後は、部落問題と図書館、図書館創設当時の副館長だった中井正一論など幅広いテーマが載るようになった。下段は、館内の「(1969年)10・11月闘争救援会」発行のニュース。前年の佐藤訪米阻止運動で捕らえられた人たちの統一公判の要求を続けている中で、ニュースによって、日常の私たちからは知り得ない事実を知ることができた。例えば、8号の「監獄法体制の粉砕を」の記事では、新憲法下での1908年の「監獄法」は基本的人権がいかに無視されているかを知ることになる。その後、今世紀になって何度かの改正、最終的には、2007年、まさに100年を経て「刑事収容施設及び被収容者等の諸郡移管する法律」となったが、現在でも、ゴーン被告や籠池被告の長期拘留など問題は絶えない。

 1970年という年は、いうまでもなく、3月には大阪万博が始まり、赤軍派によるよど号乗っ取り事件が起きている。6月23日、日米安保条約は自動延長されるいたる。企業やそこで働く日本人はエコノミックアニマル、モーレツ社員と揶揄される中、新宿駅地下広場にはフォークゲリラと呼ばれる集会も続くという時代であった。そして11月には、三島由紀夫が市ヶ谷で自衛隊決起を呼びかけ、割腹自殺を図るという事件まで起こる。いわゆる日本経済の高度成長のゆがみは「公害」として、その被害は頂点に達し、不備ながら公害関基本法はじめ関連法が成立するのはこの年の年末であった。

 なお、1970年少し前の組合青年部の機関誌『新声』8号(1968年9月30日)は100頁ほどの冊子だが、その巻頭につぎのような詩「青春について」を見出すことができた。この詩の作者滝口雅子さんは、『鋼鉄の足』(1960年)、『窓ひらく』(1963年)などの詩集を持ち、室生犀星賞を受賞した詩人で、当時レファレンス部門の人文関係の担当課に在籍の大先輩で課の場所も近かったので、私も若かったのだろう、臆せず拙い短歌をなどを見せたり、詩や詩人の話を伺ったことなどを懐かしく思い出すのだった。ただ、この詩に関して言えば、滝口さんにしては、かなり甘くて優しい作品にも思えた。当時の私などには、計り知れないながら、滝口さんの詩の中の「窓」や「扉」は果てしなく重く、「死」や「愛」は、深くて暗い水底を覗くような感想を持ったものである。

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 「青春について」滝口雅子
青春は/虹のようなものだ/うっかりしいていると/消えて跡かたもない/虹が空にかかっているうちに/そのまるい橋を渡ろう/そして空までも/旅をしよう/青春の広やかな翼を/惜しげなく/ひろげよう
青春!この不思議な魔力をもつ言葉。いま青春のなかにいて、あなたがどっぷり青春にひたっているために、
(中略)
”若さ”がダイヤモンドに匹敵し、或いはそれ以上であるかも知れないと知ったらーー
”若さは”は宝石です

 そして、個人的なことを言えば、1970年のクリスマスも近い朝、明治29年、1896年生まれの父が他界した。その年の9月、那須高原行が父娘の最後の旅となった。

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当時のことは、すでに、次のブログにも綴っているので、重なる部分もあったかもしれない。

今年の615日は、第一歌集『冬の手紙』(1971年)の頃を思い出す2018619日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/06/615-076c.html

 

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