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2020年2月27日 (木)

2月25日、「基本方針」を発表したその日、首相は何をしていたか

  今日26日の『毎日新聞』の前日の「首相日記」を見ていたところ、「51分東京・永田町のザ・キャピタルホテル東急。宴会場「鳳凰」で自民党と各種団体の懇談会に出席し、あいさつ。(中略)638分公邸。金丸恭文フューチャー会長兼社長、秋好陽介ランサーズ社長、菅谷俊二オプティム社長らと会食。911分全員出る。宿泊」とあった。やっぱり、この日も、なんとホテルの宴会場で自民党と各種団体との懇談会を開いており、首相は、そこであいさつをしている。懇談会で飲食がなされたどかは不明だが、宴会場というからには飲食提供がなされたのではないか。政府の新型コロナウィルス感染症対策の「基本方針」では、イベントについて「全国一律の自粛要請を行わないが、地域や企業には開催の必要性を改めて検討するよう要請する」とあるが、言っていることと「自民党」・「首相」がやっていることとが随分と違うのではないか。各種団体との懇談会の「必要性」、主にIT関係の会社の社長らとの2時間半に及ぶ公邸での会食など、まさに不要不急な飲食ではなかったのか。その危機感のなさにあきれてしまった。

 そして、何気なく、『朝日新聞』の25日の「首相動静」を見ると、「638分、公邸。」で終わり、公邸での社長らとの会食の記載がないことに気づいた。慌てて『東京新聞』を見てみると、ここにもその記載がない。首相の一日の行動の記事はどこも同様と思っていたのだが、異なることが分かった。ちなみに、ネット上で調べてみると、「時事ドットコムニュース」での「首相動静」の末尾はつぎのように記されていた。

 

「午後6時37分、官邸発。同38分、公邸着。金丸恭文フューチャー会長兼社長、秋好陽介ランサーズ社長、菅谷俊二オプティム社長らと会食。同9時11分、全員出た。午後10時現在、公邸。来客なし。」

 

 さらに、NHKではと調べてみると、「安倍内閣総理大臣動静」の記載はわかりやすく、以下のようになっていた。

 

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社長らとの会食後「21時11分全員出る。宿泊」までの記載がある

 

 ということは、『朝日』と『東京』は、なぜ夜の会食の記載をしなかったのだろう。たんなる取材力の違いなのか、意図的に省略したのではないか。この時期に、首相への「忖度」が働いたのだろうか。あす、朝日新聞社に問い合わせてみよう。

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上段が朝日新聞「首相動静」、下段が毎日新聞「首相日々」

 

 

<参考>
NHK政治マガジン「<首相動静>何のため」(2018年7月11日)https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/6279.html

・NHK政治マガジン「安倍内閣総理大臣動静~総理、きのう何してた?」

 https://www.nhk.or.jp/politics/souri/2020/02/25.html

 

 

 

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2020年2月26日 (水)

「重症になるまで待て?」「PCR検査は簡単にはさせない!」という「基本方針」って、何?

  どう考えてもわからないのは、「軽症者は、病院に行くな、家で重症になるまで待て」というのが、新コロナウィルス感染拡大防止にかかる政府の「基本方針」らしいことだ。前日の専門家会議の意見を踏まえ、225日に発表されたが、これまでの方針と大きく変わることはなかった。ただ、感染拡大が急激に高くなるかならないかの正念場なので、集団感染しやすい場所には出かけるな、職場への出勤やイベント開催などは、各々の裁量で判断せよと、これも当事者への丸投げとなった。集団感染を「クラスター」などと言い換えて、その連鎖を防ぐことが重要と、当たり前のことをなんか得意げに説明する首相と厚労大臣の無策ぶりが、情けなくも、いらだたしかった。 

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 通常の風邪の症状の人、新型ウィルスの感染が心配な人がクリニックに出かけたり、PCR検査を受けようとするには、ますますバリアが高くなった。かなり重症になった人が、「帰国者・接触者センター」なるところに相談すると地域の保健所に相談せよと、そして最寄りの医療機関が紹介されると、その医療機関はそんなことは聞いていないと断わられて、また保健所に電話し、ようやく医師の診療を受けられることになったという、まさに、お役所の「たらいまわし」をされた患者さんの声を民放のテレビは伝えていた。これらのやり取りの電話さえもすぐには通じないというから、重症の患者には、かなりの負担であったろう。

 225日のNHK7時のニュースでも、専門家は登場するが、政府の方針をなぞるだけの、言わずもがなの注意を呼び掛けるのみであった。それに、中国や韓国の感染状況の拡大やトラブルについては詳しく報じる一方、日本の状況については政府広報に終始するのは相変わらずで、政府の「やってる感」満載である。

 オリンピックを控えているからか、危機感を抑制し、国民に「冷静さ」を呼びかける。感染拡大を示す日本地図は更新されるが、北海道で、35人の感染者、東京の33人という数字は、人口密度からしてありえない数字で、PCR検査を、かくまで抑制している結果であろう。当然のことながら、IOCの委員の一人が、オリンピック東京開催の中止の可能性まで言及するようになった。日本のような感染防止対策の甘さは、クルーズ船乗客を各国がチャーター機で「救出」するのを見てもわかる。麻生財務大臣の「常識的に言って、4月、5月には収まるんじゃないか」などのんきな発言にしても、検閲官や厚労相職員が感染したことを受けて、菅官房長官の「専門家でもあり、専門知識がある人たちだから、下船後の検査はしなかった」などの発言にしても、日本への不信感は強まるばかりだろう。

 私は、そもそも、オリンピック東京招致には反対であった。放射能は「アンダーコントロールされている」という虚偽の首相プレゼンに疑問を抱いていたし、現に、福島原発事故による汚染水の処理に困って、大気中に蒸発させるか海水に垂れ流すかを検討中という事態に至っている。たとえ、オリンピックが開催されたとしても、「総合的に判断」した選手たちが集まるのか、観客がやってくるのか疑問に思える。

 昨夜の「ニュース23」では、韓国のPCR検査の状況と日本のそれと比較していたが、まさにけた違いの数字であった。日本の厚労省では、全国で、検査したという人数も感染者の人数も最終的には把握できていない上に、検査した人数という母数が不明な状況や検査自体を抑制にかかっているのだから、他国と感染者数を比べてみても意味がないだろう。また、今朝の「羽鳥モーニングショー」では、韓国の感染予防対策におけるPCR検査の民間機関への拡大、感染者隔離患者への生活費保障、病院閉鎖への補償などが、大統領権限で早急になされているとの指摘がされていた。学ぶべきは多いのではないか。

 

 

 

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2020年2月23日 (日)

きょうは、何の日だったのか~新型ウィルス感染拡大の中の祝宴

 

 今日2月23日が何の祝日かと改めて問われると、一瞬、戸惑う人も多いのではないか。昨日から今日にかけて、天皇誕生日を前にした21日の記者会見や一般参賀取りやめの報道に接して、ようやく思い起こす人も少なくない。いまや、新型コロナウィルスの感染拡大が、高齢者はもちろん受験生や学生、生徒たち、国民の関心事といえるだろう。

 これほどまでに感染が拡大したのは、ひとえに、政府の中途半端な対策が原因だったといえるし、この段階に至っても、オリンピック・パラリンピックを控え、ともかく、ことを大げさにしたくないという情報操作や印象操作がなされていることに気づく人たちも多くなったのではないか。

 自分では何もやらずに「速やかに適切な対策を取るよう指示」し、夜は、経済人、論説委員、はてはタレントたちとの会食を怠らない首相、「国民の健康と命を守る」を口癖のように語りながら、そのすべを知ろうとせず、責任を果たせない首相。天皇は、新型コロナウィルスによる罹患者とその家族への見舞いとその治療や予防にあたる人たちの労苦に思いを寄せていると述べ、加藤厚労相は、イベントや集会を一律に制限するものではなく、主催者の判断に任せるとの発言もあるなか、470人が参加した天皇誕生日の祝宴は開かれ、各国大使ら190人余との茶会も催されたのである。東京都のイベント中止の基準の500人規模、飲食提供の二要件ないし一要件を満たしているわけで、参加者は、高齢者が断然多いに違いないし、もし感染者でも現れたらだれが責任を取るのだろう。

 各地から、感染拡大の報告が入る中、不都合が起これば、「真摯に受け止め、反省する」と言って置きさえすれば、ことが済み、有識者会議や専門家会議の意見を踏まえた形の対策であったとの言い訳を繰り返すのではないかと、不安が募る。要するに、自己責任として放置されかねないのである。

 

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2020年2月16日 (日)

豊島園がなくなる? ウォーターシュートの思い出

 2月3日、遊園地豊島園が段階的に閉園されることが、一斉に報じられた。経営主体の西武ホールデイングスからの正式の発表ではないらしいが、跡地が東京都の練馬城址公園とテーマパークになる話が進んでいることは確からしい。 豊島園といえば、私は池袋育ちなので、いろいろな思い出がある。敗戦後のことなのだが、母方の親類が千葉県だったので、我が家は、いとこたちが受験や用事で上京した折の東京の宿泊所代わりになっていたように思う。そんなときの手土産は、菓子箱にぎっしりと詰まって新聞紙に1個1個包まれた卵だったり、時代が下れれば麻生屋のスズメ焼きや柏屋の最中だったりした。母は、布団を干したり、カバーをかけたりと忙しく準備していたものだ。そして、半日でも時間に余裕があるときは、豊島園にでも行ってみようか、ということにもなるのだった。 

   豊島園は、小学校低学年の遠足の定番であり、写生大会などで連れて行ってもらったことがある。家族や親類と一緒のときは、ウォーター・シュートのある池で、あの船頭さんが高く飛び上がるのとお客さんの絶叫?する光景を何度も何度も飽かずに眺めていたらしい。乗ってもいいよと言われ、初めて乗ったときは、あの滑り落ちるときのあっけなさと水しぶきを浴びたことの方が印象に残っている。

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 流れるプールが話題になったり、新しい遊具が報じられたり、はた、新聞の全面を使った広告などに驚いたりしたが、半世紀以上訪ねたことがない。ただ、なつかしいあまり、残してほしいなどとは言わないつもりだが、都立の城址公園として、都民の憩いの場であり、いざという災害時にも役に立つ、水と緑の広いスペースにしてもらいたいと思った。計画にあるテーマパークなどに、個人的には全く関心がないながら、映画やキャラクターをテーマにしての集客を目論んでいるらしいが、長続きするものなのだろうか。

 豊島園は、1926年に開園し、ほぼ同時に、池袋の東口から出ていた、武蔵野鉄道の練馬~豊島園線も開通している。太平洋戦争中の1944年4月に閉園、再開されるのが1946年3月だったという。

*としまえんの歴史
http://www.toshimaen.co.jp/guide/history.html

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敗戦後、再開まもない豊島園、音楽堂。池袋第二小学校1年時の秋の遠足か。私は、疎開先の小学校から夏休みに池袋第二小学校に転校している。アルバムの黒い台紙には、「一年 豊島園 昭21」という次兄の文字での書き込みがある。担任は、若いO先生で、前列左に座っている。後列のには付き添いの「父兄」がみえるが、もんぺ姿の女性もいる。このころの池袋西口のやみ市では、揃わないものがないというほど隆盛を極めていた。


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誰が撮影したものか不明だが、我が家の三人兄妹が後ろのボートに、手前のボートには、いとこ姉妹が乗っていて、池畔で待つ母に近づいたところ。アルバムには「昭和25年」(1950)とのメモが記されているのみ。

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中学一年歓迎遠足が、豊島園だった。

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2020年2月13日 (木)

何度でも、くどいようですが、歌壇と天皇制

 私が会員になっている『ポトナム』の歌壇時評に、1月号に引き続き、寄稿しました。くどいようですが、また、短歌と天皇制の問題です。改元を機会に、歌壇での事実を確認、整理し、手立てを考えなければと思っています。記事の末尾に、関連の最近の当ブログ記事をまとめておきました。重なる部分も多いかと思いますが、ご覧いただければ幸いです。

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 昨年のマス・メディアは、改元で新しい時代が来るかのような政府広報に加担した。そして、「象徴」を全うしたとして平成の天皇を称揚した。歌壇では、『短歌研究』一月号は、特集〈平成の大御歌と御歌〉を、角川『短歌年鑑』は、特別企画「歌会始の三十年」を組んだ。

 これらの動向に最も早い反応を示したのは、若い世代の瀬戸夏子(一九八五生)で、『短歌研究』特集について「戦後短歌は終わったのかもしれない、と思った。」という発言だった。「ここでは短歌は天皇制ときれいに順接であった。」と批判した(「白手紙紀行⑽」『現代短歌』二〇一九年二月)。続いて、大辻隆弘(一九六〇生)は、『朝日新聞』の「歌壇時評」(「短歌と天皇制」二〇一九年二月一七日)において、「以前なら厳しい批判に曝されたであろうこの特集に対して歌壇は無反応だった」ことを挙げ、「天皇制アレルギー」はもはや薄らいだとし、批判をけん制するかのような発言をした。二〇代の廣野翔一(一九九一生)は、その特集に触れて、拙著の「どんな言い訳をしようと、国家権力に最も近い短歌の場所が歌会始ではないか。短歌の文学としての自立は、国家からの自立にほかならない」(「戦後六十四年、歌会始の現実」『天皇の短歌は何を語るのか』二〇一三年)を引用し、「これは正論である。正論ではあるけれど・・・」としながら、「とりあえず今は歌会始があるという現実」を、「短歌が権力に近すぎる場所にある現実」を、自分の中で受け止めて「歌会始というものに対して私たちは寛容に接すべきだ」と結論づけた(「歌壇時評・平成の終わりに」『短歌』二〇一九年六月)。彼は、自身のツイッターで「読み返すとこの人歯切れ悪くて苦しそう、という感想しかない」(二〇一九年六月二一日)と自虐的に綴っている。斎藤寛(一九五二生)は、「老舗の短歌総合誌は皇室の広報誌に転じてしまったのかと思うような誌面であった。」とし、天皇制自体に関しては「天皇の人権不在という問題」が厳しく問われないまま、「天皇制アレルギー」が薄れ、あるいは終息したという捉え方には「天皇制に対する赤子のような信仰が復活した」という意を含むとも指摘し、厳しく追及した(「『大御歌』『御歌』の位相―短歌と天皇制再考」『短歌人』二〇一九年七月)。いずれにしても、大辻のいう「無反応」という見立ては崩れたのである。

 敗戦前の「歌会始」は、一般歌人の立ち入れない世界であった。新憲法下の「象徴天皇制」は、占領軍と日本政府による「政治利用」をするための「遺制」であり、“新生”「歌会始」も“民間”歌人を引き入れて、利用価値を高めるためであったろう。「歌会始」の選者永田和宏による新聞連載の平成の天皇夫妻、皇族たちの短歌の<鑑賞>が『象徴のうた』(文芸春秋 二〇一九年六月)として出版された。まさに、現代の“御製御歌謹解書”ともいえよう。一方、『短歌研究年鑑』(二〇二〇年版)恒例の座談会では、古典・万葉集ブームは語られるが、件の特集や企画、書物には、だれもが言及しなかった。今や歌壇の主流は、天皇の短歌や歌会始について、その意義を称揚するか、触れずに沈黙を通すかのいずれかになってしまった。異論を唱えて突出することを控えてしまうのは「同調圧力」の所為でもある。それはやがて、天皇(制)への傾斜を助長し、異論を無視し、「聖域」を形成してしまうことにつながる。現に、リベラル政党も、リベラル派と称される論者も、かつての主張を微妙にシフトしながら、即位礼や大嘗祭などへの祝意を示し、メディアに重用される昨今である。「天皇陛下万歳」の誘導に声を上げ、配られた日の丸の小旗や提灯を揺らしている人々は、私の隣人たちでもある。(『ポトナム』2020年2月)

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歌壇、この一年を振り返る季節〈1〉短歌と天皇制 (2019年12月18日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/12/post-ac9040.html

「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(4)「無反応」だったのか (2019年3月 5日 )
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/03/217-0117.html

「短歌と天皇制」(2月17 日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(1)「その反省から出発した戦後短歌」って、ホント?(2019年2月25日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/02/210-9ef9.html

「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(2)「戦後短歌は皇室との関係を結ぶことに慎重だった」のか (2019年3月 1日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/03/210-80d0.html

「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(3)「天皇制アレルギー」って?(2019年3月 5日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/03/post-d222.html

 

 

 

 

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2020年2月10日 (月)

僕の前に道はないのか~アテにならない人たち、高村光太郎を手掛かりに

   地元の9条の会、「憲法9条をまもりたい会」のニュース40号(2020年2月)が出来ました。2006年7月、佐倉市の志津地区の有志14人で発足し、ほそぼそと活動を続けています。ニュースもようやく40号になりました。この間、講演会、映画会、駅頭宣伝、戦跡見学なども重ねてきましたが、もう一つ続けていることがあります。佐倉市内の4つの県立高校の校門前で、登校時のチラシ配布があります。すでに5巡目に入りました。チラシ配布にあたっては事前に高校側に挨拶に出かけ、主旨を説明し了解を得ています。しかし、年々、高校側からの確認や注文が多くなってきているのも事実です。40号の巻頭にはそんな会員の嘆きやつぶやきが語られています。現在の憲法のことを一番知ってもらいたい高校生たちへ、どうしたら私たちの思いが伝わるのか、毎回、チラシの内容は極力身近な問題を、レイアウト、おまけのしおりなどを挟んで工夫しているつもりなのですが、実際のところどうなのでしょうか。

 今回、私は、国語の教科書でもおなじみの高村光太郎のことを、改めて書いてみました。これまでも、昨年来、雑誌『季論21』やこのブログでも、くどいように書いてきました。その要旨たる部分を、寄稿したのが以下の文章です。

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僕の前に道はない/僕の後ろに道はできる/ああ、自然よ/父よ・・・

 国語の教科書で、この詩と出会い、声に出して朗読しているときの心地良さがよみがえる人も多いのではないか。高村光太郎の「道程」と題する詩である。 

智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。・・・

   高度経済成長期の公害問題が深刻化する中で、しきりに引用されたこのフレーズは、『智恵子抄』の「あどけない話」であったことを私も後で知った。
 この詩人高村光太郎〈1883~1956〉は、1941年12月8日、太平洋戦争開戦の二日後には、「十二月八日」と題して詩を作り、翌一月号の『婦人朝日』に発表した。

記憶せよ、十二月八日。/この日世界の歴史あらたまる。/アングロ・サクソンの主権、/この日東亜の陸と海とに否定さる。・・・

 また、1945年4月、東京の自宅を空襲で失い、8月15日、疎開先の花巻市郊外で「玉音放送」を聴いた光太郎は「一億の號泣」と題して、8月17日の『朝日新聞』に寄稿している。

綸言一たび出でて一億號泣す。/昭和二十年八月十五日正午、/・・・/玉音(ぎょくいん)の低きとどろきに五體をうたる。/五體わななきとどめあへず。/玉音ひびき終りて又音なし。/この時無聲の號泣國土に起り、/普天の一億ひとしく/究極に向つてひれ伏せるを知る。・・・

 太平洋戦争下、光太郎は、「シンガポール陥落」(1942年2月)、「アッツ島玉砕」(1943年5月)、「米軍の沖縄本島上陸」(1945年4月)との「大本営発表」があれば、即座に、新聞社やNHKの要請に応えた。ラジオは「愛国詩」の朗読を流し、新聞や雑誌は競うように光太郎の詩を載せ、国民の士気をあおり、愛国心を駆り立てた。「婦人」や「少国民」向けの雑誌にもよく登場した。ラジオで最も多く繰り返し放送されたのは、「最低にして最高の道」(『家の光』1940年9月)であったという。

もう止そう。/ちいひさな利欲とちひさなと不平と、/ちひさなぐちとちひさあ怒りと、/さういふうるさいけちなものは、/ああ、きれいにもう止そう。・・・

 また、「今上陛下指したまふところ、/われらよろこびおもむくなり、/あきらけきかな、おおいなるかなけふの賀節(よきひ)」(「ことほぎの詞」1942年2月)、「一切を超えて高きもの、/一切を超えて聖なるもの、/金色の菊花御紋章。」(「海軍魂を詠ず」1943年5月)などのように、神州の国を、天皇を、うたい上げ続け、日本文学報国会における詩歌部会長という要職も務めた。

 ところが、光太郎は、敗戦後も、疎開地の山小屋に留まり、「暗愚小傳」と名付けた20篇の詩を『展望』(1947年7月)に一挙発表すると、これらの作品は、戦時下の自らの活動を反省し、戦争責任を引き受けたとして、その潔い深い「自省」を高く評価された。しかし、山小屋生活といえども、多くの地元の人々や知人や東京の編集者らに支えられての暮らしであった。1946年2月、預金封鎖と新円切り替えがなされ、財産税が光太郎にもふりかかる。東京の弟との手紙で、光太郎の預貯金は5万6000円、亡父高村光雲の家が10万円と査定されたことがわかる。それがどれほどのものか。ちなみに私の父が残していた「国債貯金通帳」によれば1945年4月の空襲直後疎開先の銀行で便宜代払いを受けたのが200円と136円で残高ゼロとなっていた。その一方で、新しい「国債貯金通帳」と「報国貯金通帳」にも10円、2円の単位で貯金していた。父は、空襲で借家の店を失うまで、池袋で薬屋を営み、一家5人を支えていた。光太郎の山小屋生活といっても、私たちの疎開先や焼け跡のバラックでの暮らしの困難さ、家族を失った者の悲しみを想像できただろうか。 
 光太郎は、やがて、東京に戻り、彫刻を再開、十和田湖畔に立つ「乙女の像」の作成にあたる。その晩年には、つぎのような詩を発表する。唯一の被爆国にあって、1954年「第五福竜丸」の被爆体験、日本学術会議の原子力研究の自主・民主・公開の三原則声明、水爆禁止署名運動などが続く中で、光太郎は、つぎのフレーズで終わる「新しい天の火」(『読売新聞』1955年元旦)を発表した。

新年初頭の雲間にひかる/この原始爆発大火団の万能を捕へよ。/その光いまこのドームに注ぐ。/新しい天の火の如きもの/この議事堂を打て。/清められた新しき力ここにとどろけ。

 また、光太郎最晩年の「生命の大河」(『読売新聞』1956年1月1日)には、つぎのような一連があった。この発表の直前12月16日には原子力基本法など関連三法が成立し、まさに新年一月一日に施行している。発足した原子力委員会の初代委員長が『読売新聞』社主正力松太郎であったのである。

放射能の克服と/放射能の善用とに/科学は万全をかける。/原子力の解放は
やがて人類の一切を変へ/想像しがたい生活図の世紀が来る。

 ときの政府を支え、メデイアへの要請に応え、いとも簡単に「原子力平和利用神話」へとなだれ込んで行く。あの敗戦後の「自省」は何であったのか。この詩人の在りようは、現代の文化人や有識者の作品や発言と決して無縁ではない。引退した保守政治家や退職後の高級官僚がにわかに饒舌になったり、役職や勲章がちらつき、メディアの出番が多くなったと思ったら、いつの間にか発言がトーンダウンしたりする人がなんと多いことか。イチローよ、国民栄誉賞は、もらってくれるな?!

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東北へ~短い旅ながら(4)仙台文学館

 翌日の午前中、仙台文学館へでかけることにしていた。仙台駅西口に広がるデッキは、どこまで続くのか、幾通りにも分かれ、複雑だ。うっかり地上に降りてしまうと、横断ができないで、また、デッキに戻ったりする。バスターミナルの宮城交通②番乗り場から、北根2丁目(文学館前)下車、進行方向に向かって右側、入口への坂を上る。この文学館は、昨年で20周年を迎えた由、初代館長は井上ひさしだったが、現在の館長は、歌人の小池光である。

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台原森林公園の一角にある仙台文学館

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文庫版ほどのリーフレットと入場券

 

  20周年記念特別展「井上ひさしの劇列車Ⅱ」からまわる。井上ひさしの特別展は何度か開催されているらしい。今回は、井上の「評伝劇」と称される宮沢賢治、樋口一葉、太宰治、林芙美子、小林多喜二、魯迅、河竹黙阿弥、吉野作造、チェーホフをテーマにした劇の直筆原稿やメモ、書簡、参考資料などの展示とともに、一作ごとの意図や主人公・登場人物への井上の思いや評価を綴るエッセイからもたどる解説がなされていた。井上が取り上げる対象は、いずれも魅力的な人物には違いない。私自身も、一葉、芙美子、作造など深入りしそうになった人たちである。演劇自体も見ず、脚本自体も読まず、軽々には言えないのだが、今回の展示を見た限り、井上は、劇の主人公、登場人物には、親しみと敬意のまなざしをもって、惚れ込んでしまっている側面がみられた。たとえば多喜二を描いた「虐殺組曲」の特高刑事が多喜二を追っていくうちに感化されていく過程とか、林芙美子の戦前・戦後の 評価などには、「実は懸命に生きた、みんないい人」という楽観的な部分が気になった。

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「虐殺組曲」の解説、右がと二人の特高刑事への思い、左が社会運動にかかわった井上の父と多喜二を重ね合わせていたなど

 

 つぎに、「手を触れないでください」という和紙による壁のトンネルを通って、常設展に進んだ。その冒頭は、館長小池光の短歌が天井からの白い布いっぱいに並べられた展示だった。ここにも井上ひさしと仙台ゆかりの文学者、土井晩翠、島崎藤村、魯迅などのコーナーがある一方、佐伯一麦、恩田陸や伊坂幸太郎などの<平成>の作家たちの大きな写真パネルが目を引く。名前は聞くが、すでに知らない小説の世界である。仙台との縁を教えられる。

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館長小池光へのオマージュが強烈で、短歌講座なども定期的に開催されているらしい。こうした傾向は山梨県立文学館長の三枝昂之の場合も同様で、館長が前面に出る催事というのはいかがなものなのだろう。

 

 つぎの「震災と表現」のコーナーは、数年前、北上市の現代詩歌文学館での東日本大震災のコーナーと比べてのことなのだが、やや物足りなさを覚えたのも確かであるが、多くの震災関係の作品を残している佐藤通雅のパネルに出会って、歌われている背後の現実に思わず祈るような気持ちにさせられるのだった。

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 最後になったが、今回の文学館訪問の目的でもあった、朗読ライブラリーの「阿部静枝」のビデオを見ることになった。連れ合いはカフェで休んでいるという。阿部静枝(1899~1974)つながりの知人Sさんからも聞いていた、たった4分ほどの朗読ビデオだったが、その操作や、ストップをしての写真撮影に手間取った。このビデオは「コム・メディア」制作(朗読黒田弘子)となっていたが、12首ほどの選歌は、静枝の特徴を捉えたもので、なるほどと思わせるところがあった。

 

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生みし子は他人に任せて顔ぬぐひ世に生きゆくは復讐の如し(『霜の道』1950年)

 

 他にもつぎのような作品が朗読されていた。カッコ内は筆者が補記した。

 

・叶はざるねがひひそむ嫉みゆゑ強ひてもひとにさからはんとす(「秋草」1926年)

・憎まんとしてなみだ落つきみをおきなにを頼りてわが生くべしや(同上)

・ひたすらに堪へんと空をみつめゐる眼底いつか熱く濡れつつ(同上)

・ひとは遂にひとりとおもふおちつきをもちてしたしき山河のながめ〈同上)

・濃むらさきを好きなのは誰なりしかなあやめのおもひでひっつにあらず(『霜の道』1950年)

・暗き海の浪迫り寄れ死は想はず生き抜きて世を見かへさんとす(同上)

・せめてわが男の子を生みしありがたさわれに似る女を想ふは苦し(同上)

・忘却の救ひがあれば生きてゐよくちびるに歌のわく日も来なむ(『冬季』1956年)

・東西を分てる橋の切断面ぎざぎざの尖まで取り歩みゆく(『地中』1968年)

・断絶の壁ある下を掘りつらぬき人の想ひを通はせし地中(同上)

・生きものなどよせつけぬ様の星を知り地上のもろもろ更に美し(同上)

 

 仙台駅に戻って、荷物を預けたホテルへの道すがら、利久という店でランチを済ませた。みやげというものをほとんど買っていない。駅構内では、かまぼこ、牛タンの店がしのぎを削っているようだったが・・・。やはり疲れていたのだろう、帰りの新幹線「はやぶさ」では、しばらく眠り込んでしまったようだ。

 

 

 

 

 

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2020年2月 8日 (土)

東北へ~今回も短い旅ながら(3)宮城県美術館へ

 東北大学の中善並木と反対方向に進むと地下鉄東西線の川内駅へ。中層の白い住宅棟が並ぶ団地(公務員住宅らしい)に突き当たり、右の坂を下りると、宮城県美術館である。 まず、常設展の方から見ることにした。大方、写真撮影はOKのようだった。最初の部屋は、「洲之内徹コレクション」だけの作品であった。洲之内(1913~87)といえば「気まぐれ美術館」なのだが、すでに記憶も遠く、画商の傍ら美術評論家としての発言が思い出される。その経歴をこれまでよく知らなかった。東京美術学校在学中の1932年にプロレタリア運動にかかわったとして検挙、退学している。故郷の松山でも、運動を続け再び検挙され、転向後の1938年、軍の宣撫工作のため中国にわたる。戦後はこの時代に知り合った田村泰次郎が始めた画廊を引き継ぎ、特異な画家たちの発掘や展覧会に尽力した。この部屋の萬鉄五郎(1885~1927)の風景画と中村彝(1887~1924)の自画像が目を引いた。

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上段が、洲之内コレクション、
萬鉄五郎「春」(1912年)
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洲之内コレクションの中村彝「自画像(帽子を被る自画像)」(1909年頃)、「帽子を被る自画像」(1910年)の習作か。

  つぎの「日本の近現代美術」の部屋にある萬の自画像も洲之内コレクションだった。この部屋の冒頭が、あの鮭の絵で有名な高橋由一の三点、松島の二点はともかく「宮城県庁門前図」は、馬車の配置、当時の雰囲気がよく伝わる作品に思えた。18 81年は明治天皇の東北行幸があり、宮城県にも立ち寄っている。直接の関係はないかもしれないが、県の依頼により描かれたという。

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高橋由一「宮城県庁門前図」(1881年)。江戸時代の学問所養賢堂だったが、1945年7月10日の仙台空襲で焼失した。

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洲之内コレクション、萬鉄五郎「自画像」(1915年)

 つぎのコーナーでは「地下鉄停車場」(1924年)が目を引いたが、清水登之(1887~1945)の作品だった。清水は、若くして渡米、働きながらの修行、画業が長く、都市の人々や光景を描いていたが、件の作品は、フランスに渡ったばかりの1924年制作である。清水といえば、かつて、東京国立近代美術館で見た戦争画の中の一点「工兵隊架橋作業」(1942年)の印象が強い。テーマはまるで異なるのだが、展示会場の他の近辺の画家とは何か別のメッセージ、「生活」や「労働」というものが直に伝わってくるからだろうか。

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清水登之「地下鉄停車場」(1924年)。オルレアンの文字も読める。

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清水登之「工兵隊架橋作業」(1942年)、マレー半島を進む日本軍が爆破された橋の
架け直し工事の様子を描いている。

 また、松本峻介(1912~1948)の五点に出会えたのも収穫だった。なかでも大作「画家の像」は、街を背景に、家族を傍らにしっかりと大地に立つ構図は、代表作「立てる像」を思い起こさせる。まだ少年の面差しさえ伺わせる画家の自画像である

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五点のうち、左より、洲之内コレクション松本竣介「白い建物」(1941年頃)・「ニコライ堂」(1941年頃)と「画家の像」

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松本竣介「立てる像」(1942年)、『新人画展(カタログ)』(2008年11月22日~2009年1月12日、板橋区立美術館開催)より。

 他にパウル・クレー(1879 ~1940 )とカンディンスキー(1886~1944)の展示室も興味深いものがあった。二人はミュンヘンで出会い、ドイツの前衛芸術運動の「青騎士」に参加、ともに、バウハウスで教鞭をとることになる。クレーは1931年にナチス政権によりバウハウスを追われ、移ったデュッセルドルフ大学も解雇され、出身のスイスに避難する。カンディンスキーも、1933年、ナチスによるバウハウス閉校後は、パリへと居を移している。クレーといえば、2002年11月下旬、粉雪が舞い始めたベルンの街をめぐり、市立美術館で、クレーの作品に出会った時を思い出す。現在は、篤志家の支援で、2005年ベルン郊外にオープンしたパウル・クレー・センターに、市立美術館所蔵作品と遺族寄贈の作品およそ4000点が一堂に集められているという。できればもう一度と、かなわない夢を。さらに、カンディンスキーのつぎのような作品もあるのを知っていささか意表を突かれたのである。

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カンディンスキー「商人たちの到着」(1905年)

 併設の佐藤忠良記念館もめぐることに。宮城県大和町出身の彫刻家、佐藤忠良(1912~2011)自身の寄贈により、1990年にオープン。展示は年に何回か入れ替えがあるらしい。今回は、さまざまな「顔」、さまざまな「しぐさ」といったテーマで幾つか部屋に分かれていた。彫刻は、どちらかというと苦手ではあるが、佐藤の作品は、どれも優しく、清潔感のある、わかりやすい作品が多かった。

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「さまざまな顔」の部屋には、「群馬の人」のほか、左「母の顔」(1942年)と右「オリエ」(1949年)が並ぶ。オリエは、新劇女優の佐藤オリエの少女期のものである

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さまざまなしぐさの作品が並ぶ。正面が「足なげる女」(1957年)その左右の女性像の作品名は失念。窓の外に見える右が「少年の像」(1981年)、左が「夏」、ほかに、「あぐら」(1978年)などという作品もあった。

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「ボタン」(1967-69年)

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「甦りの踊り」(1974年)

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「このはづく」(1970年)、こんなフクロウの像が家の部屋にあったらな、とも。

 以上、1時間半余り、疲れて館内カフェで、ランチ代わりのお茶をしながら、朝から別行動の連れ合いにメールをすると、なんと企画展「アイヌの美しき手仕事」を見終わったところだという。夫は、ホール近くのベンチでメモをとっていた。仙台駅近くの朝市をめぐってのランチ、仙台戦災・復興記念館をすべて歩きで回ってきたという。記念館では、88歳の空襲体験者からの話を聞きながら見学したということだった。お茶のあと、私は企画展へ、夫は常設展へ向かった。

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タルトはイチゴかリンゴか迷ったが、イチゴもなかなかの美味。イチゴといえば、夫が朝市で買ってきた仙台イチゴ「もういっこ」は、ホテルの夕食後、部屋でたっぷり食しもした。カフェでしっかりと休んだ後、私は、企画展会場に入った。下段、カフェから中庭をのぞむ。この美術館は前川国男の設計なのだが、いま、村井宮城県知事から県民会館との統合施設として仙台医療センター跡地に移転する計画が出され、郡仙台市長が市民の意向に反するものと、異議を唱え、大きな問題になっているらしい。秋保のホテルで、知事・市長の協議が始まったとのニュースを見たばかりだった。

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柳宗悦と芹沢銈介のコレクションからの出展であった。

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2020年2月 5日 (水)

東北へ~今回も短い旅ながら(2)東北大学「中善並木」

  いつも素通りの仙台、気になっていた、美術館と文学館は是非と思っていた。私は、少々足に自信がなかったので、地下鉄東西線の国際センター下車、まず、目の前から始まる東北大の川内キャンパスに入る。緩い坂を上った交差点を左に折れると「中善並木」があるはずである。「中善並木」とは、1961年東北大学法学部中川善之助先生が退職される折、先生への感謝の意を込めて、学生たちが植樹をした桜並木で、その銘板には、経緯が詳しく記されていた。

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「中善並木」由来の銘板。

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「三太郎の小径」の案内標識、教授だった阿部次郎『三太郎の日記」に由来するとのこと。まっすぐ進むことにする。

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銘板の向かいは図書館、さらに進んだ辺りから振り返る。

 私が大学を卒業しての就職先が学習院大学政経学部の共同研究室だった。政経学部を経済と法学の二学部に分離創設する一年前のことで、中川先生は、すでに着任されていて、一年後、初代の法学部長になられた。私は、法学部新設を挟んだわずか二年間、共同研究室要員として在籍していたのだが、中川先生には、お世話になった上に、楽しい思い出を沢山いただいたような気がしている。在職中、共同研究室での何気ない会話や折に触れての談論風発の話は、魅力的だった。民法、とくに親族法が専門だったが、エッセイ集も出されていた。法律の勉強に熱心でなかった私も、先生の離婚における「破綻主義」の提唱者としての印象が強かった。先生は、東北大学時代、宮城県での「青少年条例」には断固反対、政治的、社会的な解決こそが先決だとする社会的な活動でもリベラルな考え方をする先生だった。学部の先生方と一緒に自宅に招かれたり、修善寺の職場旅行にお供したりした。私の退職後も、金沢大学学長になられたばかりの頃、能登半島旅行の仲間にも入れてくださったり・・・。そんなこともあって、話に聞いていた「中善並木」をぜひ訪ねたいと思っていたのである。先生は1975年、仙台へ向かう上野駅で倒れられ、急逝された。私共の結婚式に祝電をいただいた数日後だったのである。、

  冬の中善並木、裸木の桜はすでに老木も多く、少し寂しげではあった。開花や新緑の季節は、また別なのかもしれない。

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大学百周年記念会館萩ホールへ向かうタクシーや中高年の人たちがやたら多いと思って、近づいてみると、午後から「音楽宅急便・清塚信也」のリサイタルがあるらしい。全席指定6000円、当日券アリの看板も・・・。

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中善並木の突き当りが植物園で、迷子になるくらい広いそうだ。左手に進むと、羽生結弦選手が練習していたという五色沼があるとも聞いた。 この暖冬では凍っていそうにもないが。

 

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東北へ~今回も短い旅ながら(1)はじめての秋保温泉

 東北へは高校の修学旅行以来、蔵王のスキー、ひとり旅、ゼミOB旅行、出張、家族旅行などで、何度か訪れているはずなのだが、何せ広いので、限られた日数の局地的な旅に終わっていた。今回も3泊という短い旅ながら、秋保温泉2泊、仙台1泊、連れ合いの仙台での講演が済んだら、すぐに秋保(あきう)に向かってのんびりしたいという私の希望がかなった。東北新幹線E5系はやぶさ22号は全席指定。東北新幹線からの富士山は久しぶりだった。

 仙台の集会の前には、知人のSさんとお会いすることができた。私の短歌の師だった阿部静枝つながりで、ネットで知り合ったSさんは、短歌はなさらないが、静枝の遠縁にあたり、自分のルーツを探る中で、静枝の家系探索も始め、資料検索のみならず、存命の方には会いに出かけ、手紙を出すという行動力の成果によって、さまざまな情報を収集、これまでもいろいろ教えてもらっている。その努力の成果の一つ、阿部温知・静枝夫妻の家系図が出来上がりつつあると聞いている。メールや資料交換などを重ねていたので、初対面とは思えないほど話が弾んだ。今回の仙台行きで、私は東北大学のキャンパスで、訪ねたいところがあった。Sさんは、ながらく大学生協に勤められていたので、川内、片平キャンパスにも詳しく、いろいろ教えていただいた。
 連れ合いの仕事が終えるとすぐに、仙台駅前からホテルZの送迎バスに乗り込んだ。市街地を抜けると、トンネルに入るが、その長いこと、避難通路が何か所もあって、事故でもあったらと少し恐ろしくなる。青葉山トンネル、2200mもあるらしい。沿道の林は、裸木のためか、絡み合った細い枝、倒木が目立つどこにもある風景が続く。

 11階もあるホテルだが、広いの部屋で、ゆったりと内湯と大浴場で身をほぐす。テレビも見ず、パソコンにも向かわない時間、少しばかり本を読んだり、スケッチを楽しんだりした。ただ、圧巻?は、朝夕のバイキング、若いカップル、学生グループ、家族連れ・・・が、料理の間の通路を右往左往、テーブルの上は、食べつくしたあとのお皿が積まれていく。久しぶりに目にした観光地の賑わいだった。二日目は、宿の裏手を流れる名取川の奇岩が続く「磊々(らいらい)峡」の遊歩道、最近できたらしい秋保・里センターとワイナリーに寄ってみる。大きなホテルが並ぶが、経営は大丈夫かなど余計な心配もする。私たちが泊まったホテルとまったく趣の異なるホテルが、後でわかったことだが同じ会社の経営と知った。日本の観光地のあちこちの倒産、破産したホテルを買収しているらしい。女将を廃し、バイキングに力を入れている由、なるほどと妙に納得するのだった。

 

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「磊々峡」は、土井晩翠が名付けた由、県道の下の遊歩道は歩いて10分たらずだった。クマに注意の看板もあったが、ここで出会ったら逃げ道はない・・・。新しくできたらしい秋保・里センターとワイナリーも近い。

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