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2020年4月30日 (木)

18年前の旅日記~スイスからウィーンへ(1)

 もう整理のつかないCDの山から、乱雑なメモを頼りに昔の原稿を探していたところ、思いがけず、かつて、短歌の同人誌に載せてもらっていた旅行記をみつけた(『風景』106・107号 2004年9月・11月)。拙ブログを始める前のことである。私にとっては、まだ、海外旅行を始めてまもないころの文章であり、なにぶんにも冗長で、ひとり昂ぶっている感、満載なのだが、ともかく、このブログにも記録として残しておきたい衝動にかられた。ところが写真のCDが見つからないので、アルバムからスキャンしたものであるが、これはというものを撮ってないこともわかった。拙文とともにお目障りを承知しながら。

20021119日~レマン湖畔のホテルへ
 今回の旅は、あまりにも唐突であった。ベルギー・フランスの旅から帰って、3週間も経っていないある日、夫は、「ジュネーブの国際会議に参加するけど、一緒に行かないか」という。私は、前回の海外旅行の疲れがようやく抜けたばかりだったし、犬二匹の世話もある。留守番を決め込んでいたが、会議の後はウイーンに回ってもいい、との一言に決心したのだった。昨秋訪れたウイーンには機会があれば、もう一度訪ねたいと思っていたからだ。
 出発まであと3週間しかない。夫は総務省関係の仕事や原稿の締め切りを控え、私は自治会関係の厄介な問題を抱えていたし、自分の仕事もあった。夫はともかくホテルと飛行機をおさえ、ウイーンのコンサートを予約したという。私も、図書館や書店を回って本を探したり、東京芸大の美術館で開催中だった「ウイーン美術史美術館展」へも出かけたりした。

 結局、成田を発つ前の晩は、夫も私も3時間ぐらいしか眠っていなかったので、機内では、私は眠り込んでしまったが、夫は英語での報告ということもあって、その準備で、眠れなかったらしい。ジュネーブへの直行便がないので、フランクフルトの空港で1時間余過ごしたが、あまりにも閑散としているので気味が悪いくらいだった。夕刻の4時半というのに、あたりは真っ暗。月が出ているので、天気が悪いというわけではないらしい。ジュネーブまでもう一時間、空港からは、もう夜だし、ホテルまでタクシーにしようと決めていたが、国際会議担当の駐在員の二人が迎えに来てくれていた。お二人ともジュネーブ着任1年半、三十歳過ぎたばかりの国家公務員である。外交特権があるので空港内まで入れるのだそうだ。疲れている私たちにはありがたいことだった。ベンツに乗って夜のジュネーブの街へと走る。7時過ぎにホテルに着いたが、夫は、出迎えの二人と明日からの会議の打合せでロビーへと降りてゆく。ブリストル・ホテルはレマン湖畔に建っているはずだが、窓の下は、木立やベンチが街灯に映し出されている、静かな中庭、いやモンブラン広場だった。一人になると、慌てて家を出たとき、冷ましておいた犬のえさのタッパーを冷蔵庫にしまい忘れたことを思い出す。週末に帰省する娘の手間を省こうとしたのに、また文句のひとつも言われそうだ。
 打ち合せが済んだ夫とモンブラン通りからシャントブレ通りに入った和食の店を目指す。初日から和食とはだらしない話、五組ほどの客で賑わってはいるものの、古普請だからか階段や床が改装中みたいに埃っぽくも思え、早くひと風呂浴びたいの一心でホテルに戻る。

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ホテルの部屋から中庭にもなっているモンブラン広場、紅葉が見事だった

 

20021120日~美術歴史博物館の開館を待ちながら
 9時半から会議のある夫なので、早めに朝食をと思って、早起きをしたつもりだったが、7時を過ぎている。でも、窓の外は暗く、白みかけたのは、私たちが朝食のため部屋を出た8時近くだった。食後、向かいのモンブラン橋を渡って、イギリス公園まで出かけてみる。帰りはローヌ川の中ノ島になっているルソー島に寄って戻るという寒い朝の散歩であった。国連ヨーロッパ本部近くの会場に向かう夫を見送り、さあ、私一人の自由時間、昨日の駐在員の二人には市内の観光バスはいかがですかと勧められたが、それは午後から一便しかない。ジュネーブの観光シーズンは、10月でほとんどが終る。レマン湖めぐりの観光船も、あの有名なジェット噴水も夏だけの風物らしい。通年では、丸一日かかるモンブラン観光が唯一らしい。私は再び橋を渡り、イギリス公園の花時計の前を過ぎ、まずは旧市街へと急ぐ。たいした距離はなく、10時開館という美術歴史博物館には九時半に着いてしまう。  

 高台にある博物館だが、前の公園(オブセルバトワール公園)からリブ広場、レマン湖への道が一望できる。スケッチの一枚でも描いて置こうとベンチにすわる。じっとしているとかなり寒い。公園では、犬を遊ばせる人たちが集まってきた。なんと犬の糞を始末する小さいビニール袋が自由に引き出せる箱が設置されている。その下には専用のゴミ箱が置いてある。犬専用のゴミ箱はロンドンの公園でも見かけたことがあったが、袋まで用意してあるとは。公園の周囲は立体交差となっていて、すぐ左手には、紅い蔦が絡まるカレッジがあり、裁判所がある。荒いスケッチが出来上がり、体もかなり冷え切った頃、博物館はようやく開いた。入場してすぐ左手の古武器室では、講座が開かれているらしく、すでに20人近くの市民が話を聞いていた。二階に上がって、いきなり、モネ、シスレー、セザンヌ、ピサロ、クールベ、ルノアールなどが並ぶ一室がある。絵についてのキャプションは何一つない。ただ、壁に絵が並べてあるだけなのだ。画風でだいたいの見当はつくものの、絵の中のサインや額縁の記述を読んで確かめるしかない。入館は無料だし、実にラフな展示に驚きもしたが、これが本来の美術鑑賞なのかもしれないと妙に納得してしまう。どの部屋でも入館者に出会うのは稀で、実にゆったりと絵に向き合えるのがありがたかった。 

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ジュネーブ美術歴史博物館の案内のリーフレットがなかなかおしゃれであった

 12、3点はあろうかと思われるコロー・コレクションの部屋では、ここも講習会の準備なのだろうか、コローの一点をイーゼルに立てかけ、囲むように椅子が並べられてゆく。職員の出入りが多いなか、つぎの部屋へと急ぐ。ジュネーブゆかりの画家、フェルディナント・ホドラーのユングフラウを描いた作品、何枚かの青衣女性立像などが印象に残る。そういえば市内にはホドラーのフルネームが付けられた通りがあったはずだ。*注

 すでに12時近いが、近くのプチ・パレ美術館にまわってみたところ、ドアは閉まっていたので、ジュネーブ大学まで足をのばす。ルソー記念館があるはずなのだが、ここも昼休みなのだろうか。大学前の公園(バスティヨン公園)には壮大な100メートルにも及ぶ宗教改革記念碑が広がる。世界史では「カルヴィン派」と習ったが、「カルバン」生誕四〇〇年記念のこの碑の前のベンチで、私は、昨日のフランクフルトからの機内では食べられなかったサンドイッチとミネラル・ウォターという、みすぼらしい昼食となった。記念碑の裏側の広い道(クロワ・ルージュ通り)の後方が旧市街地のはずである。公園の端に、数面ある路上チェスでは、まさに多国籍の人たちがせわしく大きなコマを動かしている。

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上が「宗教改革記念碑」、下が広場のチェスに興じる人たちである

 トレイユ通りという坂を上がりきると、そこは見晴しのいい公園になっていて、世界一長いという木製のベンチがひたすら続く。石畳の路地に入ると、すぐに旧武器庫に突き当たり、その向かいが市役所である。ルソーの生家があるという通りを歩いてみるが、見つからなかった。そのうち、サン・ピエール寺院にぶつかるが、どこが入り口かわからないまま、一段と低い公園に紛れ込み、そのまま回り続けると、狭い広場に出る。メリーゴーランドがしつらえられ、テントの土産ものやが2、3軒並んでいる。人影はまばらで、なんとなくうらぶれた風情を横目に通り過ぎて、にぎやかなリブ通りに出たが、少し戻ったところのカフェで一休み。街は、すでにクリスマス気分で、ローヌ通りのブランド店のショーウィンドウもその飾り付けにさまざまな工夫が凝らされ、見て回るのは楽しい。しかし、見知らぬ街の一人歩きに疲れたのだろうか。早いがひとまずホテル戻ってみる。

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左が、サン・ピエール大聖堂。右、博物館の正面から大聖堂の尖塔が見える

  夫が帰るまでは、まだだいぶ時間がある。少し元気を取り戻して、再び街に出る。最寄りの鉄道ターミナル、コルナバンまでたいした距離ではないはずだ。ホテルの近くにはイギリス教会の石壁が柵も何もないまま、道行く人々の影を映している。その後ろが、バスターミナルになっている。モンブラン通りを進んでみる。この地の土産といえば、チョコレート、チーズ、時計、ナイフ、オルゴール、刺繍製品などらしい。急いで歩いたら5、6分の駅界隈は、さすがに人出も多い。雑多なビルが並ぶ駅前にはノートルダム教会がひっそりと建っている。
 夕食は、民族音楽の生演奏もあるという「エーデルワイス」というホテル内の店に決めていた。湖岸通りから入るのだが、一歩路地に入ると人通りがなく、二人連れでもなんとなく物騒な雰囲気が気になった。駐在員の一人Tさんが「ジュネーブの物価は高いが、治安はいい」と言っていたので、地図を頼りに進む。あちこちで工事現場に突き当たってしまって実にわかりにくかったが、ようやくたどり着いた店では、若くはない二人のミュージシャンが山岳地帯の民族楽器を使っての歌や演奏が始まっていた。夫は、明日の会議が控えていることもあり、ビールだけにとどめ、ワインは、明日の夜までお預けとする。明日の夕食は、Tさんたち二人と会食することにもなっていたからだ。

*注 すでに記憶が薄れていいるが、つぎのような作品だったろうと思う。

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上「無限のまなざし」1913~15年、下「恍惚とした女」1911年

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「白鳥のいるレマン湖からみたモンブラン」1918年、最晩年の作で、ガイドブックの表紙にもなっていた

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2020年4月29日 (水)

18年前の旅日記~スイスからウィーンへ(2)

20021121日~ナシオンから歩けば迷子になって
 夫が参加している会議の会場は、国連ヨーロッパ本部の近くでもあるので、朝は車に同乗し、報告をする夫には「がんばってね」とITUビルの前で別れる。国連の周囲は、何重もの移動用の鉄柵で囲まれているのが目立つ。正門からのぞくと、びっしりと加盟国国旗のポールが並ぶ。夫は昨日の昼休みに、中まで案内してもらったそうだ。観光客用の一時間ツアーもあるらしいが、先を急ぐことにする。振り返ると前の広場の巨大な椅子が目を引く。よく見ると、四本足の一本が途中で折られたというか、壊れたというか、そんな異様な姿で立っている椅子である。これは後からの話だが、あの椅子は戦争によって負傷した者を象徴しているといい、平和へのメッセージが込められているそうだ。が、それだけの説得力があるかどうかは、現在の国連のあり方にもかかっていよう。国連の建物はパレ・デ・ナシオンと呼ばれ、広いアリアナ公園に接している。

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正面が国際連合ヨーロッパ本部(パレ・デ・ナシオン)、加盟国の旗が林立する

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あまりうまく撮れていないが、中央の車の上に見えるのが、一本足を失った巨大な「壊れたイス」

  アリアナ公園に入ると、人影はほとんどなく、黄葉を樹下一面に敷き詰めている大木がまず目に入る。珍しく赤く紅葉している巨樹にも出会う。その木の間に現れたのが、ドームを持ち、外壁に朱鷺色のレリーフをめぐらしている瀟洒な建物、アリアナ美術館である。開館一〇時までには時間がある。ここにはベンチもないが、スケッチをはじめる。時折、目前の柳の枝は揺れ、昨夜の雨滴を振り落とし、今朝の冷え込みが一段と身に沁みる。がまんも限界かと思われた頃、開館と同時に入館する。見上げた吹き抜けの天井の豪華さと回廊に目を見張る。ドイツのマイセン、フランスのセーブルくらいは分かるのだが、中国、朝鮮をはじめ日本の伊万里、柿右衛門、スイスのニヨンなど世界各地の陶磁器が時代順に展示されている。知識のない者でも、その量と種類の多さに圧倒されるのだった。

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アリアナ美術館のうち・そと

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こんなものも出てきたので。アリアナ美術館の開館を待っている間、寒い中でのスケッチ?小学生並みのといっては、小学生に叱られるかも・・・

 せっかくジュネーブを訪ねたのだから、赤十字社にも敬意を表しておきたい。アリアナ公園の向かいとなる赤十字博物館では、日本語のオーディオ・ガイドを借りる。新しい展示技術を駆使し、音と光、映像による演出は、若者向けなのかもしれない。1863年、アンリ・デュナンにはじまる赤十字の活動が曲線をなす壁に、長い年表として現れる。そして、私がもっとも貴重なものに思えたのは、展示場の中央、天井にまで届く棚が続き、ぎっしり収納されている、第一次世界大戦時、三八の交戦国の捕虜収容所に拘束されていた200万人の700万枚に及ぶ調査カードのファイルである。どこの国の高校生たちか、ここで何を学んで帰って行くのだろう。クロークに山盛りになったダウンジャケットやコートは彼らのものにちがいない。

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 国際赤十字社博物館の案内リーフレットから

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国際赤十字博物館の全景

 コルナバン駅までだったら歩いて一五分はかからないはずだ。国連を背に、大通りを歩き始めたが、歩いても、歩いても、駅らしきものが見えない。30分も経つと不安になった。ビルばかりで人の気配がない街、地図を頼りに方向を変えて歩き出してみるが、今度は大きなマンションが続く住宅街に入ってしまう。歩いている人に、中学生程度の英語でコルナバン駅を聞くのだが、なかなか通じない。英語は話せないと断わるひと、ただ首をふるひと、肩をすぼめて腕を広げるひと・・・。そして出遭った、買い物帰りの年配の女性、歩いて行くなら途中まで一緒に、と言ってくれる。中国から来たのか、いつ来たのか、色々尋ねられ、話しかけられるのだが、残念なことに私にはほとんどが聞き取れない。にぎやかな商店街に出て、この道をどこまでも下っていくと、線路に突き当たるから、左に曲がれ、と。何度もお礼を言って別れた後は、びっしょりかいた汗が急に冷たくなる。10分以上歩いて、高架の線路が見えたときのうれしさといったらなかった。15分で着くところを1時間半は歩いていたことになる。

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ビルのてっぺんに、「OMPI」「WIP O」の文字が見えるが、上がフランス語、下が英語で、「世界知的所有権機構」を示す。このあたりで、駅に向かう道を間違えたらしい

 午後からは、ジュネーブ市内の南、カルージュに行きたいと思っていたのだが、コルナバン駅前から出る市バス13番の自動販売機の前で切符の買い方が分からず、まごまごしていて、バスを逃してしまう情けなさ。カルージュは時計職人をはじめ、工芸品、民芸品を作って売る店も多い町ということだったが、残念。午前中の迷子ですっかり自信を失った私は、計画を変えて、より確かな鉄道で、レマン湖沿いの隣町二ヨンへ行くことにする。二ヨンは特急IR(インターレギオ)で16分、アリアナ美術館にも収蔵されていた二ヨン焼きで有名らしい。ジュネーブで働く人々のベットタウンにもなっているという。案内書によれば二ヨン城は2005年まで工事中とのことだった。二ヨン駅も工事中で、間違って山側へ少し歩いてしまったが、静かな住宅街のあちこちでマンション建設が進んでいた。ガードをくぐってレマン湖へくだる街は、古いながら季節はずれの避暑地といったたたずまいである。昼下がりのこともあって、駅周辺は下校の高校生がたむろしている。小さなデパートも、スーパーもある。土産ものやも並ぶが、ドアを開けてみるには勇気が要りそうな雰囲気である。ひっそりと陶器を扱う店もあったが、右手に工事中の二ヨン城を見れば、すぐにアルプス湖岸通りに行き着く近さだ。湖を背に城を見上げると左手の高台には、ローマ時代の遺跡、神殿の柱塔が見える。石段を振り返り、振り返り登って行くと、また市庁舎前の広場に出る。回るといっても、駅を降りてからわずか一時間余りの滞在時間だった。帰りの列車の車窓には、すでに収穫を終えた葡萄畑が湖岸へと斜面いっぱいに広がっている光景が続いていた。
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ニヨンの街からニヨン城をのぞむ、四景

 夜にはとうとう冷たい雨が降りだしたが、会議を終えた夫とTさんたち二人との食事が予定されていた。スイス料理を食べさせてくれる店ということで、着いた先は、おととい私が一人で歩いた旧市街、その中心ともいえる市役所近くのレストラン「レ・ザミュール」である。二人の話だとジュネーブでもっとも古く、クリントン大統領も寄った店とのことだ。注文は、ほとんど二人にお任せで、ボトルの白ワイン、ムール貝の蒸しもの、ハーブ入りチーズ・フォンデユー。ビールはフォンデユーには合わず、おなかをこわす人がいるとのこと、つめたい水も飲まない方がいいですよ、とのことで、ワインをいつになく杯を重ねる。フォンデューは、パンをちぎって、チーズをつけるという単純なものだった。レマン湖でとれたわかさぎのような小魚の皿もあった。デザートは、今夜のお勧めというアイスクリームの上にカラメルソースをかけて焦がしたという、熱くてやがて冷たいという珍しいものだった。昼の会議の話も続いていたが、お子さんの話にも熱が入る。少し先輩の方のTさんは、娘さんは地元小学校の二年生だが、土曜日には日本の補習学校に通っているという。国際的な学校社会のなかで日本を代表しているという自負を身につけさせたいと語る。若い方のTさんの娘さんは一歳半、夫人が画家で託児所に預けているが、言葉が少し遅れていると心配していた。日本語とフランス語の混乱もあるけれど、不安は無用と医師にいわれているそうだ。バイリンガルな子供が育っていくのだろう。羨ましい話だ。私がニヨンまで出かけた話から、いまジュネーブ駐在員の奥さんたちの間で、ニヨン焼き教室が人気だという話になった。それというのも、継承する者が少ないニヨン焼き復活を目指す地元から日本人の器用さが期待されているのだそうだ。そろそろワインがまわってきた。夫とTさんとだいぶ押し問答をしていたが、当然のことながらお礼ということで夫が支払うことになった。雨はまだやまない。ライトアップされたサン・ピエトロ寺院の尖塔を見上げながら、旧市街を駐車場まで歩く。ジュネーブの雨は土砂降りが少なく、傘をさして歩くことは稀だともいう。車での移動が多いのだろう。それにしても、飲酒運転には寛大な国なのかな、と小さな疑問が頭をかすめるが、ホテルまで送っていただいたのはありがたい限りであった

 

 

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2020年4月22日 (水)

安倍首相のマスクとチューリップ

 安倍首相が熱心に進めたと思われる布マスクの配布、それにまつわる話題にこと欠かないようだ。マスクの買い付け先も契約金も明らかになった。三社合計して90億というのだが、総予算466億の内訳も知りたいところである。製造は中国やミャンマーなどの東南アジアということであるが、製品管理は大丈夫なのだろうか。いずれにしても、安倍首相がつけている布マスクが、その配布のマスクらしいのだが、どの写真を見ても、閣僚たちのマスクは、みなそれよりも大きい。報道に登場する各地の知事のマスクには、ファッション性の高い?ものも現れ、大きく顔を覆うものが多い。その最たるものは、小池都知事のマスクで、日に日に少しづつ大きくなっているのではと思うほどだ。「安倍首相と小池都知事のマスク姿の差異をどう読み解くべきか(4月18日 16:05配信 NEWS ポストセブン)なんて言う記事まであらわれた。
 もしマスクが届いたら、どうする?というメールをくれた友人もいる。解体して洗濯をして、作り直すという人もいると聞く。 

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閣僚の中で、安倍首相の小さい布マスクの孤立化が進む

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日に日に進化、拡大する小池都知事のマスク

 小池都知事は、連日開く記者会見だけでは足りず、いくつかのバージョンのあるCMまで流し始めた。*注 ことし7月の選挙を控え、これほどの事前運動がまかり通るとは、都民でなくても怒りさえを覚えるのだが。

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新宿、アルタ前の大画面、都内に9か所で、流されていた

 

 きのう、東京の友人から「佐倉では、チューリップが全部刈り取られたんだって」と電話があった。チューリップ広場の球根を掘り出す作業は聞いたことがあるが、人が集まるからと花を刈り取ってしまったというのだ。あわてて、佐倉市のホームページを見ると、4月14日付で、ふるさと広場のチューリップ畑には人が密集するので、苦渋の決断をした旨のお知らせが載っていた。ネットで記事を見つけ、新聞をひっくり返せば、朝日の千葉版に「チューリップ刈り取り無念 見物客減らず佐倉市が80万本」との報道があった。100種類80万本のすべてがトラクターで刈り取られたという。チューリップフェスタというイベントも、同じふるさと広場で開催する夏の花火大会も、すでに中止が発表されていた。どちらも出かけたことも、出かける気もなかったのだが、チューリップ畑は、佐倉駅に向かう京成本線の車窓から眺めることはあった。あのチューリップをぜんぶ刈り取ったとは、残酷な話ではないか。外出自粛は、思わぬ場所の密集を招くとも聞いているが、野外のチューリップ畑なのだから、市民の知恵でなんとか楽しめる工夫ができなかったものか。

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2020年4月22日『読売新聞』より

 我が家のチューリップは、毎年、手入れをしなくとも、何本かは咲いてくれるのだが、昨年、アムステルダムのスキポール空港で買った球根を植えていた。果たして咲いてくれるものか、不安だったが、クリーム色とそこに朱が混じった花をつけてくれたようだ。こんなことなら、シンゲルの花市場で、少しまとめて買って来てもよかったのにと、残念にも思うのだった。

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手前左の二本は、これまでの球根か、中にネギ坊主が一本混じっているのが見える。ご近所の方から泥ねぎをいただいたときに土をかぶせて、だいぶ長い間、使わせてもらった。その一本が残っていたらしい

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アムステルダム、シンゲルの花市場はこんなお店が並び、目がくらむばかりでした。チューリップに限らず、切り花はもちろん、球根も苗も、種も並ぶ。左側の棚には、何種類ものチューリップの球根の袋、どこの店にもあったのに。

 

*注 「東京都知事の小池百合子です」で始まり「都民一丸となってこの難局を乗り越えましょう」というテレビCMは、4月9日から始まった。民放六局が「外出を控えて」「買い物は必要な量に」など5つのパターン(各15秒)があり、1時間に1本程度のペースで放送し、都内九カ所の大型の街頭ビジョンでも流している。これらのバージョンは、4月18日に終了、以降は、ヒカキン?とかのユーチューバーが突然現れて、若い女性のユーチューバーが続き、外出自粛などを呼びかける動画を流しているそうだ。私も、何回か見ていたが、東京都のCMとはわからなかった。これらの動画配信とラジオ、新聞広告、YOU TUBEなどあわせて、広報の費用は14億円になるという。

 

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2020年4月21日 (火)

今度は一律10万円ですか~感染が拡大する中で

 4月4日の当ブログ記事で、「布マスク2枚の次は何ですか~税金なんですからムダ使いしないでください」と書いた。http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/04/post-5c6025.html

  私の住む佐倉市のHPによれば、4月20日現在、感染者24人となった。また、報道によれば、佐倉市内の高齢者施設で集団感染が発生、感染者は7人に及んだという(『毎日新聞(千葉版)』4月20日)。

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  医療や介護の現場での感染が拡大したのはなぜだろうか。マスク・防護服などの不足、人工呼吸器、重傷者入院ベッドなどの不備、そして何より、医療従事者や介護者の人材の不足などは、2月当初より指摘されていたし、海外の事情も届いていたはずである。PCR検査を重症者に限るとして、検査数を極力絞ったことが要因ではないか。オリンピック延期発表後は、感染者の拡大はあったものの、検査数が劇的に拡大したわけではなかった。陽性判明者の隔離も遅々として進まず、いまになって、都市部でのホテル借り上げなどが始まっているのが現状である。
  首相は、得意げにマスクの一斉送付を発表し、7割から8割減の外出制限要請を強調した。マスメデイアは、466億円かけて配布するマスクは小さすぎる、不良品が多い、届くのがいつかわからないなどと揶揄することはあっても、連休や週末の気のゆるみによる外出が、感染拡大の最大の原因であるかのように喧伝し、タレントやスポーツ選手たちの外出自粛の呼びかけを増幅させたりしている。外出自粛は、たしかに大事ではあるが、政府がこればかりを強調するのは、これまでの愚策の責任転嫁のように思えてならない。検査希望者の検査を抑え、陽性軽症患者を自宅療養の名のもとに放置されていたことこそが、拡大につながってしまったのではないか。発熱外来の設置や検査手続きの簡素化により、感染者の早期発見と隔離が肝心ではなかったのか。

  政府は、4月7日に発表した収入減少者への30万円給付を、すったもんだで、わずか1週間で変更、4月16日には、一律10万円給付が発表されたのだった。まさに「朝令暮改」である。ところが、その手続きも、手上げ方式だの、住民基本台帳ベースにするだの閣内不一致があらわになり、国民は戸惑うばかりであった。4月20日の閣議決定では、住民基本台帳ベースで書類が届き、郵送、オンラインでの申請の際に振込口座番号を記入するという。個人情報流出のリスクを担保する保証がない。どこでも起こり得る流出や漏洩である。
  そして、第一に、一人一律10万円では、現実的な不公平が、まず、問題視されるだろう。収入の減らない人、富裕層の人たちにも給付されることになり、一方で、本当に困っている人が、当座だけでもしのげる給付にも程遠いといわざるを得ない。ホームレスの人たちやネットカフェを転々としている人たち、施設やシェルターにいる人たちはどうなるのだろう。4月20日の閣議で決まった、補正予算を含め、このための予算は12兆8803億となる。総予算117兆余円だから、約一割に当たるのだ。

 安倍首相は、会見や会議の発言において、有識者会議や諮問会議の意見を踏まえてという文言を必ず付け加え、「専門家」のお墨付きのごとく振舞うが、「専門家」は専門家で利用されることは承知で、たとえ、齟齬があったとしても抗議をすることもない。さらに、彼らは、マスメディアに入れ替わり立ち替わり、解説者として登場し、政府の広報官と化す。とくにNHKの報道においてはその傾向が著しく、NHKの報道自体が、まさに政府広報となる。一部の新聞や民放では、世論調査などを背景に、政府に批判的な解説者をバランスよく配することもあり、芸人やスポーツ選手を動員して、「希望をもってがんばろう」と、お茶をにごすこともある。
 いったい私たち家庭にいる高齢者は、どうしたらいいのか。ひたすら家にこもり、テレビに向かって文句を言っても、何も変わらない。ときにはストレッチをし、布マスクを手縫いしてみたり、少しばかりていねいにカレーを作ったり、タンスの衣類の入れ替えをしたりすることぐらいしかできない。
 世の中で、テレワークなどできる仕事は限られ、毎日出勤しなければならない人たちに外出自粛といっても無理だろう。売り上げ減から廃業寸前の店主たち、職を失った人たち、学校や保育所、学童保育所に行けなくなった子供たち、給食がなくなって、まともに三食がとれなくなった子供たち・・・。勉学やバイトを絶たれた学生たち、予定した手術が延期になった知人もいる。

 小さくてもいい、一人でもいい、この理不尽に声を上げ、記憶に留め、記録を残しておきたいと思うのだった。

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はや、ドクダミが繁茂し始めたこんなところにハハコグサが。

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毎年、ここには、ウラシマソウが咲き出す。この日、近くの公園の散策路でのこと、前日の強風で落ちた木の枝かと思ったら、なんと動き出したのはヘビだった。

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2020年4月16日 (木)

京都の三月書房が閉店へ

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 物置のわきのつつじが咲き始めた。去年、植木の手入れをお願いしたシルバーの植木屋さんから、このつつじの土はだいぶ弱ってますよ、といわれて心配だったが、何とか花をつけ始めた

 

 京都の三月書房が閉店との報道に接して、やはり驚き、なんだかとてもさびしい。朝日新聞は「京都の名物書店、三月書房が閉店へ 吉本隆明さんら通う」(2020年2月17日)、京都新聞は京都の個性派書店「三月書房」年内に廃業 70歳店主、私が元気なうちに片付けたい」(2020年2月18日)と伝えた。1950年、先代が開業し、引き継いできたが、後継者もないことから、70歳を機に5月の連休明けをもって閉店するということだった。私は、三月書房の利用者でもなく、特別なご縁もなかったのだが、いつからか、私のこのブログに、三月書房から、飛んでくるアクセスが時折あることがわかって、たどってみると、三月書房のHPに以下の情報が載っていたのである。歌人たちのHPやブログが数多い中で、リストに加えてくださっていたのである。

 いつかお礼をと思っていたのだが、2016年、年末の京都行きの際、家族との会食の前に、お店を訪ねることができた。連れ合いと娘を外に待たせて、そっと入ってみた。出てこられた女性は用件を聞いて「今主人は出ていますが、すぐ戻ります」との話が終わるか終わらない先に自転車で戻られたのが、店主の宍戸立夫さんだった。お礼を申し上げたあと、棚を見れば、短歌関係の本にも力を入れていることは、よくわかるのだった。宍戸さんは「短歌の本は売れませんね、歌集などは歌人同士の贈答が多いので・・・」とも話されていた。

 閉店となると、せっかくリンクしていただいた私のブログであるが、アクセスが途絶えてしまうのかな、と思うと残念でもある。

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2016年12月撮影。昔ながらの街の本屋さんというたたずまいながら、その品ぞろえに特徴がある。短歌関係の本もなるほどと思う。私の住む町の駅前ビル内の文教堂が撤退した後、宮脇書店が入ったが、続いてくれるだろうか。いつも閑散としている。少し離れたイオンタウン内の未来屋書店には、閲覧席もあり、隣のカフェのコーヒーを持ち込んでもいいらしいが、どうも本が探しづらい。奥の方の閲覧席は、いつも受験生らしき人たちが陣取っている。いずれの本屋さんにも、俳句・短歌コーナーはあるが、ほとんどが俳句の本で、夏井いつき本が頑張って?いる。

 

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2020年4月13日 (月)

『「関さんの森」の奇跡』(関啓子著)を読みました。自粛の折の「関さんの森」の今

  ホームページ「関さんの森・エコミュージアム」(http://www.seki-mori.com/)によれば、さまざまな行事は中止ながら、散策路は開放されているようだ。この芽吹きと花の季節、すぐにも新緑の季節がやってくるというのに、あの手入れが行き届いた里山の草木はもちろん、鳥や虫、小さな生き物たちはどうしているだろうか。昨年の台風で倒れた木や折れた枝の始末も、ボランテイアの方々が懸命に進めている、という。私も、だいぶ前になるが、二回ほど訪ねている。その頃、転勤前の長女がボランテイアで、休日には、よく通っていたのだった。あの鬱蒼とした森の中には、池もあり、もちろん、曲がり家の関さんの自宅も蔵もある。

 ことし一月に、新評論から出版された『「関さんの森」の奇跡―市民が育む里山が地球を救う』の長いサブタイトルにも興味をそそられた。著者は、関家の姉妹の一人の関啓子さんなのである。また、本の帯の「行政指導に<待った>をかけた・・・」というのも気になるところだった。というのも、私たち市民グループや自治会で、隣接の緑地や雑木林の開発をめぐって、開発業者と佐倉市・千葉県と幾多の交渉を重ねた経験があったからである。

目次

はじめに
第1部 里山論
 第1章 里山とは何か
 第2章 なぜ、里山は壊れるのか―里山の昔と今
 第3章 里山の価値―なぜ、里山を護らなくてはならないのか

第2部 里山を育み、護る運動
 第4章「関さんの森を育む会」の誕生と活動
 第5章「関さんの森エコミュージアム」の誕生 
 第6章 市民力が自然を護る―環境保護の市民運動と学習
 第7章 市民力が自然を救う

第3部 里山保全イノベーション
 第8章 コモンズとトラスト
 第9章 緑と親しみ、人とつながり、今を楽しむ―市民としての成長

エピローグ
あとがき

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 そもそも、「関さんの森」とは、千葉県松戸市にある2.1へクタールの里山で、江戸時代に名主を務めていた関家が代々引き継いできた広い屋敷林だが、周辺の開発が進む中、関家当主の武夫さんは、屋敷林の自然を守り続け、「こどもの森」として一部を開放していた。1994年、関武夫さんの死後、残された姉妹は相続税のこともあって、翌年、一部を環境保護団体に寄付、「関さんの森」として、市民に開放され、憩いの場として、子供たちの環境教育の場として活用されている。

 本の第1部では、里山の保護の重要性が論じられる。第2部の前半では、1996年に発足した、ボランテイア団体の「関さんの森を育む会」を中心に、屋敷林の維持管理作業をはじめ、ニュースの発行などさまざまな形の広報活動と定例の見学会、学習体験、花まつり、タケノコ掘り、そうめん流しなど季節の催しものなど、多彩な活動を多くの写真とともに、かかわった人々の熱意と努力による活動が具体的に語られている。そうした人々への敬意と感謝の気持ちがおのずと伝わってくるのが印象的だった。
 また、第2部の第6章では、2008年「関さんの森エコミュージアム」の発足とともに市民による活動が活発になった折、なんと1964年に都市計画決定した都市計画道路3・3・7号線予定地の強制収用手続きが松戸市によって、突如、開始し、屋敷林が分断することになるのであった。松戸市や市議会の強硬姿勢、隣接の区画整理組合と松戸市民たちや研究者たちによる抗議や抵抗の活動が時系列で綴られている。しかし、その攻防が膠着状態になったときに、「景観市民ネット」の助言などもあり、いわゆる「政策提案型」の運動に舵を切るようになる経緯などは、不安と期待がないまぜになって、読者をひきつけるのではないか。
 ここでは、利便性を標榜する道路づくりの「公共性」より、以下の指向性を持つもう一つの「公共性」の重要性を強調する。すなわち、自然環境の保護/子供と市民による公共利用の優先/強制収用という手段ではない政策実現過程の民主化/行政主導ではない市民の希望を反映したまちづくり、の観点から、道路計画の線形を変更し、自然破壊の少ない道路建設の代替案を提出、実現への道を歩み始めた過程を明快に論じ、社会学専攻の研究者(一橋大学名誉教授)としての姿勢にも感銘を受けた。2009年には、計画道路は関家の屋敷の外側を迂回することで、関家と松戸市は合意、2012年の開通にこぎつけたのは、「市民力」の成果であったとする。地縁や血縁に拘束されない開かれた集団、共通の目的や関心のもとに生まれた、自発的な「手作りのコミュニティ」重要性をと説く(212頁)。

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迂完することによって開通した都市計画道路、関家の蔵や門が残された(相続の折、寄付を受けた埼玉生態系保存協会のHPより)


 
第3部では、より広い視野で、日本内外のナショナル・トラスト運動や日本各地の市民運動が報告される。また、最終章では、都市近郊の里山保全に加えて林業地域での里山再生に触れて、目指すところの、藻谷浩介の「里山資本主義」、広井良典の「定常型社会」の考え方を紹介するが、いま私は、両氏の著作を読んでいないので、ややわかりづらいところがあった。前者は「森や人間関係といったお金で買えない資産に、最新のテクノロジーを加えて活用することでで、マネー―だけが頼りの暮らしよりも、はるかに安心で安全で底堅い未来が出現する」といい、後者は「経済成長ということを絶対的な目標としなくても十分豊かさが実現していく社会」(持続可能な福祉社会)への移行を目指すとするが、行政や開発優先の人々と闘い、市民分断にも直面してきた、関さんの森を守ろうとしたきびしい闘いの現場との乖離が思われたのだが。

 なお、2012年5月、見学に訪れた折の、当ブログ記事を、併せてご覧いただければと思います。

・新松戸、「関さんの森」に出かけました(2012年5月8日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/05/post-e122.html

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「育む会」の会報は、毎年1月に刊行されている。手元にあった36号は、28頁もあり、20年の歩みの年表も付されていた。

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2012年5月、見学に訪れた時の、古い写真。右のような古木もあるし、散策路も整備されていた

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2012年5月、関家の庭側から見た門、木漏れ日が揺れていた

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2012年1月、3年がかりの準備を経て、移植された、関さんの森のシンボルツリーであるケンポナシが芽吹き始めていた

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2014年5月に訪ねた折のケンポナシ、立派に根付いていた

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2020年4月 7日 (火)

「阿部静枝の戦後」が友愛労働歴史館のHPに紹介されました。

 4月1日の記事にあります拙著「阿部静枝の戦後ー歌集『霜の道』と評論活動をめぐって」(『昭和後期女性文学論』所収)が「友愛労働歴史館」のHPに紹介されました。論文集の表紙と阿部静枝の若き日の肖像画とともに掲載されていました。 

 紹介記事の後には、筆者の第一歌集『冬の手紙』の批評会(1971年)の折のスナップを掲載しました。

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『昭和後期女性文学論』の論文「阿部静枝の戦後」(内野光子著)を読む!

この程、翰林書房から『昭和後期女性文学論』(新・フェミニズム批評の会)が出版されました。同書には友愛労働歴史館ゆかりの阿部静枝を取り上げた論文「阿部静枝の戦後―歌集『霜の道』と評論活動をめぐって」(内野光子著)が掲載されています。著者の内野光子氏は阿部静枝のお弟子さんで、歌人・評論家。

阿部静枝(写真)は歌人(ポトナム同人)、評論家であると同時に社会運動家で、民社党やその前身である社会民衆党(大正15年に安部磯雄や片山哲らが結党)を代表する戦前・戦後の婦人運動家。同志に赤松常子(労働運動家、参議院議員)や赤松明子(吉野作造二女)らがいました。

友愛労働歴史館は2014年に開催した企画展「同盟結成から50年、その今日的意義を探る」(2014.9.82015.2.28)の中で阿部静枝を取り上げ、紹介しています。その折の解説スライド「阿部静枝―歌人・評論家・社会運動家」をPDFデータで送付いたしますので、希望者は友愛労働歴史館までご連絡ください。

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私の第一歌集『冬の手紙』批評会の折の阿部静枝、玉城徹の両氏です(1971年)

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私の手元に、唯一あった色紙だったが、友愛労働歴史館に寄贈しました

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2020年4月 5日 (日)

もう一度見たかったハマスホイ~都美術館の展覧会は中止になった

 もう十年以上も前に、当時はハンマースホイと表記されていたと思うが、国立西洋美術館での展覧会(「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」2008年9月30日~12月7日)は見逃しながらも、デンマークの、この画家の室内画に、どこか心惹かれるものがあった。そして、たまたま、2009年8月、連れ合いとの海外旅行が北欧になり、一泊ながらデンマークに寄ることができた。コペンハーゲンでは、さっそく国立美術館に出かけて、大急ぎで、見て回った。

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デンマーク国立美術館 2009年8月26日

 

当時のスナップには、こんな絵が残されていた。

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右手の中央が「古いストーブのある室内」(1888)

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央が「自画像」(1911)、右が「ティーカップを持つ画家の妻」(1907)

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この裸婦の絵の前で映してもらった写真もあるのだが

 新型ウイルス感染予防のため会期の途中で中止となった「ハマスホイとデンマーク絵画」では、どんな作品が見られたのだろう。展覧会の公式ホームページの出品目録によれば、40点ほどの作品のうち、デンマーク国立美術館所蔵は10点ほどだろうか。すでに記憶が薄れてしまっただけに、あらためて見てみたかった

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「ピアノを弾く妻イーダのいる室内(1910)、国立西洋美術館蔵

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「陽光習作」(1906)デーヴィズコレクション。こんな絵を見たかった

 

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 4月5日、東京都のあらたな感染者が143人になったという。今朝、雨上がりのイチジクのえさ台にやってきたヒヨドリ、ガラス戸のカーテンを開けようが、戸を開けようが、背を見せてミカンをついばみ、シャターの音を聞きつけてか、キッと横を向いたのには、こちらが驚く。

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2020年4月 4日 (土)

「布マスク2枚」の次は何ですか~税金なんですからムダ使いしないでください

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表札下の植え込みにだいぶ前から咲き出したツルニチニチソウ

 4月1日、首相は、小さめの布マスクをかけて、会議に出ていた。あんな隙間があっては、感染予防にはならないだろう。衆議院の本会議でも、議員は一斉にマスクをつけ始めた。民主党政権時代、2011年3月11日の東日本大震災、福島原発事故対応で記者会見する枝野官房長官が連日作業服であったことを思い出す(確か5月1日に、作業服を脱いでいた)。いずれも、フォーマンスの一つに見える。まさに「悪夢の安倍政権時代」に、さまよう国民になりかねない昨今の様相である。 

 首相は、対策本部会議でも、参議院決算委員会でも、各住所?(一世帯?)に、布マスク2枚を配布するというのだ。いまさら、といってもいつになるかわからない、いや、再来週からとは言っているが、各家庭に2枚の布マスクを届けて、何が変わるのか。その経費と人手はもっと有効に使ってほしい。約5000万世帯、空き家が約800万・・・。たださえ人手不足の郵便局の配達員の苦労が思いやられる。

4月2日、通院の日、風も強かったので、短い距離ながらタクシーに乗った。運転手さんが「病院も四月から、入り口で検温と消毒を始めたそうですよ、さっきのお客さん言ってました」と話し始めた。「政治のことは言いたくないけどね、マスク2枚って、どういうことですか。うちは五人家族なんだけど・・・おかしくないですか」に始まり、親しい飲み屋の店主が、もう駄目だ、無利子たって、借金したら返さないかんもの、できやしない・・・と怒っていたそうで、マスク2枚より先にやることがあると嘆いていた。 

 これが大方の国民の反応ではないか。この「マスク2枚」には、マスメデイアも、素早く反応し、疑問を呈するコメンテイターの発言も多い。一方で、「どこで感染が拡大しているか」「非常事態宣言がいつ出されるか」、「医療崩壊が起こるとどうなるか」などが話題にもなっているが、市民の一人として、つぎのような不安について、政府や自治体はどういう対策を実践しているのか否かを、明確に発信してほしい。さらに、行政ができ得る施策や発表しない情報をキャッチし、メディアは、取材・調査して報道してほしいのだ。 

4月3日、厚労省「ガイドライン」が発表され、重症患者を優先して治療する必要から、都道府県が用意する宿泊施設に陽性で無症状や軽症者は、自宅か宿泊施設で2週間療養せよ、ということらしい。

・無症状、軽症者でも、高齢者、妊婦、基礎疾患がある人は、対象外とするという。
⇒入院させるということならば、重症者と合わせての病床の確保はできているのか。

・高齢者、医療従事者、福祉・介護職員とその同居者は優先的に宿泊施設で療養するという
⇒その宿泊施設は確保されているのか。

・自宅療養となった人は、高齢者などと同居している場合は生活空間を完全に分けたうえで、自己申告による健康チェックして、自治体が管理するという。
⇒住宅事情から、現実的には無理な要請ではないか。介護者を限定するというが、一人世帯、二人世帯、要介護者がいる世帯など様々な事情を抱えている世帯の想定ができているのだろうか。

  いずれにしても、都道府県に丸投げで、中央官僚の机上のガイドラインに思えてならない。宿泊施設にしても、各都道府県にある国の宿泊施設や研修所などを率先して開放したうえで、民間のホテルなどの協力を要請するのが順序ではないか。4日の報道によれば、裁判所の書記官研修、国税庁の新人研修が、それぞれの宿泊施設に合宿して始まる予定だったが、和光市長やや埼玉県知事の要請で、延期、オンライン研修などに切り替えることになったという。当然のことで、こういった施設こそが開放されるべきなのではないのか。クルーズ船の下船者に提供していたこともあったのだから。

 そして昨3日には、「現金給付一世帯30万円」という政府方針が示された。自己申告によるのだそうだが、その具体的な条件までは示されていない。「一定水準の減収」などを見極めるのは市町村の窓口だから、その煩雑さ、公平性の担保、不正防止など問題は山積みである。一律10万円給付などの与野党の要請を「30万」とするのも、現実の給付現場をしらない政治家の発想である。 

 ちなみに、安倍首相の布マスクは、やや大判になった、専門家会議の尾身副座長のマスクは鼻を覆ってなかった、などネット上をにぎわせているようだが、よく見ればなるほどと。「マスク2枚配布」批判、テレビの報道番組でも連日話題になり、新聞の社説にまで登場した。「アベノマスク」は、ネット上で拡散しているが、「言い出しっぺ」は、なかなか鋭いと感心もしている。

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北側のモクレンが咲き始めた。草木のいとなみの確かさをおもいつつ

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2020年4月 1日 (水)

女性歌人のいま・むかし~二つの文章が活字になりました

 三月末に、以下が刊行されました。

① 「阿部静枝の戦後―歌集『霜の道』と評論活動をめぐって」(新・フェミニズム批評の会編『昭和後期女性文学論』 翰林書房 2020年3月28日)
② 「女性歌人の評価は変わったのか―『短歌研究』『短歌』の数字からみる」(『ポトナム』 ポトナム短歌会 2020年4月)

 ①は、すでに数年前の「新・フェニミズム批評の会」でのレポートを踏まえています。
「ふたたび、阿部静枝について、報告しました」 2016217
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/02/post-c250.html

 また、今回の論稿は、すでに刊行された以下の二拙著に連なるものとなります。

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★阿部静枝の短歌はどう変わったのか―無産女性運動から翼賛へ(新・フェミニズム批評の会編『昭和前期女性文学論』 翰林書房 2016年10月15日)

★内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか―女性歌人起用の背景(拙著『天皇の短歌は何を語るのか』 御茶の水書房 2013年8月15日) 

 「阿部静枝って、だれ?」「新・フェミニズム批評の会とは?」と思われた方は、とりあえず、つぎの当ブログ記事をお読みいただけたらと思います。

『昭和前期女性文学論』(新・フェミニズム批評の会編 201610月)に寄稿しました」2016116
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/11/201610-3cc6.html

  ②は、かねてより、いくつかのデータを収集、作成していましたが、その一部を使って、書いたものです。執筆予定者に代わってのピンチヒッターでした。どこかにミスはなかったか、どれほどのことを伝えられたか、不安です。5頁なので、全文をここに掲げますので、ご教示いただきたいと思います。

不鮮明ですが、クリックしていただければ読めると思います

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