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2020年5月31日 (日)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(3)

 古関裕而と菊田一夫の出会いに移る前に、近くの書店を回って、入手できた本について書いておきたい。
⑥刑部芳則『古関裕而―流行作曲家と激動の昭和』中央公論新社 2019年11月(2020年3月 3版)

 この本の執筆は、少年時代から古関裕而の大ファンであったことに加えて、NHK朝ドラ「エール」の放送企画が契機となり、古関裕而の遺族、古関裕而記念館学芸員、日本コロムビアなどの協力のもとに始めたと、著者は「あとがき」に記している。そして、「エール」の時代考証を担当することにもなったという。本のオビには「昭和の光と影を歩んだ作曲家の軌跡」とうたわれ、これまで見られなかった史料や既刊の関係雑誌文献や図書を駆使した労作である。同時に、古関への敬慕とオマージュが色濃い書でもあった。私が、まず着目したのは、巻末の「作曲一覧」で、レコード発売作品、映画音楽作品、舞台音楽作品の三つの編年体のリストで、それぞれ、発売年月日、封切り年月日、公演期間と現在の聴取手段が記されている貴重なデータであった。古関を語るには、基本的な資料であり、私の前回、前々回の当ブログ記事を書いている折の疑問が解けたものもあり、データの大切さを知った。

 その一つが、古関裕而記念館の「作曲一覧」で「比島沖の決戦」(西條八十作詞/酒井弘・朝倉春子)の発売年月が敗戦後の1945年12月となっていたことで、記念館に電話で問い合わせたところ、電話口の館長は「論理的におかしいですね。学芸員に伝えます」とのことだった。今回、⑥の「作曲一覧」を見ると、1945年2月20日となっていた。本文の記述によると、1944年12月17日に「比島決戦の歌」がラジオで発表され、以降、いくつかの歌番組で放送されていたが、実際にレコードが発売されたかは不明ともいう(⑥129頁)。これは、④の著者の記憶や推測とも一致する。なお、この「作曲一覧」によれば、1945年2月20日には、「フィリッピン沖の決戦」(藤浦洸作詞/伊藤武雄)も発売されていることになっていて、ラジオでは、1945年1月5日まで放送されていたという(⑥128頁)。また、この本について、は後にも触れることにする。

 さて、古関の生涯、作曲家としての仕事に大きな影響を与えた菊田一夫との出会いは、菊田の脚本によるNHKラジオドラマ「当世五人男」の音楽を担当することになった1937年が最初であったが、戦時下に途絶え、再会するのは、1945年10月28日から7回シリーズのNHKラジオドラマ「山から来た男」であった。そして、「鐘の鳴る丘」(1947年7月5日~1950年12月29日)、「さくらんぼ大将」(1951年1月4日~1952年3月31日)、「君の名は」(1952年4月10日~1954年4月8日)と続くのである。
 私が聴いていた記憶があるのは、前二つで、「君の名は」は、兄たちが「すれ違いだらけのメロドラマだよ」みたいなことを口にしていたのは覚えているが、母も店が忙しい時間帯でもあり、聴いていた姿の記憶はない。銭湯の女湯ががら空きになった、とかの宣伝文句も後に聞いたことはあった。営む店が「平和湯」という銭湯のはす向かいだったので、石鹸やへちま、軽石、アカスリなどのお風呂用品が普通に売れていたが、「がら空き」の件は、もちろん話題にもなっていなかったと思う。当時は、大人の洗髪料金を申し出により?番台で余分に払っていた時代ではなかったか。そもそも料金はいくらだったのかな、など思い出も尽きないのだが。
 当時のラジオ番組で、私が欠かさず聴いていたのは、「鐘の鳴る丘」と「おらあ、三太だ」で始まる「三太物語」(青木茂作)であったと思い、調べてみると、後者の放送期間は1950年4月30日から51年10月28日とあり、「鐘の鳴る丘」「さくらんぼ大将」と一部重なっていることがわかった。

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『全音歌謡傑作集』(全音楽譜出版社 1948年10月 45円)は、私が、建て替え前の実家の物置から持って出た、敗戦直後の数冊の流行歌集のなかで一番古いもの。いわゆる仙花紙なので、どこを触っても崩れそうな、補修もままならない。やや扇情的にも思える表紙絵のこの歌集に「とんがり帽子」が、載っていた。「とんがり帽子」は、レコードでもラジオドラマでも、川田正子が歌っていて、海沼実が指揮する「音羽ゆりかご会」の合唱が入っているはずなのだが、敗戦直後の何冊かの川田孝子・正子の愛唱歌集や童謡集にも、収録されていないのが不思議だったのだが。


 また、当時の記憶に残る番組は、いくつかあるが、7時のニュースの後に始まる「向こう三軒両隣り」(1947年7月1日~53年4月10日)、「朝の訪問」(1948年4月4日~64年4月5日)、「日曜娯楽版」(1947年10月12日~52年6月8日)、日曜の8時からの「音楽の泉」(1949年9月11日~、進行役の初代:堀内敬三)とたどってゆくときりがない。「日曜娯楽版」が、政府の圧力か、いまでいう、NHKの政府への「忖度」で終了したらしいと、次兄などが悔しがっていたのを思い出す。この件は、当時国会でも議論されていて、末尾の「敗戦とラジオ」の記事をご覧いただけたらと思う。

 古関と菊田との仕事の流れを見てみよう。1947年7月にラジオドラマ「鐘の鳴る丘」が始まる前に、菊田一夫の新国劇「長崎」の劇中で歌った歌が、映画「地獄の顔」で渡辺はま子が歌ったのが「雨のオランダ坂」(1947年1月)であり、それに続いたのが「とんがり帽子」だった。二人が映画やらラジオドラマに関係ない歌を作り出そうとできたのが「フランチェスカの鐘」(1949年3月)だった。サトー・ハチロー作詞「長崎の鐘」(1949年6月)、菊田との「イヨマンテの夜」(1950年1月)とヒット曲が続いた古関・菊田は、その後も、1952年に始まった「君の名は」および関連曲のレコードなど、1956年ころまでは、年に4~8曲は発売されるというブームが維持される。同時に、西條八十、サトウ・ハチローらのベテランの作詞家とともに、古関と同郷の野村俊夫、丘灯至夫(十四夫)とのコンビも多くなるとともに、映画音楽の仕事も1950年代の半ばから後半にかけて、年に5本から多いときは13本までに及びピークをなす。そして、菊田との仕事は、1956年から、東京宝塚劇場、梅田コマ劇場、芸術座などを中心に舞台音楽が多くなり、演目は、歴史もの、文芸作品から母物、剣豪もの、喜劇、ミュージカル、外国の翻案ものなど菊田の多種多様な舞台での名コンビぶりを発揮していたようだ。帝国劇場の「風と共に去りぬ」芸術座の「がめつい奴」「がしんたれ」などの大阪もの、「放浪記」などのロングランは、演劇界をにぎわしていたが、私は残念ながら、これらの舞台とは無縁ではあった。1973年、菊田一夫の死去に伴い、古関の舞台音楽も終わり、同時に、1960年代後半になると、テレビの普及、テレビドラマの台頭により、映画自体の流れも大きく変わり、斜陽産業といわれる時代に至り、古関の映画音楽も終息に向かった。

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『歌のアルバム』(全音楽譜出版社 1948年1月)は、12.5×9㎝の横長の小さな歌集で、最終頁に載せられた「雨のオランダ坂」と「夜更けの街」ともに古関・菊田のコンビだが、楽譜はない。左頁の端が切れているが、こんな製本ミスの本も25円で買ったということだろう。裏表紙に父のサインがある。

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同じ『歌のアルバム』から「フランチェスカの鐘」、これには楽譜がついている。どこを開いても崩れそうな・・・。 

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古関とサトウ・ハチローの「長崎の鐘」の歌詞はもっぱら長崎原爆投下の犠牲者の鎮魂をうたっているが、元になった、永井隆の『長崎の鐘』(1941年1月)は、GHQの検閲下、半分近くの頁を日本軍のマニラにおけるキリスト教徒虐殺の記録「マニラの悲劇」付録とするものであった。この著書はじめ、永井は「浦上への原爆投下による死者は神の祭壇に供えられた犠牲で、生き残った被爆者は苦しみを与えてくださったことに感謝しなければならない」と繰り返していた。原爆投下の責任を一切問うことをしていない。「長崎の原爆投下の責任について<神の懲罰>か<神の摂理>を考える」(2013年5月30日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/05/post-15f2.html
も併せてご覧ください


 なお、古関は、ドラマ以外にも、多くのラジオ番組のテーマ曲や主題歌を提供した。最初の農事番組といわれる「早起き鳥」(1948年4月1日~終了日?)の「おはよう、おはよう」で始まる歌やにぎやかなオープニングの「今週の明星」(1950年1月8日~1964年4月2日)、ゆったりとした「ひるのいこい」(1952年11月17日~)「日曜名作座」(1957年7日~2008年3月30日)のテーマ曲が思い起こされる。「日曜名作座」の、後継番組「新日曜名作座」(2008年4月6日~)では、テーマ音楽のみが継承されているとのことである。1960年以降になると、ほとんどラジオを聞かなくなるので、これらのメロディーを耳にすることはなくなった。

次回は、古関裕而とスポーツ、応援歌を中心に、振り返ってみたい。(続く)

当ブログの過去記事もご参照ください。

◇2012年9月26日 
緑陰の読書とはいかないけれど②『詩歌と戦争~白秋と民衆、総力選への「道」』(中野敏男)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/09/post-9cea.html

◇2010年12月2日・3日 
『敗戦とラジオ』再放送(11月7日、夜10時)」を見て(1)(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/12/11710-50ed.html
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/12/11710nhk-960d.html

◇2006年2月17日
書評『歌と戦争』(櫻本富雄著)(『図書新聞』所収)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2006/02/post_d772.html

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2020年5月27日 (水)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(2)

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ドクダミに囲まれながらも、アジサイが色づき始めた

  

 前述⑤「作曲一覧」は、「古関裕而記念館」のホームページで見られるが、レコード発売年月も付されている。古関の活動期間の長さと量に驚かされる。ただ、編年体のリストはない。④『歌と戦争』の「古関裕而戦時下歌謡曲」には、1934年から1945年までに限られるが、年別のリストがある。あげた曲名は、冒頭に記されたもので、代表作の意味ではない。

1939年:義人村上(佐藤惣之助・詞/中野忠晴・歌)ほか計4曲
1935年:来たよ敵機が(霞二郎/伊藤久男)5曲
1936年:月の国境(佐藤惣之助/伊藤久男)7曲
1937年:別れのトロイカ(松村又一/松平晃)17曲
1938年:夜船の夢(高橋掬太郎/音丸)13曲
1939年:麦と兵隊(原嘉章/松平晃)8曲
1940年:荒鷲慕いて(西条八十/松平晃ほか)12曲
1941年:七生報国(野村俊夫/伊藤久男)16曲
1942年:東洋の舞姫(野村俊夫/渡辺はま子)12曲
1943年:みなみのつわもの(南方軍報道部選定/伊藤久男)9曲
1944年:ラバウル海軍航空隊(佐伯孝夫/灰田勝彦)10曲
1945年:台湾沖の凱歌(サトウ・ハチロー/近江俊郎・朝倉春子)3曲

 これら120曲弱が、古関の軍歌ないし「戦時歌謡」のすべてはないし、ほかにも、いわゆるご当地ソング、行進曲、応援歌などの形をとるものもある。この生産量たるや目を見張るものがある。一カ月に一曲以上は作曲している計算になる。この中には、私などでも、題名はおぼつかなかったが、後付けながら、「勝ってくるぞと勇ましく 誓って国を出たからは 手柄立てずに死なれよか 進軍ラッパきくたびに・・・」(「露営の歌」1937年、薮内喜一郎作詞/中野忠晴ほか歌)「真白き富士のけだかさを こころの強い楯として・・」(「愛国の花」1938年、福田正夫/渡辺はま子)、「ああ あの顔であの声で 手柄たのむと妻や子が・・・」(「暁に祈る」1940年、野村俊夫/伊藤久男)、予科練の歌「若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ霞ケ浦にゃ・・・」(「若鷲の歌」1943年、西条八十/霧島昇・波平暁男)など、歌い出すことができる。これはひとえに、敗戦後も、父や母、兄たちが、裸電球の下で歌っていたからにちがいない。

 また、上記にも登場する作詞家を含めて、特定の作詞家とのコンビの在り様も興味深い。⑤の作詞家別のリストにより、戦前・戦後を通じて上位10人は次のようになった。若干の数え間違い?はご容赦を。

西条八十(1892~1970)130曲
野村俊夫(1904~1966)107曲
菊田一夫(1908~1973)76曲
久保田宵二(1899~1947)69曲
高橋掬太郎(1901~1970)69曲
丘灯至夫(1917~2009)43曲
藤浦洸(1898~1979)41曲
サトウ・ハチロー(1903~1973)37曲
佐藤惣之助(1890~1942)28曲
西岡水郎(1909~1955)15曲

 久保田宵二と西岡水郎は、今回、初めて知る名前だった。久保田は、岡山県の小学校教師から、野口雨情の勧めもあって、日本コロンビアに入社、1931年「昭和の子供」(佐佐木すぐる作曲)を作詞、以降は、主として歌謡曲の作詞に転じた。古関とは、伊藤久男、松平晃、霧島昇などを歌い手とする「戦友の唄」(1936年)「南京陥落」(1937年)「戦捷さくら」(1938年)「世紀の春」(1939年)「戦場想へば」(1941年)などを残すが、1940年には、コロンビアを退社、晩年は、作詞家の著作権確立のために尽力したということである。また、西岡は、古関とのコンビで、して1930年代前半を中心に「歌謡曲」を残しているが、ちなみに、そのうちの一曲「たんぽぽ日傘」(1931年)の歌い手は、前年に結婚した古関の妻、内山金子(1912~1980)であった。同時に彼女は「静かな日」(三木露風作詞/古関裕而作曲)も吹き込んでいる。
 佐藤惣之助は、白樺派の影響を受けた詩人としてスタートするが、「赤城の子守歌」(1934年、竹岡俊幸作曲/東海林太郎)、「湖畔の宿」(1940年、服部良一作曲/高峰三枝子)など多くのヒット曲の作詞家として知ることになるのだが、太平洋戦争開始直後の戦時下に亡くなる。最晩年にも、古関と組んだ「国民皆労の歌」(1941年11月、伊藤久男・二葉あき子)、「大東亜戦争陸軍の歌」(42年3月、伊藤久男・黒田進)が発売されるが、1942年5月に亡くなっている。久保田宵二と佐藤惣之助の晩年の在り方には、時代とのかかわり、国策とのかかわり方の違いがあるように思えて、興味深いものがあった。

 古関とのコンビで、ベスト1の西条八十は、戦中・戦後を通じて、活動期間も長い。私の「歌を忘れたカナリヤ」(原題「かなりあ」『赤い鳥』1918年11月。「かなりや」『赤い鳥』1919年5月、成田為三作曲の楽譜付き。文部省教科書「六年生の音楽」1947年収録時に改題)との出会いは小学校6年生の時であった。西條は、英文学、フランス文学にも通じた象徴詩人としてスタートし、童謡も多く残したが、1920年代後半からは、中山晋平作曲による「東京行進曲」(1929年)、「銀座の柳」(1933年)などを始め、少し下っては、古賀政男、服部良一、万城目正らの作曲による数々の歌謡曲をヒットさせている。古関とは、1930年代後半から、ミス・コロンビア、二葉あき子、淡谷のり子、音丸、豆千代、松平晃などを歌い手とする歌謡曲を手掛けるが、同時に、1937年「皇軍入城」「今宵出征」、1938年「憧れの荒鷲」「勝利の乾杯」、1939年「荒鷲慕ひて」「戦場花づくし」1940年「起てよ女性」「空の船長」、1941年「みんなそろって翼賛だ」「元気で行こうよ」、1942年「空の軍神」1943年「決戦の大空へ」「若鷲の歌」1944年「海の初陣」「亜細亜は晴れて」1945年2月「神風特別攻撃隊の歌」「翼の神々」などの戦時翼賛の歌を数多く世に出している。

 ちなみに「みんなそろって翼賛だ」〈1941年1月/霧島昇・松平晃・高橋裕子〉をネットで検索してみると、つぎのような歌詞と楽曲もでてきた。

みんなそろって翼賛だ
作詞 西條八十
作曲 古関祐而

進軍喇叭で一億が
揃って戦へ出た気持ち
戦死した気で大政翼賛
皆捧げろ国の為国の為ホイ
そうだその意気グンとやれ
グンとやれやれグンとやれ

角出せ槍出せ鋏出せ
日本人なら力出せ
今が出し時大政翼賛
先祖ゆずりの力瘤力瘤ホイ
そうだその意気グンとやれ
グンとやれやれグンとやれ

おやおや赤ちゃん手を出した
パッパと紅葉の手を出した
子供ながらも大政翼賛
赤い紅葉の手を出した手を出したホイ
そうだその意気グンとやれ
グンとやれやれグンとやれ
(以下略)

  どうだろう。作詞者も作曲者もすでに”著名な”ながら、読み上げるのもはずかしいような言葉の羅列だが、大人が本気で制作し、国民は歌ったのだろうか。同じ年に、西條八十による古賀政男作曲「さうだその意気」(霧島昇・松原操・李香蘭)も発売されている。太平洋戦争末期に、もう一つ、なかなかミステリアスな、古関・西條コンビの歌がある。前述の⑤「作曲一覧」によれば、「比島沖の決戦(酒井弘・朝倉春子)1945年12月発売とある。敗戦後の発売?!とあるが、ありえないだろう、と不思議だった。④『歌と戦争』の古関裕而の部分には、この歌の詳細があり、つぎのような歌詞を読むことができる。

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④『歌と戦争』192~193頁より

 ④『歌と戦争』には、この歌の制作経緯について、日本コロンビアの資料や証言によれば1945年3月の新譜リストにあり、レコードが発売されているが、レコードが一枚も発見されていない、という。しかし、著者の櫻本は、学校で習ったことがないのに、歌うことができるのは、繰り返し放送されていたと思われ、放送用のレコードは存在していたと推測する。掲載されている歌詞は、NHKに残っていた「演奏台本」からの採録である。なお、この歌の題についても「「比島決戦の歌」であったり、「比島血戦の歌」であったりする。発売の時期について、上記の古関裕而記念館の「作曲一覧」のデータや③『日本流行歌史』の巻末年表の1944年3月というのは、歌詞の内容からは、間違いとみてよい。その歌詞たるや、上記に見るように、比島沖のレイテ海決戦における米軍の指揮官は、陸軍はマッカーサーであり、海軍はニミッツであったのである。


比島血戦の歌
西條八十作詞
古関裕而作曲

血戦かがやく亜細亜の曙
命惜しまぬ若桜
いま咲き競うフィリッピン
いざ来いニミッツ、マッカーサー
出て来りゃ地獄へ逆落とし

 一番の歌詞である。「いざ来い・・・」以下が四番まで繰り返されているのがわかるだろう。このリフレイン部分が垂れ幕や看板となって、都心のビルにかかげられたという(③120頁)。さらに、歌詞のこの部分は、西條のものではなく、陸軍報道部の親泊中佐の作だという、西條の弟子でもあったとする丘灯至夫の言を引用している(③120頁、④1)。こうした言い訳が通用するのかどうか。当時は、軍部やメディアの指令や要請で、戦局に合わせての、速成の歌が氾濫していたと思われる。西條の場合、『西條八十全集』や『詩集』などにはどのように収録されているのも検証しなければならない。

 古関、西條のコンビは敗戦後にも、つぎのような歌が作られていった。その題名からもわかるように、その歌詞も、曲も変わる。変われば変わるものだと思う。軍部や政府、そしてメディアと一体となって、国民の士気をあおるだけあおった作詞者や作曲者に、良心や責任が問われなくていいのだろうか。まさに「流行り歌」に過ぎないのだから、思想や信条など問われる筋合いがないとでもいうのだろうか。

1946年年11月:1947年への序曲 /霧島昇・藤山一郎他
1948年1月:平和の花 /松田トシ
1950年9月:希望の街 /藤山一郎・安西愛子
1950年6月:美しきアルプスの乙女/並木路子
1953年7月:ひめゆりの塔/伊藤久男
1953年7月:哀唱/奈良光枝
1955年11月:花売馬車/美空ひばり

 意外だったのは、「ひめゆりの塔」なのだが、映画「ひめゆりの塔」(今井正監督、原作石野径一郎、脚本木洋子)の音楽は古関裕而だったのだろうが、伊藤久男の歌が画面上流れていたような印象はない。レコード発売が1953年7月、映画の封切りが、それに半年ほど先立ったお正月だったのだから、映画の主題歌ということではなかったのだろう。西條の歌詞は次のようであったから、映画の雰囲気とはかけ離れているようにも思える。私は、リアルタイムで見たのではなく、数十年前に名画座などでみた、薄れかけた記憶なのだが。

ひめゆりの塔
西條八十作詞
古関裕而作曲

首途(かどで)の朝は愛らしき
笑顔に母を振りかえり
ふりしハンケチ今いずこ
ああ 沖縄の夜あらしに
悲しく散りしひめゆりの花

生まれの町ももえさかる
炎の底につつまれて
飛ぶは宿なきはぐれ鳥
ああ 鳴けばとて鳴けばとて
花びら折れしひめゆりの花

黒潮むせぶ沖縄の
米須の浜の月かげに
ぬれて淋しき石の塚
母呼ぶ声の永久(とこしえ)に
流れて悲しひめゆりの花

 

 その後、西條は、古賀政男、服部良一らと組むことが多くなり、数々のヒット曲を送り出している。

 つぎに、「とんがり帽子」を生んだ古関の菊田一夫との仕事をたどってみたい。(続く)

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庭の草とりでもしようものなら、隣の「さくら」ちゃんが吠えまくる。お留守らしいので?少し叱ってみたら、神妙な顔になった。

 

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2020年5月24日 (日)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(1)

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「古関裕而生誕110周年記念・あなたが選ぶ古関メロディーベスト30」(福島民報社主催 2019年12月10日~2020年2月7日実施)は、古関裕而の長男正裕氏、日本コロムビアプロデューサー、古関裕而記念館館長が監修した110曲についての投票で、31位以下の曲目と投票数、および110曲の音源一覧は、以下のサイトに詳しい。https://koseki-melody.com/

   この3月30日から始まった、NHKの朝ドラ「エール」のモデルは、古関裕而と喧伝されて久しいが、私は見たことがない。番組の紹介のコーナーhttps://www.nhk.or.jp/yell/、 では、コロナ禍の影響により6月27日までの放送で、ひとまず中止するとのお知らせが出ている。放送分は、各週のあらすじが記されているので、それを読んでいる。今後の放送分の進行で、どこあたりで休止するのかわからないが、たぶん、1940年前後以降は再開時の放映になるのだろうか。古関が、いわゆる「戦時歌謡」を数多く作曲した時代を、ドラマでは、どう描くのかを注視したいところである。いや、敗戦後もアメリカ占領軍の要請で、NHKは、新しい放送番組を次々と放送し始めたのである。あの「鐘の鳴る丘」も、GHQの検閲下において、CIE(民間情報教育局)の”積極的な指導”により成立し得たものだった。(『日本放送史(上) 日本放送協会編刊 1965年 746頁)

 1947、8年ころ、私たち子どもの楽しみといえば、放課後、家の近くで、石けり、缶けり、チヨコレイト、スイライ・カンチョウ、ナワとび、ゴム段などの外遊びとお風呂屋さんの横丁にやってくる紙芝居だった。それでも、夕方になると、5時すぎから始まる「鐘の鳴る丘」のラジオを聞くために、大急ぎで家に戻ったものである。「緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台、鐘が鳴りますキンコンカン、メイメイ小山羊も鳴いてます、風がそよそよ丘の上、黄色いお窓はおいらの家よ・・」のテーマ曲は、歌詞を覚えられない私が、今でも歌えるのだ。 
 「鐘の鳴る丘」は戦争浮浪児の物語なのだが、当時、空襲の焼け跡に建てた、店と六畳一間と台所というバラックに親子五人で住んでいた私などには、「緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台」って、いったいどこにあるのだろう、まさに「あこがれ」にも思え、メルヘンの世界ではなかったか。この誰にも歌える「とんがり帽子」の作曲者が「古関裕而」だと知るのは、だいぶ後のことである。そもそも、このテーマ曲は「鐘の鳴る丘」だとばかり思っていたが、その曲名は「とんがり帽子」だったのである。そして、ハモンドオルガンのオープニングとともに、どこか重々しい語りで「そして、カガミシュウヘイ(加賀美修平)とリュウタ(隆太)は・・・」と物語が進んでゆくのに耳を傾けたが、詳細はすでに忘れている。あのナレーションの主が、巌金四郎であることも後で知る。1947年7月5日から放送は始まったが、そもそも、この番組の構想は、マッカーサーの招へいで日本にやってきたフラナガン神父の助言があったからという〈1950年12月29日まで790回)。こうした事柄を後で知るきっかけが何であったのか定かではないが、私が過去に口すさんだ歌、両親や7歳、14歳違いの兄二人がよく歌っていた歌のルーツ知りたくなったのではないか。私が、社会人になって間もない1965年~1970年ころで、いまもつぎのような本が手元に残っている。

①高橋磌一『流行歌でつづる日本現代史』音楽評論社 1966年10月(第4版)
②朝日新聞社編『東京のうた その心をもとめて』朝日新聞社 1968年8月
③古茂田信男ほか著『日本流行歌史』社会思想社 1970年9月

 さらにその後、私自身が、短歌と天皇制について、戦中・戦後の歌人たちと天皇制との関係について、調べたり書いたりしている中で、戦中・戦後の表現者の戦争責任について実証的に書き続けている櫻本富雄さんの仕事に出会い、その労作の一つがつぎの本だった。古関裕而に多くの頁が割かれていた〈180~197頁〉。

④『歌と戦争 みんな軍歌を歌っていた』アテネ書房 2005年3月(5月に第2版)

 「古関裕而記念館」のホームページによれば、古関は、生涯、5000曲以上もの曲を残している。このホームページの「作曲一覧」では、網羅的ではないらしいが、曲目・作詞家・歌手別に閲覧することができる。

⑤古関裕而作曲一覧
https://www.kosekiyuji-kinenkan.jp/person/composition/song-a.html

 

 

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2020年5月18日 (月)

検察庁法改正案、今国会、見送り?!

   けさ、羽鳥モーニングショーをつけっぱなしにしながら、ゴミ捨てや遅い朝食の準備をしていたら、その終わりがけの10時前に、「速報・検察庁法案、今国会見送り」の声とテロップが流れた。「ほんと?」の思いながら、こんどは、大下容子の番組を見ていてもなかなか、そのニュースは出てこなかったが、途中で、世論調査の結果と一緒に、さらったと伝えられるだけだった。つぎに、正午からのNHKニュースを見たが、「見送り」の報道は一切なかった。ヤフー画面のトップには「検察庁法案、成立見送り」の見出しがあり、つぎのような記事があった。なんだか不安になった。スクープなのか。ともかく、私としては、見送ってほしいし、黒川氏は辞任すべきだと思っている。(5月18日13時)

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*政府、検察庁法改正案など成立見送りへ 方針固めへ
5/18(月) 9:38配信

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検察庁法改正案など成立見送りへ

 内閣の判断によって、幹部の定年を延長することが可能となる検察庁法の改正案を含む国家公務員法の改正案について政府与党は今国会での成立を見送る方針を固めた。(ANNニュース)

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*検察定年延長、今国会見送りで調整=政府、世論の批判回避

2020年05月18日 12時07分 時事通信検察定年延長、今国会見送りで調整=政府、世論の批判回避

首相官邸に入る安倍晋三首相=18日午前、東京・永田町

 政府は、検察官の定年を引き上げる検察庁法改正案の今国会成立を見送る方向で調整に入った。政府高官が18日明らかにした。検察の独立を脅かす恐れがあるとして同改正案に反対する世論が高まる中、採決を強行して批判を招くのは得策ではないと判断した。
 「束ね法案」となっている国家公務員法改正案などと合わせ、秋に予想される臨時国会で仕切り直す考えだ。 【時事通信社】

 

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2020年5月 5日 (火)

きのうの首相記者会見になぜ尾身氏が隣に~「死亡率は、ヨーロッパの10分の1以下」というが、ご遺族が聞いたら・・・。

 5月4日の記者会見でも、首相は、長々としゃべったが「前を向いて頑張ればきっと、現在のこの国難も乗り越えることができる」以上のメッセージは聞こえてこなかった。感染症対策、経済対策は「万全を期す」が、様々な判断は、地方に丸投げというスタンスは変わりない。また、今回の記者会見では首相の冒頭発言後の記者との応答には、「尾身会長」が同席し、首相と並び、たびたび発言をしていた。

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「羽鳥モーニングショウ」(2020年5月5日)より

 「尾身会長」の同席は、4月7日の首相による地域限定の緊急事態宣言、4月17日の緊急事態宣言の全国拡大の会見の折も見られた。司会者は「尾身会長」と呼ぶが、「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」では、副座長の肩書のはずで、会長でも座長でもない。なんで隣に座っているの?

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『朝日新聞』(2020年5月5日)より

  これまで、私自身も曖昧だったのだが、もう一つ、専門家による会議、諮問委員会があったのである。それは、特措法の18条の規定による「基本的対処方針等諮問委員会」で、政府が緊急事態宣言を発する場合に諮問する委員会で、新型コロナウイルス感染症対策本部の「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」とは別だった、ということが分かった。なお、「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」というのは、特措法15条で設置を定める政府対策本部に「医学的な見地から助言する」という位置づけで、法律上の組織ではない(「専門家会議「宣言」変更判断に知見提供」『日本経済新聞』2020年5月1日)。

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『日本経済新聞』(2020年5月1日)より

 尾身氏は、その「基本的対処方針等諮問委員会」の方の委員長であって、司会者が会長と呼んだりするから混乱する。そして、会見の最後の方の「PCR検査が進まないのは、首相が本気に取り組んでないからじゃないか」という主旨の質問に対して、「やる気がなかったわけでなく、人的な目詰まりが原因だが、その解消に努めている」という主旨の回答をしている。そして、民間機関でのPCR検査については、尾身氏が代わり回答するのだが、その中で、「民間での検査も進んでいるが、それを分母に加えると・・・」と分かりにくい説明が続くが、「日本の人口当たりの死亡率がヨーロッパの10分の一以下」という主旨のことを繰り返していた。
「私は専門家として、一応事実としては、PCRは日本は最も少ない国の一つですけれども、人口当たりの死亡率、それから絶対数もヨーロッパの国の10分の1以下であるということは、これは事実です。しかし、だからといって、今のPCR体制がこのままでいいというように申し上げているのでは(ない?)」との発言に、私は、ドキっとしたのである。こうした発言を、死亡された人の遺族の方が聞かれたらどんな思いをするだろうか、ということだった。軽症者として自宅待機をさせられるなか、急変して亡くなった方、検査をしてもらえないまま重症化して亡くなった方などが報告される中、本人はもちろん遺族の口惜しさを想像したら、マスクや防護服さえない中で、医療従事者の方々の懸命な努力に思いをはせれば、なんとこころない言葉ではないか。学会や研究発表とは違う国民向けの会見の場という配慮に欠けていたのではないか。

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「羽鳥モーニングショウ」(2020年5月5日)より

  さらに、上記の「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」と「基本的対処方針等諮問委員会」のメンバーというのが前者の専門家会議の12委員が、すべて諮問委員会のメンバーにもなっているのはどういうことなのか。「専門家のご意見」を踏まえ、対策本部の議論を経て首相が判断し、国会へ報告するといった仕組みで、「緊急事態宣言」を発する場合は、「諮問委員会」に諮った上で、決断することになっている。しかし、専門家会議全員が諮問委員会の委員でもあるということは、内閣に助言・提言を参考にして決まった「宣言」を諮問委員会に諮り、了承を得るという「諮問」はもはや意味がない。もともと、日本の行政は、審議会・諮問行政ともいわる。各省庁の事務方が作成した「答申案」を各省庁が任命する者により構成された審議会・諮問会議などの長が大臣に重々しく答申することが慣例で、大臣に手渡す写真や映像がしばしば報道される。審議会・諮問会議は、省庁からは独立した組織であるはずだが、「有識者」や「専門家」は、省庁のに都合のいい人選で、重複も多く、会議は、実質的な議論の場ではなく、事務方案のペーパーの承認、権威付けに利用される場合が多い。

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こんな図を作ってみたが

   今回の新型コロナウィルス感染防止対策においても政府御用達の「専門家」は要らない。

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2020年5月 3日 (日)

政府は、専門家は、何をしているのか~いわれるまでもなく、私たちは

 身近なことでいえば、4月半ば、通院している大学病院へ行くのに、最寄りの駅から乗ったバスの最前席は、立入禁止となって、座れないことになっていた。乗客と運転席の距離を少しでも離す手立てだろう。病院では、予約受付票などを入れるファイルがなくなり、紙だけを持ち歩くようになっていた。たしかに透明な、つるつるのファイルは、消毒などの手間を思い、廃止となったのだろう。次回の診療は、外来を縮小しているので、少し先になります、とのことで、7月になった。この病院で手術を受けるはずだった友人によれば、中止の上、その先は未定という。 

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 3月29日に開催予定だった地元の自治会総会の開催は中止となり、書面による議決となった。こんな折、重宝して、注文数も増えた生活クラブ生協の配達が対面中止となり、手渡しではなく、玄関先に置いてゆく方式に切り替わった。
 また、千葉市で私たちが少人数で開いている月1回の歌会も3・4・5月は紙上歌会となった。私が所属しているポトナム短歌会は、5月に開催予定の全国大会を中止とした。所属の学会の春季総会も中止、メールでのやり取りで済ませることになった。いつもお知らせをもらう研究会は、オンライン開催となった。
 
また、整形外科で通っている市内の病院の予約が4月30日に迫っていたが、なんとその病院に、新型コロナウイルスの感染者が4月半ばに出ていたことを知って、慌てた。病院からは、とくに連絡はなかったが、薬のこともあるので、ようやく通じた電話で問い合わせたところ、電話診療が可能とわかった。医師の都合で何時になるかわからないが、予約日には、医師から電話がある、という。私は今の症状と服薬状況をメモにして、待機を覚悟していたが、朝、一番の9時過ぎに電話をもらい、改善が見られない今の症状を訴えた。4月の異動で、新しい医師に替わったのだが、ていねいに聞いてくれる。服薬についても指示を受けた。処方箋は院内の薬剤師を通じて、希望の薬局にファックスされ、近くの薬局で受け取れることになった、病院に出向くことないこんな方法を、今回、初めて経験したことになる。

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3月中旬に決まった、自治会総会の中止のお知らせと『ポトナム』5月号に付された全国大会中止決定の経過報告

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5月2日の新聞の折り込みで入ってきたチラシ。どのコンビニやスーパーでもすでに実施していることだ

 私のわずかな体験からでも、みんなできることは、とっくに実施しているのに、いまだに外出自粛や「三密」を守らない市民がいる、営業を続ける飲食店やパチンコ店があると補償を示さないままバッシングするばかりの政府や自治体って何なのだろう。検査数が伸びないまま、その数を示さないまま、感染者数が毎日公表され、その動向に目を奪われ、様々な解説をして見せるマスメディアが多い。今の感染状況を見ると、マスクや防護服が足りない、機器が足りない、従事者が足りないという、医療現場や介護現場、家庭内での感染が深刻な事態にあるにもかかわらず、政府や自治体の危機感の無さ、施策の宣言「構築に向けて努める」「仕組みの導入を検討する」「法整備を進める」などとばかりで実施が伴わない。とくに安倍首相の「専門家のご意見を踏まえ」なるフレーズで、すでに逃げを打っている発言が許せない。「諮問会議」「専門家会議」の会長を筆頭に、その「専門家」たる人たちの発言も、検証もないまま、横文字が頻繁に飛び出す解説が大方で、なぜ、営業活動や働き方までに口を出すのか、教育現場の対応まで言及するのか、わからない。いまの医療崩壊の危機をあおるけれど、まさに、医学的見地から、いま、緊急に、何が必要なのかをきちんと政府に提言しないのだろう。食事に出かけたら、対面でおしゃべりしないように?!などと「専門家」が言うべきことなのか。

 私のようなリタイア世代は、上記のように嘆いてはいるが、職を失っていた人たち、営業自粛で職を失った人たち、自営業の人たち、今日の寝る場所と食事に困っている人たちもいる。休業補償がもらえない、雇用調整助成制度も機能してない。一斉休校により働けなくな人たち、給食が食べられなくなり、学習や遊びの場を失った子どもたちもいる。一律10万円給付を含む予算案は全会一致で通過したが、余裕のある人は受け取らないとか、閣僚や議員は辞退とするとか、寄付すべしとか、そんなことを議論するのなら、なぜ一律としたのか。ほんとうに困っている人たちに届けるには、どうしたらいいのかの議論が先だったろうに、与党も野党も「わが党の強い提言が受け入れられた」、「世論の力で勝ち取った」などといえるのか、不思議でならない。

 今日は憲法記念日なのだが、テレビでの特集番組は見当たらない。新聞が一部、紙面を割いて特集している程度である。メーデーはじめさまざまな集会が中止に追い込まれている。地元の9条の会も、コミセンの閉館により会場の確保が困難となり、3月、4月は流会となった。5月はどうなるだろう。さまざまな市民活動は停滞しているのが実態である。今回の事態を「国難」とか、「長期戦」になるとか、「総力戦」で臨むとかの発言を聞くたびに、「挙国一致」となりかねない国のゆくえを思うのだった。

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 2020年憲法記念日?のテッセンです

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2020年5月 1日 (金)

18年前の旅日記~スイスからウィーンへ(4)

20021123日~ウイーン、クリスマス市の初日に
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 アルプスの山並みを越え、やがてウイーンへ、ふたたび

 ウイーン空港からカールスプラッツまでの道順は、リピーターの余裕?で、リムジンバスと地下鉄一本を乗り継いでスムーズにこなせた。ジュネーブと同じブリストル・ホテルでも、その雰囲気はだいぶ違い、部屋は一段と狭い。ホテル前のケルントナー通りを隔てて、オペラ座、昨年の宿ザハ、そしてアストリアホテルと大きい建物が並ぶ。前回は行けなかったシェーンブルン宮殿へ行くことにしていた。何しろウイーンのガイドブックを家に忘れてきてしまったので、ホテルと航空会社からもらった地図しかない。
 地下鉄U4でシェーンブルン駅下車、人の流れにそって進むと、広場の前は大変な人出で、さまざまな露店が出ているではないか。正面には大きなクリスマス・ツリー、小さな舞台で演奏もやっている。これがクリスマス市なのか。なんと土曜の今日が初日だったのである。クリスマスまでちょうど一か月、食品、洋品、おもちゃ、飾り物など、何でも揃いそうである。ところどころに立っている丸い小さなテーブルを囲んで、カップルや家族連れが立ち飲み、立ち食いもしているのだ。さまざまな着ぐるみ、竹馬に乗った足長ピエロの行列や風船配りとぶつかりそうになる。子供たちがほんとうにうれしそう。また大人たちが、実においしそうにマグカップで飲んでいるホットドリンク、夫は気になってしかたないらしく、手に入れてきた。プンシュというものらしく、ジュースとワインを混ぜたようなソフトドリンクらしい。飲み干したカップを返すとお釣りが戻るという。夫は、最初の一口を飲むなりむせてしまい、咳き込むばかり。私も、一口恐る恐る飲んでみたが、相当に強いアルコールで、それ以上は飲めなかった。しばらくチビチビ飲んでいた夫も、観念したのか、さりげなく広場の側溝に流し込んでいた。

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上2枚:シェーブルン宮殿前のクリスマス市、下:翌日の市庁舎前のクリスマス市

 そんなことをしていて、宮殿に入場するのがだいぶ遅くなってしまった。日本語のオーデイオ・ガイドに飛びついて、宮殿の各室を回る。急いで通り過ぎたい部屋もあるが、どうも加減ができないらしい。それにしても、ハプスブルグ家の歴史を聞かされると、その華やかさの割には誰もが幸せとはいえない生涯を送ったのではないか、とそんな庶民の思いはつのるばかりだ。外へ出た頃は、すっかり日は暮れて庭園はすでに闇の中だった。シェーンブルンの庭園には今回も縁がなかったことになる。夜7時半からは楽友協会のコンサートなので、その前に食事もしておかなければならない。それならばと、ケルントナー通りの「ノルトゼー」にむかう。「北海」「北洋」とでも訳すのか、魚料理を食べさせる大衆的なチェーン店である。ケースの中の料理が選べるのが何より便利で、安い。
  ホテルからも近い楽友協会は、ウイーンフィルのニューイヤーコンサートの会場としても知られるが、入るのははじめてだ。ブラームスのドイツレクイエム、ミュンヘンの交響楽団の演奏と重厚な合唱に魅せられた一時間半、聴衆の大部分が地元のシニアだったのもなんとなく落ち着ける雰囲気だ。が、ホテルに着いても入浴する元気がない。一日中の移動を思えば無理もない。疲れがどっと出たのかもしれない。

 20021124日~ハイリゲンシュタットのホイリゲで
 今日は、まず前回見落としていたウイーン美術史美術館のブリューゲルを見る予定だ。歩いてもたいした距離ではないが、開館には間がある。昨日買った一日乗車券で、旧市街を囲むリンク通りをトラムで回ることにした。前回の旅で、この辺で迷ったね、初めて昼食をとったのがこの路地のカフェだった、と懐かしくも、あっという間の一回りだった。まず、議事堂にも敬意を表して下車したところ、震えるほど寒い。広い階段を上がったところで、一人の日本人男性と遭い、寒くないですか、とセーター姿の夫は同情されていた。階段の下では、なにやら、テレビカメラがまわり、議事堂を見上げるようなアングルで、記者が実況放送のようなことをやっている。これは、後でわかったことなのだが、11月24日はオーストリーの総選挙で、極右との連立政権の成り行きが注目を浴びていたらしいのだ。街中にポスターがあるわけでもなく、気づかず、そんな雰囲気がまるで感じられなかった。議事堂に続く広場には、昨日のシェーンブルン広場の規模を上回るクリスマス市が立っている。地図でみれば市役所である。結構出入りのある市民ホールの重いドアを開けてみると、そこは、子供たちがいっぱい。子供たちのためのワークショップ、仕切られた部屋でハンドクラフトの講習会がひらかれていたのである。学童期前の幼い子供たちがエプロンをして、クッキーを焼いたり、クリスマスカードやローソクを作ったり、土を捏ねたりしているのだ。廊下では、中に入れない親たちが見守っているという、ほほえましい光景を目の当りにすることができた。こんなふうにして、ウイーンの市民たちはクリスマスを迎える準備に取り掛かるのだ、と感慨深いものがあった。自分たちの住む千葉県の新興住宅地で、庭木の電飾だけが妙に狂おしく、競うように点滅している歳末風景にうんざりしていただけに、あたたかいものが感じられるのであった。

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上2枚:市庁舎前クリスマス市の催しものなのか、ホール内では、子ども向けのワークショップたけなわ。下:議事堂前では、総選挙当日のテレビ中継番組の収録中で、そのスタッフたちがいずれもしっかりと防寒の重装備のなか・・・

  名残惜しいような感じで、クリスマス市をあとにして、新しくできたミューゼアム・クオーターの一画、レオポルド美術館にも寄ることにした。ここはエゴン・シーレのコレクションとクリムト、ココシュカなどの作品で知られる。そういえば、クリムトの風景画だけを集めた展覧会が、ベルベデーレ宮殿の美術館で開催中らしいのだ。いまは時間がない。レオポルドに並ぶ現代美術館は、巨大な黒いボックスのような建物で、中に入ると、まだ工事中のようなリフトがあって、入場者もまばら、閉まっているフロアも多い。入場料がもったいなかったと嘆きつつ、美術史美術館へと急ぎ、中のレストランで遅い昼食をとる。目当てのピーテル・ブリューゲルの部屋、二階Ⅹ室へ直行する。ここのブリューゲルは、私が旅の直前に出かけた東京芸大の展覧会でもみかけなかったし、1984年日本で開催した「ウイーン美術史美術館展」でも、門外不出ということで一点も来なかったそうだ(芸術新潮 1984年10月)。所蔵点数一二点、世界で一番多いという。「バベルの塔」をはじめ、「雪中の狩人」、「子供の遊び」、「農民の婚宴」などはじめて見るというのになつかしい、という思いがぴったりなのだ。農民や兵士の日常生活がその背景とともに丹念に、克明に描かれ、その一人一人の表情が実にいきいきしているからだろうか。宗教や歴史に取材していても決して叙事的ではないのだ。せっかくの機会なので、周辺の部屋にはヨルダンス、ファン・ダイクがあり、そしてここでも大量の作品を残すルーベンス、前回見ているはずなのに記憶はすでに薄い。

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レオポルド美術館のリーフレットより、クリムトとエゴンシーレ

  少し欲張って、夕飯は郊外のホイリゲでとることにした。ホイリゲといえば、前回は、グリンツインからバスに乗り換えてカーレンベルクまで行ったが、今回は、ホテルで勧められたハイリゲンシュタットのMayerという店を目指す。地下鉄のハイリゲンシュタットからバスで二、三駅と教えられ、降りたところは静かな住宅街だが、まず国旗を掲げた、ベートーベンが遺書を書いたという家に行き当たる。木戸を押すと、小さな中庭、入り口の二階のドアは閉まっているが、脇のドアをノックすると、年配の女性が受付をしてくれる。オリジナルな資料は少ないが、しばらくベートーベンの世界に浸る。ここハイリゲンシュタットでの足跡が分かるようになっていた。すぐ隣りの新しい建物は、シニア専用のマンションらしかった。少し戻ると、分かりにくいが木戸の脇にMayerの文字が読める。そーっと開けてみると、意外に広い庭をめぐる古い建物。いくつもの入り口をのぞいていると、ドアを大きく開いて迎えてくれた。もうこの季節では、中庭にテーブルを出すこともないのだろう。薄暗い中には、すでに何組かのお客さんがつめていた。まずは白ワインを注文すると料理は向かいの建物で買ってきてください、ということだった。ワインは溢れんばかりの小ジョッキで運ばれてきた。中庭を抜けた調理場近くのケースの中にはさまざまな料理が山と積まれている。好きなものを選べるのがありがたい。どれも期待を裏切るものではなかったが、ただ一つ、チーズをスライスした茸で巻いたようなものだけは、残してしまった。お客さんは増えるが、席を立つものがいない。これ以上ワインをのめる体力もなくMayerをあとにした。あたりはすでに暮れかけていたが、Mayerの隣りには聖ヤコブ教会が建っていたのに気づく。 
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ホイリゲ、Mayerの入り口の上に飾られているのは、松の枝の飾りで、新酒の解禁日に掲げられるそうだ。この辺りは11月の第3週という

  帰路、もらったパンフをよく読むと、Mayer家がこの地に葡萄園を開いたのは一七世紀後半、1817年、ベートーベンはこのホイリゲに滞在して「第九」を作曲した、とある。ホイリゲの横を北に進むといわゆるベートーベンの散歩道に出るらしい。いつの日かの再訪を期してホテルに戻れば、今日もまた、ベッドになだれ込む疲れようだった。荷造りは、明日にまわして、おやすみなさい。(了)

 

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18年前の旅日記~スイスからウイーンへ(3)

20021122日~世界遺産の街、ベルンへ
 あと一日となったジュネーブ、お天気が定かでないので、丸一日かかるモンブラン観光
よりベルンまでの遠出を勧められていた。夫は市内観光をほとんどしてないわけだが、レマン湖畔、鉄道の旅もよいのではということで、スイス国鉄SSBのIC(インターシティ)一等車に乗る。車窓に雨滴が流れるほどの雨であったが、少しずつ明るくなって、湖面越し見える、雪渓をいただいたやまなみが目に沁みる。 鉄路が何本となく広がり、ローザンヌ駅に近づく。列車は湖面よりだいぶ高いところを走る。湖面までの斜面に広がるローザンヌの町、列車がカーブを切る度に、湖岸線や街の展望ががらりと変わる。思わず席をたって車窓からの眺めに釘づけになる。ローザンヌからはモントルーに向かう線とは分かれ、列車はレマン湖を離れ、北上する。雪渓の山々が迫ってくるようだ。

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 ベルンの旧市街は、アーレ川の蛇行に囲まれている

   ジュネーブから1時間45分、ベルンはスイスの首都ながら、人口13万、4番目の都市で、街全体が世界遺産に登録されているそうだ。地図を見れば、旧市街は、大きく蛇行したアーレ川に三方囲まれている。駅にも近い、官庁街、裁判所、郵便局、警察署と並んでいるベルン美術館にまず入る。ベルン近郊で生まれたパウル・クレーのコレクションが有名だが、常設だけでもかなりの部屋数である。彼の抽象にいたる過程が興味深かった。ピカソ、ブラック、カンジンスキーら同時代のキュービスムとも若干異なるその「やさしさ」が私には魅力的だったのだ。ジュネーブでその名を知ったベルン生まれのホドラーの作品も多い。印象派の作品も少数ながら捨てがたく、入館者も稀で、のんびりした時間に身を置いていると、異国にいることを忘れてしまうほどだ。

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車窓からのアルプスの山並み、そのままに、ジュネーブからの乗車券にはアルプスの絵が描かれていた。左、旧市街の時計塔が見える

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雨上がりのベルン市立美術館正面とパウルクレーコレクションから

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パウルクレー、1932年の作品、私が訪ねた2002年当時のベルン市立美術館の案内パンフの表紙になっていた。2005年、ベルン郊外にパウルクレーセンターが開館、クレーコレクションは、そちらに移された。立派な斬新な建物らしいが、クレーファンにとって、その展示には不満があるらしい

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ベルン生まれのホドラー(1853~1918)の作品も多い。「オイリュトミー」(1895年)、彼の表現の特徴でもある「パラレリズム(平行主義)による作品で、こうした構図の作品は多く、一昨年2018年ミュンヘンのノイエビテナコークで見た「生に疲れる人々」(1892年)を思い出した

  メインストリートには、いろいろな由来のある像をあしらった噴水が立ち、牢獄塔を正面に右手に入ると連邦議会議事堂が長々と続く。裏手に回るとアーレ川が川幅を広くしてゆったりと流れる。雨上がりの寒さもさることながら、また昼食が心配な時間となる。お目当ての「コルンハウスケラー」は、地下の穀物倉庫をレストランに改造したというが、階段を下りて開けたドアの先の、その広さに驚く。最初は穴倉に入った感じだったが、かまぼこ型の天井には、みごとな絵が淡い灯りに映し出されている。中央の長いテーブルも、夜には賑わうのかもしれないが、今は壁際のテーブルに何組かが散らばっている程度だ。周辺の雰囲気はワインだが、ビールにとどめ、ビュッフェ式の料理とベルンの家庭料理といわれている、ベルナー・プラッテ(野菜とソーセージ、ベーコンを煮込んだポトフ風の料理)を頼んでみる。テーブルの鍋に火をつけてくれる、この煮込み料理は、冷え切った体には最適だった。ジャガイモもソーセージもよかったが、たっぷりと盛られた干しインゲンも残さずいただく。街では、小物や民芸品、チョコレートやケーキがいっぱいのショウ・ウインドウに目移りがし、もう少しゆっくりできたらな、という思いが募る。
  そんな商店街の真中に、アインシュタインが下宿していた家があったりする。 アインシュタインといえば、物理学者で歌人の石原純が、日本への紹介者として有名である。その石原純は、留学中、1913年、チューリヒ工科大学でアインシュタインの指導を受け、「名に慕へる相対論の創始者に、/われいま見(まみ)ゆる。/こころうれしみ。」(『靉日』1922年)と詠んでいる。
  歩道からいちだんと低い、半地下のようなところから、車道に向かって斜めに入り口が開いている、こんなお店が続くのも珍しい。老舗という「チレン」では、チョコレートの詰め合わせと自家用にも小袋をいくつか買ってみる。

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  すぐにたどりつけると思った駅にぶつからず、予定の列車の発車時刻も近い。通行人から教えてもらい、歩道から直接ホームに通じる階段を二人は夢中で駆け下りた。そんな風に駆け込み乗車をしたものの、十数分走ったところで、列車は止まってしまったのだ。時折、車内放送が流れるのだが、まずドイツ語で、つぎにフランス語でというわけで、さっぱり分からない。ジュネーブ空港行き列車だというのに、周辺の乗客はみな慌てず、本を読んだり、パソコンに向かったりしている。三〇分ほどしてようやく動き出して、最初に停車したのがフリブールという駅だった。日没近くになって空は晴れ、車窓からの雪渓やローザンヌの展望も行きにもましてすばらしいものとなった。
  そして、今晩の食事は、駐在員の二人のお勧めでもあった、もう一軒の和食の店にゆく。コルナバン駅のすぐ近く、小料理やふうの店で、ご夫婦でのもてなしに心も和んだジュネーブ最後の夜となった。

  突然ながら、1924 年、斎藤茂吉はパリからヨーロッパの旅に出て、スイスのベルンにも立ち寄っている。齊藤茂吉「ベルン、九月廿八日」(『遍歴』)においてつぎのように詠んでいた。

・ベルンなる小公園にあららぎの実を啄みに来ることりあり(一九二四)

・この町に一夜やどりてHodler(ホドラー)とSegantini(セガンチニー)をこもごも見たり

 

20021123日~ジュネーブ空港で呼び出し放送をされて
 朝は、ジュネーブのホテル前のローヌ川を渡ってすぐのデパート、8時には開店というグローブスに向かう。夫は、きのう目星をつけておいたスイスワインの別送を頼むと、三、四週間はかかりますよ、とのことであった。戻ったモンブラン通りではクリスマス・ツリーなどを積んだトラックが幾台も入り、大掛かりな飾り付けが始まっていた。ウイーン行きの便は10時55分発、空港には少し早めに着いた。免税店で、いま愛用しているスイス製の水溶性クレヨン10色がだいぶ減って来たので、15色を見つけて買えたのが何よりのお土産になりそうだ。丸善ではだいぶ高いはずだ。さらに民芸品などを見ていると、夫は、いま呼ばれなかったか、という。呼び出し放送で、自分の名前が呼ばれたというのである。時計を見れば、離陸まで17、8分しかない。慌ててゲイトへと急ぐが、この通路が長い。動く歩道を走るようにして、駆け込みで搭乗すると、離陸の5分前で、冷たい視線を向けられたような気がした。席を探すにも、天井に頭を何回かぶつける小型機だし、ステュワーデスの制服も、あの真紅のオーストリア航空のものではない。一瞬間違ったかと思ったが、オーストリア航空グループのチロリアン航空だったのだ。大型機が安心というわけではないが、七〇人乗りぐらいだろうか。しばらくレマン湖上空を飛んでいたが、山岳地帯に入ると、その壮大な雪景色は初めて経験するものだった。画面での高度表示もないのだが、かなり低いのではないか。山間の集落、白い川の流れ、点在する小さな湖、どこまでも続く雪の山脈。ウイーンまでの一時間余、飽きることがなかった。 

  • あまそそるアルプスの峰に入り日さし白雲のくづれおもむろにくだる(一九二三)                       大塚金之助『アララギ』一九二三年三月

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最近は、あまりスケッチもしなくなってしまったが、それでも、よく使う緑や黒、茶色は短くなっているし、折れている色もある

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