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2020年6月17日 (水)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(7)

  前述のように、敗戦直後、古関の活動は、菊田一夫とのコンビで、NHKのラジオドラマ「山から来た男」「鐘の鳴る丘」により再開する。「鐘の鳴る丘」の制作は、占領軍GHQの戦災孤児対策の一環としての要請であった。古関は、その主題歌の「とんがり帽子」とドラマの音楽を担当した。そして、「鐘の鳴る丘」は、私の小学生時代、リアルタイムで聞き続けた番組であったことはすでに述べた。

  その後、古関の放送界やレコード業界、演劇界での作曲活動には、華々しいものがある。古関のメロディーは、敗戦後の人々の心をとらえ、1960年代から70年代にかけては、東京オリンピック、札幌冬季オリンピックの行進曲や讃歌などによって、日本経済の高度成長期の人々の士気を高め、ときには、テレビや映画、舞台から流れるメロディーが人々の心を癒したかもしれない。すでに、紹介、引用している歌もあるが、戦時下にあっては、つぎのような歌詞の曲が盛んに流され、多くの人々に歌われた。そして、このような歌に見送られて出征し、このような歌を歌って戦場に果てた兵士たちが数え切れず、餓死や病死していった兵士が圧倒的に多いのだ。戦場には慰安婦たちもいただろう。銃後では、夫や息子のいない留守宅で頑張る妻や母もいただろう。さらに、最近こんなことも知った。植民地下の朝鮮の国民学校卒業前の少女たちを甘い言葉で募集し、いわゆる女子挺身隊として、内地、不二越の富山工場で労働を強いられていた。その少女たちが、いま年老いても、「君が代」を毎朝歌い、「勝って来ると勇ましく・・・」と歌って行進していたと証言していた。歌詞も間違いの少ない日本語で歌っていたのだ(TBS「報道特集」2020年6月13日、チューリップテレビの取材)。

  しかし、自伝や評伝を読んでいても、古関の戦時下の作曲活動が、軍部や新聞・雑誌・放送局・レコード会社の要請をそのままに受け入れていた事実に対して、多くを語らない。シリーズ記事の(6)で引いた評伝の執筆者や遺族の言葉からの聞こえてくるメッセージは以下のようなものであった。刑部は、古関の作曲になる「長崎の鐘」「フランチェスカの鐘」「ニコライの鐘」「みおつくしの鐘」など、多くのヒット曲に「鐘」が鳴り響くのは「かつて自分が作った戦時歌謡に送られて死んでいった人たちへの鎮魂と、生き残った人たちに対して、明るい希望を与えたいという想いが込められているように思えてならない」ともいう(刑部⑥184頁)。辻田は「古関の歩みとは昭和の歴史であり、政治、経済、軍事の各方面でよくも悪くも暴れまわった日本の黄金時代の記録であった。それゆえ、その生涯と作品は、音楽史やレコードファンの垣根を超えて、今後も広く参照され続けるだろう。昭和は古関裕而の時代でもあった」と総括する(辻田⑦291頁)。いずれにしても、いまとなっては開催も危ぶまれる「東京オリンピック2020」にあやかったNHK朝ドラ「エール」に便乗しての出版であるから、当然といえば当然なのだが、両者とも、貴重な資料や証言を入手した上での総括にしては、あまりにも、軽くて迎合的ではなかったか。とくに「よくも悪くも暴れまわった日本の黄金時代」と言い切れる認識には、執筆者世代の受けてきたと思われる日本の近現代史教育の影が如実に反映しているように思われた。(続く)

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露営の歌(1937年 薮内 喜一郎)から

勝って来るぞと 勇ましく/ちかって故郷(くに)を 出たからは
手柄たてずに 死なりょうか/進軍ラッパ 聴くたびに
瞼に浮かぶ 旗の波

土も草木も 火と燃える/果てなき曠野 踏みわけて
進む日の丸 鉄兜/馬のたてがみ なでながら
明日(あす)の命を 誰が知る

思えば今日の 戦闘(たたかい)に/ 朱(あけ)に染まって にっこりと
笑って死んだ 戦友が/ 天皇陛下 万歳と
残した声が 忘らりょか

愛国の花 (1938年 福田正夫)から

真白き富士の けだかさを/こころの強い 楯(たて)として
御国(みくに)につくす 女等(ら)は/輝く御代の やま桜
地に咲き匂う 国の花  

暁に祈る(1940年 野村俊夫)から

あああの顔で あの声で/手柄頼むと 妻や子が
ちぎれる程に 振った旗/遠い雲間に また浮かぶ

ああ傷ついた この馬と/飲まず食わずの 日も三日
捧げた生命 これまでと/月の光で 走り書き

あああの山も この川も/赤い忠義の 血がにじむ
故国(くに)まで届け 暁に/あげる興亜の この凱歌

若鷲の歌(1943年 西条八十)から

若い血潮の 予科練の/七つボタンは 桜に錨今日も飛ぶ飛ぶ 

霞ヶ浦にゃ/でっかい希望の 雲が湧く
*
仰ぐ先輩 予科練の/手柄聞くたび 血潮が疼く

ぐんと練れ練れ 攻撃精神/大和魂にゃ 敵はない

嗚呼神風特別攻撃隊(1944年 野村俊夫)から 

無念の歯噛み堪えつつ/待ちに待ちたる決戦ぞ

今こそ敵を屠らんと/奮い立ちたる若桜

この一戦に勝たざれば/祖国の行く手いかならん

撃滅せよの命受けし/神風特別攻撃隊

熱涙伝う顔上げて/勲を偲ぶ国の民

永久に忘れじその名こそ/神風特別攻撃隊

神風特別攻撃隊

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