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2020年7月29日 (水)

古関裕而をめぐる動きから目を離せない(2)

 さまざまなエピソードで盛り上げるのは

 朝ドラ「エール」がきっかけになって、古関出身の福島市、福島県では、「古関裕而記念館」や地元の新聞や放送局、観光協会などが、「郷土の偉人」をめぐる情報やイベントを盛り上げている。先の「あなたが選ぶ古関メロデイー」の企画もそうであったが、つぎのような記事もあった。 

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「東京新聞」2020年1月23日

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『毎日新聞』2020年5月28日

 また、「中国新聞」では、つぎのような長い記事がネットで見られる。広島への原爆投下の一年後に古関はつぎのような歌詞での作曲を依頼されていたことがわかり、どこにも音源は残っておらず、古関裕而記念館でも把握していない作品であったという。
 1946年、原爆投下一周年という時期に「中国新聞」が「歌謡ひろしま」を公募して、その当選作を古関裕而が作曲している。「中国新聞」デジタルでは次のように伝えていた。

「原爆投下の翌年、広島の復興を願う歌が生まれた。「歌謡ひろしま」。被爆から1年の事業として中国新聞社が歌詞を公募した。曲を付けたのが古関である。「声も高らに 歌謡ひろしま」「古関氏鏤骨(るこつ)のメロデー完成」。そんな見出しとともに、歌は1946年8月9日付の朝刊で発表された。記事には古関のコメントも載る。「作曲にも苦心して何処でも誰にでもうたへるやうにした」。力の入れようが分かる。」

古関裕而を探して 戦没者への鎮魂の「鐘」
(2020年1月3日)
https://www.chugoku-np.co.jp/culture/article/article.php?comment_id=615326&comment_sub_id=0&category_id=1163

  つぎの公募歌発表当時の新聞記事1946年8月9日の写真によれば、五番までの歌詞と楽譜がっ掲載されているが、著作権法に触れるかもしれないので、ここでは、一~三番を再録する。作詩の入選者山本紀代子は、長男を原爆で亡くした歌人と報じられているが、調べてみると、当時の中国新聞社員で歌誌「真樹」を主宰していた歌人山本康夫の妻であることも分かって、私は少々驚いた。五番まである歌詞は、作曲者古関の「談」では「品があって、むづかしくなく、だれにでも歌える立派な」と評されていたが、その歌詞の内容の「軽さ」に、私はいささか違和感を覚えたのである。当時の市民たちの暮らしや気持ちからはかけ離れているようにも思えた。やがて、市民からも忘れ去られていったのではないか。それにしても、古関の変わり身の早さというか、「いつでも、どこでも、誰にでも」エールを贈っていることについての自覚があったのだろうかと。「歌謡ひろしま」(山本紀代子作)には、「誰がつけたかあの日から/原子砂漠のまちの名も/いまは涙の語り草」とか、「七つ流れの川も澄む/平和うつして川も澄む」などの文言が見える。

 以上のように、あちこちでの新聞記事やNHKの番組宣伝によっても量産・拡散される古関情報がもたらすものは何なのか。きっと、あの「戦時歌謡」も、さまざまなエピソードが付されて、「国民的な、天才作曲家」像が作られてゆくのだろう。 

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『赤旗』は、朝ドラ「エール」への応援が半端ではなく、<今週の「エール」>みたいな紹介もある。NHKにも”いい番組”がある、とのスタンスを崩さない。その報道の政府広報ぶりを改めさせなければ、受信料をとっての公共放送ではありえないのではないか

************   ようやく図書館から借り出せた、戸ノ下達也『音楽を動員せよ 統制と娯楽の十五年戦争』(青弓社 2008年2月)を何とか読み終えた。もっと早くに読むべき本だったと痛感しながら多くを教えられた。いまは『第三帝国の音楽』(エリック・リーヴィー著 望田幸男ほか訳 名古屋大学出版会 2000年12月)という翻訳書を読み始めている。私には、カタカナの人名や地名、曲名などが錯綜し、なかなか進まない。著者は序文で、ナチス時代の音楽活動に関する研究が進まない要因として、学術的資料が乏しいことと20世紀のドイツ音楽界の指導層の一貫性をあげている。つまり、ナチスの反ユダヤ主義政策は、たしかに影響力のある人たちを追い立てたが、「大多数の音楽家たちはナチスのもとにとどまることを選択し」、成功を収めた。そして、彼らの多くは、「戦後ドイツにおいても影響力の地位を保持したので、彼らとナチ体制との個別的関係を立ち入って調査することを妨げるのに多大の努力を払ったのである」と述べていたのである。ナチスの戦争犯罪に時効はないと、現在でも追及し続ける、あのドイツにおいてさえも、の思いしきりなのである。一体どういうことなのか、読み進めねばならない。

 

 

 

 

 

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古関裕而をめぐる動きから目を離せない(1)

                                      

なぜ古関裕而なのか

 私は、学生時代から短歌を作っていたが、30代になって、戦時下の歌人たちが発表した短歌や動向に触れることがあって、時代の大きなうねりに呑み込まれ、大政翼賛的な短歌や評論が横行していたことを知った。また、そうした歌人たちの、敗戦後の「平和な」「自由な」時代においても変わらず活動も続けていたと知ることになった。そして、現代の歌人たちが、その先人たちの作品や評論をたどるとき、戦時下の作品や活動には目をつむるようにして、それを語ることをタブー視するのが大方の流儀となった。そればかりか、その歌人の戦時下の作品や活動について、言論が不自由な時代に、時代と真摯に向き合い、国や天皇に報いたとて、批難されるべきものではなく、困難な時代の営為を評価するという流れさえ生まれてきた。いまさら、戦争責任を云々するのは、時代遅れの、野暮なことでもあるかのような風潮もある。ましてや、短歌と天皇制との関係に触れようとすると、ここまで国民の間に定着してきた象徴天皇制に言及することも、同様に忌避されるようになった。

 最近の投書から

 そうした「歌壇」の動向と今回の古関裕而をモデルとするNHKの朝ドラ「エール」をめぐるさまざまな言動とが重なって見えるのだった。たまたま、目に留まった投書があった。
 朝ドラ「エール」が3月末に始まるが、その1月に、古関の出身地の地元紙「福島民報」社が主催し、レコード会社などが共催する古関裕而生誕110周年記念「あなたが選ぶ古関メロディーベスト30」の企画が東京新聞にも発表された。その東京新聞の投書「古関氏の多面性伝えて」(「ミラー」欄、59歳男性、2020年1月22日)は、以下のように訴えていた。東京新聞の記事は古関の応援歌や戦後の歌謡曲ばかりを代表作として紹介していたが、彼は軍歌を量産し、国家総動員体制を支える積極的な役割を果たした人であることに一切触れていなかったことには違和感を覚えた。各時代において音楽が果たした役割や人間性の多面性についても伝えてほしいというものだった。
 また、最近では、朝日新聞「声」欄の「平和のバトン」企画として、古関の歌にまつわる三人の投書が並んで掲載されていた(2020年7月25日)。まず、「若鷲の歌(予科練の歌)」にまつわる「元予科練生 古関作品に万感」(91歳男性)、「「若鷲の歌」あこがれと現実」(90歳男性)の二つで、前の方は1944年夏中学三年生のときに「海軍甲種飛行予科練習生」を志願、「敗戦後、(生き残った)予科練生のたどった道は複雑であった。背後の数多の先輩の死を背負って生きていった。古関先生も同様であったろう」とし、両者の思いを一つにまとめて、鎮魂の交響曲「予科練」を創ったらどうか、というものであった。後の方は、「七つボタン」にあこがれて、「東京陸軍少年飛行兵学校」での訓練の現実は厳しいものだったことを語った。卒寿を迎えた二人の「少国民」の声を真摯に受け止めたいと思う一方、バトンを受け取った者たちは、「鎮魂」という形とは別に、あの戦争が、負け戦が、かくも長く続いたのかの史実を掘り起こし、検証することが大事ではないかと思った。まだやり尽くしてないことがたくさんあるように思う。

 私は、数年前、友人たちと茨城県阿見町にある「予科練平和祈念館」の見学に出かけたことがある。霞ケ浦海軍航空隊におかれた海軍飛行予科の練習生、予科練の少年たちの生活や心情に迫る展示が印象的ではあったが、特攻隊として死に直面する極限状況におかれた若者たちをノスタルジックに、情緒的なスタンスで展示されてはいないかが不安になった。1944年6月から数週間、少年たちと生活を共にしながら写真を撮り続けた、あの土門拳の大量の作品の行方が知れず、自ら処分したのではないかとも聞かされた。展示されているのは、たまたま病床あった練習生に届けられた写真42枚が空襲にも遭わず残されたものであることが分かったのである。

<参照記事>
雨の霞ケ浦~吉崎美術館の高塚一成個展と予科練平和記念館と(2)
(2015年10月15日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/10/post-3abf.html

 もう一つの投書というのは「『長崎の鐘』に永井博士を思う」(77歳男性)と題するものであった。投書者は、永井隆と同郷で「長崎の鐘」は「被爆者治療に身を捧げた永井博士の生涯をたたえた曲」で、時代を超えて引き継がれている「長崎の鐘」を聞くと胸がいっぱいになり、朝ドラ「エール」でその曲が流れるのを心待ちにしているという主旨であった。

サトウハチロー作詩、古関の作曲になる「長崎の鐘」については、最近の私のブログでも書いた通り、この歌の背景には、かなり深刻な問題が潜んでいることを忘れてはならないと思う。

<参照記事>
「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(3)
(2020年5月31日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/05/post-48157e.html

 「長崎の鐘」の歌詞は、長崎原爆投下の犠牲者にささげた鎮魂の歌とされているが、モデルとなった永井隆の『長崎の鐘』(1941年1月)は、GHQの検閲下、半分近くの頁を日本軍のマニラにおけるキリスト教徒虐殺の記録「マニラの悲劇」の記事に割く本として出版された。この著書はじめ、永井は「浦上への原爆投下による死者は神の祭壇に供えられた犠牲で、生き残った被爆者は苦しみを与えてくださったことに感謝しなければならない」と繰り返し、原爆投下の責任を一切問うことをしていない。そして、これらの言説が、長崎のカソリック信者たちを、長い間、呪縛し続けたという。

 私自身は、信ずる神を持たないが、カソリックで、教会内部でのパワハラなどとも戦っている、若い時の歌友からは「浦上への原爆投下は『神の摂理』であり、死者は祭壇に供えられた犠牲であり、生き残った者には愛するゆえに苦しみを与えてくださったことに感謝しなければという考えは、カトリック教会の中ではいまでも罷り通っています。私自身、引き続く天災地変やウイルス禍を『神の怒り』と捉えたこともあります。そう捉えるのが簡単だからでしょうか。これまた反省してやみません」との感想もいただいたところである。

<参照記事>
長崎の原爆投下の責任について<神の懲罰>か<神の摂理>を考える
(2013年5月30日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/05/post-15f2.html

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2020年7月13日 (月)

岡井隆死去報道に接して~亡くなると<旗手>になったり、<巨人>や<巨星>になったり・・・

 7月10日、岡井隆が92歳で亡くなった。7月12日の朝刊で知った。いくつかの新聞記事を読んで、やっぱりな、と思う。岡井が1993年、歌会始の選者になったことをどう伝えるかに、私の関心はあった。
 『朝日新聞』は社会面で「岡井隆さん死去 歌人 現代歌壇を牽引」との見出しで伝えた。同日の「天声人語」にも登場した。そこでは、「破格、破調の堂々たる生き方であった」と締めくくっていた。社会面の記事では「92~2014年に宮中歌会始の選者。かつてマルクス主義者を自称した歌人だっただけに選者を引き受けた時は一部から批判が上がり、話題となった(赤字の92は93が正しい)。07年から18年には当時の天皇、皇后両陛下や皇族の和歌御用掛も務めた」と記す。前日7月11日のデジタル版(14時14分)の見出しは若干ニュアンスが異なり「文化功労者の歌人 岡井隆さん死去 皇族の和歌の相談役」となっていた。

 『東京新聞』は「岡井隆さん死去 前衛短歌運動の旗手」と一面で伝えた。その末尾に「九三年から宮中歌会始の選者、二〇〇七年には皇族に和歌を指導する宮内庁御用掛になった。社会派として活動してきた歌人が宮中行事に参加することは大きな議論を呼んだ」とある。また社会面では、「戦後短歌の歴史体現 時代捉え作風変遷」との記事とともに、東京新聞歌壇選者の東直子と現代歌人協会理事長の栗木京子のコメントがつく。コメントの二人は、それぞれ自身との交流に触れつつ「常に新しいものを取り入れようとしていた」、「新しい潮流にいち早く身を投じて自分の栄養にする」と語っていた。

 『毎日新聞』は、「岡井さん死去 前衛短歌、戦後歌壇けん引」とあり、その冒頭には「前衛短歌運動の旗手として戦後歌壇をリードし、皇室の和歌の指導役も務めた歌人で文化功労者の岡井隆さん・・・」とあり、その末尾でも「宮中歌会始選者を歴任。07年から18年まで宮内庁御用掛を務めた」とあった。日本現代詩歌文学館前館長篠弘と馬場あき子のコメントを付していた。

 『産経新聞』電子版(2020.7.11 13:29)でも「歌人の岡井隆さん死去 前衛短歌運動の旗手」で、「昭和期の前衛短歌運動を牽引(けんいん)し、宮中歌会始選者も務めた歌人で文化功労者の岡井隆さん・・・」で始まり、末尾に「(平成)19年から天皇陛下や皇族方の和歌の相談役として宮内庁御用掛を務めた」とある。

 『日本経済新聞』電子版(2020/7/11 15:15)では「岡井隆さん死去 92歳、戦後短歌界けん引した歌人 」とあり、同紙「カバーストーリー」では「安住と闘った戦後短歌の巨人」とあった。

 『産経スポーツ』(7月11日19時20分)では、東直子と伊藤一彦が、それぞれに「若い人にフラットで穏やかに接してくれた」、「戦後歌壇において塚本邦雄と並ぶ巨星で、包容力があり、話していると本当に心地よい」などとコメントしていた。

 総じて「前衛短歌(運動)の旗手」であり、「歌壇を牽引」したというのが、岡井へのほぼ定まった評価なのだろうか。「前衛短歌の旗手」であった歌人と皇室との濃厚な接触関係については、「話題となった」「議論を呼んだ」と素通りするか、むしろ、それを功績として評価するような書きぶりに思えた。また、「歌壇を牽引」「短歌界を牽引」というのは、ある意味、実情に近いのかもしれない。牽引したのは「短歌」ではなく「歌壇」であったと思われるからである。さまざまな形で、とくに後進の歌人たちへの指導力や政治力を発揮しながら、歌壇での地位を不動のものとしてきたのではないか。また、亡くなった人が、その世界、業界の<巨星>や<巨人>になったりするのはよく見聞きする。著名人の訃報や追悼記事に贈られる定番の賛辞でもある。そして、多くの人たちが、競うように、岡井と自分との出会いや交流を語り、オマージュが氾濫するにちがいない。 
 今後しばらくは、<歌壇>では岡井隆追悼記事が目白押しになるだろう。これまで、岡井隆の皇室への接近とそれをめぐる歌壇の状況について、幾度か言及してきた私としては、当分、目が離せない。

 岡井さん、お疲れさまでした。追悼特集では、だれが、どんな発言をするのか、ゆっくりと楽しまれることでしょう。

 ご参考までに、以下が関連する主な拙稿です。
「歌会始選者の系譜」『短歌と天皇制』(風媒社 1988年10月)
「歌壇に”最高実力者“はいらない」『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年2月)
「<歌会始>をめぐる安心、安全な歌人たち」『天皇の短歌はなにを語るのか』(御茶の水書房 2013年8月)
「タブーのない短歌の世界を <歌会始>を通して考える」(『ユリイカ』2016年8月)

以下は、本ブログ記事です。  

「見回せば<岡井隆>はどこにでもいる~2015年8月に」
(2015年8月2日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/08/20158-df41.html
「勲章が欲しい歌人たち、その後~岡井隆が文化功労者に」(2016年11月4日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/11/post-0cbe.html

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2020年7月 6日 (月)

そうだ、きょうは、「サラダ記念日」だった

  7月4日はアメリカの独立記念日、きのうは、都知事選の投票日で、投票が締め切られた午後8時の数秒後には当確が出ていた。そして、きょう、7月6日は、サラダ記念日だったのだ。

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 西日本豪雨災害から、もう二年、そして、きょうのテレビでは、熊本、鹿児島、宮崎県の豪雨被害が伝えられている。1階は泥に埋まってしまった高齢者施設千寿園、14人の死者が確認された。濁流が引いた後の球磨病院の状況を見て、胸が詰まる思いだった。そして北九州にも大きな被害をもたらしている豪雨、どうしたら、こうした災害を防げるのだろうか。天災、自然の脅威だけでは済まされない、防げる手段や対策があったはずと悔やまれてならない。

 東京では、再選された小池東京都知事は、いつになく“晴れやかな表情”をして、コロナ対策と東京五輪実施に向けての抱負を語っていたが、東京都の確認感染者数が減る気配がない。積極的に検査を受けていただいている結果でございます、という。いつも不思議に思うのは、感染者数が知事の口から発表されるばかりで、検査数を発表したことがない。それを確認するメディアもいない。東京五輪延期決定までの都の感染者の少なさへの疑問、増えたというPCR検査のキャパシティは報道されても、検査数が極端に絞られていた実態、専門家会議と政府が一体となって、<医療崩壊>の名のもとに診療や検査に向うことすら抑えに抑えていた時期があった。そうしたことへの検証がないまま、これまでの専門家会議をシャッフルして、新しい有識者会議と分科会が発足するという。その初会合が今日だったかもしれない。

 病院や高齢者施設、介護施設は慢性的にスタッフが不足しているのに加えて、医療用品・機器も満足な状態ではなかった、と地元の9条の会では、地方の病院に勤務する医師から話をお聞きした。現在は、コロな患者を受け入れた病院の一般患者の受け入れ減少に加えて、その後の風評被害が大きく、多くの病院で赤字を出しているのがわかってきた。医療従事者に拍手を送ったり、自衛隊機が表敬飛行したりする前にやることがあるだろうにと・・・。

 近くの中学校の掲示板には、いまだに「入学おめでとう」の大きな文字がそのままになっている。官邸の独断でなされた一斉休校、なんの手当てや補償もなくて、生徒、保護者、教師、給食関係者らに与えた影響は計り知れない。生徒の学力・体力・健康面だけでも、近い将来、その低下や格差が顕著になってくるだろう。 

 そう、きょうは、7月6日のサラダ記念日、俵万智歌集『サラダ記念日』(河出書房新社 1987年5月)の中の一首「〈この味がいいね〉と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」に由来する。書棚の隅にあった『サラダ記念日』を開いてみたら、はらりと落ちたハガキとチラシ。ベストセラーになりかかった、初版から1カ月半後、出版元の河出から、宣伝のためにと送られてきたようである。第3歌集の『チョコレート革命』(1997年)には、俵万智の署名と雅印(コピー?)のある献呈のしおりが挟まれていた。あの頃の河出は気前が良かったんだなと思う。ただ第2歌集『かぜのてのひら』(1991年)も河出から出ているのだが、私の手元にはない。そして文芸春秋から出た『プーさんの鼻』(2005年)が第4歌集で、出産後の子育て歌集?となっている。どの歌集も楽しく読むことができ、こんな短歌も「あり」かなと思う一方、「女性の新しい生き方」の一つが示されたとしても、結果的に男性の論理とコマーシャリズムに加担してはいないかとの疑問がよぎる。その後の歌集には縁がなかったけれど、たしか、選挙の時、小泉純一郎のインタビューアーになったり、赤い羽根募金のポスターに登場したり、『通販生活』のコマーシャルに息子さんと出たりしていた記憶があるが、そういう姿を見るのはやはりに残念としか言ようがなかった

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