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2020年8月18日 (火)

メデイアの中の「知識人」たちー清水幾太郎を通して考える(2)

 1960年代前半、清水幾太郎は、思想的にも活動にも、大きな転換期を迎えていたことになるのは、前述の二著からも明らかである。1959年3月に結成されて安保改定阻止国民会議は構成団体が多いだけに、さまざまな軋轢があった。とくに前年1958年からラジカルな運動を極左冒険主義として非難する日本共産党と全学連との対立は深刻なものとなり、全学連幹部だった香山健一や森田実らが除名され、彼らが中心となって、いわゆる「ブント」が結成されていた。上の著作には表れていないが、1960年2月、清水が代表を務めるグループが、「諸組織への要請」という文書を革新政党、労働組合、平和団体、学生団体などに送り、このままでは反安保の全国的な、熱いエネルギーを生かし切れず、四散してしまうとして、ラジカリズム批判を批判したものだった。さらに、清水は5月号の『世界』で、「いまこそ国会へ―請願のすすめ」によって、一般市民や学生たちにも「手に一枚の請願書をもって、国会議事堂を幾重にも取り囲もう」と呼びかけ、精力的に講演などに駆け回り、共産党系団体の妨害にもあったという。 
 そして、1960年5月19日から20日にかけての衆議院での新安保条約の強行採決がなされると、いわゆる「進歩的文化人」たちの間には、丸山真男らを中心とした、岸内閣による強行採決は、議会のルールを無視した、民主主義に反するものであり、今後の運動は反安保より民主主義擁護に転換すべきだとする流れが大勢を占めるようになったという。
 
しかし、一方で、この5月20日、6月15日を経た、新安保条約自然承認に至る6月20日までの全国各地での市民や学生たちの安保条約反対の抗議の集会やデモの盛り上り、とくに、私自身も目にしたり、参加したりした国会議事堂への抗議デモの熱気は、忘れることができない。たしかにデモ隊を迎えるのは、参議院、衆議院の面会所の正面に立つのは社会党や総評系の議員たちだったのかもしれない。そんなことはどうでもよかったような気がする。国会の南通用門と向かいの首相官邸の交差点で、激しいジグザグデモを繰り返す全学連の学生たちを、面会所前の歩道を埋め尽くす長いデモ隊の市民たちは見守るようなことはあっても、敵視するような雰囲気はなかったことを思い出す。
 
そして、6月20日の自然承認がされた一方で、岸内閣の退陣が決まると、安保阻止闘争で闘った人々、見守った人々の挫折感はぬぐいようもなく、そのままに終息してしまったのが、うそのようでもあった。大学構内も静かさを取り戻し、私の周辺でも、読書会やセツルメントに精を出す友人が多くなった。私といえば、野次馬的に他学部の講義まで聞きかじり、単位ばかりはせっせと取る学生になっていたが、身につくということもないまま、就職には難儀することになるのだった。 

 清水の全学連支持の色濃い発言の場は、岩波の『世界』からも遠のいていった。といっても、以後は、E・H・カーやサルトルの翻訳の連載などは、同じ岩波の『思想』、『文学』などに執筆していて、岩波との縁が切れるのは、もう少し後のようだ。上記リストをみるように、安保闘争の清水自身の総括は、『中央公論』や『週刊読書人』『図書新聞』などでなされることになり、『潮』や『文芸春秋』『諸君!』に登場するのは1967年以降なのである。 
 評伝①の竹内の興味深い統計がある。清水が雑誌に寄稿を始めた1929年から没年の88年までの年別の執筆本数をグラフ化したものである(306~307頁)。これによると、最初で最大のピークは1938年・39年で、各年120本を越えるのは「東京朝日新聞」の嘱託時代であった。次のピークは1951年・52年で、95、75本という数字になり、それでも、1945年以降1961年までは、年50本前後を推移しているが、1962年から急に減り始め、1971年の50本をピークとして、20本内外を推移することになって、上記のリストの1960~65年という時期は、その下降線のただなかであったことがわかる。清水没後の『著作集』の執筆目録によれば、著書135冊、訳書35冊、編纂・監修43冊、雑誌等執筆併せて2582、ということで、竹内は、そのうちの雑誌等の2246本を対象にしたという(305頁)。
 
こうした流れの中での1960年代の執筆が、ピークを過ぎて下降線をたどっていたとしても、かなりの量にも思える。清水先生の仕事の根拠地は基本的に大学の研究室で、ドアを開けると、背を見せ、窓際の机に向かって、いつも執筆されていたというのが当時の印象である。先生にかかってくる電話の多くは、新聞社や出版社の編集者からではなかったか。なかでも、岩波書店、中央公論社がダントツに多く、さすがだと思ったりした。多くは原稿の依頼や催促らしき話しぶりであった。一つ、興味深く思ったのは、かけてきた人によって、「留守だったことにしてくださらんか」、「今ちょっと手が離せないことにしてくれたまえ」と電話には出られないことも多々あった。中には、二度、三度の末、ようやく出る場合もある。岩波や中公などの場合は、まずそんなことはないのだが、当時、『潮』の編集者からの電話には、「お電話がありましたことをお伝えしておきます」などと応ずることが多かった記憶がある。
 研究室を訪ねてくるお客さんも多かった。とくに学部の応接室のようなものはなかったので、細長い研究室で応対されているようであった。また、連れ立って、出来たばかりの輔仁会館の教職員食堂や目白駅近くの「ボストン」という喫茶室を贔屓にしているようだった。また、外で会う約束は、「新宿ステーションビルの『プチ・モンド』で」と指定するのをよく耳にした。
 先生は、私たちに余分な話をすることはあまりなかったが、1964年のオリンピックの開会式、どこからかの招待で参加したことをうれしそうに話し、私たちをうらやましがらせもした。また、桑沢デザイン研究所から贈られたばかりというライティング・デスクというのか、ビューローというのか、立ったままの姿勢で、ものを書いたり、お茶をのんだりできる机が自慢だった。桑沢洋子がデザイナーに言って「ボクの身長に合わせて、デザインしてくれてネ」と立ってペンを走らせる姿は格好よく、ヨーロッパの貴族の部屋の片隅にでもありそうな、しゃれたデザインの机だった。後で知るのだが、服飾デザイナーとばかりと思っていた桑沢洋子は、かなりの意欲的な人で、たしかに服飾からスタートしたが、バウハウスの影響を受けて、産業デザイン、生活様式にもかかわる総合的な教育を目指し、1966年には東京造形大学を新設しているのだった。

 二つの評伝を読んで、内灘闘争、砂川闘争、そして安保闘争に身をもって参加してきた研究者でもあったが、終生、「ジャーナリスト芸人」と自虐的に語る自負もあった清水幾太郎の足跡、1980年「核の選択―日本よ 国家たれ」(『諸君!』7月号)に至るまでの言説の変わりようをあらためて目の当たりにした。決して「忘れられた思想家」ではなく、現代のメディアで活躍するジャーナリストや評論家、専門家と称する人たちにとっては、「反面教師」として、自身を振り返る手立てにしてもらいたいと思うのだった。
 1965年3月、私は2年間の「目白の森」の勤めを終え、不安でもあった国立国会図書館の試験に引っ掛かり、新卒に混じり、2年遅れの職員となった。

 

 

 

 

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