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2020年11月22日 (日)

奈良・京都には何回か来ているはずなのに(3)

尹東柱の詩碑を訪ねて

 翌日、11月14日は、午後2時過ぎの新幹線をとっているので、午前中はフリーだった。まさに紅葉の季節、外国人観光客も少ない、この時期、出かけたいところもあったが、欲張らず、ホテルの目の前の京都御所に行ってみることにした。大した予備知識もないままなのだが、前日の「皇室の名宝」展の続編ともなろうか。
 ちょっとその前に、同志社大学の今出川キャンパスに尹東柱の詩碑があるはずと、出かけてみると、この時期ながら、キャンパスは出入り自由とのことだった。新島襄の「良心碑」やレンガの建物を縫っていくと、その詩碑は、礼拝堂とハリス理化学館のあいだの木陰にあった。
 
尹東柱(ユン・ドンジュ、1917~1945年2月16日)は、キリスト教信者一家の旧満州出身のコリアの詩人で、同志社大学留学中の1943年7月に、民族運動にかかわったとして、治安維持法違反容疑で逮捕、翌年、懲役2年の実刑判決を受けた。1945年2月16日福岡刑務所で死因不明で獄死している。尹東柱は、少年時代から詩作を続け、雑誌などに投稿していた。没後1948年に出版された詩文集「空と風と星と詩」は、多くの人に愛され、1980年代からは、日本語訳も何回か出版されて、知られるようになった。その後、同志社大学のコリアクラブなどが中心となって、1995年の命日に、この詩碑がたてられたという。

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門衛でもらったキャンパスマップ、詩碑は②礼拝堂と③ハリス理化学館の間との案内を受ける

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尹東柱詩碑、そばにはムクゲが植えられていた。その詩文は反射してよく撮れなかったのでネットから拝借したのが下記である

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左手前からハリス理化学館、至誠館、正面がクラーク記念館

 

京都御所へ、公開ながら発熱チェックと消毒と

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  今出川御門から京都御苑に入り、右手の近衛邸跡は児童公園になっていて、土曜日だけに親子連れでにぎわっていた。左手が桂宮邸跡ということで、正面に翔平門を見て、右手の角を曲がると京都御所への受付所が遠くに見えてくる。広い砂利道は気持ちはいいが、歩きにくい。受付では体温計測と手指消毒後、番号札を渡されての入場である。順路が決まっていて、係員があちこちに立っている。歩けるのは御所の南の半分ほどで、新旧の車寄せを経て、北の翔平門に対して南の正門は建礼門で、最も格式の高い門ということであった。紫宸殿の南庭に入る承明門があるが、見学者は、南東の隅にちょこっと入れるだけであった。北に進むと池があり、その前には小御所、蹴鞠の庭、御学問所があり、さらに北には御内庭があり、御常御殿と続き、天皇の生活の場が続く。紫宸殿の北にある清涼殿は、ただいま屋根の葺き替え中で、覗くこともできなかった。造営はいずれも16・7世紀、江戸時代のものが多いが、新御車寄せは、大正天皇の即位の礼のために建てられ、なかには小御所のように焼失のため1954年に建てられたものもある。40分ほどで回れただろうか。南東にはほぼ同じくらいの広さの大宮御所・仙洞御所があるが、参観には許可が必要で、桂離宮や修学院離宮と同じ扱いなのだろう。それにしても、御苑は広い。東西約700m南北約1300mの92ヘクタール、御所部分が11ヘクタールという。

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見学の順路は矢印の通りであった

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紫宸殿の南庭の隅から、後方に見えるのが工事中の清涼殿

 東京の皇居といえば、宮内庁管理部分が115ヘクタール、外苑など含めると230万ヘクタール。北の丸公園、東御苑と開放されてきたが、都心の115ヘクタールの緑地は貴重である。まだまだ、公開できる部分がある、というよりは、現在の天皇家の住まいもある約50へクタタールの赤坂御用地内に、皇族方がまとまって住むこともできるはずである。皇居が全面開放されれば、国民や都民の憩いの場所にもなり、災害時の避難所にもなるのではないか。用地不足でままならない、さまざまな施設もできるかもしれない。そんなことも考えてしまった御所見学だった。

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正面のイチョウの木は一条邸跡の角、その先が乾門であった

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金色に輝いていたイチョウの木を思わず見上げてしまった。足元の落ち葉は、意外と小さいものばかりで、前掲の順路写真の右下に並べてみた。モミジの葉よりよほど小さいのがわかる

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2020年11月20日 (金)

奈良・京都、何回か来ているはずなのに(2)

京都国立博物館「皇室の名宝」展へ

 新型ウイルス対策のため、見学は30分刻みの事前予約が必要とのことで、家を出る前に、当初は11月14日の午前中にと思ったが、すでに満杯だった。13日ならば、当日でも入館できる状況だったので、京都駅の観光案内所で確認、バスで博物館・三十三間堂前下車。私たちは、午後3時入館、制限している割には混んでいた。
  皇室の所蔵する美術品などは、平成になって、大方、三の丸尚蔵館に移管され、即位10年、成婚50年、改元などの記念展や、テーマを持った特別展が年に2・3回開催されていたのは知っていた。今年に入っては、「即位記念・令和の御代を迎えて」も開催されていたのだが、いずれにしても、そのテーマからして出かける意欲を失っていた。しかし、今回は、京都に行くついでながら、伊藤若冲と円山応挙がみられるということで出かけた。夫は、あまり乗り気ではなかったが、付き合ってもらうことにした。

展示の構成は以下の通りであった。
第一章 皇室につどう書画 三の丸尚蔵館の名宝
 筆跡のもつ力/絵と紡ぐ物語/唐絵のあこがれ/近世絵画の百花繚乱
第二章 御所をめぐる色とかたち
  即位の風景
/漢に学び和をうみだす/天皇の姿と風雅/王朝物語の舞台

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出品目録とチケット

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恩命帖」(藤原佐理 982年)、矢の調達が整わなかったことの詫び状らしい。このコーナーには藤原定家の「更級日記」や「和歌懐紙」があった

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蒙古襲来絵詞」(13世紀)、このコーナーには、「「春日権現験記」〈1309年頃)もあり、前日、春日大社に参っていただけに興味深った

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私の高校時代の日本史教科書『新日本史』(池田教科書出版 1956年)にあった「蒙古襲来絵詞」(御物)とあり、『中学日本史』(清水書院 1951年)にもあった

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伊藤若冲「旭日鳳凰図」(1755年)

 若冲がブームになったのはいつごろだったか。2009年、即位20年ということで東京国立博物館で開催された「皇室の名宝~日本美の華」においては、「動植綵絵」30幅がすべて公開されていたという。2016年にも生誕300年で、大々的な展覧会が開かれていた。「動植綵絵」は元々相国寺に寄進されたものだったという。今回は、前期・後期あわせて8幅が展示されていて、下記の「南天雄鶏図」「菊花流水図」など4点を見ることができた。

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  私には近世の美術が興味深かった。大半は豪華な屏風であった。狩野永徳、海北友松、俵屋宗達、狩野探幽など、教科書に出てくる画家たちの作品が並ぶ。とくに、宗達の「扇面散図屏風」の意匠に目をとめた。宗達は、京都の町絵師で、料紙や扇も商ってもいたというが、生没年もはっきりしないらしい。弟子たちと工房のようなところで作品を描いていて、町民に人気があり、寺社や貴族からの依頼は後期になってからともいう。

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俵屋宗達「扇面散図屏風」八曲一双(17世紀)

 なお、「即位の風景」のコーナーには、江戸時代の天皇の即位の図を描いた屏風があった。なるほど、今回の即位の礼のテレビ中継で見覚えのある「高御座」を中央に描かれている絵は、現代よりよほど質素に思えた。わざわざ京都から運んでまでする儀式だったのだろうか。それに、このコーナーには、どこか真新しい屏風があったのでよく見ると、「令和度 主基地方風俗和歌屏風」といい、「和歌 永田和宏詠筆 絵 土屋礼一筆」と記されている。「なんだ、これは」というと唐突さであった。所蔵をよく見ると「宮内庁用度課」となっていた。すでに「名宝」なのかな、というのが率直な感想であった。京都の四季にちなんだ和歌の色紙は、屏風の上部の左右にあるので、文字は読めなかった。なお、悠紀地方の屏風は、「和歌 篠弘詠筆 田渕俊夫筆」とあり、前期に展示されたらしい。土屋礼一は、芸術院会員、日展副理事長、永田和宏は、歌会始選者である。

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「令和度 主基地方風俗和歌屏風」(和歌永田和宏詠筆 絵土屋礼一 2019年)。
大嘗祭では、天皇が大嘗宮の悠紀殿(ゆきでん)と主基殿(すきでん)でお米などの新穀を神前に供えるが、その新穀は東日本の「悠紀地方」と西日本の「主基地方」からそれぞれ納められることになっており、今回は栃木県と京都府が選ばれた。2019年11月の大饗の儀の調度品として披露されたという

 なお、出品目録を見ると、所蔵機関はほとんど三の丸尚蔵館なのだが、宮内庁書陵部などとともに「御物」となっているものがあった。御物とは、昭和天皇死去後の、天皇家の相続にあたって、美術品の評価が高く相続税がかかるので、「国有財産」「御由緒物」とに仕分け、その残りにあたる。国有財産になったものは三の丸尚蔵館に収められ、皇位に伴って伝えられるべき三種の神器や儀式関連文書や装身具が「御由緒物」となった。しかし、その仕分けの基準が曖昧で、貴重な美術品が含まれているようだ。なぜ、すべて国有財産にしなかったのだろう(森暢平『天皇家の財布』119~126頁)。
 夫とは、途中から別行動になり、先に出るという。ロダンの「考える人」の辺りで待っているとのメールが入っていた。

 

 

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2020年11月18日 (水)

奈良・京都、何回か来ているはずなのに(1)

春日大社・東大寺というコースながら~志賀直哉旧居、子規の庭へも

 11月12日、前ブログ記事のNHK受信料裁判の判決報告集会が終ったあと、興福寺境内を突っ切って、猿沢の池畔のホテルに戻った。暗くなった一帯には、すでに人影もまばらで、シカたちの姿も見ることはなかった。彼らのねぐらはどこなのだろう。
 奈良へは、中学・高校での修学旅行で、ひとり旅で、家族でと、何回か訪れているはずなのに、断片的な記憶とアルバムに収まったわずかな写真で甦る記憶だけなのが、とても寂しい。文章にでも残しておけば別なのだろうが。たしか、一人旅をしていたころ、当時評判だった「日吉館」に一泊したことがあった。部屋の隅には布団が積んであった、布団部屋のようなところであったことだけは覚えている

 翌日の午後は、京都国立博物館の「皇室の名宝」展、夕食の約束もあったので、奈良で過ごせるのは午前中だけだった。腰を痛めている私には、サイクリングも長い時間の歩きも無理だったので、夫の立てたコースで観光タクシーをお願いすることになった。  
 荷物のほとんどは宅急便で送ったので、二人とも身軽になって乗ったタクシーは、カイナラタクシーの女性運転手さんだった。2時間半ほどのコースを示すと、若草山までは無理かな、とのことだった。荒池に沿って走り、まず降りたのが鷺池の浮見堂だった。木造の橋の半ばに浮見堂があり、出会う人もなく、池端の紅葉が水面に映えていた。ライトアップもあり、週末にはボートも乗れるとのことだった。

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狭い路地に入るとすぐに、志賀直哉旧居があった。車は別の場所で待っているので、見学が終わったら連絡くださいとのこと、受付では、「入口は狭いですけど、中は広いです、どうぞ、どうぞ」ということで、脱いだ靴を持っての見学となった。志賀直哉は1929年~38年までここで暮らし、「暗夜行路」の後半を書いたといい、多くの文人たちのサロンにもなっていた。外観は、2階建ての数寄屋造りだが、和洋折衷の、まさに昭和前期の雰囲気を漂わせていた。一階にも二階にも書斎はあり、夫人の部屋、子ども部屋、茶室、女中部屋・・・ともかく部屋数が多く、迷路さながらであった。広い台所には、長い流しに、調理台、背の高い木製の冷蔵庫まで備えられ、女中さんたちの、子沢山な大家族の食事の準備やお客の接待に大忙しだった様子がうかがえる。高校生の頃、義務的に読もうとして、読み切れなった「暗夜行路」の世界とはかけ離れていないかな、とも。志賀直哉が転居した後、持ち主は転々とし、戦後、米軍に接収された時期もあった。現在は、奈良学園のセミナーハウスになっていて、きちんと管理されているようであった。

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 この2階の客間には、志賀直哉に傾倒していた小林多喜二が保釈中の1931年11月初旬頃、泊っている。この窓から見下ろして、多喜二は何を考えていたのだろうか。その一年半後の1933年2月20日、築地警察警察署で拷問により殺されている。この日は、直哉の50歳の誕生日であった

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サンルーム、庭の向こうには子ども用のプールも作っている

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庭の散策路は、ツワブキ満開であった

   春日大社本殿への道は、ささやきの小径と裏道のどちらにしますか、運転手さんはいう。車は、国宝館下の駐車場で待っているとのことであった。裏道とは「上の祢宜道」で、祢宜たちが通った道だった。
 
本殿近くには、観光客もシカもだいぶ多くなり、七五三参りの家族連れにも出会う。三月堂、二月堂を回り、大仏殿に向かう。この辺りは、マスクをした修学旅行や遠足の子供たちで大賑わいであった。私も、修学旅行では来ているはずなのに、まるっきり記憶は飛んでいる。この子どもたちにとっては、コロナ禍の中での旅の記憶が忘れられないものになるかもしれない。春日大社本殿、法華堂、大仏殿の拝観の折は、フリーパスの運転手さんも同行、説明を聞くことができた。正倉院を経て、「子規の庭」に向かう。

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この方向からが一番よく見えた。天井のマス目は、大仏の天井と周辺の天井とでは、サイズがことなるらしい。大仏の頭上は、より小さく、大仏はより大きく見せる仕掛けがあるとか

  運転手さんは「子規の庭」は、初めてなので、調べてみましたとのこと。私たちも詳しいことは知らなかったが、「ご自由にお入りください」とある木戸は、大きなレストラン天平倶楽部のわきにあった。
 
ここは、若草山を目の前にした對山楼「角定」という宿があったところで、正岡子規が、1895年、日清戦争末期従軍の折、喀血して、神戸、郷里松山などで療養した後、大阪を経て、奈良にも立ち寄ったときの宿。10月26日から数日間滞在したという。その頃の庭がそのまま残っていると、案内板にもあった。子規は、奈良の御所柿を満喫し、その皮をむく若い「下女」の風情にも心動かされたことを、のちのエッセイで書き残している。

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(法隆寺の茶店に憩ひて)

 代表作となっている、この「鐘」は、この宿で聞いた東大寺の「鐘」であったという解釈の根拠は、つぎのような句が背景になっているのだろう。

「長き夜や初夜の鐘撞く東大寺」

「秋暮るる奈良の旅籠や柿の味」

 なお、子規自身による草稿「寒山落木」巻四(明治二十八年)の「ことはり書」の最後に「名所の句は必ずしも実際に遭遇して作りたるに非ず或は記憶の喚起によりて成り或は一部の想像によりて成り或は全部の創造に寄りて成る況して其他の句をや」とあった。
 ちなみに、奈良では、10月26日は「柿の日」になっているそうである。

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  3時間の観光を終えて、近鉄奈良駅前の商店街で、軽い昼食をとり、京都に向かった。

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2020年11月17日 (火)

NHKの偏向が目に余る!黙っているわけにはいかない!

 近年のNHKの、とくに報道番組は、政府寄りの編成・内容となり、その偏向が著しく、見苦しいの一言に尽きる。その編成ぶりは、視聴者にはわからないように、たくみに政府のプラス情報を繋げていくので、「“神”対応」とまで、言われているそうだ。最近、このNHKに対する抗議活動のいくつかに参加したので、報告しておきたい。

1.10月26日、森下NHK経営委員長の義務違反究明を求める請願の提出集会に参加しました

 10月19日、当ブログ記事でも紹介した上記のような請願提出のための院内集会に参加した。「かんぽ不正販売」について報道したNHK「クローズアップ現代+」〈2018年4月24日〉に、当時の森下俊三経営委員長代理は石原経営委員長と共に、放送法に反して番組の取材や内容に介入し、続編の放送を中止させた上、当時の上田NHK会長に厳重注意をした。それに至る経営委員会議事録を公開せず、経営委員長となった現在も、放送法に定められた議事録の公表を拒み、職務上の義務違反が続いている。森下経営委員長を衆参両院に参考人として招致して、職務上重大な義務違反を究明するよう求める請願を紹介議員に提出するにあたっての集会だった。

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紹介議員に手渡すべく、揃えた請願書、衆・参各2200件を超えた

  経営委員会の番組介入は、表現の自由を奪い、「クローズアップ現代+」の続編は、約一年後に放映されたが、その間もかんぽの不正販売は続けられ、多くの被害者を出しているので、番組を中止させた責任は大きいといわなければならない。 
 
請願者は2200名を超えたという。新聞社も数社取材に来ていた。この日の集会には、立憲、社会、共産党の紹介議員のうち、立憲、共産党から各2名、4人の議員のスピーチ、メディアの研究者、元NHK職員、弁護士、視聴者団体代表、郵政労働者ユニオン委員長など多彩な世話人たちのリレートークからは、それぞれの立場からの熱い思いが伝わってくる、充実した集会となった。
 
とくに、メディア出身の杉尾秀哉参議院議員、総務委員会のメンバーである本村伸子衆議院議員、郵政ユニオンの日巻委員長はじめ、登壇の方々のスピーチは、政府介入阻止の熱い思いにあふれていた。

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衆議院第二議員会館多目的室、50人近くの参加者であった

集会の全容は、ユーチューブで見ることができる 。
https://www.youtube.com/watch?v=8JP4CxG3qv0&feature=youtu.be

 

2.11月10日、放送法違反を重ねる森下NHK経営委員長は、即刻辞任せよ、NHK放送センター西口アピール行動

 これには参加できなかったが、経営委員会が開かれる時間に合わせてのセンターで出入りの職員、関係者へのビラ配りとリレートークがなされたという。その様子は以下の動画で見ることができる。宣伝カーからのスピーチは、10月26日と重なる人もいたが、その声は、経営委員たちに届いただろうか。

https://www.youtube.com/watch?v=zg9UUrPRxOY

 3.11月12日、NHK<放送法遵守義務確認集団訴訟>奈良地裁判決報告集会に参加しました

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奈良地方裁判所横、夕日に照らされてたたずむ小鹿

 この裁判は、2015年、NHKの番組が放送法第4条で定められている「政治的に公平であること」、「報道は事実を曲げないこと」、「意見が対立する問題についてはできるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」などから著しく逸脱しているとして、受信料支払いを凍結していた奈良県の一視聴者への簡易裁判所から支払い督促が来たことが端緒であった。その<NHK奈良受信料請求事件>を引き継ぐ、住民約120人による<放送法遵守義務確認集団訴訟>では、つぎの主張がなされた。

NHKは受信契約に基づき放送法を守る義務を負っている

・受信料は「有償双務契約」であり、放送法が守られる放送への対価である                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

 原告側の口頭弁論は十数回に及んだが、これに対し被告(NHK)は、具体的な反論を一切行わず、訴訟要件が欠けるため却下されるべきとの主張だけを続けてきた。 そして、この日の法廷へは、密を避けるため31人しか入れなかったので、夫は、支援の方の好意で入れたが、私は外で待機していた。あたま撮りのメディアの人たちが出てきたと思ったら、すぐに傍聴の人たちも出てきたのである。主文の読み上げは数十秒のことであったらしい。奈良地裁の判決は、放送法を守る義務の有無の確認を求めた請求を却下、さらに、放送を遵守しない番組による精神的苦痛にかかる損害賠償請求を棄却するものだった。弁護団の方たちは、判決文の分析に入り、私たちは、地裁近くの会場に移動、原告や支援者の方たちからは、5年間の裁判の歩みをはじめ活動報告がなされた。20分ほどで、分析を終えた弁護団が駆け付け、辰巳創史弁護士からの解説がなされた。私の理解ながら判決理由は、以下のようであった。

①ある放送の内容が法4条1項1号ないし4号に抵触するものであるか否かを裁判所が判断することができないとはいえないし、司法審査に適しないということもできない

②放送内容に関する義務は「一般的抽象的義務」にとどまり、個別の視聴者に負う義務ではない

  ①により、これまでのNHKの主張を崩した判決になり、<却下><棄却>判決の中で、唯一の成果であったという。ただ、②の放送法における放送内容に関する義務が「一般的抽象的義務」で個別の視聴者に負う義務ではないというのは、どういうことなのか、理解に苦しむ。判決理由の本文には、視聴者一人ひとりの価値判断が異なるのだから、いちいちその義務には応えられないということが述べられているようなのだが、受信契約は、個人とNHKの対価を伴う双務契約なのだから、放送法の義務は、当然個人にも及ぶのではないか。 
 佐藤真理弁護団長は、ただちに大阪高裁への控訴に向けて始動すると力強く語っていた。

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辰巳弁護士の報告は、素人の私にもわかりやすかった

 なお、この裁判の詳しい経過は、以下「NHK問題を考える奈良の会」のホームページをご覧ください。

https://nhkmondai-naranokai.com/

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猿沢の池近くのホテルから奈良地裁に向かう途中、こんな光景に出会う。近鉄タクシーの運転手さんは、降りてきて
手で追い払っていたが、動こうとしない、この表情が何とも言えない。その後どうなったのかな

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興福寺から県庁へとぬける道、会津八一(1881~1956)の歌碑「はるきぬといまかもろひとゆきかへりほとけのにはにはなさくらしも」(南京新唱)

 

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2020年11月 4日 (水)

「性差(ジェンダー)の日本史」(国立歴史民俗博物館 2020年10月6日~12月6日)に出かけました~何かが足りないのでは?!

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 地元佐倉の歴博での企画展「性差の日本史」は、今回、展示プロジェクトに館外から参加されていたKさんのお誘いで、久しぶりの歴博となった。Kさんからは、事前に、ご自身がかかわった「滝乃川学園」の「天使のピアノ」のオンライン演奏*と講演の情報をいただいていた。本来ならば、歴博のホールでの企画であったが、新型ウイルス対策で、オンラインになったそうだ。待ち合わせの京成佐倉駅から、入り口まで回る「田町車庫」行きのバスにうまく乗り継ぐことができた。Kさんは、今回のプロジェクト代表のYさんとの約束もあるとのことで研究棟までご一緒すると、この入館証で自由に見学できますとのこと、いただいた招待券も利用せずじまいとなった。

* 「天使のピアノ」の演奏は、以下のユーチューブで公開されています。
https://www.youtube.com/watch?v=nPkO2q6HIV0&list=PLVpS_omS8zWLznM05AAMSmnEQTcBjEayM

 週末は予約制というが、週日の今日はフリーで、会場は、“密”にならない程度の見学者でにぎわっていた。Kさんは、オープン前にすでにご覧になっているとのことだったので、少々わがままを言って、近現代の展示から見ることにした。
 
展示の構成は以下の通りだったので、第5章からとなった。

プロローグ:歴史のなかのジェンダー
第1章:古代社会の男女第2章:中世の政治と男女
第3章:中世の家と宗教
第4章:仕事とくらしのジェンダー - 中世から近世へ -
第5章:分離から排除へ - 近世・近代の政治空間とジェンダーの変容-
第6章:性の売買と社会
第7章:仕事とくらしのジェンダー - 近代から現代へ -
エピローグ:ジェンダーを超えて 

 本企画の趣旨は、「プロローグ」によれば、「日本列島社会の中で男女という区分がどのように生み出されてきたのか、またその区分の目的や区分によって生まれる意識がどのように変化するのかに着目」し、「それぞれの時代のジェンダー構造への着目と歴史社会における主体への関心を重ね合わせる方法、すなわちジェンダーの区分のなかで、人びとがどのように生きてきたのかを、その中で生きた女性たちの声を聴きその経験を深く理解するという手法によって」明らかにすることを目指した、とある。やや難解ながら、要するに、日本社会で男女の区分がどのように生まれ、変化するのかを、その区分抑圧の中で生きてきた人々や女性たちのナマの声を聴くべく、ときには日記や手紙などにも目を配り、とくに「政治空間における男女」「仕事とくらしのなかのジェンダー」「性の売買と社会」という三つのテーマでたどるというものだった。
 いずれのテーマにおいても、原始、古代から中世・近世、近・現代へとたどろうとする意欲と工夫は見えたが、やはり、明治国家の成立以降のスペースが少なかった。それに、時代区分が優先する部分とテーマが前面に出る展示が前後するので、ややわかりにくい面があった。むしろ、どれか一つのテーマに絞った上で、原始から現代までたどった方が、内容も充実しただろうし、見学者の得るものも大きかったと思う。

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栃木県下野市甲古墳の埴輪たち、6世紀半頃

「政治空間における男女」

 「政治空間における男女」において、古墳時代には、多くの古墳の人骨や埋葬品などから女性首長が当たり前に存在し、律令時代の天皇家は、同じ母親の子供たちがグループをなし、そのなかでは、男女の区別がなく「男女混合名簿」方式だった、平安時代の貴族社会では、女性の地位は、天皇や上皇との距離によって、女房・女官の業務分担や女院が形成されていたことを知る。鎌倉時代に入ると、北条政子に代表されるように、夫の死後は家長権を持ち、財産も政治的な力を持つにいたるが、室町時代から近世社会では、男性中心の「家」を前提にした身分が固定化し、明治憲法、皇室典範により皇位継承から女性は排除され、民法下でもその劣位は制度化された。  
 こうした流れは、どの時代にも、女性が常に差別されていた存在でなかったことを教えてくれる。しかし、私たちにより身近な、近代に入ると、むしろ、差別が法制化され、強化された側面があったこと、それに抵抗する、例えば、女性たちによる国会開設運動や自由民権運動などは、第7章のカタログでの解説に留まり、展示には、岸田俊子も福田英子も見当たらない。さらに、平塚雷鳥らによる「青鞜」や市川房枝らによる婦人参政権運動についても同様であった。また、逆に、日中戦争下における大政翼賛体制に取り込まれる女性たちの動向が顧みられる展示もなかった。
 
さらに、明治憲法下における天皇制が、「性差」を拡大、固定化に貢献し、皇后や皇太后に振り当てられた役割などにも言及すべきではなかったか。

「性の売買と社会」

 今回の展示で、一番力が入っていたのはこのテーマであったと思う。「性の売買」というテーマの設定もかなりストレートなものに思えた。近世・近代における遊郭の実態については、初めて知ることも多く、性を売る側、買う男性たちの生々しい資料に圧倒された。とくに性を売る女性たちによる声に加えて、遊郭の営業を支える金融の仕組みなどを示す資料も初めて目にした。近代の公娼制度は、性を売る女性たちの「自由意思」のもとで展開されたのであるが、現実には、「貸座敷」に拘束され、廃業の自由はなかった。近代の遊郭は、近世の遊郭、宿場町、居留地、産業・商業都市、軍隊の駐屯地、植民地都市などで営業された(カタログ208頁)。私の住む、歩兵第二連隊が置かれた佐倉市も例外でなく近隣の弥勒町にあったという。

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1849(嘉永2)年、新吉原遊廓「梅本屋佐吉」の遊女たち16人が、楼主・佐吉の非道を訴えるため、集団で放火し自首するという事件が起き、江戸の評判となる。梅本屋佐吉お抱えの遊女・桜木の日記「おぼへ長」は、この事件の裁判調書にとじ込まれていた。桜木の日記は、梅本屋における遊女たちの過酷な生活を物語る貴重な資料である

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日露戦争時、佐倉遊郭の佐倉歩兵第2連隊凱旋記念ハンカチ

 ここにも、近代に入っての廃娼運動や日中戦争、アジア太平洋戦争中の従軍慰安婦については、カタログには「前借金を返済されるために戦地の日本軍『慰安婦』になることを余儀なくされたのである」(222頁)と記されるにとどまり、組織的に戦地や植民地に連行されて強制された売春、敗戦後における占領軍相手の売春などには触れていない。さらに1946年、GHQにより公娼制度は廃止されたが、1957年「売春防止法」施行までの暫定措置として、政府は「特殊飲食街」(赤線区域)として、認めていたという。そういえば、私の生家がある池袋、池袋駅西口前の「ヤミ市」には、子どもの頃、母親と買い物に出かけていたが、あの周辺に「トクインガイ(特飲街)」というのがあるということは、その意味も解らず、耳にしていたことだった。池袋には「三業地」というのもあって、小学校の同じクラスに三業地に住む友達もいて、家は「待合い」だと聞いて、母親に、「『待合い』って、何?」と尋ねたことは覚えているが、何と答えてくれたのだろう。
 それはともかく、「売春防止法」は性交のみを対象としているので、性風俗関連特殊営業」において、「『売春』自体も半ば公然と行われているのが日本の現状である」(223頁)と、このテーマの解説の最後に記されるが、このあたりの解説も2頁ほどだし、展示も極端に少ない。

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滋賀県八日市町「清定楼」の「遊客名簿」、滋賀県では敗戦後においても規則により名簿の作成がなされていた。客はほとんどが地元の近隣で、半分以上が農業で20代が圧倒的に多かったという

 現在、韓国の慰安婦問題について、政府は決着済みとするが、様々な論議が活発である。それへの言及がないのも残念であった。”国立“由来の博物館であることによる忖度でもあったのだろうか。

「仕事とくらしのなかのジェンダー」

 第6章と第7章の展示は、隣り合わせながら、第7章に入ると、突然、敗戦後の展示に変わる。私は、とくに近・現代における女性の職業と暮らしの展示に着目し、私自身の世代の職業生活と重なる部分をたどりたいと思った。私が就職した1960年代といえば、若年定年制、結婚退職制がまだまかり通っていた時代、産前・産後休暇の取得さえ肩身の狭い思いをし、育児休暇は夢に過ぎなかった。それでも、その後、1976年育児休業法施行、1985年男女雇用機会均等法成立、女性差別撤廃条約批准、1999年男女共同参画社会基本法施行などを経て、2019年働き方改革関連法(労働法関係法一括改正法)の成立に至る。しかし、このあたりことは事実としても伝えられないし、その評価もされていなかった。働き方改革自体も、有給休暇取得の義務化、同一労働同一賃金の実効性はあるのか、残業時間の上限が高すぎないかなどが問われているが、保育所の不足、女性労働者のパート・非正規化が増大し、過労死も減らず、セクハラ、パワハラも横行しているという実態は、多くの働く女性を苦しめていることを忘れてはならないだろう。さらに、戦時下の「銃後」を支えたことによる、その功罪にも触れてほしかった。

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第7章、冒頭の展示は、1948年、労働省婦人少年局のポスターだった

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館内見学用のチラシから

 

最後に

 天皇制の問題にしても慰安婦問題にしても、さらには性的少数者への言及がない展示について思うのは、学問の自由、研究の自由、そしてそれを発信する自由を、自ら萎縮させることにはならないでほしい、と切なる願いであった。
 そして、さらに、気になったのは、「性差(ジェンダー)」の用語を用いながら、私たちが、日常的に使用している「性による差別」、「差別」という言葉が意図的に使われていないように思えた。その代わり、「男女の区分」「女性の排除」「男女の分離」「性別規範の負荷」、性差による「抑圧」、「性による不平等」といった表現の使い分けは、担当執筆者の表現の違いなのか、程度の違いなのか、質の違いなのか、迷うところだった。展示のキャプションも、カタログの文章も学術論文ではないので、シンプルで分かりやすい表現が求められよう。
 今回は、文芸における「性差」が、まったく扱われることはなかった。文学、美術、音楽、演劇、教育あるいは、科学技術、医療・福祉分野などでの「性差」についての研究書や論文は、数多くあり、さまざまな研究会やシンポジウムなども開かれている。美術館や文学館、演劇や音楽の舞台でも、問題提起がなされてきた。歴博においても、「歴史民俗博物館」として、一つの分野での「性差」の日本史の試みを、シリーズで開催するなどをできないものか期待したい。

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