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2020年11月18日 (水)

奈良・京都、何回か来ているはずなのに(1)

春日大社・東大寺というコースながら~志賀直哉旧居、子規の庭へも

 11月12日、前ブログ記事のNHK受信料裁判の判決報告集会が終ったあと、興福寺境内を突っ切って、猿沢の池畔のホテルに戻った。暗くなった一帯には、すでに人影もまばらで、シカたちの姿も見ることはなかった。彼らのねぐらはどこなのだろう。
 奈良へは、中学・高校での修学旅行で、ひとり旅で、家族でと、何回か訪れているはずなのに、断片的な記憶とアルバムに収まったわずかな写真で甦る記憶だけなのが、とても寂しい。文章にでも残しておけば別なのだろうが。たしか、一人旅をしていたころ、当時評判だった「日吉館」に一泊したことがあった。部屋の隅には布団が積んであった、布団部屋のようなところであったことだけは覚えている

 翌日の午後は、京都国立博物館の「皇室の名宝」展、夕食の約束もあったので、奈良で過ごせるのは午前中だけだった。腰を痛めている私には、サイクリングも長い時間の歩きも無理だったので、夫の立てたコースで観光タクシーをお願いすることになった。  
 荷物のほとんどは宅急便で送ったので、二人とも身軽になって乗ったタクシーは、カイナラタクシーの女性運転手さんだった。2時間半ほどのコースを示すと、若草山までは無理かな、とのことだった。荒池に沿って走り、まず降りたのが鷺池の浮見堂だった。木造の橋の半ばに浮見堂があり、出会う人もなく、池端の紅葉が水面に映えていた。ライトアップもあり、週末にはボートも乗れるとのことだった。

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狭い路地に入るとすぐに、志賀直哉旧居があった。車は別の場所で待っているので、見学が終わったら連絡くださいとのこと、受付では、「入口は狭いですけど、中は広いです、どうぞ、どうぞ」ということで、脱いだ靴を持っての見学となった。志賀直哉は1929年~38年までここで暮らし、「暗夜行路」の後半を書いたといい、多くの文人たちのサロンにもなっていた。外観は、2階建ての数寄屋造りだが、和洋折衷の、まさに昭和前期の雰囲気を漂わせていた。一階にも二階にも書斎はあり、夫人の部屋、子ども部屋、茶室、女中部屋・・・ともかく部屋数が多く、迷路さながらであった。広い台所には、長い流しに、調理台、背の高い木製の冷蔵庫まで備えられ、女中さんたちの、子沢山な大家族の食事の準備やお客の接待に大忙しだった様子がうかがえる。高校生の頃、義務的に読もうとして、読み切れなった「暗夜行路」の世界とはかけ離れていないかな、とも。志賀直哉が転居した後、持ち主は転々とし、戦後、米軍に接収された時期もあった。現在は、奈良学園のセミナーハウスになっていて、きちんと管理されているようであった。

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 この2階の客間には、志賀直哉に傾倒していた小林多喜二が保釈中の1931年11月初旬頃、泊っている。この窓から見下ろして、多喜二は何を考えていたのだろうか。その一年半後の1933年2月20日、築地警察警察署で拷問により殺されている。この日は、直哉の50歳の誕生日であった

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サンルーム、庭の向こうには子ども用のプールも作っている

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庭の散策路は、ツワブキ満開であった

   春日大社本殿への道は、ささやきの小径と裏道のどちらにしますか、運転手さんはいう。車は、国宝館下の駐車場で待っているとのことであった。裏道とは「上の祢宜道」で、祢宜たちが通った道だった。
 
本殿近くには、観光客もシカもだいぶ多くなり、七五三参りの家族連れにも出会う。三月堂、二月堂を回り、大仏殿に向かう。この辺りは、マスクをした修学旅行や遠足の子供たちで大賑わいであった。私も、修学旅行では来ているはずなのに、まるっきり記憶は飛んでいる。この子どもたちにとっては、コロナ禍の中での旅の記憶が忘れられないものになるかもしれない。春日大社本殿、法華堂、大仏殿の拝観の折は、フリーパスの運転手さんも同行、説明を聞くことができた。正倉院を経て、「子規の庭」に向かう。

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この方向からが一番よく見えた。天井のマス目は、大仏の天井と周辺の天井とでは、サイズがことなるらしい。大仏の頭上は、より小さく、大仏はより大きく見せる仕掛けがあるとか

  運転手さんは「子規の庭」は、初めてなので、調べてみましたとのこと。私たちも詳しいことは知らなかったが、「ご自由にお入りください」とある木戸は、大きなレストラン天平倶楽部のわきにあった。
 
ここは、若草山を目の前にした對山楼「角定」という宿があったところで、正岡子規が、1895年、日清戦争末期従軍の折、喀血して、神戸、郷里松山などで療養した後、大阪を経て、奈良にも立ち寄ったときの宿。10月26日から数日間滞在したという。その頃の庭がそのまま残っていると、案内板にもあった。子規は、奈良の御所柿を満喫し、その皮をむく若い「下女」の風情にも心動かされたことを、のちのエッセイで書き残している。

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(法隆寺の茶店に憩ひて)

 代表作となっている、この「鐘」は、この宿で聞いた東大寺の「鐘」であったという解釈の根拠は、つぎのような句が背景になっているのだろう。

「長き夜や初夜の鐘撞く東大寺」

「秋暮るる奈良の旅籠や柿の味」

 なお、子規自身による草稿「寒山落木」巻四(明治二十八年)の「ことはり書」の最後に「名所の句は必ずしも実際に遭遇して作りたるに非ず或は記憶の喚起によりて成り或は一部の想像によりて成り或は全部の創造に寄りて成る況して其他の句をや」とあった。
 ちなみに、奈良では、10月26日は「柿の日」になっているそうである。

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  3時間の観光を終えて、近鉄奈良駅前の商店街で、軽い昼食をとり、京都に向かった。

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