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2020年12月25日 (金)

医療体制ひっ迫は、わが身にもー首相も、前首相も、しどろもどろの中・・・

<大学病院からの「転医」(逆紹介)のお願い>とは!

 昨日は、クリスマス・イブというのに、新型ウイルスの新感染者数は、東京都888人、千葉県234人、全国でも過去の記録を更新した。精一杯「自粛」をしているものの不安は募るばかりである。

 それに追い打ちをかけるように、昨日、3か月に一度、高血圧ほかの症状などで通院していた大学病院から下のような「通知」をもらい、医師より、つぎの診察日まで、「転医」先を探しておいてください、言われた。ここ10年近く、担当の先生は替わったものの、体調や他の症状に不安があれば、すぐに検査もしていただいていて、それも安心材料になっていた。突然、「かかりつけ医」といわれても、佐倉市に転居して30年以上、風邪だ、ヘルペスだ、怪我をしては、お世話になっていた、近くの医院が、この1月に閉院してしまったのである。そんな事情を話して、何とか続けてお願いできないだろうかと言ってみても、「国の方針」「病状としては数値が安定している」からと聞き入れてもらえなかった。

 「高度急性期病院」として地域医療を守るためと言われてみても、高齢者の診療抑制、不安拡大を助長することにならないだろうか。「国民の命と暮らしを守る」はずの政府の、いまの体たらく。後期高齢者の医療費負担倍増と言いながら、オリンピック開催、デジタル化、国土強靭化、イージスアショア代替などの予算が幅を利かす来年度予算。会食をハシゴする首相、情報収集なら、官邸の会議室やったらいいものを、高級店でのグルメ三昧には、あきれるばかりである。

イブの夕方6時からは、安倍前首相が、桜を見る会前夜祭の件で不起訴になったからと、記者会見をやっていた。「秘書が、秘書が、前任の秘書が・・・」「内閣総理大臣としての職務に専念していたから、前夜祭のことなどあずかり知らない」「信頼を取り戻すのが政治的責任」とやら。「謝罪」とは、軽く頭を下げるだけと心得ているらしい。平河クラブという記者団からは、再登板は?派閥の行方は?なんていう質問が出る和やかさであった。

 先の「かかりつけ医」の医院の閉院と、やはり通っていた近くの歯科、眼科の医院も、先生の高齢化で閉まってしまった。かつてのニュータウンの新住民の私たちも年老いたし、街全体の高齢化も著しい。住民自治会も、班長ができないから、メリットがないからと、退会する人も多く、心細い。来年は、我が家にも班長の番が回ってくる。

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2020年12月14日 (月)

憲法9条をまもりたい、この一年

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 地元の千葉県佐倉市で、「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」が発足したのが2006年の夏でした。以来、参加して、細々と活動を続けて、かれこれ15年にもなろうとしています。会員の出で入り、活動の波は見られましたが、この12月、ニュース42号を発行しました。執筆者、編集者、印刷・配布する者の協力、そして読者の方々の声の賜物かと思います。会のブログも開設して、ニュースも見られるようにしているのですが、アクセスが多いとは言えません。私のこのブログでも活動の一端は報告することもありましたが、ひとまず、最近のニュースをpdfでご覧いただきたいと思います。世話人の数も決して多いとは言えませんが、高塚一成代表はじめ個性的な面々で、外部の執筆者もヴァラエティに富んでいるのではないでしょうか。ご覧いただければ幸いです。

 

以下の「まもりたい会ブログ」へのコメントも大歓迎です。

http://sakurasizu9jo.cocolog-nifty.com/blog#_ga=2.163444668.1416867920.1607654709-1871852642.1550293945

 

 

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2020年12月13日 (日)

小泉苳三、そして小川太郎のこと

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イチジクの根方に十両?が赤い実をつけていた。後ろにはすでにスイセンの葉が見えていた

 

 「岸上大作展」の記事を書いていて、思い出したことがあった。

 『血と雨の墓標 評伝岸上大作』の著がある小川太郎は、その出版から2年足らずの2001年8月に59歳で自死してしまった。たぶん、2000年前後のことであったと記憶するのだが、面識のない小川から、突然電話をもらったのである。拙著『短歌と天皇制』の話から始まったのだが、用件は、私が所属している『ポトナム』を1922年に創刊した小泉苳三の件だった。小泉苳三(1894~1956)は、『夕潮』『くさふぢ』『山西戦線(従軍歌集)』の歌集を持ち、敗戦時、立命館大学教授であったが、戦前は、京城の高等女学校や北京師範学校など勤務地を変えながらも、近代短歌史の資料収集に努め、「資料大成」や数多くの論文を発表していた。ところが、1947年の政令62号「教職員の除去、就職禁止及び復職等に関する勅令を改正する政令」、ポツダム宣言受諾による、いわゆる公職追放によって、失職したのである。「戦時下で、翼賛的な短歌を作り、社会的活動もしてきた歌人たちが、誰ひとり、この「追放」になっていないのに、どうして小泉だけが対象になったのかを調べたい、事情を知っているか」という問い合わせだった。かねがね、私も疑問には思っていたが、年譜などを見ても、上記の政令によって「教員不適格者」となったことはわかり、1952年の「教職員の除去、就職禁止に関する政令を廃止する法律」を待たずに、1951年に復職したらしいことしか知らなかった。『ポトナム』には、立命館大学関係者は、多かったのだが、その事情について話されることも書かれることもなかった。
 私は、役に立つ情報は持ち合わせていなかったが、当時の『ポトナム』代表が、戦後まもなく入会の同人で、苳三の甥にあたるKさんだったので、断りもなしに、Kさんを紹介してしまった。小川さんから連絡を受けたKさんは、不快な思いをされた由、私は、反省するばかりであった。そして、まもなく小川太郎さんの訃報に接し、苳三の調査は進んでいたのだろうか、私も本気で調べればよかったのかとも思ったが、以降、調べる気力を失っていたのが正直なところだった。
 しかし、苳三の最後の著作『近代短歌史 明治篇』(1955年6月)を調べ物で開くたびに、息子を戦死で失い、「追放」されながらも、上記著書を出版した翌年1956年11月に急逝した小泉苳三を、そして小川太郎をも思い起こすのであった。

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ヤマボウシの葉が落ちた後、現れたのが、やはり鳥の巣であった。葉が茂っている間、たぶんヒヨドリが辺りを飛んでいたのを見ていたのだが・・・

 

 

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2020年12月11日 (金)

岸上大作、没後60年の今

 12月5日から、「岸上大作展」が姫路文学館で開かれている(来年3月21日まで)。没後60年記念ということで、岸上の命日にもあたる日にオープンしたのだが、当分出かけられそうにもない。没後40年の「’60年ある青春の記録 歌人岸上大作展」(姫路文学館 1999年10月8日~11月28日)に出かけたことや1960年当時の大学歌人会、私自身のことを、当ブログにも書いたのは、今年の初めだった。

◇60年前の1960年、50年前の1970年、いま何が変わったのか(1)私の1960年(2020年1月25日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/01/post-8ad825.html

 上記1999年の「展示カタログ」には、高瀬隆和編による詳細な「岸上大作著作目録」「岸上大作文献目録」が掲載されている。岸上について書かれた関係文献を見ていると、没後も途切れることなく、短歌雑誌のみならず雑誌や新聞で、さまざまな形で報じられ、その作品が鑑賞され、回顧されていることがわかる。高校の国語の教科書の短歌教材として採録されるようになっていた。

・かがまりてコンロの赤き火をおこす母とふたりの夢つくるため

・アパートの庭にわずかな夏草を子等替りばんこで転がりに来る
(高等学校校「国語Ⅰ」三省堂)

・美しき誤算のひとつわれのみのが昂ぶりて逢い重ねしことも

・裸木深くナイフ刺したり失いしひとつのの言葉埋めんとして
(高等学校「国語Ⅰ」旺文社)

 今世紀に入ってからも、遺歌集『意志表示』が文学全集類に収められ、その作品がアンソロジーに収められ、愛読者は決して少なくはない。『意志表示』(白玉書房 1961年6月20日)の初版が古書店で高値がつけられてもいる。私の手元にも「岸上大作再発見 没後40年」特集(『短歌往来』1999年10月)、「岸上大作」特集(『現代短歌』2017年9月)があり、また、最近、「没後六〇年岸上大作」特集をしている『月光』(2020年11月)をいただいたばかりであった。そして、きのうは、購入した、今回の「岸上大作展」のカタログが届いたのである。

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ただいま開催中の「岸上大作展」のチラシ

 1960年、国学院大学の学生だった岸上大作(1939~1960)は、保守的な校風の中で、短歌研究会活動とともに、安保条約改定反対闘争にも参加し、全学連の主流派でもあり、過激派とも呼ばれていた集会やデモにも参加するようになっていた。その渦中で詠まれた作品は、『短歌研究』1960年9月号には、新人賞の推薦作として「意志表示」が、11月号には「しゅったつ」が掲載され、『短歌』10月号には「座談会・明日をひらく」に、稲垣留女、小野茂樹、清原日出夫とともに参加、11月号「寺山修司論」、12月号には作品「十月の理由」が掲載されるという、私などには、実に華々しい、目を見張るような活躍に思えた。そんな矢先の、1960年も押しつまったある日、岸上の自死を知らされたときは、やはり衝撃が走った。いったい何があったのだろうという思いだった。その後、短歌雑誌などで「恋と革命に殉じた青年歌人」などと喧伝され、死の直前まで書き続けていたという、長い、長い遺書を読んでも、失恋したことは十分わかったが、革命に殉じたとはとても思えなかったし、日本には革命など起こりようもなかった状況が読めなかったのだろうか、とも。父親が敗戦の翌年、内地に帰還したものの、途上で病死し、母子家庭で育った生い立ちを知る。しかし、文学少年だった岸上の、上京後の学生生活の日記から見えてくる「恋」も「革命」も、命を懸けるほどのものだったのか、私などには想像が及ばなかった。正直、母親、妹への、あるいは友人たち、片思いの女性たちへの、一種の「甘え」のようにも思えたのだ。

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1961年2月号『短歌』は吉井勇と岸上大作の追悼号になった

 いろいろな追悼文や岸上についてのエッセイを私が読んだ限りながら、いま、私が一番、しっくりと共感できたのは、大下一真「岸上大作の自己レトリック」(『まひる野』2000年2月)であった。『まひる野』は、岸上が1955年7月に入会、59年12月まで会員であった短歌結社誌で、大下は、いま同誌の編集人を務めている。大下は、「歌人岸上大作と人間岸上大作との差異・落差」を、作品や評伝、証言によって検証し、「暴露趣味ではない。興味あるのは、失恋し続け、デモの現場では恐怖心からスクラムを組んだ腕を振り払って外れたがった男が、いかに<恋と革命に殉じた>格好良い青年になり、文学史上に残り得たか」をたどるのである。

・意志表示せまり声なきこえを背にたた掌の中にマッチ擦るのみ

・血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくす

 没後40年の展示会と同時に、小川太郎は『血と雨の墓標 評伝岸上大作』(神戸新聞総合出版センター 1999年10月)を出版し、綿密な取材で岸上の実像に迫った。そして、その展示会でのイベントでは、強引なまでの片思いの最後の相手であった人、沢口芙美との公開対談で聞き手を務めたのであった。沢口は、「人様の前で岸上について話すのははじめて」と語っていた(「<自殺>の後を生きて―佐藤通雅様」『短歌往来』1999年10月)。すでにある程度の気持ちの整理はできていたのだろう。

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20年前の「岸上大作展」チラシの裏、右下のイベントの冒頭が沢口・小川の対談が予告されている

 それから20年、上記『月光』の特集には、沢口の「小説 風の鳴る日は・・・」が掲載されていた。「小説」とはいえ、当時の時代背景とともに、大学生活の中で岸上との経緯が克明に描かれていた。私は初めて読んだが、すでに「NEO APRES GUERRE」という同人誌の創刊号(1967年11月)に発表されたものの再掲らしい。沢口は、この時点ですでに、「小説」という形で、すべて仮名としながらも、記録として残していたのである。少し驚いたりもしたのであった。

 それにしても、亡くなるまで、岸上関係の資料の収集や保存に意を尽くしていた高瀬隆和や姫路文学館の岸上大作の常設コーナーや記念展示会の企画に深く、熱くかかわってこられた学芸員の方には、敬意を表したい気持である(竹廣裕子「岸上大作との三十年」『月光』2020年11月)。私は、岸上の短歌や生活信条に納得できない部分があるにもかかわらず、同世代として、気になる歌人であることには変わりはない。

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『月光』65号(2020年11月)は「没後六〇年 岸上大作」特集だった

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高瀬隆和『岸上大作の歌』(雁書館 2004年3月)、岸上はよき友人に恵まれていたな、と思う

(気持ちとしては、人名には「さん」を付したかったが、敬称は略している)

 

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2020年12月 2日 (水)

半端といえば、半端!?議会開設130年記念式典に参加しなかった共産党?

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この式典には、皇族からは、天皇夫妻と秋篠宮夫妻の長女眞子さんが参加していた。100周年、120周年の時は、天皇夫妻以外には秋篠宮夫妻が参列していた。

 11月29日、議会開設130年に当たり、参議院議場では、記念式典が開かれていた。130年前の11月29日帝国議会の会意識が開かれたことから、10年ごとの記念式典の一環として開催、今年の参加者は、新型ウィルス感染対策から、各党の代表者に限られた。感染者の急激な拡大のニュースなどに隠れ、あまり大きくは報道されなかった。

 その日のお昼のNHKニュースでは、天皇の「おことば」と首相らの式辞を伝えた後、その末尾で、つぎのように報じた。

 「一方、共産党は、「戦前の帝国議会を踏襲した、天皇中心のやり方になっており戦後の国会と区別して行うべきだ」などとして、式典を欠席しました。」

 また、「読売新聞」も、その記事の末尾で、つぎのように伝えている。

「式典は新型コロナの感染防止のため、出席者を絞り、国歌は斉唱せずに演奏のみが行われた。共産党は「戦前の帝国議会を踏襲した天皇中心のやり方になっている」などとして欠席した」

 国歌の演奏は、芸大のフィルハーモニアが担当したらしい。ここでも、共産党の対応が短く報じられていた。

 ところが、「赤旗」の電子版には、つぎのような記事が掲載されていた。

「議会開設130年記念式典」開催2020年12月1日(火) 「国会は29日、参議院議場で「議会開設130年記念式典」を開催しました。1890年の帝国議会開設から130年となったことを受けたもの。式典には、式典委員(議院運営委員)の日本共産党の塩川鉄也衆院議員が出席しました。 日本共産党は、戦前の帝国議会の時代と戦後の国民主権の国会の歴史とは厳格に区別する必要があるとの見地から、戦前と戦後の歴史をひとくくりに記念する式典のあり方を批判してきました。」

 ここで思い起こすのは、それまで、天皇の臨席、「おことば」で始まる開会式への参加を拒んできた共産党議員が、2016年の通常国会から参加するようになった一件である。当ブログの以下の記事に詳しいが、その参加に至った経緯が、依然として明確ではない。議場から、議長席からも一段と高い「玉座」から述べる「おことば」によって開会されるのと、国会開設130年記念式典で玉座から述べる「おことば」―「国内外の諸情勢に思いを致すとき、国会が、国権の最高機関として、国の繁栄と世界の平和のために果たすべき責務は、ますます重要になってきていると思います」とは何が違うというのだろう。

 2015年末、開会式参加の弁として、天皇が高い席から「おことば」を述べる点を批判しつつ、天皇の「おことば」が「儀礼的、形式的な発言が慣例として定着した」ことを理由として述べていた。また、志位委員長が「共産党は天皇制に反対していると誤解されたくない」からとも述べていたことも忘れてはならないだろう。「玉座から述べる」方法も「おことば」の内容からしても、両者の違いはどこにあるのだろう。今回の対応との整合性、一貫性が問われるのではないか。民主主義的な議会制度と現在の「(象徴)天皇制」との共存が可能なのかという基本的な問題を、ただ、先送りにしているのに過ぎないのではないか。

◇ことしのクリスマス・イブは(2)(3)~なんといっても、サプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった!(その1)(その2)2015年12月27日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-6623.html

2015年12月28日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/2-2dd0.html

 

 

 

 

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何もかも半端な~自粛か停止?結婚と婚約は違う?・・・・

自粛?停止?基礎疾患? 

 Go to トラベルで、東京を除外するか否かで、小池都知事と菅総理が綱引き続いていたが、12月1日の夕方、緊急会談を開いたといい、急展開ともいうが、どんな結論が出たかと思ったら、65歳以上の高齢者と基礎疾患を持つ者への東京発着の「自粛」を求めることで合意したという。それも「短期集中」?で12月半ばまでなのか。いや「停止」なのだともいう、これもあいまいなままで、都と政府の妥協の産物で、感染拡大への歯止めにはならない。旅行業界の現場の混乱は必至だろう。第一、高齢者や基礎疾患のある人は、都内でも他県でも、Go toの利用どころか、必要不可欠な外出、会合、通院、買い物や近親の葬儀さえも控えているのが現状ではないのか。

 政府にしても、新型ウイルス新規感染者も重症者も死者も急増している東京都にしても、医療体制がひっ迫してきている現実を見れば、いまや「危機感」を持って対応する状況ではないはずだ。「危機」ではなく、まさに、「危機」のさなかにあるという認識が全く感じられない。第一波、第二波の時期から、秋冬を控えて、医療体制の脆弱さが指摘され、対策の重要性の声が高かったにもかかわらず、「経済を回す」ことが強調されたまま、今日に至ってしまった。そもそも、与野党を問わず、10万円の一律特別給付金で、経済支援、消費喚起をという発想自体が愚策であったことを反省すべきではないか。失職などによる生活困窮者への生活支援、休業・営業時短要請などへの経済支援を優先すべきはずであった。愚策の最たるものは、感染予防には不織布マスクより数段劣る、小ぶりのガーゼマスク2枚の全戸配布に予算と労力を割いたことに象徴されよう。私にしても、マスク、消毒、手洗い、三密はもうわかった。「自助」はすでに限界にきているのではないか。その後の対策も、後手、後手の小出しで、半端きわまりなく、国民の不安は募るばかりである。

菅・小池の溝(ANN)
https://yahoo.jp/Xpcmir

 

結婚と婚約は違う?

 秋篠宮の誕生日に先立って11月20日行われた記者会見の内容が、11月30日の朝刊で一斉に報じられた。その中で、一番注目されたのが、長女眞子さんの結婚問題だったのではないか。憲法24条まで持ち出して、結婚は両性の合意のみによって成立するので、二人の結婚は容認するが、「結婚」と「婚約」とは違う?との発言が記者会見の最後になされていた。

「そうですね。どの段階というのがいろいろあるかもしれませんけれども,私は,特に結婚と婚約は違いますから,結婚については本当にしっかりした確固たる意志があれば,それを尊重するべきだと私は思います。これはやはり両性の合意のみに基づくということがある以上,そうでないというふうには私はやはりできないです。よろしいでしょうか。」

 その意味するところは明確ではない。世間では、婚約といえば、両者の結婚を前提になされるものと理解されていると思うが、皇室では違うらしい。「皇室ジャーナリスト」によれば、皇族の婚約は、家と家との約束を意味する「結納」にあたる「納采の儀」を経ることによって成立するのが慣例らしい。もちろん、法律的な根拠があるわけでなく、あくまで私的な行事である。ということは、両者の合意による結婚は容認するが、家と家との、しかも、「結納」という前近代的な慣習でもある「納采の儀」の困難さを示唆すること自体、秋篠宮の発言にも矛盾がある。眞子さんにとっても、「お気持ち」など国民向けに公表する必要もなく、秋篠宮もせめて「結婚は認めるので、あとは、両者で自立してやってくれ、一時金は当てにするものではない」とでも明言したら、国民は一番納得するのではなかったか。

2020年11月20日秋篠宮記者会見の模様(宮内庁)
https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/39#TOP

 

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