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2021年2月28日 (日)

「諜報研究会」は、初めてかも~占領下の短歌雑誌検閲、日本人検閲官をめぐって(1)

 

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第34回諜報研究会(2021年2月27日(土))
ZOOMを利用してオンラインで開催

報告者:中根 誠(短歌雑誌「まひる野」運営・編集委員)
「GHQの短歌雑誌検閲」
報告者:山本 武利(インテリジェンス研究所理事長、早稲田大学・一橋大学名誉教授)
「秘密機関CCDの正体追究―日本人検閲官はどう利用されたか」  
資料
司会:加藤 哲郎(インテリジェンス研究所理事、一橋大学名誉教授)

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  今回、インテリジェンス研究所から、上のようなテーマでの研究会のお知らせが届いていた。ズームでの開催ということで、なんとなく億劫にしていたが、テーマがテーマだけにと、参加した。これまで、早稲田大学20世紀メデイア研究所の研究会には何度か参加したことはあるが、第34回という「諜報研究会」は、はじめての参加であった。

 中根誠さんの「GHQの短歌雑誌検閲」は、すでに、『プレス・コードの影~GHQの短歌雑誌検閲の実態』(短歌研究社 2020年12月)を頂戴していたので、ぜひと思っていた。
 著書は、メリーランド大学プランゲ文庫所蔵資料をもとに作成した奥泉栄三郎編『占領郡検閲雑誌目録・解題』(雄松堂書店 1982年)により国立国会図書館のマイクロフィルムを利用して、短歌雑誌111誌、331冊を対象とした論考である。GHQの検閲局に提出された短歌雑誌のゲラ刷ないし出版物の検閲過程がわかる文書の復刻と英文の部分の和訳をし、その検閲過程を解明し、解説をしている。検閲官による短歌の英訳、プレス・コードのどれに抵触するのか、その理由やコメント部分も丹念な和訳を試みている。文書は、タイプ刷りもあり、手書き文書もあり、判読が困難な個所も多いので、その作業には、苦労も多かったと思う。本書は短歌雑誌の検閲状況の全容解明への貴重な一書となるだろう。

 研究会での報告は、『短歌長崎』『短歌芸術』を例に、編集者と検察局との間でどういう文書が交わされたかを時系列で追い、出版に至るまでを検証する。国粋主義的な『言霊』を通じては、発行から事後検閲処分の遅れなどにも着目し、事後検閲の目的はどこにあったのかなどにも言及する。また国粋主義的な『不二』と『人民短歌』を例に、どんな理由で「削除」や「不許可」なったのかを量的に分析し、『不二』の違反数が圧倒的に多く、事後検閲に移行するこことがなかったのに比べ、『人民短歌』は、検閲者が一度違反と判断しても、のちに上司が「OK」に変更される例も多いことがわかったという。「レフト」(左翼)より「ライト」(右翼)にはきびしい実態を浮き彫りにする。
 各雑誌自体の編集方針の基準として、レフトとライトの間には、センター、コンサーバティブ、リベラル、ラディカル、といった仕訳がされ、文書には付記されていたことにも驚く。

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 中根さんは、事前検閲から事後検閲への移行の基準など明確に読み取れなかったことや、検閲が厳しい場合とそうでない、かなり杜撰な場合とがあることも指摘されていた。中根さんの報告の後、短歌関係なのでと、突然発言を求められ、驚いてしまったのだが、つぎのような感想しか述べられなかった。
 「一昨年、斉藤史という歌人の評伝を出版、その執筆過程で、気が付いたことなのだが、検閲の対象になった「短歌」ということになると、中央、地方の「短歌雑誌」だけでなく、さまざまなメディア、総合雑誌や文芸誌、婦人雑誌、新聞なども対象にしなければならないのではないか。斎藤史という歌人の周辺におけるGHQの検閲を調べてみると、斎藤史は、父親の歌人斎藤瀏と長野に疎開し、敗戦を迎える。地方の名士ということだろうか、斎藤史は、国鉄労組の長野支部の雑誌『原始林』(48年7月)に短歌7首を寄稿しているが、1首が削除されている。斎藤瀏は、『短歌人』という雑誌で何度か検閲処分を受けているが、宮城刑務所の文芸誌『あをば』(46年9月)に8首が掲載されていて、1首にレ点がついていた。だが、この8首は、『短歌人』(46年4月)からの転載だったので、すでに検閲済みで、1首が削除されての8首だった。二重のチェックを受けていることになるが、『あをば』1首には、「OK」の文字も見えて削除はされなかった。こんなことも起こり得るのかなと。そういうことで、プランゲ文庫の執筆者索引のありがたさや大事なことを痛感した。」
 発言では触れることができなかったのだが、史の作品の次の1首が「ナショナリズム」と「アンチ・デモクラシー」を理由に削除されている。史の『全歌集』には、収録されていない。
・この國の思想いく度變轉せしいづれも外より押されてのちに
 また、斎藤瀏のレ点のついたのはつぎの1首だった。
・皇國小さくなりたり小さけれど澄み徹りたる魂に輝け

 これまでも、私自身、旧著において、以下のようなテーマでGHQの検閲に言及してきたものの、断片的だったので、今回の中根さんの労作には、敬意を表してやまない。
①「占領期における言論統制~歌人は検閲をいかに受けとめたか」『短歌と天皇制』(風媒社 1988年10月)
②「被占領下における短歌の検閲」『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年2月)
③「占領軍による検閲の痕跡」『斎藤史―『朱天』から『うたのゆくへ』への時代』(一葉社 2019年1月)

 ①では、『短歌研究』1945年9月号の一部削除、『日本短歌』1945年9月号の発禁、斎藤茂吉歌集『つゆじも』、斎藤茂吉随筆集『文学直路』、原爆歌集『さんげ』などについて書いている。
 ②では、占領下の検閲についての先行研究に触れながら、検閲の対象、検閲の手続き、検閲を担当した日本人、検閲処分を受けた著者・編集者・出版社の対応について、今後の課題を提示した。とくに、桑原武夫「第二芸術論」が、彼の著作集の編集にあたっては復元することもなく、削除処分後の文章が載り、検閲についての注記もなかったことに象徴されるような潮流にも触れた。
 
③では、発言でも触れたことと、検閲を受けた歌人たちの対応について言及し、『占領期雑誌資料体系・文学編』(岩波書店 2010年)の第Ⅴ巻「短詩型文学」において、齋藤慎爾の解説「検閲に言及することは、自らの戦前、戦中の<戦争責任>の問題も絡んでくる。古傷が疼くことにあえて触れることもあるまい。時代の混乱を幸いとばかりに沈黙を決め込んだというのが実情ではないか」との指摘に共感したのだった。

山本武利先生の報告は次回で。(続く)

 

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2月23日「<歌会始>と天皇制」について、報告しました(4)

7.平成の天皇夫妻の短歌における「平和祈念・慰霊」というメッセージ

 つぎの平成期の天皇夫妻の短歌を見ていきたいと思います。さきに、沖縄へのこだわりは強く、11回の訪問とともに、多くの短歌や「おことば」を残し、その背景については述べました。沖縄への思いと同様なスタンスで、さらに広く、「平和祈念・慰霊」のための短歌を多く詠んでいます。ここでは、主なものを資料として配っていますが、さらに、しぼった形で、触れてみたいと思います。多くは、天皇・皇后の慰霊の旅の訪問先で詠んだ短歌なので、天皇・皇后の同じ体験のもとに詠んだ短歌が残されていますが、やや異なる視点であることに注目しました。優劣というわけではなく、二人は、デュエットのように歌い続けてきました。
 天皇は、おおらかというか、大局的な、そして儀礼的な短歌が多く、皇后は、人間や自然観察が細やかで、情緒的な短歌が多いように思います。天皇の短歌には、明治天皇や昭和天皇の作かと思われるような次のような短歌もあります。

⑰ 波立たぬ世を願ひつつ新しき年の始めを迎へ祝はむ
(天皇)(1994年 歌会始 「波」)
⑱ 国のため尽くさむとして戦ひに傷つきし人のうへを忘れず
(天皇)(1998年 日本傷痍軍人会創立四十五周年にあたり)

 1994年に硫黄島で詠んだ短歌では、天皇は、「島は悲しき」と歌い、皇后の作は、兵士たちの最期を「水を欲りけむ」と歌っています。

⑲ 精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき
(天皇)(1994 硫黄島)(終戦50年)
⑳ 慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲りけむ
(皇后)(1994 硫黄島)

 1995年、広島を訪れた折には、同じ「被爆五十年」の作ながら、皇后は「雨の香」に着目しています。「黒い雨」を浴びた被爆者たちはどう思われたでしょうか。
㉑ 原爆のまがを患ふ人々の五十年の日々いかにありけむ
(天皇)(1995年 原子爆弾投下されてより五十年経ちて)
㉒ 被爆五十年広島の地に静かにも雨降り注ぐ雨の香のして
(皇后)(1995年 広島)

 2005年、サイパンを訪れた際には、皇后は、次々と崖から飛び降りて自決していった女性たちの「足裏」に思いを至らせた作になっています。
㉓ サイパンに戦ひし人その様を浜辺に伏して我らに語りき
(天皇)(2005年 サイパン島訪問)
㉔ いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏思へばかなし
(皇后)(2005年 サイパン島)

 また、皇后の次のような短歌には、戦争や内乱における加害・被害の認識についてやや屈折した思いを詠んだ短歌もあります。
㉕ 慰霊碑は白夜に立てり君が花抗議者の花ともに置かれて
(皇后)(2000年 オランダ訪問の折りに)
㉖ 知らずしてわれも撃ちしや春闌くるバーミアンの野にみ仏在(ま)さず
(皇后)(2001年 野)

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写真は、朝日新聞より。2000年5月23日、アムステルダムにおける抗議活動、第2次大戦中に日本軍は、インドネシアで捕虜4万人と民間人9万人のオランダ系住民を強制収容所に抑留、多くの死者が出ている。

 こうして、天皇夫妻が発するメッセージは、国民にどう届いているのでしょうか。その検証は難しいのですが、少なくとも、ジャーナリストや史家、歌人たちからマス・メデイアを通じて流れてくる鑑賞や解説は、国民を思い、平和を願い、護憲を貫くメッセージとして、高く評価する人たちがほとんどです。さらに、2015年戦後七〇年の「安倍談話」と8月15日全国戦没者追悼式における天皇の「おことば」とを比較し、政権への抵抗さえ感じさせるという声も少なくありませんでした。
 
このようにして、平和や慰霊をテーマにした短歌に限らず、災害や福祉、環境などをテーマに短観を詠み、国民に発信することによって、政治・経済政策の欠陥を厚く補完し、国民の視点をそらす役割すら担ってしまう事実を無視できないと思っています。  
 現在の徳仁天皇夫妻の短歌は未知数の部分がありますが、もっぱら被災地訪問や視察先の歌が多く、雅子皇后は、皇太子妃時代から、わが子の詠んだ短歌が多くなっています。短歌での発信力は、平成の天皇時代とは明らかに違い、自然や家族を歌い、ときには、行事での儀礼的な短歌が多くなるのではないかと思っています。
  以上、主として昭和天皇と平成の天皇夫妻の短歌を紹介しながら、どんなメッセージが託されているか探ってみました。天皇たちの思想や気持ちを推し量り、それによって歴史を語ることの危うさをひしと感じています。「短歌」は、短い文言で成り立っているので、わかりやすく、「考え方」や「お気持ち」や「心情」が端的に表現されて、人々の心にも届きやすいとして、マス・メディアや歴史書には、幾度となく登場してきました。
  皇室は、「国民に寄り添い、平和を願い、家族や自然をいつくしむ」人々として語られ、「国民統合の象徴」「家族の在り方のモデル」としての役割を担っていますが、今後のゆくへを注視しなければなりません。「短歌」もそうですが、人間の残した日記やインタビューなどで語られたことをあまり過大評価してはならない、と感じています。 

8.終わりに~“リベラル派”の護憲と天皇
   国民は、天皇の短歌やおことば、振る舞いによって、寄り添われ、慰められることはあっても、決して具体的な解決にはつながらないまま、一種の思考停止に陥ってしまうのではないかという懸念が去りません。天皇制の陥穽ではないかと思うのです。   近年、そうした陥穽への道をくだるのを助長する、いわゆるリベラルと称される識者などの発言がマス・メディアに蔓延するようになり、危惧を感じています。
  
平成の天皇夫妻の沖縄の短歌や発言による「天皇の沖縄への思い」ついて、右翼と称される日本会議は、2012年に、『天皇陛下と沖縄」というブックレットを出版するようになります。
 
ところが、日本会議ばかりでなく、天皇の「沖縄への思い」「平和への願い」を高く評価する発言が、いわゆる<リベラル派>と呼ばれる識者から見受けられるようになりました。

矢部宏治(1960~):1975年のひめゆりの塔事件の夜の談話をひいて、「初回訪問時の約束通り、長い年月をかけて心を寄せ続けた沖縄は、象徴天皇という時代の「天皇のかたち」を探し求める明仁天皇の原点となっていったのです」(『戦争をしない国―明仁天皇メッセージ』小学館 2015年)。矢部は『日本は、なぜ基地や原発を止められないのか』(集英社インターナショナル 2014年)の著者でもあります。
金子兜太(1919年~2018年): 金子兜太選「老陛下平和を願い幾旅路」(伊藤貴代美 七四才 東京都)選評、「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ。」(「平和の俳句」『東京新聞』2016年4月29日)。「アベ政治を許さない」のプラカード揮毫者でもあります.
金子勝(1952~):「【沖縄に寄り添う】天皇陛下は記者会見で、沖縄のくだりで声を震わせて「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました」「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と語る。アベは聞いているのか?」(2018年12月23日ツイート✔ @masaru_kaneko)。マルクス経済学者として活動しています。
白井聡(1977~):「今上天皇はお言葉の中でも強調していたように、「象徴としての役割」を果たすことに全力を尽くしてきたと思います。ここで言う象徴とは、「国民統合の象徴」を意味します。天皇は何度も沖縄を訪問していますが、それは沖縄が国民統合が最も脆弱化している場所であり、永続敗戦レジームによる国民統合の矛盾を押しつけられた場所だからでしょう。天皇はこうした状況全般に対する強い危機感を抱き、この危機を乗り越えるべく闘ってきた。そうした姿に共感と敬意を私は覚えます。天皇が人間として立派なことをやり、考え抜かれた言葉を投げ掛けた。1人の人間がこれだけ頑張っているのに、誰もそれに応えないというのではあまりにも気の毒です。」という主旨のことを述べています。(「天皇のお言葉に秘められた<烈しさ>を読む 東洋経済新報オンライン 2018年8月2日、国分功一郎との対談)。『永続敗戦論―戦後日本の核心』(太田出版 2013年)の著者でもあります。
内田樹(1950~)天皇の第一義的な役割が祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること、これは古代から変りません。陛下はその伝統に則った上でさらに一歩を進め、象徴天皇の本務は死者たちの鎮魂と苦しむ者の慰藉であるという「新解釈」を付け加えられた。これを明言したのは天皇制史上初めてのことです。現代における天皇制の本義をこれほどはっきりと示した言葉はないと思います。(「私の天皇論」『月刊日本』2019年1月)
永田和宏(1947~):「戦争の苛烈な記憶から、初めは天皇家に対して複雑な思いを抱いていた沖縄の人々でしたが、両陛下の沖縄への変わらぬ、そして真摯な思いは、沖縄の人々の心を確実に変えていったように思えます。両陛下のご訪問は、いつまでも自分たちの個々の悲劇を忘れないで、それを国民に示してくださる大きなと希望になっているのではないでしょうか」(『宮中歌会始全歌集』東京書籍 2019年)。永田は、冒頭に紹介しました『象徴のうた』の著者でもあり、2004年戦後生まれの歌会始選者として就任してから、現在に至っています。安保法制の反対を主張していましたし、今回の学術会議の会員任命問題でも異議を唱えている研究者です。

 美智子皇后との交流を重ねて語る石牟礼道子、新天皇の大嘗祭での「おことば」を「お二人に願うことは、お言葉で繰り返された平和を、ずっと希求される<象徴>であっていただきたい」と述べた落合恵子(「両陛下へ」『沖縄タイムズ」2019年11月12日)、 憲法学者の長谷部恭男は、天皇制は、憲法の番外地というし、木村草太は、天皇の人権が大事というし、加藤陽子は、半藤一利を偲んで、「昭和史」シリーズを大絶賛しています。原武史は、いまの天皇が、元旦のビデオメッセージで夫妻揃って、「国民」ではなく、「皆さん」「皆さま」、と呼び掛けていることを評価していました。言葉だけの問題ではないようにも思います。宮内庁にも物申し、着眼のユニークさと多角的な天皇制論を展開されていることには敬意を表しているのですが。
   こうした発言を、どうとらえるのか、どう乗り越えればよいのか、とくに若い世代の天皇制、天皇への無関心という壁にどう対峙していくのかが、今後の課題だと、私は考えています。歌壇では、私に対して、非寛容、視野狭窄、硬直といった声も聞こえるのですが、まだ私の仕事は終わってないような気がしています。

 以下は、当日の話には、触れることができなかったのですが、配布資料には収録したものです。現在、短歌の世界、第一線で活躍する中堅歌人たちの天皇観は次のような作品から読み取れると思いますが、いかがでしょうか。吉川、斉藤の両者とは、かつて、論争になりかけたことがありました。

  • 天皇は死んでゆきたりさいごまで贔屓の力士をあかすことなく
    (穂村弘1962~)(『短歌研究』2006年10月)
  • ゴージャスな背もたれから背を数センチ浮かせ続ける天皇陛下(穂村弘)
    (『短歌往来』2010年2月)
  • 天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ
    (吉川宏志1969~)(『短歌』2011年10月 『燕麦』2012年所収)
  • つまりなるべくしずかに座っててください 察しますから、察しますから(国民統合の象徴でいただく為の文化的貢献こそ、われわれ歌人にしか不可能な、超政治的貢献である)
    (斉藤斎藤1972~)(『短歌研究』2021年1月)

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2021年2月26日 (金)

2月23日「<歌会始>と天皇制」について、報告しました(3)

6.天皇の短歌と現代の「歌会始」の推移
 天皇の短歌と私たち国民との接点は、つぎのようにいくつかあります。

<天皇の短歌と国民との接点>
① 1月1日の新聞など:1年を振り返っての天皇、皇后の短歌の公表
② 1月中旬の歌会始:天皇はじめ皇族、選者、召人、入選者10人の歌ととも
に披講。NHKテレビの中継/当日の新聞夕刊と翌日の朝刊での発表/宮内庁HPでの登載
③ 歌会始の詠進(応募)の勧め、入門書・鑑賞書などへ収録、出版
④ 天皇の歌集、皇后との合同歌集での出版および鑑賞書の出版など
⑤ 在位〇年、死去、代替わりの節目の新聞・雑誌など記事、特集、展示など
⑥ 歌碑など

 なかでも、天皇と国民が一堂に会して、親しく短歌を詠み合うとされる「歌会始」というイベントは、国民と天皇を結ぶ大事なパイプのような役割を果たしている、文化的な伝統的な貴重な皇室行事だからという二つの理由により、大切にしなければならない、と宮内庁サイド、マス・メディア、短歌雑誌、多くの歌人たちが、一丸となって、盛り上げ、宣伝に努めてきたと思います。
 また、天皇・皇后の歌集という形では、昭和天皇の場合は、以下のように大手の新聞社から出版されています。
1951年、皇后と一緒に『みやまきりしま』(毎日新聞社)
1974年、『あけぼの集』(読売新聞社)
1990年、天皇単独の『おほうなばら』(読売新聞社)

 平成の天皇・皇后の場合は、1986年皇太子夫妻の歌集『ともしび』(婦人画報社)、1997年美智子皇后の単独歌集『瀬音』(大東出版社)、1999年、2009年、2019年、10年ごとの3回の記録集「道」(NHK出版)には、夫妻の短歌も収録されています。
 さらに、天皇・皇后はじめ皇族、選者、召人、入選者の短歌が収録された歌会始詠進(応募)のための入門書や鑑賞書は、編者も違え、多くの出版社からたびたび出版されています。
 
さまざまな形で、天皇・皇后の短歌の露出度は大変高くなりましたが、その発表の場の中心でもある「歌会始」は、どんな形で、開催されていたのか、簡単に振り返りたいと思います。私は、これまで、敗戦後からの「歌会始」の変遷を以下のように細かく六期に分けてきました。

<敗戦後の歌会始の推移> 
第1期(1947~52):選者も、戦後当初は御歌所の寄人と呼ばれた千葉胤明、鳥野幸次らが混在、50年にすべてが斎藤茂吉らの民間歌人になる
第2期(1953~58):57年、初めての女性選者四賀光子(太田水穂妻)、茂吉没後、土屋文明。それまで、応募者数千人から1万人前後低迷
第3期(1959~66):1959年4月皇太子結婚、いわゆるミッチーブーム。2万から3万、4万と増え、1964年には4万7000首もの歌が寄せられ、ピークとなり、五島美代子と女性選者二人時代が続く。1960年安保闘争、1961年「風流夢譚」嶋中事件を経て、皇室批判自粛・タブー化
第4期(1967~78):67年佐藤佐太郎、宮柊二選者入り、大衆化進む。67年初の建国記念日、68年明治百年、71年天皇生誕70年、天皇訪欧、76年在位50年行事など続く
第5期(1979~92):戦中派の岡野弘彦(1924~)と上田三四二(1923~1989)の二人の選者入り。89年昭和天皇死去
第6期(1993~):昭和天皇没後1993年からかつての前衛歌人、岡井隆(1928~2020)選者入り

 今回は、第6期、平成期以降にあたる部分の歌会始の特徴を述べたいと思います。

<平成期の歌会始の特徴>
・ 選者の若返り、新聞歌壇選者、話題性のある歌人の登用
・ 入選者の世代的配慮、若年化(中高生を必ず入れる)
・ 短歌ジャーナリズムとの連携(詠進要項掲載、皇族の短歌、歌会始関係記事などの増加)
・ 他の国家的褒章制度との連動(文化勲章、文化功労者、芸術院会員、紫綬褒章、芸術選奨、勲章制度など)
・ 陪聴者選定により選者予備軍、歌会始支援者への配慮
・ 天皇・皇后の短歌のテーマの多角化、平和や慰霊の短歌だけでなく自然や文化、福祉、環境 家族・・・

 かつて、歌会始や歌会始選者を痛烈に批判し、前衛歌人ともされていた岡井隆が選者入りしたのは1993年です。岡井の選者就任の弁は「もはや歌会始は、短歌コンクールの一つに過ぎず」とか「天皇の象徴性は薄らいだ」とか「自分一人が選者になったからと言ってそう変わるものではない」と弁解しながら、2014年まで務めます。「選者ばかりでなく、御用掛も務め、戦争体験者として、体が続く限り、天皇夫妻にお仕えしたいとも語っていました。選者就任当初は、歌壇にも批判の声があがっていましたが、次第に沈静化していきます。 
 2004年には戦後生まれの永田和宏が選者にもなり、今世紀に入ると、歌会始と現代短歌とは、何の違和感もなく融合する時代に入ったと言えます。さらに言えば、平成の天皇夫妻の「平和志向」と相まって、いわゆるリベラル派といわれる人たちまでが、親天皇制に傾いてきたというのが現状だろうかと思います。2015年、岡井と入れ替わりに選者に就任した今野寿美(2008年から選者になった三枝昂之の妻)という女性歌人が、2016年の赤旗の歌壇の選者にもなったのです。同じころ、共産党は、天皇が玉座に座って国会開会の言葉を述べる開会式に、それまで欠席していたのですが、突如参加するようになり、赤旗の発行日付に元号を併記するようになるなどの一連の動きに、大いなる疑問と退廃を感じたのです。象徴天皇制は日本国憲法の平等原則と相入れないとする党の綱領(2004年)と整合性を考え、非常に重要な意味を持っていると考えています。
 以下の年表には、平成期の歌会始の推移と天皇・皇后をめぐる動向
を記載しています。応募歌数の推移、選者の構成なども併せてご覧ください。
 
なお、歌会始選者と他の国家的褒賞制度との微妙な関係にも着目しているところです。選者になることが、例えば芸術院会員や文化功労者への通過点になってはいないか、あるいは、文科省の芸術選奨の受賞者や選考委員を経て、選者に到達するような場合も少なくなはないのではないと思われます。そうした中で、他の褒章はともかく、歌会始の選者だけは、拒み続けている歌人も少数ながら、見受けられないこともないのが現状でしょうか。

「平成期の歌会始の動向略年表」

ダウンロード - e5b9b4e8a1a8efbc92.pdf

 つぎに、平成の天皇・皇后の「平和・慰霊」のメッセージを込めた短歌と「リベラル派」の論者の天皇制について述べたいと思います。(続く)

 

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2月23日「<歌会始>と天皇制」について、報告しました(2)

 4.昭和天皇は、敗戦後、どんな短歌を詠んできたか

 さきに、昭和天皇の太平洋戦争開戦時と「終戦」時の二つの「聖断」にかかる短歌を紹介しました。「身はいかになるとも」の思いで終戦の決断を下したと言いますが、こうした短歌は、あまりにも自己弁護的すぎて、当時発表されることが憚れたのでしょうか。1968年に出版された木下道雄『宮中見聞録』により公けになります。年表「天皇退位問題と極東軍事裁判の動向略年表(1945~1948)」に見るように、学者や大手新聞社の社説などでも天皇退位論議が盛んでしたし、東条英機らが逮捕され、極東軍事裁判が始まろうとし、憲法改正論議の行方も不透明でした。ただ、この時期に、つぎの2首が公表されています

⑥ 海の外の陸に小島にのこる民のうへ安かれとただいのるなり
(1946年1月1日、新聞発表)

⑦ ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ(1946年1月22日 歌会始「松上雪」)

 昭和天皇は、1946年1月1日の年頭詔書でいわゆる「人間宣言」をしていますが、「五か条御誓文」をもって、民主主義の根本とし、神の国を否定したものでもなく、天皇の神格を明確に否定したものではなく、自分が現人神ではないことを述べるにとどまるものでした。
 ⑥は、雪の降るきびしい冬の寒さに耐えて、いつも青々と成長する松のように、人々も雄々しくかくありたいとの解釈ができますが、アメリカのジョン・ダワーという歴史家は『敗北を抱きしめて』において、「忍耐の美しい姿を表す古典的なイメージ」を作り上げ、「(天皇の)反抗の意を絶妙に表現したものである」とした、うがった解釈をしています。しかし、その頃の天皇は、実に不安定な場にあって「抵抗」どころかではなかったのではないかと推察されます。
 敗戦の翌年46年2月からは地方巡幸を開始します。その頃の短歌に、以下があります。

⑧ わざはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ(1946年10月30日宮内省発表)

⑨ たのもしく夜はあけそめぬ水戸の町うつ槌の音も高くきこえて(1947年歌会始「あけぼの」)

⑩ ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなほる見えてうれしかりけり(1947年12月広島・中国地方視察)

 出迎えてくれて嬉しい、復興が進んで頼もしい、と詠んでいますが、当時、小学生だった私の体験からも、一般の人々の暮らしの実態を知ろうともしなかったのではないかと思います。1946年5月には食糧メーデーも起きています。 
 ⑩の広島訪問の歌は、被爆の実態を知らず、被爆者の思いには至らない、まるで明るく、軽快な「流行歌」のようにも思えます。後年の記者会見で「原爆は仕方なかった」と述べたことにも通ずるところがあります。

 それでも、さまざまな行事や訪問先で、儀礼的に挨拶のような戦没者追悼や戦争追想のようなつぎのような短歌を詠み続けていました。
⑪ 年あまたへにけるけふものこされしうから思へばむねせまりくる(1962年日本遺族会創立十五周年)

⑫ 年あまたへにけるけふも国のため手きずおひたるますらを思ふ( 1962年 傷痍軍人うへを思ひて)

⑬ 戦をとどめえざりしくちをしさななそぢになる今もなほおもふ(1971年伊勢神宮参拝)ヨーロッパ旅行を前に旅な安全を祈りに

⑭ 戦果ててみそとせ近きになほうらむ人あるをわれはおもひかなしむ(1971年イギリス)

⑮ さはあれど多くの人はあたたかくむかへくれしをうれしと思ふ(1971年イギリス)

⑯ 戦にいたでをうけし諸人のうらむをおもひ深くつつしむ(1971年オランダ)

 ⑪⑫ 同じ年に、軍人遺族と傷痍軍人たちに向けて詠んだものですが、「年あまたへにけるけふも」と同じ上の句で始まる歌であったとは、まさに「ごあいさつ」にも思えてしまいます。「むねせまりくる」も、昭和天皇の常套句です。イギリスやオランダでは、かつて日本の捕虜になった人々やその遺族から、激しい抗議を受け、イギリスでは植樹した木を抜かれたり、オランダでは、卵を投げつけられたりしたとも報道されています。「おもひかなしむ」「深くつつしむ」と詠みながら、⑮のように、あたたかく迎えられ、厚く迎えてくれる人がいたからと、すぐに立ち直る軽さと無神経さに驚きもします。 

 昭和天皇の短歌が平和への願いや戦争への思いを込めたものとして強調され、繰り返されることは、すでに戦争を知らない世代をはじめ、天皇や天皇の短歌、短歌そのものへの関心がない人々にもたらされる効果は微々たるものかもしれませんが、皇室イベントの折々に、種々のメディアにより繰り返されることによるアナウンス効果は無視できないのではないか、と思われます。その意味で、メディアの果たす役割は大きいと言わざるを得ません。

5.昭和天皇に戦争責任はなかったのか 
 短歌からは少し離れますが、そもそも、昭和天皇には、大日本帝国憲法下においては、第3条天皇は神聖にして侵すべからず、とあるのだから、どんな責任をも負う必要がない、あるいは、天皇は、軍部からの正確な情報が届いておらず、軍部に利用されていたにすぎないから戦争責任はないという俗説も流布されていますが、それらの説に、従来から実証的に反論する研究者は、決して少なくはありません。
 たとえば、山田朗は、旧憲法11条天皇は陸海軍を統帥する、とあって制度的に「大元帥」であって、軍部の言いなりになっていたわけではなく、軍事の知識も東郷平八郎仕込みで豊かであったし、数々の具体的な作戦計画や内容に深く介入、関与していたと、数々の例で実証しています。
 
私たちにもわかりやすい例でいえば、つぎのいずれの場合も、天皇の意思であったことはすでに認知されていることだと思います。
・1936年 2・26事件では、反乱軍の鎮圧と軍事裁判による処刑
・1945年3月以降の沖縄戦における地上戦とその続行

 また、死去報道の折、敗戦と終戦の二つの聖断をもって、昭和天皇は平和主義者だったというイメージが醸成されましたが、「戦争責任がない」という証として、いくつかの方法がとられていることもわかってきました。
 一つは、次のようなエピソードが繰り返されてきたことです。
・太平洋戦争直前の1941年9月6日の御前会議でつぎのような明治天皇の御製「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風立 ちさわぐらむ」を読み上げた
・1945年敗戦直後、昭和天皇が、疎開地の明仁皇太子にあてた手紙に「日本が負けたのは軍人が跋扈したからで、終戦を決断したのは三種の神器をまもり、国民を守るため」との主旨を綴っていた

 また、つぎのような、天皇の身近な人物の日記やメモの公開により、戦争への反省や退位の意向を漏らしていたことをもって、免責を示唆するようなこともあります。しかし、それはあくまでも個人の日記であり、メモのであって、しかも天皇の発言は「伝聞」であり、記録者の「恣意」も働いていることを前提にしなければならないのではないでしょうか。

・1937年近衛内閣時代の閣僚、敗戦時は内大臣だった、天皇の側近中の側近だった木戸幸一による『木戸幸一日記』(東大出版会 1966年)
・外交官から政治家となり、リベラルと称せられ、敗戦後片山哲内閣の後を継いで首相となった芦田均の『芦田均日記』(岩波書店 1986年)
・初代宮内庁長官田島道治の「拝謁記」(毎日新聞2019年8月19日ほか)
・マッカーサーと昭和天皇との会談通訳の人たちの日記(朝日新聞2002年8月5日)

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 そして、昭和天皇は、結局、結果的には、退位もしませんでしたし、戦争責任発言もありませんでした。のちの記者会見で、戦争責任問題を「文学上の言葉のアヤ」と称して、スルーし、原爆投下は「仕方なかった」とさえ語っていました。
 それでは、なぜそのようなことが可能であったかといえば、GHQは、天皇の戦争責任を問うよりは、当初の方針通り、天皇の敗戦後の処遇については作戦が練られていて、象徴天皇制の構想、天皇を中心とする傀儡政権構想などのもと、「退位」より「在位」をとり、スムーズな統治を狙い、極東軍事裁判で、無罪潔白を確定する必要があると考えたのだと思います。こうしたGHQの方針と天皇制を残したい日本の思惑が一致して、昭和天皇の戦争責任を曖昧にすることによって、国家の戦争責任をも曖昧にし、歴史認識をゆがめてきたことになるのではないでしょうか。

「天皇退位問題・憲法問題・極東軍事裁判の動向略年表」
ダウンロード - e5b9b4e8a1a8efbc91.pdf

 

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2021年2月25日 (木)

2月23日「<歌会始>と天皇制」について、報告しました(1)

 2月19日の当ブログに書きましたように、「女たちの戦争と平和資料館」(wam)主催の<天皇制を考える>シリーズの三回目として、西早稲田のAVACO教会の一室で開催されました。予約制で定員40人ほどの方が参加してくださいました。参加の皆さんはそれぞれの分野で活動されている方々なので緊張しました。事前には、wamの担当のYさんにはいろいろご教示いただきながら、なんとか当日を迎えました。資料などの準備で、明治以降の歴代の天皇・皇后の短歌から、報告に必要な短歌の80余首を選びました。歌会始に関するデータを表にしたり、年表を作成したりは、これまでの拙著出版にあたってもやってきた作業ではありましたが、いま、また、新しいデータを補い、あらためて新しい事実を知ることも多々あって、厄介ではありましたが、楽しい一面もありました。

 また、代替わりこそなかったのですが、1945年敗戦前後の明治・大正・昭和天皇及び各皇后の短歌の在り様をたどり、昭和から平成、平成から令和という代替わりを目の当たりにした者として、マス・メディア、現代の短歌ジャーナリズムや現代歌人の対応を振り返ることにもなり、新聞や雑誌の記事のファイルを持ち出しては、話の内容をまとめるのに苦労をしました。配布したい資料はどんどん増え、読み上げ原稿もなかなか削れませんでした。
 予定の90分に収まるか、どうか。コロナ対策で、間に休憩をとるということで、どの辺で区切るのか、気はもめましたが、何とか、時間的には収まりました。
 さて、その中身はとなると、個人的には、短歌からは、なるべく離れないようにしながら、レジメのなかの「おわりに~”リベラル派”識者の護憲と天皇制」の問題について、参加者の声も聴きたいなと思っていたのですが、思うように時間が取れませんでした。以下、私の話の一部ながら、どうしても伝えたかったいくつかを、書き留めておきたいと思います。当日のレジメの順序とは若干異なっています。

1.この30年の歌壇と天皇制

 まず冒頭で、次の雑誌の特集と図書をあげて、この30年間の歌壇の基盤にほとんど変革がみられなかったこと、そして、あたらしい元号「令和」が萬葉集から採られ、大いに盛り上がっていたことなどを指摘しました。

1989年1月『短歌』臨時増刊「天皇陛下と昭和」
2019年1月『短歌研究』「平成の大御歌と御歌」
2919年3月『象徴のうた』永田和宏 文芸春秋

2.昭和天皇は平和主義者だったか  
 昭和天皇の死去報道の中で、例えば、つぎのがさまざまなメディアで取り上げられ、太平洋戦争「開戦」には慎重であったことが、繰り返されました。同時に、をもって「終戦」の決断をしたということが強調され、昭和天皇は平和主義者だったとのイメージが増幅されました。

① 峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり
(1942年歌会始「連峰雲」)

② 爆撃にたふれゆく民の上おもひいくさとめけり身はいかならむとも
(木下道雄『宮中見聞録』1968年で公開)

  ①についてその典型的な解説といえば、
岡野弘彦:長い間、歌会始の選者と御用掛を務めた歌人
「太平洋戦争がはじまり、戦時中の昭和十七年のお題<連峰雲>の御製では、戦争が早く終わって平和になるようにとお望みになっていた」「しかし時勢は陛下のお気持ちとは逆の方向に進み、十二月一日には内閣と統帥部との一致した結論として陛下も開戦やむを得ないとなさった」(昭和天皇歌集『おほうなばら』解題 1990)

下馬郁郎(=半藤一利):昭和史研究、元『文芸春秋』編集長
「沈痛きわまりない感情の表白というべきか。そして陛下が、あの激越な戦争中、ただ祈りつづけてこられたことに気付かせられる。陛下にとっての「昭和史」とは、ことごとに志に反し、ひたすら祈念の時代であったということなのだろうか」(「御製にみる陛下の“平和への祈り”」『文芸春秋』1989年3月号)

 また昭和十年代の昭和天皇の短歌を評して
保阪正康:「昭和十年代の天皇の祈りの歌から、平和主義者であったことは一目瞭然です。天皇は相手により言葉を使い分けますが、歌の中ではほんとうの気持ちを詠まれているということです」
(『よみがえる昭和天皇 御製で読み解く87年』(辺見じゅんとの対談) 文春新書 2012年2月)

  昭和史の第一人者と言われる半藤、保阪の二人が「御製」で歴史を語っていることに、あらためて驚きました。

3.昭和、平成の天皇が詠んだ沖縄  
 また、昭和天皇晩年の歌で、つぎの一首がよく引用されます。1987年10月、沖縄での国民体育大会に病気のため出かけられなくなったことを歌い、皇太子夫妻が代わりに参加し、「おことば」を代読しています。そして、この歌も「昭和天皇は、沖縄訪問の責任が果たせなかったという特別の思いを持ち、沖縄の人々への思いやり」を示した歌だと、保阪正康も先の本で語っていますが、この「思いやり」の部分を平成の天皇夫妻が受け継いだと思われます。
③ 思はざる病となりぬ沖縄をたづね果たむつとめありしを(1987年)

 しかし、昭和天皇には、沖縄についての重大な二つの「負の遺産」もありました。すなわち、
・1945年3~6月まで、本土決戦の前提として、沖縄地上戦を続行させた、多大な犠牲者、県民の4人に一人、20万人の犠牲者を出したこと
・1947年9月、御用掛、寺崎英成を通じて、GHQに琉球諸島の占領継続を長期租借の二国間条約によるという内容の文書(「天皇メッセージ」「沖縄メッセージ」)を渡していたこと(進藤栄一の論文で明るみに。『世界』41979年月号)

 そこで、平成の天皇夫妻は、皇太子時代5回、天皇時代6回、合わせた11回訪問し、その都度、短歌を詠み、「おことば」を残しています。他の都道府県訪問に比して突出している数字です。沖縄訪問一覧をご覧ください。
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 なぜこれほどまでに沖縄にこだわるのかといえば、上記、昭和天皇の負の遺産を、少しでも減らしていきたいという思いがあったことは確かですが、沖縄の基地に対する政府の対応は、県民にとっては屈辱の連鎖でしたし、民意に反して、固定化し、強化されているのが現状です。平成の天皇夫妻の短歌や「おことば」では、犠牲者への慰霊や鎮魂が繰り返されますが、それは、夫妻の個人的な心情があったとしても、沖縄県民への慰撫や懐柔の役割を果たし、政府の沖縄への対応の欠陥を補完していると思えるのです。
 平成の天皇と皇后の沖縄を詠んだ短歌を多く残しています。国立戦没者墓苑、平和の礎、平和祈念堂には幾度も、福祉施設などを訪ねていますが、その中の2首だけについて、その背景を伝えておきたいと思います。

④ 広がゆる畑 立ちゅる城山 肝ぬ忍ばらぬ 戦世ぬ事 
(ファルガルユチタキ タチュルグスィクヤマ チムヌシヌバラヌ イクサユヌタトゥ)
(皇太子)(1976年 伊江島の琉歌歌碑)

⑤ 時じくのゆうなの蕾活けられて南静園の昼の穏しさ
(皇后)(2004年 南静園に入所者を訪ふ)

 ④は、1975年7月、皇太子夫妻は、海洋博のため、はじめて沖縄を訪ねますが、その時に、本島の本部港から船で30分ほどの伊江島に立ち寄っています。 
 伊江島は45年4月16日、米軍が上陸し、島民の二人に一人が亡くなるという激戦地で、敗戦後は、最も早く、まさに銃剣とブルドーザーで島民は追い払われ、島の60%が米軍の軍用地となり、現在も35%が基地となっている島で、オスプレイの訓練などに使用しています。この歌は57577の短歌ではなく、沖縄特有の8886を基調とする歌、天皇が一人で学んだという琉歌です。島の中央にあるグスクヤマの中腹に、「御來村記念碑」とこの琉歌の歌碑が並んで、76年に建てられています。しかし、私たちが出かけたときは、島の生まれだという、案内の運転手さんは、「天皇の歌碑なんて、あったかね」とそっけなく、「ああ、あった、これですかね」という反応でした。いまはリゾートの島、百合の島、人口よりも牛の数の方が多い伊江牛の島として有名だとのことでした。
 ⑤は、2004年1月、宮古島の南静園という国立ハンセン病療養所を訪ねたときの皇后の歌です。沖縄には、もう一つ本島の北部に屋我地島、今では橋でつながっていますが、沖縄愛楽園という国立ハンセン病療養所があります。皇后がここに訪ねた折も、療養中の人々と親しく懇談したり、握手をしたりして、歓迎され、沖縄の民謡を歌って見送ってくれたという一連の動向が美しい物語として報じられていました。 戦前に建てられた、全国で13ある国立ハンセン病療養所の二つが沖縄にあるわけですから、米軍基地を押し付けられている構造にも共通するところです。私たちが愛楽園を訪ねたとき、構内の案内図には、「御歌碑」が示されているのですが、なかなか見つかりません。戦前に、貞明皇后が、全国の療養所に、下賜金とともに送った「つれづれの友となりても慰めよいくことかたきわれにかはりて」という歌は、ハンセン病者の強制隔離政策のプロパガンダとして、「皇恩」の象徴でもあったのです。「御歌碑」をあきらめて、広い構内を見学しているうちに、運動場のような草原につきあたった、その広場の隅に、何かが見えると、近づいてみると、破れかかった青いビニールシートに覆われた、大きな横長の岩があったのです。透けたシートの間から、なんと「つれづれ・・・」の文字が読め、横倒しになった「御歌碑」とわかりました。私には衝撃的な一瞬でした。資料室の展示で、敗戦直後、「御歌碑」は海に投げ込まれたとはありましたから、1970年代、再建された歌碑のはずです。シートの破れ具合から、こうした状況になってかなり年月が経っているようにも見え、私たちが訪ねた2017年2月、一つ現実を目の当たりにした思いでした。(続く)

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2021年2月19日 (金)

" "御製”で読み解く”歴史”の危うさ

 別紙のような企画で、「歌会始と天皇制」について、話すことになりました。その準備の過程で、あらためて、天皇の短歌が、歴史の前面に立ち現れて、歴史が語られることに、危惧を感じています。

 大日本帝国憲法のもとで、明治天皇や歴代の天皇の短歌が持ち出されて、歴史が語られていた時代はともかく、現代にあっても、天皇の短歌で綴られてゆく、昭和史や平成史が一部でまかり通っていることの危うさを感じないわけにはいきません。天皇や皇后の短歌や天皇の「おことば」に平和や慰霊への思い、国民に寄り添う気持ちをことさら高く評価したり、政権への批判や抵抗をも読みとろうとする、<リベラル派>の論者やそれを好んでもてはやすマス・メディアにも、一種の圧力のようなものを感じている昨今です。

 どんな報告ができるか不安ではありますが、報告概要とチラシは以下の通りです。

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2021年2月14日 (日)

コロナ、オリンピック、地震で大揺れの中~防衛費膨張の裏で

ミサイル監視衛星調査研究費、22円で落札!の非常識

 やや旧聞に属するが、先月末の2020年度第3次補正予算案審議の国会中継を見ていたら、耳を疑うような質疑に出会ったのである。

 1月27日、参院の予算委員会で、立憲の白真勲議員が「3次補正予算に自衛隊の飛行機や潜水艦などの防衛装備品の安定購入経費として2816億円が含まれていることは、来年度の本予算に入れるべきものを前倒しすることで少なく見せていると批判し、北朝鮮や中国などの新型ミサイルを人工衛星での監視技術開発のための調査研究委託の競争入札をしたところ、三菱電機が22円で落札、防衛省と三菱との契約の事実を質したのだった。落札価格は20円で、2円が消費税というのだ。岸防衛大臣は、「たしかに安値ではあるが、弁護士にも相談して問題がないということで契約した」「積算の内訳は、従来から公表しないことになっている」という答弁だった。白議員は、20円では、書類の目次のコピー代金にもならない、安ければいいというものではない、入札制度の見直しを理事会に要求していたが、その後どうなったのだろう。

  防衛省は2020年度予算で、人工衛星でミサイルを探知・監視する新技術の調査研究に約8800万円を計上していた。 三菱電機が受注したのは、このうち、複数の人工衛星を同じ高度に配置し、新型ミサイルを横方向から監視することで探知を可能にする「リム観測」の実用化に関する調査研究で、同省は想定していた調査研究費を明らかにしていないが、少なくとも数百万円以上とみられているそうだ。いったいこれは何を意味するのか。
 1円入札にまつわる疑惑は、こればかりではなかった。
調べてみると、最近では、なんと、件のオリンピック組織委員会が、オリンピックで使用する空手競技用のマットを、埼玉県の業者が1円で入札、落札していた。延期が決まる前の2019年10月のこと。同額の1円入札の2業者の製品を試用の上、決めたというが、組織委ホームページでは、入札価格だけは非公表であったのが、取材で明らかになったとのことであった。他の200件以上の物品入札で契約価格の非公表は、マットの1件のみだったといい、相場では400~500万円に相当するというのだ。(産経新聞2019年11月20日、NHK政治マガジン2019年11月21日)
 東京へのオリンピック招致に絡んだ不正疑惑でフランス司法当局の捜査を受けていた竹田恒和JOC会長が19年6月で退任する羽目になっている。けた違いの額のお金が動いていたという疑惑は、まだ晴れてはいない。

 防衛費膨張の推移

 そもそも、防衛費自体の予算の7年間の伸びをjijicom(2020年12月21日)のグラフで見てみよう。

2021

 2020年度予算の5兆3133億円だったから、今回の第3次補正で、2816億円増額したことになる。これが21年度予算の前倒しとみられるのだ。

 20年12月に決めた追加経済対策の財源として19兆1761億円を計上した。当初予算、1次・2次補正と合わせた20年度の歳出は175兆円超となる。3次補正予算の中身は、以下の表の通りなのだが、細かく見ると、医療提供体制の確保などに計1兆6447億円、ワクチンの接種に向けた環境整備には5736億円、PCR検査などの実施には672億円、Go Toトラベルに1兆311億円、中小・小規模事業者の資金繰り支援には3兆2049億円を計上している。

 しかし、今年度補正予算に、Go Toトラベルに1兆311億円やマイナーカード普及、脱炭素基金が必要なのだろうか。そして、下の表に見るように、最下段の安全安心確保策として、国土強靭化推進と防衛費を潜り込ませているとしか見えないのだ。

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日本経済新聞(2021年1月28日)より

 

 菅内閣に期待するものはなかったが、半年もたたないのに、もうズタズタな状況。コロナ対策はもちろん、計画的な施策が立たず、目先の対策を小出しにしては、破綻があればあわてて弥縫策に走る。次から次へとなんとも常套的な不正や前世紀的な政治家の不祥事がまかり通り、野放し状態といっていい。そこに来て、オリンピック組織委員会の森会長の辞任劇、いやはや、オリンピックの中止を宣言しなければならない役回りの可能性も高い、後任は、なかなか成り手はいないだろう。よほどの政治力で押し付けられることになるにちがいない。
 そして、13日夜11時過ぎの大地震である。津波の可能性がないというのが不幸中の幸いだったが、それでも被害は、これからだんだん明らかになるに違いない。コロナ禍の中の避難所運営や復旧にも困難が待ち受けている。
 ファイザーのワクチンが成田に到着したというニュース、一日にして承認され、まず医療従事者に実施されるというが、その手順も後手、後手で、不安は募るばかりである。

 

 

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2021年2月 1日 (月)

二つの「短歌年鑑」を読んで~「座談会」より基礎的な資料を

 以下の文章は、私が出詠している短歌雑誌『ポトナム』2月号に「歌壇時評」として書いたものです。

***********      

 昨年の歌壇は、岡井隆追悼と新型ウイルスCOVIT-19で暮れた感がある。「歌壇」とは遠い「番外地」にいる私だが、年末に刊行される二つの年鑑には目を通すようにしてきた。が、短歌総合誌の世界だけが「歌壇」であるかのような、そして自誌読者獲得のための編集、誌面構成が目立ち、残念にも思えるのだった。短歌を詠み続けている人たち、短歌史を学んでいる人たち、短歌を読むのを楽しみにしている人たちなど短歌を愛好してやまない人たちが短歌を支えてきたことを忘れてはならないだろう。
 年鑑恒例の一年を振り返っての座談会では、『角川短歌年鑑』が「コロナ禍における〈座〉の在り方を考える」(佐佐木幸綱・松平盟子・吉川宏志・大井学・山田航)であり、『短歌研究年鑑』の「二〇二〇年歌壇展望座談会」(佐佐木幸綱・三枝昻之・栗木京子・小島ゆかり・穂村弘)でも、最初の話題は、歌人たちの「コロナ禍」体験であった。いずれも、座談会出席者の個人的な、あるいは自身の率いる結社での「コロナ禍」体験などが語られているのだが、若干の不安と不便を感じながらも、新しい体験を楽しんでいるかのような様子も伺えた。「未来志向」も大事だが、今回のCOVIT—19感染拡大と対策の不備やそれに伴う差別による被害は、国民の暮らしや短歌作品に影を落としていることにも目を配って欲しかった。
 昨年の後半は、岡井隆追悼に寄せられたいくつかの文章を読むことになるが、その多くの執筆者は、自身と岡井との出会いやその後の個人的な近しい関係を誇らしげに語り、人柄や偉大な業績を称えるのだった。「お別れ会」でのスピーチではないのだから、冷静に、筋道立てた、岡井の作品や生涯を振り返って欲しかったとも思う。
 さらに昨年は、塚本邦雄生誕一〇〇年、前川佐美雄没後三〇年でもあったので、特集も組まれたなか、私は、鳥取大学の岡村知子准教授らをはじめとする研究者と遺族関係者の尽力で出版された『杉原一司歌集』『杉原一司メトード歌文集』(杉原一司歌集刊行会 二〇二〇年三月)に注目した。没後七〇年にあたる杉原一司(一九二六~一九五〇)は、鳥取県立商業高校卒業後、地元の小学校国民学校に勤務、太平洋戦争末期に応召もした。同僚を通じて『日本歌人』の前川佐美雄を知り、彼の家は、前川の家族の疎開先にもなった。前川の仲介で知り合った塚本邦雄とは、『日本歌人』の後継誌『オレンジ』(一〇月創刊号、一九四六年一一月)で出会い、一九四九年八月には、杉原、塚本が中心になって『メトード』創刊に至るが、一九五〇年、二三歳で病死する。その杉原の歌集が、今回初めてまとめて読めるようになったのである。
 また、『日本歌人』の「前川佐美雄没後三十年」特集(二〇二〇年七月)で「前川佐美雄を読むために」を寄稿している石原深予は「前川佐美雄編集『日本歌人』目次集(戦前期)」(石原深予編刊 二〇一〇年二月)を私家版で公表していたが、入手しにくいものだった。この目次集は、斎藤史が『日本歌人』の同人であったので、拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』(一葉社 二〇二〇年一月)の執筆の折には、大いに利用させていただいた。二〇二〇年二月には、その増補・修正版がネット上で公開されている。
 上記、杉原一司の歌集、『日本歌人』目次集は、作品の初出検索や作品鑑賞・歌人・短歌史研究には欠かせない基本的な資料となろう。こうした資料の作成への熱意と努力に敬意を表すると同時に、いわゆる「歌壇」は、こうした営為にも、もっと光を当てるべきではないのかと思うのだった。(『ポトナム』2021年2月号 所収)

 

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