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2021年3月28日 (日)

今年の「歌会始」から見えてくるもの~私たちは祈ってばかりいられない

 3月26日、約2カ月遅れで、延期された「歌会始」が開催された。“伝統ある古式に則った”宮中行事というけれど、テレビ中継で何度みても、まず、そのドレスコードというか、和洋混在の正装の人々の違和感が先に立つ。会場の男性はモーニング姿、入選者の高校生は制服か。皇族の女性たちはロングドレス?入選者の女性たちは和服である。それに、今年は、全員白いマスクを付け、披講の人たちは、さすがにフェイスシールドであって、席はアクリル板で仕切られていた。入選者の一人はオンライン参加という、どこか奇妙な光景であった。異様といえば異様で、これほどまでして、開催すべきものであったのか。

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 もっとも、新型ウイルスの感染状況が、第四波か第四波の入口かと言われているさなか、「聖火」リレーをスタートさせる国である。辞退者が続出し、途中で火が消えたり、スケジュール通りに繰り上げスタートさせたりと、つながらないリレーに、いったい何の意味があるのかとも思う。政府は、非常事態宣言を解除しておいて、あとから、弥縫的な感染防止や補償、救済策しか出さず、国民の生命と生活はどうにでもなれ、と放置されたようなものである。その一方、この新型ウイルス感染対策費とは桁が違う、防衛費5兆円以上を、マイナンバー普及だけにでも1000億円以上の予算を組む国でもあったのである。そもそも、2021年3月までに、19年度補正予算、20年度本予算で、デジタル関係予算は1.7兆円にもなっていたのである。
 さらにいえば、折も折、政府は、3月16日に「『退位特例法の付帯決議』に関する有識者会議」の設置とそのメンバーを発表し、23日には、初会合を開いた。「付帯決議」の主旨は、「安定的な皇位継承を確保するための諸課題を、先延ばしすることなく、速やかに、全体として整合性が取れるように検討」することだったのだが、菅首相は、会議の冒頭「議論してもらうのは国家の基本にかかわる極めて重要な事柄であるので、十分に議論して、さまざまな考え方をわかりやすい形で整理してほしい」旨の発言をし、いわば論点整理までを、当面の目標にしているようであり、メンバーから見ても、結論ありきの先送りということで決着するのではないか。
 たしかに、今年の歌会始の皇族の参加者を見ると、高齢の三笠宮妃、常陸宮夫妻は欠席、三笠宮家の孫にあたる内親王の一人も欠席、歌も発表されていない。当然のことながら、成人の男性は、天皇以外、秋篠宮一人であって、秋篠宮の長男が成人になるまでは、こんな光景が続くのだろう。このままでは皇位継承者が細る危機感が、政府に足りないという指摘があるけれども、家を継ぐ者がいない、ということは世の中によくあることだし、天皇家が途絶えたとしても、国民はどんな不利益を受けるだろうか。将来、選択制夫婦別姓が可能になれば、家名を残すなどということは、あまり意味がないし、第一、皇族には名字というものがない。天皇家の存続の有無が「国家の基本にかかわる極めて重要な事柄」という認識にこそ、私は危機感を覚えるのだった。 
 話を、「歌会始」に戻せば、今年の一般からの応募歌数は、平成以後、1991年以降の30余年の推移の中で、最も少ない1万3657首であった。選者は、2015年以降、内藤明、今野寿美、永田和宏、三枝昻之、篠弘と変わらず、2万前後を推移していた。平成期のピークは2005年「歩み」2万8758首であり、昭和期のピークは、1964年「紙」4万6908首であった。これは、皇室への関心、歌会始への関心、短歌への関心が薄れていることの反映のようにも思える。相乗的なものでもあるかもしれない。
 いわゆる「新聞歌壇」においても、投稿者の常連化、入選者の固定化、選者と入選者の個人情報が行き交うサロン化などを垣間見ることができる。歌会始の場合、長年の応募の努力が実って入選したとか、多くの入選者を出す学校には熱心な指導者がいるとか、選者や入選者と皇族にこんな交流があったとか、歌を通じて、国民と天皇・皇族とが織りなすエピソードが喧伝され、天皇や皇族の歌のメッセージを読み解く新聞や短歌雑誌はあとを絶たない。「新聞歌壇」は、往々にして、時事的な、政治的なテーマで盛り上がることもあるが、「歌会始」では、おのずと「わきまえられて」排除されることになるだろう。
短歌という文芸におけるジャンルの一つとして、あってはならないことではないのかと。

 大正天皇の短歌の資料が手元にないので、取り急ぎ、歴代四人の天皇の歌に頻出する「祈る」「願う」「思う」にかかる類似性に着目してみた。「平和」とはやって来るものではなく、私たち自身が、多くの犠牲と弛まない行動によって勝ち取るべきものなのではないか。

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徳仁天皇
人々の願ひと努力が実を結び平らけき世の到るを祈る
(2021年歌会始「実」)
明仁天皇
波立たぬ世を願ひつつ新しき年の始めを迎へ祝はむ
(1994年歌会始「波」)
平らけき世をこひねがひ人々と広島の地に苗植ゑにけり
(1995年「第四十六回全国植樹祭 広島県」)
国がためあまた逝きしを悼みつつ平らけき世を願ひあゆまむ
(1995年「戦後五十年 遺族の上を思ひてよめる」)
昭和天皇
あめつちの神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を
(1933年歌会始「朝海」)
さしのぼる朝日の光へだてなく世を照らさむぞわが願ひなる
(1960年歌会始「光」)
この旅のオリンピックにわれはただことなきをしも祈らむとする
(1964年「オリンピック東京大会」)
明治天皇
よものみなはらからと海思ふ世になど波風のたちさわぐらむ
(1904?「四海兄弟」)
神がきに朝まゐりしていのるかな国と民とのやすからむ世を
(1904年「神祇」)
あさなあさなみおやの神にいのるかなわが国民をまもりたまへと
(1907年「神祇」)

 

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2021年3月22日 (月)

それでも五輪は開催するのか、国民は延期や中止を望んでいる

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2020年3月23日のNHKの昼のニュースで伝えられた、新型コロナ感染者マップである
 
 いったい、だれのためのオリンピック・パラオリンピック(以下五輪と略す)なのだろう
 
つい一年前のことを思い出してみたい。安倍首相が、東京五輪の一年延期を決めたのが2020年3月24日だった。当時のコロナ感染状況を忘れてはいないだろうか。上のテレビ画面が、私のカメラに残っていた。そして、次の画像はNHKの「新型コロナ特設サイト」から得た最新の感染者マップである。こんな画面を、毎日毎日見ていたことになり、若干の一喜一憂はするものの、数字そのもの、数字も直近の比較ばかりに目が奪われて、その危機感も薄れていくようで恐ろしくもなる。

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2021年3月20日感染者マップ、NHK[新型コロナ特設サイト」より

 以下、下の表で、去年の3月20日と今年の3月20日の数字を単純に比較してみても、国内の感染者数は、1105⇒1517、東京の感染者数は、125⇒342、死者数は2人から19人であった。表にはないが、今年の3月20日の直前の死者数は、19日は33人、18日は32人、17日は43人、16日は57人であり、激増しているのである。下の表では、この一年の第1、第2、第3波と言われた時点を中心に、その推移をたどってみた。結構、手間がかかったのだが、見ていただきたい。PDF版にもしているので、そちらの方が見やすいかもしれない。

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東京五輪1年延期以降の感染状況と政府の動向年表
(カッコ内の数字は東京都の内数)          (内野光子作成)
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 今日、3月22日の非常事態宣言解除にあたって、その根拠として言われているのが、病床のひっ迫状況の改善で、強調されていた。絶対数から言っても最も高いピークを示した今年1月の第3波の時点と解除直近3月18日の状況を次の表にまとめた。昨年の8月に分科会が公表した「6つの指標」の感染状況の段階で示すと、黄色の部分が感染状況の第3段階であって、「感染急増」段階なのである。埼玉県と東京都は6つの指標のうち3つがその急増段階を脱していないことになる。また、病床の確保といっても、文字通りベットの確保であって、安心してはいけないということは、病院関係者からよく聞く話である。医師・看護師などのスタッフが確保されているわけではないから、「絵に描いた餅」に近い。感染が激増段階に入ったら医療崩壊につながることが目に見えている。

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6つの指標、2117日(上段)と318(下段)の比較
黄色のマーカーの数値がステージ3(感染者急増段階、医療提供体制に支障)を示す
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参考「感染状況の4段階と6つの指標」
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 その上、感染力が強いという変異種が増えているこのような状況の中で、いまだに、五輪開催を目指している政府は、なにを考えているのだろうか。海外からの観客は断念する至ったが、海外選手・関係者・メディアの入国・出国・宿泊・移動、国内選手関係者の宿泊・移動に伴う検疫・検査体制を支える医療スタッフ、もろもろの日本人スタッフの確保がいまだ明確ではない。聖火ランナーやボランティアの辞退者が相次ぐのも、国民の大多数が延期や中止を望んでいることの反映でもあろう。国内の観客数制限という以前に、試合会場やそもそも密なる競技の試合の管理など、素人でも、その困難さが予想できるが、それへの対策は聞こえてこない。IOC会長と都知事、組織委員会会長、五輪担当大臣らの協議からは見えてこない。オリンピック精神、その理念云々以前の問題である。
 はたして、海外からの選手やメディアは日本にやってくるのか。
 その上、感染が拡大したら、だれが責任を取るのだろう。

 地元の小さな会で、現役の病院勤務の医師からは、PCR検査はすでに縮小段階に入っていて、かつては感染者が出た病棟勤務者全員に検査がなされていたが、今は濃厚接触者だけになっているという話を聞いた。また、小学校に勤務する先生からは、クラスに感染者が出たら、かつてはクラス全員に検査がなされていたというが、いまはそれがなされていない、ということだった。私は10年近く通院していた大学病院からは、コロナ禍のため転医を迫られ、閉院のためかかりつけ医を失った今、途方に暮れている。

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ヒヨドリのつがいが、イチジクのえさ台の「しらぬい」を上と下で見張って
いるようにも見える.。東側の紫モクレンがつぼみをつけ始めた。スイセンは
昨日の雨に打たれて倒れそうにもなっていたが、続いて、チューリップがつ
ぼみをつけ始めている。球根のまま放置していたアムステルダムの花市で
買ってきたのはどれだったのか。いつ植えたのかわからない球根も、毎年
花を咲かせてくれる。
年が明けてから、植えた球根もある。なまけ者の庭にも
春は確実にやってくる。

 

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2021年3月12日 (金)

「現代短歌の”最先端””最前線”とは」(3月3日)への論評がありました

  今日になって、齋藤寛さんのブログで、当ブログの以下の記事について書かれているのを知った。

現代短歌の”最先端””最前線”とは」(2021年3月3日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/03/post-794792.html

 斎藤さんの全文は以下をご覧いただければと思う。
 

「二項対立は良き思考法か?」(2021年3月10日)

https://open.mixi.jp/user/20556102/diary/1978630408

 

 斎藤さんは、上記の記事の前半では、つぎのように綴っている。

「それでつまりあなたは何を言いたいのか? と言いたくなるような文章だがそれは措いて、気になったのは「近年の、二項対立を嫌う『リベラル』な人々のファージーな物言いを見るような気もする」という一文である。これは谷川電話の「赤旗」紙上(2020年12月25日)の短歌時評についてのコメントなのだが、これまた何を言っているのかよくわからぬ一文だ。
しかしこの一文を裏返せばよくわかる物言いになる。つまり、内野さんは二項対立を良き思考法だと考えている、ということだ。
あんれま。積み重なる二項対立の思考群をいかに超克するか、ということがテーマとなって久しい。その日々は全く存在しなかったかの如くではないか。
で、なるほどと思うところもある。歌会始などをめぐる内野さんの文章[*]を読んでいると、内野さんはこの社会の成員を「われわれ」と「あいつら」に二分しているらしい、と感じるからだ」

 今回の私の記事の「近年の、二項対立を嫌う『リベラル』な人々のファージーな物言いを見るような気もする」の部分の背景として、歌会始をめぐる拙著から「この社会の成員を「われわれ」と「あいつら」に二分しているらしい」と感じとっていることが伺える。ただ、ブログ記事全体を「つまりあなたは何を言いたいのか?」と断じながら、さらに、その中の上記の一文だけを引用して、内野は「二項対立を良き思考法だと考えている」とも結論付けている点が、私には、残念に思われたのである。
 斎藤さんには、過去に、研究会のレポートや時評などで、短歌と天皇制に関する拙著を丁寧に読んでいただき、その欠陥を指摘され、批判もしていただいているだけに、「この社会の成員を「われわれ」と「あいつら」に二分しているらしい」という表現でくくられていることにも、齋藤さんらしからぬとの思いを抱いたのである。
 さらに、私は、これまで、「われわれ」という感覚でものを言ったり、まして、異なる考え方をする人を「あいつら」と隔てる意識をもって書いたりしてきたつもりはないだけに、それが伝わってないとしたら、どうしたらいいのだろうと困惑もし、反省もしなければならないと思っている。

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2021年3月11日 (木)

二つの書評で、拙著に触れていただきました

 二つ前の当ブログ記事にありますように、2月27日の「諜報研究会」で報告された中根誠氏の新著『プレス・コードの影―短歌雑誌の検閲』(短歌研究社)の書評が出ました(中西亮太「占領下の検閲」『現代短歌新聞』2021年3月5日)。評者、中西氏は、GHQの検閲文書「プランゲ文庫」における短歌雑誌について、網羅的に、総合的に調査・研究に挑んだ、画期的な書として評価していました。占領期の短歌の検閲についての研究史を概観する中で、1970年代の拙著などにも言及されていて、思わず、当時のことを思い出した次第です(「占領期における言論統制」『ポトナム』1973年9月)。プランゲの読み方も「プランジ」などと表記していた時代でした。中西氏の文献渉猟と検証は、相変わらず緻密なので、身を質される思いがするのです。

中西亮太「占領したの検閲」『現代短歌新聞』2021年3月5日
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 昨年末に出版された、今井正和氏の歌論集『猛獣を宿す歌人達』(コールサック社)では、歌壇時評の部の「今問われているもの―ひとつの論争を通して」において、2016年『ポトナム』誌上の私の歌壇時評を端緒として『うた新聞』紙上で、吉川宏志氏との間で交わされた<論争>を紹介、問題提起をしていました。また、同書においての書評の部では、「表現者の覚悟を問う―内野光子の斎藤史『朱天』研究に寄せて」として、拙著『斎藤史 『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』(一葉社 2019年)を紹介、斎藤史の戦時下の作品もさらけ出すと言いながら、削除や改作をしていたという指摘を紹介、「表現者の覚悟」を問うものでした。

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 この今井氏の新著の書評を、イギリス在住の渡辺幸一氏が書かれているのを目にしました(「イギリス通信~『猛獣を宿す歌人達』を読む」『くれない』2021年3月)。この書を「短歌の世界に注意深く目を配り、他の歌人があまりとりあげない事柄を丁寧に論じている」として評価していました。そのなかで、上記、私の発言や拙著にかかわる時評と書評にも言及してくださいました。

渡辺幸一「イギリス通信(22)『猛獣を宿す歌人達』を読む」『くれない』2021年3月
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 中西さん、今井さん、渡辺さん、ありがとうございました。細々と書き綴っている私には、大いなる励みとなりました。

 

 

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2021年3月10日 (水)

十年目の3月11日、どうしたらいいのか

 3月5日、山本宣治の命日だった。3月8日は、国際女性デーであった。そして、首都圏の非常事態宣言は2週間延長された日でもある。千葉県などは、いまだに、三桁の新規感染者が続くこともある。

 そして、今日は、東京大空襲の日であった。10万人の犠牲者を出し、東京の下町を焼き尽くしていた炎が遠い西の空を染めていたのをたしかに見ていた、かすかな記憶がよみがえる。疎開地の千葉県佐原から、母に促されてみたのだろう。店を守っていた父と専門学校の学生だった長兄が残っていた池袋の生家が無事だったのもつかの間、4月14日の未明、その我が家も城北大空襲で焼失、命からがらに憔悴して疎開地にやってきた父と兄、私は父に、いつものようにお土産をねだっていたという。何もわかっていなかったのである。

 そして、明日は3月11日、まず、思い起こすのは、あの日の私自身の記憶につながることではある。しかし、その後、次から次へと伝えられたテレビや新聞で報道された画像や記事、そして、10年にわたって、さまざまな人たちの証言や専門家による検証であった。津波に襲われることなく、福島の原発から遠く離れた、この地にあっても、強烈な恐怖となって迫ってくるのは、原発事故の眼に見えない、収束のない被害と津波の恐ろしさである。自身のわずかな体験ながら、津波に襲われ、多くの命と街を奪われた石巻、津波の被害に加え、原発を擁する女川の地を訪ねて、その感を一層強くしたのだった。その思いの一端を、このブログでも記してきた。

 昨3月9日の閣議で「東日本大震災復興の基本方針」の改定が決定されたという。そのポイントというのが、
①復興庁の設置は、10年間延長し、その前半5年間は第二期の「復興・創生期間」とする
②地震と津波の被災者の心のケアなどソフト事業に重点を置く
③原発事故の被災地では、避難指示が解除された地域への帰還や移住を促進し、国際的な教育研究拠点を整備する
④原発の汚染水処理の処分については、先送りできない課題だとして、風評対策も含め、適切なタイミングで結論を出す

 それに先立ち「第29回復興推進会議及び第53回原子力災害対策本部会議の合同会合」を開催し、上記の基本方針を議論したというが、首相は次のように述べたという(首相官邸ホームページ)。

「間もなく、東日本大震災から10年の節目を迎えます。被災地の方々の絶え間ない御努力によって、復興は着実に進展しています。
 昨年12月、岩手・宮城では、商業施設や防潮堤などを視察し、まちづくりやインフラ整備の進捗を実感しました。今後、これらの地域における被災者の心のケアやコミュニティ形成といったソフト面の施策に注力してまいります。
 昨年9月に続いて、先週末も福島を訪問し、地元の方々と移住されてきた方々が協力して、新しい挑戦を行う熱い思いに触れることができました。福島の復興のため、その前提となる廃炉の安全で着実な実施、特定復興再生拠点区域の避難指示解除に向けた取組と区域外の方針検討の加速、さらに移住の促進など、取り組んでまいります。
 こうした状況を踏まえ、来年度から始まる復興期間に向けて、『復興の基本方針』を改定いたします。
 福島の復興なくして、東北の復興なし。東北の復興なくして、日本の再生なし。 この決意の下に、引き続き政府の最重要課題として取り組んでいく必要があります。閣僚全員が復興大臣であると、その認識の下に、被災地の復興に全力を尽くしていただきたいと思います。」

 この日のNHK夜7時のニュースは、基本方針のポイントと、閣議前の復興会議の議論を踏まえての発言の最後のフレーズだけを放映していた。「福島の復興なくして、東北の復興なし。東北の復興なくして、日本の再生なし。」とはなんと白々しい、と思うことしきりであった。

  災害や痛ましい事件のあとに、被災者や被害者、その周辺の人たちへの「心のケア」の大切さが言われるが、少なくとも、東日本大震災の被災者には「心のケア」より、何より大切なのは、生活再建、経済支援なのではないか。いくら避難指示が解除されたからといって、仕事が確保され、生活環境が整わないかぎり、「望郷の念」だけでは戻れないだろう。首相がインフラ整備の一部を視察したからと言って、災害公営住宅の家賃の値上げや廃炉・汚染水処理が進まないなかのエネルギーミックスなど言われては、不信感は募るばかりだろう。
  その一方で、聖火ランナーの辞退者が続き、途切れてしまうし、海外からの一般客は断念しながらも開催するというのだから、福島復興の証としての五輪は、幻想でしかなかったのだ。
  それを質すべき野党の体たらくに、期待することはできない。政府も野党もアテにならない。客観性に欠けるマス・メディアの報道、テレビや新聞に登場する常連のコメンテイターたちも、自分の“居場所大事”な人が多い。たまにまともなことを言うと、すぐに炎上し、自粛へと傾いていく。若い人は、新聞もテレビさえ見ない、まして本を読まない人が多いらしい。

  ならば、私たちはどうしたらいいのか。自分と異なる人の意見もしっかりと聞く。悩みは増えるけれど、自分が感じたり、思ったり、考えてたりしたことを、率直に発信していくほかないのかもしれない。そして、先人の残した知見から少しでも学ぶことなのだろうか。平凡なことながら、それが難しい。高齢者にはつらい日が続く。3月は、私の誕生月でもあったのである。

 

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2021年3月 6日 (土)

『非国民文学論』(田中綾著)の書評を書きました

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     イチジクの根方のスイセンが咲き出しました

 『社会文学』編集部からの依頼で、田中綾さんの新著『非国民文学論』の書評を書きました。金子光晴は、これまで、アンソロジーで読むくらいでしたが、今回、まとめて読む機会となりました。また、丸山才一の『笹まくら』も初めて読むことになりました。知ることのなかったことを知り、少しばかり学んだ気がしています。お気づきの点など、ご教示いただければうれしいです。

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田中綾『非国民文学論』(青弓社 2020年2月)書評     

本書の構成は以下の通りである。

第1部 非国民文学論 序章いのちの回復/第1章〈国民〉を照射する生―ハンセン病療養者/第2章〈幻視〉という生―明石海人/第3章〈漂流〉という生―『詩集三人』と『笹まくら』/終章パラドシカルな〈国民〉
第2部〈歌聖〉と〈女こども〉 第1章明治天皇御製をめぐる一九四〇年前後(昭和十年代)/第2章仕遂げて死なむ―金子文子と石川啄木

  いずれも二〇〇〇年以降十年間における論稿だが、第1部は、出版に際して、加筆・修正をしているという。序章では、北條民雄の小説「いのちの初夜」(一九三六年)を取り上げ、国家からも〈国民〉からも疎外された「ハンセン病療養者が『書く』ことを通して新しいいのちを獲得しえたこと」を評価する。第1章では、ハンセン病療養者の戦時下の短歌作品から「〈国民〉から疎外された環境にありながら、むしろ戦時のもっとも〈国民〉的なまなざし」を読み取る。第2章では、明石海人の歌集『白猫』(一九三九年)の後半「翳」に着目し、身体こそ拘束されながらも、何ものにも強制されない想像力で独自に構築していた作品世界を「〈幻視〉による生」と捉えている。これらの章では、短歌の一首一首を丁寧に読み込み、制約された環境の中で、「生き続ける」ことの意味を探り続けている作者たちに敬意を払うとともにその作品を高く評価する。著者のこれらの論述の根底には、ハンセン病に対する従来の「救癩の歴史」と「糾弾の歴史」という二項対立の構図から脱したいという思いがあり、多様な『生存』の営みの過程を具体的に明らかにした上で、近代日本のハンセン病問題を捉え直すという「新たな枠組み」(広川和花『近代日本のハンセン病問題と地域社会』 大阪大学出版会 二〇一一年)を目指しているからだろう。多様な生存の営みへの照射は重要である。しかし、たとえば、藤野豊による『「いのち」の近代史―「民族浄化」の名のもとに迫害されたハンセン病患者』(かもがわ出版 二〇〇一年)や戦前から国策としての絶対隔離政策、無癩県運動を批判してきた小笠原登医師による「強制隔離」の実態究明をも「糾弾」と捉えかねないところに、私は若干の危惧を覚えた。葬られてきたさまざまな具体的な事実を広く知らしめた役割も忘れてはならない。また、「救癩」の歴史には皇室との深いかかわりがあること、療養所内での文芸活動が「精神的慰安」になるとして政策的に奨励されていたことへのさらなる言及、検証も欲しかった。一九九六年「らい予防法」廃止以降、「らい予防法違憲判決」を経ても続くハンセン病療養者、家族、遺族たちへの差別を目の当たりにすると、一層その思いが募る。
 つぎに、著者は、金子光晴が疎開中の一九四四年一二月から四六年三月に、妻と息子の三人で綴っていた私家版の詩集「三人」(二〇〇六年古書店で発見、二〇〇八年出版、光晴の作品の一部は公表済み)に焦点をあてる。光晴は、妻森三千代、息子乾と家族三人が結束して、息子の二度の召集を病人に仕立てて逃れていた。著者は、徴兵忌避という行動のさなかの詩作に「家族以外どこにもよりどころがない漂流者としての視線」を捉える。一九三七年、光晴が出版した詩集『鮫』は抵抗詩集としての評価が高く、時には自虐的に、あるいは執拗なまでに嗜虐的に歌いあげた作品が多いと私も読んだ。光晴は、太平洋戦争下に雑誌等に発表した作品と発表のあてもなく綴っていた作品を、敗戦後の一九四八年に『落下傘』『蛾』として、一九四九年に『鬼の子の唄』として、一気に出版している。加えて、上記のような経緯で出現した詩集『三人』には、徴兵忌避をした息子を両親が守り抜き、励まし合うという詩作による「交換日記」の趣がある。その中の光晴自身の作「冨士」「戦争」「三点」「床」「おもひでの唄」が詩集『蛾』に収められた。「三人」では、呼び合っていたあだ名を、『蛾』への収録にあたって「子供」「父」「母」と普遍化し、加筆や修正も頻繁になされている。上記五篇の作品も、他の未発表作品と同様、完成させたのは敗戦後とみなすべきだろう。 
   
光晴の作品には、日付があるものとないものが混在し、雑誌への既発表作品を、詩集所収の時点で、日付を操作し(「瞰望」「真珠湾」「洪水」など、『落下傘』所収)、詩句を書き換えたりする。たとえば、『蛾』所収の「冨士」での書き換えや『落下傘』所収の「湾」は初出(『文芸』一九三七年一〇月)の「(略)地平は/音のないいかつち、/砲口は唸りで埋まる。戦はねばならない/必然のために、/勝たねばならない/信念のために」の傍線部が削除されたりする。『定本金子光晴全詩集』(筑摩書房 一九七七年六月)の光晴による「跋」には、若い時の詩に手を入れるなどするのも「しかたのないこととお宥し下さい。それから、詩集に入ってゐたもので意に充たないものは削除して」とあり、彼の作品鑑賞には、相当の考証が必要になろう。
   つぎに取り上げられた丸谷才一の小説「笹まくら」は、戦時下に徴兵拒否を選択した青年の中年に至るまでの〈漂流〉の物語である。本書では、敗戦後における、一市民の暮らしを脅かす「非国民」のレッテルの「連続性」に着目している点に、私も共感した。その「連続性」の由来については、作家も、著者も明確にはしていない。
 第2部の一九四〇年代に「明治天皇御製」の「謹解書」の類が噴出した背景についても、著者とともに考えたかったが、誌面が尽きた。(『社会文学』53号 2021年3月)

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2021年3月 3日 (水)

現代短歌の”最先端””最前線”とは

 私が会員である『ポトナム』3月号の「歌壇時評」に書いたものです。「無力感」にさいなまれながらもかすかな希望を宿しつつ・・・。いまは、3カ月の時評を終えてホッとしている。
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 一月号の当欄では「新聞歌壇」の選者と投稿者の間のサロン化について触れた。時評欄においても、歌人同士がエールの交換をしたり、若手・新人を褒めはやしたりする場になることが多い。
  昨年末の『朝日新聞』の「短歌時評」(12月20日)において、松村正直は「違和感を手掛かりに」と題して「雪見だいふくだとあまりにふたりで感なのでピノにして君の家に行く 月」(石井大成、現代短歌社賞佳作)などの若い歌人の作品を引いて、「〈ふたりで感〉とは一体何のことか」と問いながら、二個入りパッケージの「雪見だいふく」が「恋人っぽい感じが強く出てしまう」という感じは「ふたりで感」が「ぴったりではないか」と言い、「違和感を覚えた部分が、むしろ魅力になっていることも多い」と結論づける。また、松村は「水・日でやってるポイント5倍デーそのどちらかで買うヨーグルト」(平出奔)など、短歌研究新人賞作品を引いて、「あてどないくらしの様子が、最先端の時代感覚や気分を映し出している」と評していた時評もあった(「短歌時評・二つの最先端」『朝日新聞』2020年9月20日)。なんとも不安定な「ふたりで感」という造語、ヨーグルトの一首にしても、日常の些細な事実や現象を拾って、読者の自分体験に照らしての「あるある」という共感を誘いはするが、時代感覚や気分を反映した「最先端」の作品と言えるのだろうか。
 
『東京新聞』の匿名コラム「大波小波」(12月19日)では、「よれよれにジャケットがなるジャケットでジャケットでしないことをするから」「〈ヤギ ばか〉で検索すると崖にいるヤギの画像がたくさんでてくる」(永井祐『広い世界と2や8や7』)の二首を引いて、「独特の脱力したような世界観が、一層生き生きとラジカルになっている」として、「それがどうしたと思うようなことをわざと書いてこの世界の関節を外す作者の得意技」と称え、「現代短歌の最前線」として伝えている。
  口語短歌の歴史は、決して新しいものでもなく、口語がいけない、破調がいけないというわけではない。現に、俵万智、穂村弘の短歌をきっかけに歌を作り始めたという歌人も多い。上記の作者たちもその流れを継いでいるのだろう。些細な、新しいものへの着目力、親しみやすい表現力が魅力的に思えることもあり、そんな短歌があってもいいと思うが、現代短歌の「最先端」「最前線」との評価には、いささか違和感を覚えたのである。
 
さらに、やはり、上記、永井の歌集から「日の当たるあんな大きな階段でお弁当4人くらいで食べたい」「二年間かけて一回お茶をするぐらい仲良くなれてよかった」を引き、永井は、〈人生〉か〈一瞬〉かを捉える「二元論」に抗おうとしている口語短歌の潮流を作り出したと位置付け、「〈人生〉でもない〈一瞬〉でもない広い世界で、〈私〉はのびのびとその世界との関係をたのしむだろう」という時評(「谷川電話『赤旗』12月25日)にも出会った。近年の、二項対立を嫌う「リベラル」な人々のファージーな物言いを見るような気もする。
 歌人、永井祐は、一九八一年生まれ、現代のリアリズムの源流を探るいくつかのエッセイも書き、同世代の歌人たちと「短歌のピーナッツ」というブログで、二〇一六・一七年には、歌論や短歌史などの、歌集ではない「歌書」の書評を精力的に書いていた。みずからのリアリズムを求め、世代を超えたコミュニケーション力を持つ歌人でもあるはずである。(『ポトナム』2021年3月号所収)

 

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2021年3月 2日 (火)

「諜報研究会」は初めてかも、占領下の短歌雑誌の検閲、日本人検閲官をめぐって(2)

 山本さんの新著『検察官―発見されたGHQ名簿』(新潮社)は、新聞広告を見て、近くの書店に注文したら、発売は来月ですと言われ、入荷の知らせをもらったまま、取りに行けず、この研究会に参加する羽目になった。今は、手元に置いているので、それを踏まえて、研究会の様子をお伝えしたい。
 
今回の「秘密機関CCDの正体追究―日本人検閲官はどう利用されたか」と題されたレジメの冒頭には、つぎのように記されている。
 「検閲で動員されるのは英語リテラシーのあるインテリであった。彼らは飢餓からのがれるためにCCDに検閲官として雇用され、旧敵国のために自国民の秘密を暴く役割を演じた。発見された彼らのリストと葛藤の事例を紹介しながら、CCDのインテリジェンス工作の実態に迫る。」

 長い間、CCD民間検閲局で、検閲の実務にあたっていた、検閲官の実態は謎のままであった。私も、プランゲ文庫の文書の検閲者の名前が気になっていた。文書には、検閲者の姓名や姓がローマ字で記されていて、多くは日本人とみられる名前だったのである。いったいどういう人たちがどんなところで、検閲にあたっていたのだろうかが疑問ではあった。
 山本さんは、2013年に、国立国会図書館のCCD資料の中から名簿の一部を発見し、以降わかった名簿は、インテリジェンス研究所のデータベースに収められている。CCDの職員はピーク時には8700人にも達し、東京を中心とする東日本地区、大阪を中心とする関西地区、中国九州地区で、おおよそ2万人ちかくの検察官が働いていたと推測している。しかし、その職を担ったのは、当時、まず、英語を得意とする人たちであったことは当然で、日系二世はじめ、日本人の学生からエリートにまで及んだが、その実態は明らかになっていなかった。
 そのような検閲者となった人たちは、敗戦後日本の「民主化」のためとはいえ、GHQによる「検閲」という言論統制に加担したことへの後ろめたさと葛藤があったにちがいなく、口を閉ざし、あえて名乗り出る人たちもなかったなか、時を経て、断片的ながら、さまざまな形で語り始める人たちも出てきた。甲斐弦『GHQ検閲官』(葦書房 1995年)の出版は、検閲の体験者としての貴重な記録となった。そうした検閲者たちの証言を、山本さんは、無名、有名をとわず、丹念に探索し、検閲の実態を解明しているのが、冒頭に紹介した新著であった。例えば、梅崎春生の兄の梅崎光生、ハンセン病者の光岡良二、言語学者の河野六郎、歌人の岡野直七郎、小説家の鮎川哲也、ロシア文学者の工藤幸雄、のちの国会議員の楢崎弥之助、久保田早苗らについて検証する。岡野らのように、実業界、金融業界からも、かなり多くの人たちが動員され、東大、東京女子大、津田塾らの学生らも大量に動員され、その一部の人たちの証言もたどる。
 
今回の山本さんのレポートの前半は、検閲者名簿の「Kinoshita Junji」(以下キノシタ)に着目、あの「夕鶴」で有名な劇作家の木下順二ではないかの仮説のもとに、さまざまな文献や直接間接の証言を収集、分析の結果、キノシタは木下順二との確信を得る過程を、詳しく話された。まるで、ミステリーの謎解きのような感想さえ持った。
 
木下順二(1914~2006)は1939年東大文学部英文学科卒業後、大学院に進み、中野好夫の指導を受けていた。法政大学で時間講師を務めるが、敵性言語の授業は無くなり失業、敗戦後は明治大学で講師を務めていたが、山本安英のぶどうの会との演劇活動も開始している。
 
一方、キノシタは、氏名で検索すると1946年11月4日に登場するが、49年9月26日付で病気を理由に退職している。この間、ハガキや手紙郵便物の検閲を行う通信部の監督官を務め、1948年にCCD内部で実施した2回の英語の試験で好成績をおさめている。かつて未来社の編集者として、多くの木下順二の著作出版にかかわった松本昌次(1927~2019)の証言や養女木下とみ子の証言で、確信を得たという。
 
山本さんは、新著の中で、木下順二が英語力に秀でていたこと、敗戦後の演劇活動には資金が必要であったこと、その活動が活発化したころに、CCDを退職していること、木下の著作には、アメリカへの批判が極端に少ないことなども、いわば状況証拠的な事実もあげている。
 
レポートの後半は、郵便物の検閲が実際どのようになされていたか、東京中央郵便局を例に、詳しく話された。いわゆる重要人物のウォッチリストの郵便物のチェックはきびしく、限られた場所で秘密裏に行われていたという。実際どんな場所で検閲が行われたかについてもリストがあり、東京では、中央郵便局のほかに、電信局、電話局、内務省、市政会館、松竹倉庫、東京放送会館などが明らかになっている。大阪でも同様、大阪中央郵便局、電信局、電話局、大阪放送局、朝日新聞社などで行われていた。しかし、大阪に関しては、関係資料がほとんど残されておらず、焼却されたとされている。
 
内務省やNHK、朝日新聞社などが、場所を提供していたばかりでなく、人材や情報なども提供していたと思われるが、年史や社史にも一切、記録されていないことであった。

 以上が私のまとめとはいうものの、大いなる聞き漏らしもあるかもしれない。 
 また、報告後の質疑で、興味深かったのは、『木下順二の世界』の著書もある演劇史研究の井上理恵さんが「木下順二とKinoshita Junjiが同一人物とは信じがたい。木下は、出身からしても困窮していたとは考えにくいし、CCDにつとめていたとされる頃は、演劇活動や翻訳で忙しかったはずだ」と驚きを隠せなかったようで、今後も調べたい、と発言があったことだった。また、立教大学の武田珂代子さんが、占領期の通訳や検察官におけるキリスト教系人脈はあったのか、朝鮮のソウルでのGHQの検閲の実態、検閲官として、朝鮮人がいたのか、などの質問から意見が交わされた。

 私は、あまりにも基本的な疑問で、しそびれてしまったのだが、GHQの検閲の処分理由に「天皇賛美や天皇神格化」があげられる一方で、天皇制維持や象徴天皇制へと落着することとの整合性がいつも気になっており、アメリカの占領統治の便宜だけだったのかについて、司会の加藤哲郎さんにもお聞きしたかったのだが、気後れしてしまった。

 なお、岡野直七郎についてははじめて知ったので、調べてみたいと思った。1945年12月10日採用となっているから、かなり早い採用だったと思われる。

 

 

 

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