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2021年3月12日 (金)

「現代短歌の”最先端””最前線”とは」(3月3日)への論評がありました

  今日になって、齋藤寛さんのブログで、当ブログの以下の記事について書かれているのを知った。

現代短歌の”最先端””最前線”とは」(2021年3月3日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/03/post-794792.html

 斎藤さんの全文は以下をご覧いただければと思う。
 

「二項対立は良き思考法か?」(2021年3月10日)

https://open.mixi.jp/user/20556102/diary/1978630408

 

 斎藤さんは、上記の記事の前半では、つぎのように綴っている。

「それでつまりあなたは何を言いたいのか? と言いたくなるような文章だがそれは措いて、気になったのは「近年の、二項対立を嫌う『リベラル』な人々のファージーな物言いを見るような気もする」という一文である。これは谷川電話の「赤旗」紙上(2020年12月25日)の短歌時評についてのコメントなのだが、これまた何を言っているのかよくわからぬ一文だ。
しかしこの一文を裏返せばよくわかる物言いになる。つまり、内野さんは二項対立を良き思考法だと考えている、ということだ。
あんれま。積み重なる二項対立の思考群をいかに超克するか、ということがテーマとなって久しい。その日々は全く存在しなかったかの如くではないか。
で、なるほどと思うところもある。歌会始などをめぐる内野さんの文章[*]を読んでいると、内野さんはこの社会の成員を「われわれ」と「あいつら」に二分しているらしい、と感じるからだ」

 今回の私の記事の「近年の、二項対立を嫌う『リベラル』な人々のファージーな物言いを見るような気もする」の部分の背景として、歌会始をめぐる拙著から「この社会の成員を「われわれ」と「あいつら」に二分しているらしい」と感じとっていることが伺える。ただ、ブログ記事全体を「つまりあなたは何を言いたいのか?」と断じながら、さらに、その中の上記の一文だけを引用して、内野は「二項対立を良き思考法だと考えている」とも結論付けている点が、私には、残念に思われたのである。
 斎藤さんには、過去に、研究会のレポートや時評などで、短歌と天皇制に関する拙著を丁寧に読んでいただき、その欠陥を指摘され、批判もしていただいているだけに、「この社会の成員を「われわれ」と「あいつら」に二分しているらしい」という表現でくくられていることにも、齋藤さんらしからぬとの思いを抱いたのである。
 さらに、私は、これまで、「われわれ」という感覚でものを言ったり、まして、異なる考え方をする人を「あいつら」と隔てる意識をもって書いたりしてきたつもりはないだけに、それが伝わってないとしたら、どうしたらいいのだろうと困惑もし、反省もしなければならないと思っている。

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