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2021年4月29日 (木)

第4歌集『野にかかる橋』が出来上がりました ー元号の五つをもて語られる歴史の闇は問われぬままにー

 新型ウイルス、その変異ウイルスが蔓延するさなかですが、断捨離の途上、振り返ることも多く、拙いながら、歌集として残しておきたいと、まとめました。編集にあたって、多くの歌を落としましたが、きっぱり捨てることができず、歌数ばかり多くなってしまいました。自費出版の歌集の発送は、出版元に依頼するのが習いのようですが、読んでいただきたい方に、一筆添えて、ゆっくりとお送りしようと思っています。ながらみ書房さん(03-3234-2926)、ありがとうございました。

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表紙の写真は、ハンブルグのニコライ教会構内のモニュメント「試練」(2019年6月撮影)。ユダヤ人犠牲者追悼のため、2004年に建てられ、その礎石には、ルター派の神学者ディートリヒ・ボンヘッファーの言葉<真実は世界中の誰も変えることはできない。真実を求め、それを発見し、それを受け止めることはできる・・・>が刻まれている。彼自身も反ナチス運動のため、1945年4月9日に死刑に処さている。ナチス崩壊後の直前であった。裏表紙は、ベルリン郊外のグリューネバルト駅の「17番線ホーム」、追悼式の数日後に訪ねた(2014年10月撮影)。このホームから、ユダヤ人を乗せた列車は、毎日のように各地の強制収容所に送られていった。ホームのヘリには、年月日と人数と行き先の収容所名が示された銘板が埋め込まれ、続いている。いくつかの写真から選び、装幀してくださった伊崎忍さん、ありがとうございました

 

 

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2021年4月26日 (月)

断捨離のさなか(3)アチーブメントテストというのがあった

 文京区同心町にあった、その中学校へは、都電で通学していた。池袋始発の都電は大塚方面への16番と伝通院、春日町、八重洲口、数寄屋橋行きがあった17番の2路線で、17番は、どれに乗ってもよかった。日ノ出町、大塚坂下、護国寺、大塚窪町、文京区役所前をへての同心町であった。大塚坂下で、16番は大塚駅へと別れる。豊島区から文京区にかけての17番は、まさに文教地区を突き抜ける感じで、多くの通学生でいっぱいだった。豊島岡女子、豊山高校、大塚窪町で降りるのは、お茶の水女子大学、東京教育大学、跡見学園、貞静学園など幼稚園生から大学生まで、制服も様々で、にぎやかなことだった。文京区役所も隣にあった小石川高校も今は移転してしまっている。伝通院には淑徳学園があり、下車駅よりたった一つ先だったらしいが、行ったことがなかった。1969年には廃線になっている。
 生徒手帳が出てきたのである。入学したころは、付属小学校から上がってきた生徒と中学からの生徒の間では、なんとなくぎごちなかったが、それもだんだんと薄れていった。私が驚いたのは、多くの生徒が、音楽の時間の前後に、こともなげに、「エリーゼのために」や「乙女の祈り」を弾いていることだった。しかも男の子までが。小学校のとき、近くの小学校の先生のお宅でオルガンを習っていたこともあって、学校のピアノでバイエルの74番をみんなの前で弾いたことがあったのだが、なんだか急に恥ずかしくもなったのである。
 
そして、初めて出会った英語、英語の女の先生が英語で挨拶すると、みな上手に返しているのだ。なかには、いまでいう”帰国子女“の生徒もいて、発音からして違っていた。気後れして始まった英語。読み書きは何とかなっても、カンバセーションの折は、とてつもなく緊張したものだった。科目ごとに代わる授業は、新鮮で楽しかったが、なかには、毎回、授業に遅れる国語の教師がいた。授業の中身もおざなりのような気がしていたが、のちに、管理職に就いたらしい。また、別の国語の時間で、授業の初めに十問の漢字テストが行われた。そこで、必ずと言っていいほど、毎回、満点のMさんがいて、”漢字博士“とでもいうのだろうか、「あこがれ」の人でもあった。彼女は、いまどうしているのかな。また、ベテランの先生が多い中で、非常勤の大学院生の授業もあって、まじめで、熱心なのが伝わってきた。 社会の日本史のA先生の、立て板に水の「ものがたり」風の授業は嫌いではなかったが、歴史は物語ではないということは、のちにイヤというほど知らされるが、歴史への関心の入り口ではあるのかもしれない。
 
数学は、中学校までは、嫌いではなかったが、K先生、Y先生は、ベテラン・若手の違いはあったが、その教え方が対照的だった。K先生は、口数が少なく、重くじっくり考えさせ、Y先生は、冗談も多く、親しみやすく、ヒントも多くくれたように思う。
 当時の高校進学に際しては、アチーブメントテストといわれ、国・英・数・理・社のほかに体育・図工・音楽・家庭科の筆記試験があった。学校の期末試験や模擬試験などでは、私の場合、体育など4科目の実技はともかく、点を稼げる科目であったことは確かだった。とくに家庭科は、多岐にわたる、雑学ぽいところもあり、野次馬根性からか、好きというか、楽しかった。実技の「裁縫」で、浴衣やブラウスまで苦労して完成させたことは、懐かしい思い出ではある。いま、家事が得意かと言われれば、手際がいいとはいえない暮らし方に甘んじている昨今ではある。
 
部活では、当初「美術部」に入っていたが、名画の模写が続いていたので、こらえ性のない私は、早々とやめてしまった。当時、昼休みになると毎日のようにフォークダンスの輪ができていたが、私にはどうもなじめなかった。それでも、体は動かしたかったのだろう、球技は苦手だったので、一時期「ダンス・徒手体操部」に入って、マット運動や飛び箱、組体操の真似事のようなことを続けていたことがある。腰痛に悩む昨今、いまから思えば夢のようでもある。

(参考)小中高時代の遠足や旅行については、以下の記事で触れています。
昭和の旅行私史(1)遠足はどこへ行ったか覚えていますか
(2011年2月14日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/02/post-6bc8.html

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レッドロビンの花が咲いた! 生け垣をヒバからカナメモチに替えて20年くらいにはなると思うが、レッドロビンが花をつけるのを初めて知った。たしかに、この花は、見たことがあったが、毎年咲いていたとも思えないし、雑草の花くらいに思っていた。今年の咲き方は 、その数からしていつもとは違っていたので、枝を探ってみると、なんとレッドロビンの花だったのである。ネットで調べてみると、剪定をしていると花はつきにくいという説明だった。

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2021年4月24日 (土)

断捨離のさなか(2)小学校時代の絵日記

 敗戦前後の疎開時は別にして、社会人になってから10年ほどで生家を出たのが初めての引っ越しで、それから4回目の当地である。それにもめげず持ち歩いていたことになる品々、資料である。今回、あらためて読み直してみたりすると、小学校時代の家族との関係や遊び友だちを思い起こし、同時に教育環境、時代背景も見えてきて、興味深いものがあった。

 

1)小学校3年の夏休みの絵日記~畑と豊島園

 7月21日から8月16日まで、8日間の日記が、半切の幅の巻物状に書かれているが、紙質が悪く保存もよくなかったのだろう、あちこち破れそうなので、障子紙で台紙を付けた。何年かの記述は見当たらないが、月日と曜日から1948年、三年の夏休みと分かった。我が家の隣の病院の焼け跡がまだ空き地で、その一部を我が家の畑にしていた頃である。戦前は、キリスト系の病院があった土地で、戦後は小さな教会が建つまでのわずかな間あき地であった。私の記憶では、家に近いところでは、キュウリやナス、小松菜のような葉物、トマト、エンドウなどを育てていたし、ダリヤや松葉ボタンも咲いていた。そして、空き地の少し広いやわらかい土の畑では、サツマイモやジャガイモも掘った記憶がある。その土地は、教会も移転し、再び空き地になって、しばらく町内会の盆踊りや野外映画会の会場になったこともあったが、今は小さなビルが建て込んでいる。 

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「7月24日土 くもり

うちのはたけからナスをとってマッチのぼうをさしてみたらぶたとぞうのようなものが(で)きました。これはおもしろいと思って写生をしました。」後半には、きのうのかみなりが、「ピカピカ、ゴロゴロものすごい光と音でみみをふさいだりうつぶせになったり、どうしていいのかわからくなりました。」との文がある。( )脱字か。

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「7月29日木 はれ
きょうはおにいさんとはたけをしました。にいさんがくさをはこんでおくれといいました。すこしやってからあついのでかをあらいにいきました。おにいさんが手ぬぐいをもってきてたけのさきにかけて、そこへわたくしのぼうしをかけてみるとちょうどかかしのようになりました。」

14歳違いの長兄を、普段は「にいちゃん」と呼んでいたが、この日記では、少しよそいきに「おにいさん」「にいさん」と書いている。絵を見ると、トウモロコシのようにも見えるものも植えられているが、何だったのだろう。草取りには苦労していたようだ。(太字ママ)

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「八月九日月 はれ
きょうはおにいさんとじろうちゃんとおべんとうをもってとしまえんへいきました。いったらよしえちゃんといきいました。ぶらんこをのってからプールにはいりました。おにいさんにもってもらっておよぎました。おにいさんはふかいほうにいきました。こんどじろうちゃんにもってもらっておよぎました。じろうちゃんにもぐ(ら)されてしまいました。」とある。「じろうちゃん」とは、7歳違いの次兄で、中学生だったのではないか。後半では、二人の兄が深い方で泳ぎの「きょうそうをしたらどちらもおなじでした」とあり、三人の兄妹の仲良しぶりがうかがえる。というより、池袋で育った私たちには、豊島園といえば、いまでいうデイズニーランドのような場所であって、私の面倒を見ながら、兄たちも結構楽しんだのではなかったかと思う。両親は、家業の薬屋で、休業日などない、一年中働きづめの時代で、長男を付き添いに、夏休みに一回くらいと、送り出してくれたのだと思う。この絵日記の八日分の中の三日分が、「おままごと」「人形遊び」であり、一日が「かいせん(海戦?)」遊びで、「すいらいかんちょう(水雷艦長)」なら覚えがあるのだが、はっきりしない。どうも四人が二手に分かれての鬼ごっこのようでもあり、1回目は負けたが、2回目は、「ふたりともわたしがとりこにしました」と自慢げに書いている。(太字ママ、脱字)

2)小学校5年生の理科ノート 
・ビタミンを含むたべものー不足するとかかる病気/
食べ物の消化時間の線グラフ
・動物のマラソンきょうそう(1時間)、生物はどのように生きているか(かえるめだかの実験、暖流と寒流に住む魚、葉のはたらき、根のはたらき・・・)
・風はどのように吹くか・音はどのように伝わるか・光はどのように進むか
・機械や道具を使うとどんなに便利か(てこ、かっ車、ポンプ、電池、電話、じしゃく)
最後の方に「なぜ直列の方が光が強いのか」の題の、次のような頁があった。どの頁にも、
様々な実験の様子を一生懸命描いているのが伺われるが、その実験の思い出はほとんどない。かえるやめだかを空気と水の量をかえていれたビンで、どちらが先に弱るかなども書かれているが、そんことをした覚えがない。教科書や先生の黒板の絵を写しでもしたのだろうか。小学校のクラス会は、高齢化のため沙汰ヤミになっているが、友達や先生にお聞きしてみたい。
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3)小学校6年生の国語ノート
 6年3組とある国語のノート、多くは漢字書き取りで頁はうずまっているが、1頁目が「赤十字の旗」とある。どういうわけか、日本国憲法の前文の書き写しがなされているところがある。国語の教科書にあったのか、先生の指導か、自習だったのか、不明である。裏表紙に、当時の時間割があった。二コマが単位で、国語・算数・社会が三回、理科・体育が2回、音楽・家庭科1回となっている。いまの感覚でいうと、理科が2回、少なくなかったのかな。ローマ字が短時間ながら2回、習字が1回となっている。ローマ字というのは4年生からあった。アルファベットに慣れるという意味はあったと思うが、比重が高すぎたように思う。当時は、GHQの意向でもあったのだが、ローマ字論者は明治時代からいたということは後から知って驚いたりもした。現在は、小学校から英語の学習があるが、逆に、国語の学習時間が押されてはいないか不安ではある。なお、私たちの世代には、「道徳」という科目がなかったことだけはありがたいことだったと思っている。

 なお、国語のノートの最終ページに、妙な問答が書かれていた。
・講和会議のてい結に対する感想 
日本もこの間の講和会議によって世界のな(か)まいりなった。私も平和をまもらなければならない。そして、四Hクラブのようなもので世界平和の第一歩をふみださなければならないと思います。
・なぜこの学校を選んだか
 まず近くにいい先生、いい生徒がいて、それで女の学校ですからえらびました。

 これはどうも、中学校”お受験”の面接対応だったようなのだ。たしかに、私は、池袋に近い私立の女子大学の付属中学校を受験して、不合格になっている。両親の面接で、「お子さんが腕時計を欲しいといったら、どうなさいますか」と尋ねられたらしい。父親が「友達が持っているようだったら買い与えるつもりだ」と答えたのが、不合格の要因ではないかと、母親は私を慰めてくれたのを思い出す。その後、受験した国立大学付属中学校の試験には合格、それが定員の2倍だったらしく、後は抽選で、運よく入学できたのだが、そこは、男女共学だった。もう一つの選択肢として公立中学への進学があったのだが、他の二つの道を進んでいたら、どんな中学生にになっていたか、などと想像してみた。”お受験”と今でこそいうが、当時、もちろん塾もなかった。なかには家庭教師をつけて、私学に進んだりする小学生もいたようだ。我が家ではそんな余裕はなかった。ただ、大正時代、小学校の教師だった母親の方が、熱心だったかもしれない。最後の頁の想定問答らしきものは、当時の教育現場や世論での「講和条約」への対応がわかるような気がした。女の学校だから選んだというのも、いまでは笑ってしまうところである。

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断捨離のさなか(1)何を基準に捨てていますか

 二・三年前から始めていた、本や資料の整理なのだが、さっぱり片付かない。新型ウイルス蔓延のさなか、断捨離に専念できるかと思ったが、それもうまくいかない。引っ張り出すものに見入ってしまい、先に進まない。個人的にどうしても手元に残しておきたくて、捨てられないものが意外に多い。思い出のよすがに?残しておきたいものはスキャンしてパソコンに取り込めるものは取り込むんでいるのだが、よくもこんなものまで残しておいたとあきれる。「過去を捨てられない」「過去を引きずっている」自分とそろそろ決別しなければと思う。いったい何から手を付けてたらいいのだろう。

今のところの私の処理基準?は
順不同、思いつくままに、

①いまは、関心が遠のいているテーマの本で、ヤケがひどかったり、崩れそうだったりするものはよけて、なるべく古書店へ
②地域でかかわったミニコミ誌は、巻数がそろっていれば、立教大学の共生社会研究センターへ寄贈(続刊中のものは、逐次たまったところで送付している)
③歌集や短歌関係の雑誌は、未所蔵の図書や欠号の部分、欠号の多い時期のものを、了解を得て現代詩歌文学館や近代文学館へ寄贈、その他は適宜処分
④2番目の職場の公務員時代の役所側の資料はほとんど処分。労働組合関係資料は、比較的揃っている職場ごとの新聞や通信、サークル誌など、いま組合で整理にあたっているOBの方を通して、組合へ
⑤美術館や美術展のカタログ、文学館・資料館・博物館の展示カタログも大部なものは名残惜しいが古書店へ。演劇・映画のプログラム、チラシなど散逸、残っているものはとりあえずファイルへ
⑥美術館、博物館、観光地などで求めた絵葉書は、官製はがき代わりに使用中(好きな画家のは手離しがたく使い切れいかもしれない)
⑦手紙やはがき、年賀状、名刺など、適宜処分しながら、気になるものはホルダーへ
⑧内外の旅行時の資料やパンフレットは適宜処分

現在手元に残っている資料
①小学校からの高校までの教科書、ノート、絵などの作品で残っているもの(教科書以外はほとんど処分済)

②日記帳、手帳(この20年は三年手帳を使用)数十冊
③アルバム、写真ファイル数十冊
④自著及び自著収録の図書や雑誌
⑤自著やブログ執筆時に使用した図書以外の資料やコピー資料
⑥かかわった集会や研究会の報告資料ほか関係資料。参加した集会や研究会の資料
⑦大学時代のサークル誌や学科有志の会報、学園祭プログラムなど

 

 

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2021年4月20日 (火)

自治会、住民の高齢化とコロナ禍の中で、どうなっていくのか

 新年度、自治会の班長の番が回ってきた。私たちの自治会は、かつての新興住宅地、三つの丁目が併さっての650世帯、35班ほどがある。私たちの班は、17世帯。かつては20数世帯だったのが、ぽつぽつと自治会自体を脱ける世帯も現れた。そして、高齢化に伴い、さまざまな事情で、班長は引き受けられないという世帯が数軒あって、回ってくる順番が少しづつ早くなっているのは確かである。 
 三月の末、まず、新年度の班長会があり、10人の役員を選んだ。班長は何とか引き受けられるが、役員はどうしても引き受けられないという世帯と過去に役員をしている世帯はパスできるというルールがある。我が家は、十年前に、班長から役員にもなっているし、今世紀?初め前後に、夫婦のどちらかが会長や役員をしていた時期があったので、もちろんパスをした。私たちの丁目には14班あって、世帯も多いので、5人の役員を出すことになっていた。役員は引き受けられないという理由をめぐってはひと悶着あったが、先のルールで半分の7世帯が役員候補から外れ、7世帯から5人の役員を出すという厳しいことになった。あみだくじで5人が決まり、ほかの丁目も同じように決まったらしい。あわせて10人、住民 の世代交代もあったのだろうか、比較的若い世代の方、女性も多く、一安心であった。 
 その後、役員の担当も決まり、役員選出の班は、新たな班長も決まり、最初の班長会が週末に開かれた。班長35人と役員10人が集まるのだから、三自治会共用の狭い自治会館では、「密」ということで、前回の役員決めの班長会と同様、近くのコミュニティセンターの大会議室での開催であった。机も並べず、椅子だけでも、かなりの「密」となった。昨年度は、流会となった班長会もあったらしいが、丁目ごとに3回に分けて自治会館で開いていた。役員は3回、同じことを繰り返さなければならず、かなりの負担であったろう。さらに、昨年度は総会も書面だけの評決だったし、防災訓練、餅つき大会、福祉まつりなどが中止だったし、側溝清掃も延期になった。広域で行われる地元の祭りが中止になったのは、各自治会の負担が大きかっただけに、かえってよかったのではないか。今年も中止ということなので、私個人としては、自治会の祭りへの自動的な参加は、ぜひ見直してほしいと思っているところである。

 今回、これからの班長会の会場をどこにするかが議題となった。3回に分けてとなると役員負担は大きい。コミセンにすると、歩いたら20分以上はかかるので、やや遠いのが難点だが、一堂に会する班長会となり、駐車場も広いというメリットもある。車のない我が家では、往復400円のモノレールを利用しなければならない。雨さえ降っていなければ、自転車 ということも考えられるが、夜間となると、少し不安でもある。自治会費3500円よりかかってしまう。自治会活動はボランティアには違いないが、思いはやや複雑。車の人はガソリン代がかかるとも言っていたが、これももとをただせば、新型ウイルスの感染を抑え込めなかったためだろう。 
 また、近く の公園に二つ目の自治会館が立つ計画があるのだが、なかなか進まない。開発業者の協力も得られず、当初は、用地難であったが、三自治会による建設委員会と市役所公園緑地課との交渉でようやくたどり着いたのが公園内の建設だった。ところが、公園と接する自治会に反対する会員がいるということで市役所は及び腰になったらしい。市役所は、自治会の法人化と引き換えに、公園内建設を認めたフシもある。私は、自治会の会員として赤ちゃんにまで、議決権があるとする法人化が自治会本来の姿なのか、弱体化、形骸化につながる のではないかと考えているので、なおさら心配でもある。今年度に何とかしないと、市からの建設費補助が出ないことになってしまい、建設が見送りになったら 、元も子もなくなってしまうのではないかと。近い公園に新しい自治会館が欲しいという願いが、早く実現するよう、班長としてできることがあれば、努力もしたい。 
 
自治会の様子も、いつもよりはわかる、せっかくの機会なので、自治会のレポートも続けたいと思っている。なにせ、私のこのブログで、常にアクセス数が多いのは、記事としてはかなり古いのだが、自治会の社会福祉協議会、日本赤十字社などとの関係、とくに寄付、募金の可否に触れた記事、開発と環境、街づくりに関する記事なのである。自治会の、古くて新しい問題でもあるのだと思う。

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今年もウラシマソウが健在である。写真下の、紫の可憐な花はなんだろう、図鑑と首っ引きで調べてみたが、エンゴサクのなかま?か、わからなかった

 

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2021年4月18日 (日)

なんの風の吹きましか、料理に目ざめた!

 若いときは、自炊の生活も長かったはずなのだが、以降、食事や料理にはあまり関心を示さなかった連れ合いが、突然、料理に目覚めたのである。昨年の夏、日テレの3分クッキングを偶然目にして、「これおいしそう、作れるかな」で始まった。親子クッキングという特集の一つ、双子の女の子が作る 二種類のパスタが最初の「作品」だった。食材の買い物から始まって、先生のレシピ通りの手順で、量も時間も温度も・・・正確を期しての調理だから、だいぶ時間がかかる。私だったら、材料も冷蔵庫にあるもので、できるだけ間に合わせるだろうし、調味料も適当にというのが流儀?だから、勝手がだいぶ違う。そばで見ていると、口も手も出して嫌われる。それでも、これまで私が使ったこともなかった調味料を知ることもあるし、食材のグラムの見当もつくようになった。夫は、食する前に、ツイッター用に写真を撮るものだから、盛り付けの際の器も気にするようなった。といっても、格別の名品があるわけでもないし、数も限られるから、とっかえひっかえての登場となる。ときたま、添えるコーヒーカップやグラスには、旅の思い出の品が陽の目を見ることになる。
 番組の録画は、消去したものもあるが、とうに100本を超える。一過性かなと思いきや、急ぎの仕事がない限り、週一くらいで、当分は続きそうである。私も、レシピ通りの、なるほど、おいしくいただける料理が楽しみになった。たまに、娘や姉たちにも送って、その食レポを期待しているようでもある。
 食への関心は、老後の自立の第一歩。私は助かるし、楽しみでもある。一方、断捨離、身辺の本や資料も何とか片付けて欲しいと思う。私自身、この2・3年、本や雑誌の整理に取り掛かってもいっこうにすっきりしない。自戒を込めてのことなのだが~。

最近の二品、おいしゅうございました。

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フランス風のオープンサンド。もちろんフランスパンの薄切りにオリーブ油をぬって軽く焼いた後、トマトとチーズのレモン汁和えをのせたものと、アボガドと茹でタマゴのマヨネーズ和えをのせたもの、の二種。リンゴとバナナのヨーグルト和えとコーヒー。コーヒーカップは、ワルシャワの空港の土産店であわてて買ったものだった。

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ささみと菜の花の春巻き15本と手前のソラマメとプロセスチーズの三角春巻き30個を作りました。三角のは、一枚の皮を半分に切って、具をのせ折りたたんだもの、小麦粉を溶いたノリをしっかりつけないときれいに仕上がらない。娘宛てほか3か所に送った。

 

 

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2021年4月11日 (日)

沖縄「一中健児の塔」を「顕彰碑」とした歴史教科書が検定を通過?!

 4月3日の『東京新聞』によれば、沖縄戦に動員された沖縄県立一中の学徒隊の慰霊碑が、「顕彰碑」と紹介され、戦争を美化するような表記がある教科書が、文科省の検定をパスしていたというのだ。2022年度から使用される高校の新しい科目「歴史総合」の教科書(明成社)は、とくに問題がないと検定をパスしていたが、報道機関や元学徒らの抗議、訂正の要請を受け、出版元は訂正の意向を示しているという。

明成社:日本会議メンバーの著作を多く出版。2002年の検定にパスした地理や日本史の高校教科書での「竹島は日本の領土で、韓国が不法占拠」との記述に対して韓国政府から抗議を受けた。私の手元には『天皇陛下と沖縄』(日本会議事業センター編 明成社 2012年)がある。

 この記事に接して思い出したことがある。

 私が初めて那覇空港に降り立ったのは、2014年11月、ちょうど沖縄県知事選挙・那覇市長選挙戦が終盤に差し掛かっていたときだった。ゆいレールへの陸橋を渡るときには、すぐ下で「オール沖縄で<建白書>実現を」の横断幕をつけた宣伝カーからオナガ支持を訴えていたし、どこからか「オナガ夫人が城間市長候補の応援に駆けつけました」との声も風に乗って届くのだった。翌日、最初に向かったのが首里城だった。ゆいレールの終点首里駅の周辺には「共産党支配のオール沖縄!!」という明らかな選挙妨害のノボリが、あちこちの電柱に括りつけられ、選挙戦の激しさを物語っていた。

 首里城の長くて、高い城壁は壮観だった。あの守礼門、そして、中庭を囲む絢爛たる正殿・南殿・北殿に圧倒されたことを思い出す。2019年10月、なんとそのほとんどが炎上してしまったというニュースには驚かされたのだった。

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  その首里城と玉陵を見学した後、立ち寄ったのが、現在の首里高校とは道を隔てて、少し入ったところの首里高校同窓会館に接して建てられた「一中健児之塔」1950年4月建立)であった。

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 同窓会館の2階には「一中学徒隊資料展示室」(2005年12月開設)がある。その展示によれば、1945年、沖縄県立第一中学校では3月27日卒業式が行われた後、3~5年生を中心に鉄血勤皇隊に動員された者約144名、2年生を中心に通信隊に動員された者110名、4月19日養秀尞が艦砲弾で全焼、軍と共に南部へ撤退し、犠牲者は続出、289名を数える、という。

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  沖縄戦における学徒隊の動員は、兵力の不足を補うため、すべての中学校、高等女学校の生徒を対象とし、男子が14歳から19歳、女子は15歳から19歳の生徒で編成された。一中の生徒たちは、第32軍司令部の直轄部隊の各部に配属されていた。展示室には、爪や遺髪などの遺品、遺書、遺影、追悼集のほか、焼失前の校舎や教室の写真、教科書なども並び、学び続けたかったであろう学園生活の一端も伝えていた。

 私にとって、最も印象深かったのは、ずらりと並んだ、生徒たちの遺影であった。どれもみんな幼く、はにかんだような表情を見せる少年たちは、一見、やさしくも思えたのだった。わずかに残された写真から、拡大し、トリミングした顔写真が並ぶ。ぼやけているものも多いし、なかには、幼少時の写真が掲げられているものもある。見学を終えて、展示室を出ようと、何気なく振りかえったとき、その少年たちの視線は、いっせいに私に向けられ、悲しくも、鋭く、懸命に訴えるようにも思えたのだった。犠牲者の家族も全員亡くなって、写真一枚も見出せず、遺影がないままの生徒もいるという。

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上記の写真は。いずれも2014年11月11日、筆者撮影。展示室内の写真撮影は不可であった
下記の写真は、『養秀ニュース』56号(2016年10月)から拝借。家族にあてた遺書。教官が生徒らに遺書を書かせ、二つの壺に収められたものが地中から発見され、修復されたものの一部が展示されている

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 なお、沖縄戦における学徒隊の全貌は、沖縄県子ども生活福祉部保護・援護課の下記のホームページに詳しいです。下記の画像はその一部です。拡大してみてください。

file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/XLUAEPA6/0106220gakuto21.pdfImg108

 

 

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2021年4月 3日 (土)

なんとも鬱陶しいマイナンバー、私は使わない

 銀行や保険会社から、マイナンバーの提供依頼の文書が何度でも届く。そのたびに無視しているが、カードも持たないし、提供する気もないので、なんと、鬱陶しいことかと、閉口している。

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総務省のHPより、ここまでやるの?
 

  そもそも、政府は、マイナンバー制度は何のために、進めようとしているのか、私にはわからない。マイナンバー制度は何のためにと、このブログでも何度か触れているが、現在、大きな曲がり角に来ていると、書き始めたのだが、なかなかまとまらないうちに、きのう4月2日、マイナンバー改正法案を含むデジタル関連法案63本が一括で衆議院内閣委員会において可決されてしまった。その審議時間は27時間に過ぎなかったという(『東京新聞』4月3日)。
 
一括とは、「束ね法案」ともいい、政府提案の法案の審議時間をなるべく短縮し、反対意見を極力スルーするための審議・議決方式であって、安保関連法案、働き方改革関連法案に続く手法である。その上、これまでもあったかもしれないのだが、今国会で、法案の条文のミス、たんなる字句に限らない、内容的にも整合性を欠く条文がさまざまな法案で発見されているというのだから、お粗末きわまりない。「束ね法案」は、政府にとっては、質疑応答の過程で、その本質や不備が質されるのが避けられるという「手口」であって、国民にとっては、国会軽視の何物でもないだろう。

 マイナンバー制度は、個人情報の一元管理により行政の効率化を図るというのが主旨であったが、笛吹けど踊らず、国民は、個人情報が束ねられることへの不安、暮らしの上でのメリットがないまま、なかなか普及していないのが現状である。

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NHK「政治マガジン」より

 なお、今日4月3日のjijicom(時事通信社)の記事によれば、3月年度末時点での普及率は、急激に増加して、28.2%にまで上昇したという。さらに、今日の7時のNHKニュースでは、急増して36%に達したとの報道もあった。政府としては、2022年度末(2023年3月)までに、国民すべてにマイナンバーカードを普及させたいと、武田良太総務相が語っていたが、あの武田大臣が胸を張ったところで、説得力はない。さらに、最高額5000円のマイナポイントで、マイナンバーカードの普及を図ろうとするも、意外に伸びず、この3月で申請を打ち切るはずだったが、1か月延長、その付与も9月まで延長するなど、躍起になっている。

 マイナンバーカードには、メリットがないばかりか、さまざまな分野でのマイナンバーの「活用」は、システム上の不具合と称してとん挫しているではないか。昨年、国民一人当たり10万円の「特別定額給付金」は、マイナンバーを利用したばかりに、かえって支給が遅れるという事態が生じたし、この3月には、一部の医療機関で保険証代わりにマイナンバーカードを使用できるとしていたが、これも不具合があって、10月までにはと延長となっている。10月からといっても、使えるのは、全国で24都道府県、54医療機関に過ぎないというから、文字通り、試験運用にすぎないだろう。運転免許証代わりという計画は、当初2026年度中にはと言っていたのが、2024年度末に前倒しをするとの意向が昨年末に示されたが、どうなることか。

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厚生労働省のHPでは、「2021年3月(予定)から、マイナンバーカードが健康保険証 として利用できるようになります!」となっていて、訂正されていない

 一時、マイナンバーと銀行口座との紐付けを義務化するという話も、マイナンバーカードが普及せず、断念したのだったが、今回の「束ね法案」の中の「預貯金者の意思に基づく個人番号の利用による預貯金口座の管理等に関する法律案」では、金融機関が預貯金者に紐づけの意思を確認することが義務付けられるが、紐づけ自体は預貯金者の任意となっている。紐づけの布石にならなければよいが。さらに、これまでは、各自治体の個人情報保護条例に拠っていた部分が一元化・標準化されて、自治体の自主性や独自性が損なわれる危険性も伴うことになる。
 また、個人情報の目的外使用は「相当の理由」により拡大するおそれやマイナンバー事業の民間委託、再委託など業者との不明確な契約による漏洩の危険をはらんでいる。

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「東京新聞」4月3日より

 私たちはどうしたらいいのか。残る国会審議に時間をかけて、法案の不備を質し、廃案にしてほしい。 ナンバー自体は、すでに、いま、否応なくつけられてしまっているのだから、極力このナンバーを他に伝えない、カードはつくらないことに尽きるのではないか。

 

 

 

 

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