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2021年5月24日 (月)

ミナミノシマナノダイオーワー~♫~伊藤アキラさん、さようなら

 「南の島の大王は その名も偉大な ハメハメハ ロマンティックな王様で~~ハメハメハ ハメハメハ ハメハメハメハ」は、私の子育ての時代で、忘れることのできない歌だった。保育園の送り迎えの乳母車で、保育園のすぐ近くに転居した後も、行き帰りに娘とよく歌った歌だ。
 私の新しい歌集に、当時のことを思い出して、2017年に詠んだ一首がある。

・保育所より布団持ち帰る週末を幼と歌うハメハメハーの王
「晒の襁褓」『野にかかる橋』

 「南の島のハメハメハ大王」は伊藤アキラ作詩、森田公一作曲である。調べてみると、NHK「みんなのうた」で初めて放映されたのが1976年4月だった。その年の6月には、「山口さんちのツトム君」(みなみらんぼう作詞作曲)と一緒にレコード化されている。「ハメハメハ」の方は、1970年代後半には何度か放映されていたし、保育園でも歌われていたのだろう。まさに、娘の保育園時代と重なっていた。作詞家の名は、聞くには聞いていたのだろうが、そのときは意識していなかった。何がきっかけだったのか忘れたのだが、伊藤アキラさんが、大学同期の、あの伊藤さんと知ったのは、ずいぶんと後のことだった。当時、私の通っていた大学の文学部に国文や英文と並んで、経済学、社会学、法律政治学専攻というコースがあって、それぞれ一学年15人程度のコースであった。私は法律政治学専攻だったが、伊藤さんは社会学専攻だったのである。教養課程の科目ではもちろんだが、語学の授業などでは、顔を合わせることは多かったと思うが、一度もことばを交わしたことはなかった。いつも、穏やかで、にこやかな少年のような面影が印象に残っている。60年安保のさなかであったが、ウィキペディアによれば、在学当時から三木鶏郎に弟子入りしていたらしい。
 追悼の記事によれば、その作品の数はおびただしく、有名なCMソングも歌謡曲も数多く手掛けていて、歌を聞いたら思い出すことも多いのだろう。そういえば「かもめが翔んだ日」(1978年)の渡辺真知子の歌声だけは私も覚えている。娘の保育園、小学校低学年時代、よく一緒に見たテレビといえば、「まんが日本昔ばなし」(1975年1月~1994年3月)、「一休さん」(1975年10月~1982年6月)、「Drスランプアラレちゃん」(1981年4月~1986年2月)など思い出す。また、短い期間だったらしいが「魔法少女ララベル」(1980年2月~1981年2月)もよく覚えている。その挿入歌も伊藤アキラさんの作詩だったらしい。いずれも、夕方の、7時前後からのゴールデンタイムであったのだから、その曜日は、夜のNHKニュースは聞いていないことになり、現在のように、まるで国策報道じゃないかと腹を立てつつ見ていることもなかったのだろう。現在、この時間帯のどの局の番組を見ても、純然たるアニメは、なくなってしまっているのではないか。いまは、週末の朝9時前後に、アニメ番組が集中しているようにも思える。

 5月20日、NHK放送研究所から「国民生活時間調査2020」が発表され、10代20代の半分近くがほぼテレビ見ていないという結果が発表された。調査の対象は10歳からなので、幼児の生活時間はわからないが、どうなっているのだろう。『放送研究と調査』最新号5月号には、阿曽田悦子「調査研究ノート・幼児のコンテンツ視聴の実態を把握する新たな試み~2020年6月WEB幼児視聴率調査から~」という記事もあるらしい。
 
 いまは離れて住む娘の部屋に残された教科書類の中に、通った学校の副読本だったのだろうか、『新版みんなのうた』(千葉県音楽教育研究会編 光文書院)、『新訂中学生の愛称歌集』(千葉県音楽研究会編 教育芸術社)を見つけたが、いずれにも「南の島のハメハメハ大王」は収録されていた。

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右が千葉県の小学校の副読本だった

 私の子育て時代に、子どもとともに耳にしていた伊藤アキラさんの歌、なつかしく思い出だしながら、ご冥福を祈るばかりです。

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2021年5月18日 (火)

ナチスを批判、ビラをまいて処刑されたゾフィー・ショル~生誕100年

 5月14日、朝日新聞の「世界発 2021/<白バラ>のゾフィー 再び光」(野村淳)の欄で、久しぶりにゾフィー・ショルの名に出会った。

(参照)朝日デジタル「反ナチス「白バラ」の若き女性 ブームに陰る等身大の姿」ダッハウ〈ドイツ南部〉=野島淳2021年5月16日 10時15分

 第二次大戦中、ナチス批判や反戦を非暴力で訴えていた「白バラ」の一員で、1943年2月に処刑されたゾフィーは1921年生まれ、5月9日は、生誕100年にあたる。それを機に、ドイツでは、ゾフィー・ショルが再評価されて、ブームのようになっているという。ところが、右翼からも左翼からも英雄視されはじめたことに、かつてのナチス政権下の恐怖と現代の民主的な社会での政府への抗議とは比較にならず、神格化することで、彼女の本当の姿が認識できなくなるのではないか、との危惧を覚える人たちもいることを伝えていた。 

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ドイツ郵便が発売したゾフィー・ショル生誕100年記念切手、上記朝日デジタル記事より

  2021年5月9日、ミュンヘン郊外のダッハウ強制収容所跡に建つ教会で記念の催しが開かれ、牧師は「彼女が自信と他者を幸せにした理由や方法について考えたい」と語り、14歳の少女は「ゾフィーは命を危険にさらしても不正に立ち向かい、ナチスの犯罪を公にする勇気を持っていた。私たちはいま、自分の意見を公然と言える国に住んでいる。白バラの目標は現実のものになった」と演説したという。

 私が、最初にゾフィー・ショルの名を聞いたのは、地域のミニコミ誌を発行していた頃、友人の映画評論家、菅沼正子さんが寄稿された「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最後の日々」の映画評であった。 

(参照)「菅沼正子の映画招待席NO.16」『すてきなあなたへ』44号(2006年1月20日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/sutekinaanatano44.doc

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 長い間、見たいと思いながらも機会がなかったが、思いがけず、知人から、その映画のDVDをお借りすることができた。2013年、2度目の出会いであった。そのときの感想は、このブログにもしたためている。 

(参照)猛暑の夜だが、映画「白バラの祈り」を見る(2013年7月15日) 
「白バラの祈り ソフィー・ショル、最後の日々」(ドイツ 2005年)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/07/post-6185.html

 映画は、1943年2月、ヒットラー政権に対して、非暴力で抵抗する組織、ミュンヘン大学の「白バラ」に、兄の医学生とともに参加していたゾフィー・ショルが、ミュンヘン大学構内でのビラまきで逮捕され、処刑されるまでの5日間を実話に基づいて描かれたドラマである。キリスト教の精神と倫理観に裏付けられた学生たちがやむに已まれず、抵抗を呼びかけるべくパンフレットを街角やキャンパスに置いて回るというささやかな行動をもゲシュタポは許さず、執拗な取り調べが続き、5日後の1943年2月22日には、形式的な裁判によって即日死刑に処せられるという過酷な運命をたどるストーリーであった。
 ゾフィーの姉による『白バラは散らず』(内垣啓一訳 未来社 1964年)は東西ドイツの時代にも、よく読まれたという。C・ペトリによる『白バラ抵抗運動の記録』(関楠生訳 未来社 1971年)によれば、「白バラ」の学生たちが配布したパンフレットの末尾には、必ず「できる限り多くの複写を、広く配布を」の文字があったという。現代でいえば、ネット上の「拡散」の願いではあるのだけれど、命をかけたビラ配りであったことをつくづく思う。 

 そして、三度目に出会ったのは、映画を見た翌年、2014年10月のドイツ旅行の際、立ち寄ったベルリンのドイツ抵抗運動博物館の展示だった。この博物館は、かつての陸軍最高司令部で、その中庭は、1944年、ヒトラー暗殺計画に関与した軍人たちが銃殺されたという惨劇の場でもあり、現在は、その追悼碑と中央には男性立像のモニュメントがある。博物館の展示は18室に分かれ、さまざまな抵抗運動への弾圧事件や犠牲となった人たちをテーマにまとめられていて、第7室は、たった一人でヒトラー暗殺を試み、未遂で終わったゲオルク・エルザーがテーマであったし、「白バラ」関係は第15室だったのである。

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ベルリン、ドイツ抵抗運動博物館、第15室の展示、下段の右手前がゾフィー・ショル、隣が兄ハンス・ショル

 2018年5月、ドイツ旅行の際、ミュンヘンに4泊して、ミュンヘン大学近くにも出かけたのだったが、白バラの展示室やモニュメントのことを知らないまま、向かいの英国公園の方へと急いでしまったのだった。 
 つぎの写真は、上記、朝日デジタルからと2015年に大学を訪ねた方の「例によって目が覚めた夜明けの晩」ブログから、写真を拝借させてもらった。

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上記は、ミュンヘン大学構内のビラを模したモニュメント、その周辺に、ビラが埋め込まれているらしい

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生誕100年記念の集会が開かれたダッハウ強制収容所の点呼広場
2018年5月、訪ねた折の拙作二首(歌集『野にかかる橋』より):
ダッハウの強制収容所の扉にも「FREI(自由)」の文字残しいて
ダッハウの空は分けても澄みわたり点呼広場に見学者の群れ

 

 

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2021年5月 5日 (水)

半藤一利さん、下馬郁郎の名で短歌も詠んでいた

  4月30日の、鈴木竹志さんのブログ「竹の子日記」を読んで、驚いた。半藤一利さんの短歌が、下馬郁郎の名で、『昭和萬葉集』に収録されている、という。鈴木さんは、『週刊文春』最新号の座談会で知ったという。早速、『昭和萬葉集』を調べた結果も書かれていた。

半藤一利さんの短歌
http://takenokonikki520.blog77.fc2.com/blog-entry-1134.html 
(2021年4月30日)

 実は、旧拙文(「皇室報道における短歌の登場はなにをもたらしたのか―昭和天皇病状報道・死去報道を中心に(『風景』1995年2月初出、『現代短歌と天皇制』2001年2月収録)において「天皇の短歌作品を中心にした、歌人などの追悼文」10点のうちの一つとしてあげていた文献の執筆者が「下馬郁郎」だったのである(上記『現代短歌と天皇制』117頁)。

(8)下馬郁郎「御製にみる陛下の”平和への祈り“」『文芸春秋・大いなる昭和』特別増刊 1989年3月 712~716頁

 当時、執筆者として岡野弘彦、辺見じゅん、窪田章一郎らと並んでいた「下馬郁郎」が何者?であるか、わからずじまいのままであった。ところが、今年の2月、WAM(アクティブ・ミュージアム女たちの戦争と平和資料館)で「歌会始と天皇制」について話をする機会があって、あらためて準備を進めている中で、半藤さんの「昭和史」について調べていると、ネット上で「下馬郁郎(=半藤一利)」の記事に出会った。が、まだ半信半疑であった。さらに、半藤さんは、昭和天皇死去当時1989年、『文芸春秋』の編集長であることがわかった。編集長自らの名前で、記事を書く躊躇いがあったのか、「歌人下馬郁郎」の名で残しておきたかった記事だったのか、いずれにしても、「下馬郁郎=半藤一利」を確信するに至った。今回の『週刊文春』の記事で裏付けられたし、下馬郁郎がかつて『青遠』という結社で短歌を詠んでいたことが『昭和萬葉集』で明らかになったのである。当時、「下馬郁郎」という歌人の名は聞いたことがない、などと私は思ってきたのだが、「歌人」に限らず、広く市井の歌詠みの短歌の集成でもある『昭和萬葉集』の「人名索引」を確認することをなぜしなかったのだろう。『昭和萬葉集』編纂時には『ポトナム』の選歌を担当した者として、そこに気づかなったし、調べもしなかったことには忸怩たる思いもある。史実の検証の難しさを知り、思いがけない展開もあることを知った。

  WAMでの私の話では、天皇の短歌で読む「昭和史」の危うさの例として、半藤一利、保坂正康両氏の著作をあげたのだったが。以下の当ブログ記事をご参照ください。

2月23日「<歌会始>と天皇制」について、報告しました(1)
(2021年2月25日 )
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/02/post-39aa28.html

 なお、上記の拙ブログのほかに、『WAMだより』47号(2021年3月)には、要約版が掲載されています。併せてご覧いただければとと思います。

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