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2021年7月31日 (土)

コロナとオリンピックに隠れて~皇位継承、いつまでも結論が出せない政府

 7月26日、オリンピックとコロナ感染拡大のニュースに隠れてしまったが、安定的な皇位継承を検討する政府の有識者会議が、皇族数の確保策としての二案を発表した。ことし3月から10回の会議を経て、女性皇族が結婚後も皇室に残る案と戦後に皇族を離れた旧宮家の男系男子が養子縁組をして皇籍に復帰する案である。この論点整理は、二〇二一年秋の衆議院選挙後に報告される予定だという。女性天皇などが選挙の争点にならないよう、皇位継承権が拡大することに踏み込まないまま、選挙戦に臨み、男系天皇固守の保守層の取り込みを狙ったものと言えそうだ(参考「皇位継承の国会報告、衆院選後に 女性天皇などの争点化回避」『毎日新聞』6月6日)。
 私はかねてより、天皇制自体が、現憲法の基本理念と相いれないのだから、皇位が途切れてしまうのなら、無理に継承する必要はないと思っている。どの家でも、「お家断絶」はあり得ることで、夫婦別姓制度が採り入れられれば、「お家」自体が、もはや無意味になってくるだろう。宮家の名のみで、姓名を持たない皇族方の処遇は、どうするのかは、別に考えたい。 明仁天皇の生前退位表明以来、皇位継承については、生前退位は今回一代限りとする「特例法」でしのいできた政府は、今もって、先送りの状況である。
 この有識者会議のメンバーというのが、大橋真由美上智大教授(行政法)、冨田哲郎JR東日本会長、細谷雄一慶大教授(国際政治)、宮崎緑千葉商科大教授(元キャスター)、女優の中江有里、座長の清家篤日本私立学校振興・共済事業団理事長(元慶大塾長、労働経済)の男女各三人、計6人、なのである。疑問も多い人選ではあるが、さまざまな省庁の審議会の常連であるのが共通点である。この6人に、皇室について格別の知見があるとも思えないが、各界の21人のヒアリングと質疑をおこない、その様子は、以下の「議事次第」における各自の説明資料と「議事の記録」に公表されている。その結果をまとめようとしたが、厖大な資料の読みこみが必要であり、お手上げ状態である。新聞社はヒアリングの度ごとに断片的に報道するが、網羅的にまとめたものは少ない。あっても、「不明」とする項目が多い。ヒアリングの当事者の説明資料では、さまざまな条件や留保を付しての意見表明であったり、起こり得る問題や課題を客観的に述べ、問題提起にとどまったり、肝心の自身の意見表明に至らない場合が多く、曖昧この上ない。これも「不明」となる。

 「女性天皇」「女系天皇」の是か非かはもちろん、「女性宮家」「旧皇族の皇族復帰」にしても、どの範囲にすべきか、女性皇族の夫や子どもをどうするのか、旧皇族復帰を主張する場合は、男性に限るのだろうが、すでに80年近い年月を一般国民として過ごしている人々の、どの範囲でどの順位で認めようとするのか、など、実に様々なことが想定されるわけで、これらを法律上クリアすることは容易なことではないはずである。ただ、つぎのよう『毎日新聞』(6月8日)の論点整理を参考にしながら、以下の記事や表を見て欲しい。

6

 

「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議

https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/taii_tokurei/index.html

開催状況

回数

日付


資料

第1回

令和3年3月23日

議事次第

議事の記録(PDF/110KB)

第2回

令和3年4月 8日

議事次第

議事の記録(PDF/377KB)

第3回

令和3年4月21日

議事次第

議事の記録(PDF/300KB)

第4回

令和3年5月10日

議事次第

議事の記録(PDF/324KB)

第5回

令和3年5月31日

議事次第

議事の記録(PDF/379KB)

第6回

令和3年6月 7日

議事次第

議事の記録(PDF/295KB)

第7回

令和3年6月16日

議事次第

議事の記録(PDF/167KB)

第8回

令和3年6月30日

議事次第

議事の記録(PDF/160KB)

第9回

令和3年7月 9日

議事次第

議事の記録(PDF/150KB)

第10回

令和3年7月26日

議事次第

議事の記録

4月8日
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/taii_tokurei/dai2/gijisidai.htm

岩井 克己 ジャーナリスト 説明資料(PDF/1,024KB)
 笠原 英彦 慶應義塾大学教授 説明資料(PDF/576KB)
 櫻井 よしこ ジャーナリスト・公益財団法人国家基本問題研究所理事長 説明資料(PDF/ 186KB)
 新田 均 皇學館大学教授 説明資料(PDF/347KB)
 八木 秀次 麗澤大学教授 説明資料(PDF/3,983KB)
 新田 均 皇學館大学教授 補足説明資料(PDF/175KB)

4月21日
今谷 明 国際日本文化研究センター名誉教授 説明資料(PDF/292KB)
所 功 京都産業大学名誉教授 説明資料(PDF/4,520KB)
古川 隆久 日本大学文理学部教授 説明資料(PDF/546KB)

本郷 恵子 東京大学史料編纂所所長 説明資料(PDF/325KB)

5月10日
岡部 喜代子 元最高裁判所判事 説明資料(PDF/441KB)
 
大石 眞 京都大学名誉教授 説明資料(PDF/362KB)
 
宍戸 常寿 東京大学教授 説明資料(PDF/284KB)
 
百地 章 国士舘大学特任教授 説明資料(PDF/2,308KB)
 
所 功 京都産業大学名誉教授 補足説明資料(PDF/134KB)

5月31日
君塚 直隆 関東学院大学国際文化学部教授 説明資料(PDF/226KB)
曽根 香奈子 公益社団法人日本青年会議所監事 説明資料(PDF/320KB)
橋本 有生 早稲田大学法学学術院准教授 説明資料(PDF/522KB)
都倉 武之 慶應義塾大学准教授 説明資料(PDF/426KB)

6月7日
綿矢 りさ 小説家 説明資料(PDF/261KB)
半井 小絵 気象予報士・女優 説明資料(PDF/265KB)
里中 満智子 マンガ家 説明資料(PDF/235KB)
松本 久史 國學院大學教授 説明資料(PDF/622KB)

 以下の表は、注にあるように、上記の資料ならびに新聞記事により作成したが、意見の判定部分は、とりあえず、『東奥日報』の記事をそのまま載せた。他社の調査とは異なる場合もあり、私自身も判定のつかない場合が多かった。ヒアリング聴取者の人選には、問題も多いのではないか。「特例法」の際のヒアリングと重なる人物も多い。女性が三分の一でしかないし、世代的なバランスも、将来的な問題にもかかわらず、20~40代が圧倒的に少ない。各分野のバランスも悪い。突然、なつかしい?半井小絵気象予報士が登場したかと思えば、彼女は、百地章教授と近しいらしく、しばしば対談などがなされている仲だった。

  ここには、登場しないが、いわゆる「リベラル派」と称される人たちやフェミニストたちでさえ、「男女平等の憲法下で、女性天皇を認めないのはおかしい」などの発言が多いが、このヒアリングでも、女性天皇容認が過半数を占めているのがわかる。女性天皇や女系天皇を認めない人たちは、男系の血統を重視するのだろうけれど、長い天皇制の歴史の中では、むしろ無意味に近い。さらに、旧皇族の復帰などは無視されるかと思われたが、かなりの数の賛成と曖昧な意見が多いのに驚いている。
  皇位継承者数確保の二案とて、さまざまな矛盾や実現可能性の有無をはらみ、混迷を深めるだろう。
  天皇の存在の有無によって「国のかたち」が変わるとも思えない。一般国民の意識や生活に決定的な影響を及ぼすとも考えられない。戦前の遺制は、各所で残るものの、敗戦後に享受してきた「民主主義」が、そんなに軟弱なものだったとは考えたくないし、簡単に後戻りできるものかどうか、これまでの生活と意見を維持しながら、私は注視したい。

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2021年7月20日 (火)

中根誠『プレス・コードの影』の書評を書きました。

占領期のGHQの検閲については、関心があり、これまでも、調べたり、書いたりしてきました。このブログにもありますように、ある研究会の中根さんレポートも聞かせてもらいました。今回、『歌壇』に1頁の書評を書きました。「うた新聞」(8月号)にも短い新刊紹介を書くことになりました。

2021年2月28日
「諜報研究会」は初めてかも~占領期の短歌雑誌検閲(1)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/02/post-dd6eed.html

20217
『歌壇』2021年7月号より

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

中根誠『プレスコードの影』
現代の言論統制への警鐘  内野光子

 本書は、メリーランド大学プランゲ文庫に拠った奥泉栄三郎編『占領軍検閲雑誌目録・解題』(雄松堂書店 一九八二年)により国立国会図書館のマイクロフィルムを利用して、GHQによる短歌雑誌の検閲の実態を解明しようとした論考である。対象は、短歌雑誌一一一誌、三三一冊。発行地で分けられた検閲局別に、雑誌のタイトルごとにまとめている。検閲局に提出された短歌雑誌のゲラ刷、事後検閲移行後は出版後の誌面を「プレスコード」に従ってチェックした痕跡がわかる文書を一部画像で示す。検閲のために英訳された短歌・散文を起こし、英語で記された違反処分の理由・コメント部分の和訳も付す。文書は不鮮明なタイプ印刷や手書きもあり、判読が困難な個所も多いだけに、作業には、苦労も多かったと思う。検閲局が、各雑誌の編集方針をレフトからライト、その間に、センター、コンサーバティブ、リベラル、ラディカルといった仕訳をしていたこともわかる。

著者の分析によれば、『人民短歌』と右翼系とされる『不二』の違反処分の量は後者が多く、前者では、最初の検閲で違反とされたものが上司により「OK」となった例が多い。左翼系への検閲は寛容であったことを示しているとする。

 戦前の内務省による検閲と異なり、GHQによる出版物の検閲は、基本的には痕跡を残さない手法がとられていた。天皇賛美、広島・長崎の原爆、占領軍・米兵に言及する短歌・散文、検閲自体に触れる作品や記事にはとくに厳しかったが、当時は、削除されていることに気づかなかった読者も多かったはずである。

 戦前も占領下も、時の権力による検閲ではあったが、GHQによる検閲を体験した歌人たちは、決して多くを語らなかっただけに、本書の意義は大きい。表現の自由が保障されているはずの現代でも、すでに行政や教育・研究、マス・メディアなどへの監視は強化され、国民、表現者への言論統制は、巧妙かつ深化している。その危機に対して、自粛への道を歩まないためにも署名や声明などに甘んじず、一人一人が何をなすべきかを問う警鐘の一書としたい。

 

 

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2021年7月15日 (木)

代替わりに見る天皇の短歌と歌人たち―平成期を中心に(2)平成期における明仁天皇・皇后の短歌の果たした役割

 天皇夫妻の短歌と国民とのパイプ役をなすとされる歌会始はじめ、新聞・テレビなどへの登場、夫妻の歌集・鑑賞の書物の出版などが盛んになり、皇室行事、被災地訪問、慰霊の旅などを通して短歌の登場頻度が高くなり、歌碑などの形での接点も多くなった。 

<天皇・皇后の短歌と国民との接点>
a 1月1日の新聞:1年を振り返っての短歌、天皇(5首)、皇后(3首)の公表(天皇家の写真とのセットで)
b 1月中旬の歌会始:天皇・皇后はじめ皇族、選者、召人、入選者10人の歌とともに披講。NHKテレビの中継/当日の新聞夕刊と翌日の朝刊での発表/宮内庁HPでの登載
c 歌会始の詠進(応募)の勧め、入門書・鑑賞書などへ収録、出版
d 天皇の歌集、皇后との合同歌集での出版および鑑賞書の出版など
e 在位〇年、死去、代替わりの節目の図書の出版、新聞・雑誌など記事、特集、展示など
f 歌碑など

 平成期の天皇夫妻の短歌の特色として以下の三点があげられる。まず、短歌一覧をご覧ください。

資料 明仁天皇・美智子皇后の短歌一覧 

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1)平和祈念・慰霊のメッセージ

 「平和祈念・慰霊」のための短歌を多く詠んでいるが、その一部⑮~㉔を資料に収めた。 天皇の短歌は、おおらかで、大局的、儀礼的だが、皇后の短歌は、人間や自然観察が細やかで、情緒的であると言われている。天皇の短歌には、明治天皇や昭和天皇の作かと思われるような⑮⑯のような短歌もある。

⑮ 波立たぬ世を願ひつつ新しき年の始めを迎へ祝はむ(天皇)(1994年 歌会始 「波」)
 国のため尽くさむとして戦ひに傷つきし人のうへを忘れず(天皇)(1998年 日本傷痍軍人会創立四十五周年にあたり)

 慰霊の旅で詠まれた、夫妻の短歌を見てみよう。

 精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき(天皇)(1994 硫黄島)(終戦50年)
 慰霊地は今安らかに 水をたたふ如何ばかり 君ら水を欲りけむ(皇后)(1994 硫黄島)

 ⑱について、大岡信は、「立場上の儀礼的な歌ではない。・・・気品のある詠風だが、抑制された端正な歌から、情愛深く、また哀愁にうるおう歌の数々まで、往古の宮廷女流の誰彼を思わせる(「折々のうた」(『朝日新聞』1997年7月23日)と記す。
 原爆のまがを患ふ人々の五十年の日々いかにありけむ(天皇)(1995年 原子爆弾投下されてより五十年経ちて)
 被爆五十年 広島の地に静かにも雨降り注ぐ雨の香のして(皇后)(1995年 広島)
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      2005年、サイパン、バンザイクリフにて

㉑ サイパンに戦ひし人 その様を浜辺に伏して我らに語りき(天皇)(2005年 サイパン島訪問)
㉒ いまはとて 島果ての崖踏みけりし をみなの足裏思へばかなし(皇后)(2005年 サイパン島)

 ㉒は、歌人たちの間でも評判になった歌で、たとえば、歌会始の選者である永田さんは、つぎのように話す。「日本女性が崖から飛び降りた景を思い出して、詠まれたものと思われます。崖を踏み蹴って、海へ身を投げた女性の「足裏」を思っておられるところに、繊細な感性を感じとることができます。悲しく、しみじみと身に沁みる歌であります。このような国内外の慰霊の旅が、平和を希求される両陛下の強い思いから出ていることは言うまでもありません。平成という時代は、近代日本の歴史のなかで、唯一戦争のなかった幸せな時代でした。その大切さを誰よりも強く感じて来られたのが両陛下であったのかもしれません。」(「両陛下の歌に見る『象徴』の意味」『視点・論点』2019年03月06日 NHK放送)

 また、皇后の次のような短歌には、海外の戦争や内乱における加害・被害の認識について、やや屈折した思いを詠んだものある。

㉓ 慰霊碑は白夜に立てり君が花 抗議者の花 ともに置かれて(皇后)(2000年 オランダ訪問の折りに)
㉔ 知らずしてわれも撃ちしや春闌くるバーミアンの野にみ仏在(ま)さず(皇后)(2001年 野)

 ㉔について、安野光雅さんは「文化の違うところに立つ自分自身をかえりみて、何もできなかった自分もまた、「知らずして」「(相対的に)弾を撃つ立場にいたのではないか、かなしまれるおもいは、痛切である」(『皇后美智子さまのうた』朝日文庫 2016年10月)とやさしいスケッチとともに語っている。

 こうして、天皇夫妻が発するメッセージは、国民にどう届いているのか。少なくとも、ジャーナリストや史家、歌人たちの鑑賞や解説では、一様にというか、判で押したように「国民に寄り添い、平和を願い、護憲を貫く」メッセージとして、高く評価されています。さらに、2015年、戦後七〇年の「安倍談話」と8月15日全国戦没者追悼式における天皇の「おことば」とを比較し、天皇の言葉には「反省」の思いがあり、当時の安倍政権への抵抗さえ感じさせるという声も少なくなかった。
 このようにして、平和や慰霊をテーマにした短歌に限らず、災害や福祉、環境などをテーマにした短歌を詠み続け、国民に発信することによって、ときどきの政治・経済政策の欠陥を厚く補完し、国民の視点をそらす役割すら担ってしまう事実を無視できないと思っている。 

2)沖縄へのこだわり  

 昭和天皇の負の遺産―本土決戦の防波堤として沖縄地上戦の強行、米軍による占領・基地化の長期・固定化という「後ろめたさ」を挽回するために、11回の訪問、おことば、短歌による慰霊・慰撫のみが続けられた。天皇は、5・7・5・7・7の短歌ではなく、8・8・8・6という沖縄に伝わる「琉歌」まで作っている。上記、短歌一覧の㉕から㊾までご覧ください。天皇夫妻の個人的な思いはともかく、日本政府のアメリカ追従策に対して、何の解決にも寄与していなかった。 

資料 明仁天皇・美智子皇后沖縄訪問一覧(ダウンロード済↓)e5b9b3e68890e5a4a9e79a87e383bbe7be8ee699bae5ad90e79a87e5908ee6b296e7b884e8a8aae5958fe4b880e8a6a7.pdf

  <明仁天皇・美智子皇后の沖縄を詠んだ短歌> ㉕~㊾  *琉歌
㉕いつの日か訪ひませといふ島の子ら文はニライの海を越え来し
(美智子皇太子妃)(1971年 島)
㉖黒潮の低きとよみに新世の島なりと告ぐ霧笛鳴りしと(皇太子妃)(1972年 五月十五日沖縄復帰す)
㉗雨激しくそそぐ摩文仁の岡の辺に傷つきしものあまりに多く(皇太子妃)(1972年 五月十五日沖縄復帰す)
㉘この夜半を子らの眠りも運びつつデイゴ咲きつぐ島還り来ぬ(皇太子妃)(1972年 五月十五日沖縄復帰す)
㉙戦ひに幾多の命を奪ひたる井戸への道に木木生ひ茂る(明仁皇太子)(1975年 沖縄県摩文仁)
㉚ふさ(フサケユル)かいゆる木(キ)草(クサ)めぐる(ミグル)戦跡(イクサアト)くり返し返し(クリカイシガイシ)思(ウムイ)ひかけて(カキテイ)*(皇太子)(1975年 沖縄県摩文仁)
㉛今帰仁(ナキジン)の(ヌ)城門(グスイジョオ)の(ヌ)内(ウチ) 入れば(イレバ)、咲き(サチ)やる(ヤル)桜花(サクラバナ)紅(ビンニ)に染めて(スミテイ) 
(皇太子)(1975年 今帰仁城跡)

㉜みそとせの歴史流れたり摩文仁(まぶに)の坂平らけき世に思ふ命たふとし(皇太子)(1976年 歌会始「坂」)
㉝いたみつつなほ優しくも人ら住むゆうな咲く島の坂のぼりゆく(皇太子妃)(1976年 歌会始「坂」)
㉞広がゆる畑 立ちゅる城山 肝ぬ忍ばらぬ世ぬ事 *(皇太子)(1976年 伊江島の琉歌歌碑)
㉟四年にもはや近づきぬ今帰仁(なきじん)のあかき桜の花を見しより(皇太子)(1980年 歌会始「桜」)
㊱種々(くさぐさ)の生命(いのち)いのち守り来し西表(いりおもて)の島は緑に満ちて立ちたり(皇太子)(1984年 歌会始「緑」)
㊲激しかりし戦場(いくさば)の跡眺むれば平けき海その果てに見ゆ(天皇)(1993年 沖縄平和祈念堂前)
㊳弥勒(ミルク)世(ユ)よ(ユ)願(ニガ)て(ティ)揃(スリ)りたる(タル)人(フィトゥ)た(タ)と(トゥ)戦場(イクサバ)の跡(アトゥ)に(ニ)松(マトゥ)よ(ユ)植(ウイ)ゑたん(タン) (天皇)(1993年 沖縄県植樹祭)
㊴波なぎしこの平らぎの礎と君らしづもる若夏(うりずん)の島(皇后)(1994年 歌会始「波」)
㊵沖縄のいくさに失せし人の名をあまねく刻み碑は並み立てり(天皇)(1995年 平和の礎)
㊶クファデーサーの苗木添ひ立つ幾千の礎(いしじ)は重く死者の名を負ふ(皇后)(1995年 礎)
㊷疎開児の命いだきて沈みたる船深海に見出だされにけり(天皇)(1997年 対馬丸見出さる)
㊸時じくのゆうなの蕾活けられて南静園の昼の穏しさ(皇后)(2004年 南静園に入所者を訪ふ)
㊹弾を避けあだんの陰にかくれしとふ戦(いくさ)の日々思ひ島の道行く(天皇)(2012年 元旦発表、沖縄県訪問)
㊺工場の門の柱も対をなすシーサーを置きてここは沖縄(ウチナー)(皇后)(旅先にて)
㊻万座毛に昔をしのび巡り行けば彼方(あがた)恩納岳さやに立ちたり(天皇)(2013年 歌会始「立」)

㊼我もまた近き齢にありしかば沁みてかなしく対馬丸思ふ(皇后)(2014年 学童疎開船対馬丸)
㊽あまたなる人ら集ひてちやうちんを共にふりあふ沖縄の夜(天皇)(2018年 沖縄県訪問)
㊾与那国の旅し恋ほしも果ての地に巨きかじきも野馬も見たる
(皇后)(2018年 与那国島)

 3)美智子皇后の短歌の突出していたこと

  それでは、平成期に入って、天皇・皇后の短歌は、マス・メディアにどう扱われたかを見ていきたい。下記の文献一覧によれば、美智子皇后の短歌に特化した記事や図書が多数あり、昭和天皇への関心が維持されていることもわかる。美智子皇后には、皇太子妃時代の皇太子との合同歌集『ともしび』(1986)、単独歌集『瀬音』(1997)、NHK出版からの、在位10年、20年、30年記念の3回『道』には、天皇の歌とともに皇后の歌が収録されているが、ほかにも様々な執筆者により、美智子皇后の短歌の解説書や鑑賞の書が出版されていることがわかる。皇后の短歌は、観察・表現の繊細さに加えて、メデイア・世論への目配りが功を奏し、保守層からも、リベラル派からの支持を得、国民への影響力も大きいと言えよう。もっとも、明治天皇の昭憲皇太后、大正天皇の貞明皇后も、賢い皇后として、その足跡、短歌が残されているが、旧憲法下では限界があり、美智子皇后の積極性にはかなわず、歴代天皇の皇后にはなかった現象であった。

資料 天皇の短歌関係文献一覧(2000 ~)

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 4)「歌会始」と歌人たち、歌壇の反応
 選者の変遷の推移は、御歌所 ⇒民間歌人・女性歌人の登用 ⇒戦中派 ⇒「前衛歌人 ⇒戦後生まれ・人気歌人へとたどり、現代短歌との融合と選者任用が他の国家的褒章制度とのリンクが顕著となってきている。歌会始の選者になることが歌人としての一つのステイタスとなり、国家的褒章制度に組み込まれ、その出発点や通過点となったり、到達点になったりしている構図が見える。例外としての、馬場あき子、佐佐木幸綱さんには事情があるようで・・・。
 

資料 歌会始の推移

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 <歌会始選者たちの国家的褒章の受章歴>

木俣修(1906~1983): 歌会始選者1959 → 紫綬褒章1973 → 芸術選奨文部大臣賞1974→ 日本芸術院賞恩賜賞1983
岡野弘彦(1924~): 歌会始選者・芸術選奨文科大臣賞1979 → 御用掛1983~2007→ 

紫綬褒章1988 → 芸術院賞・芸術院会員・勲三等瑞宝章1998 → 文化功労者2013
岡井隆(1928~2020: 歌会始選者1993 → 紫綬褒章1996 → 御用掛2007~2018→

 芸術院会員2009 →  文化功労者2016 → 旭日中綬章追贈2020死去
篠弘(1933 ~):紫綬褒章1999 → 旭日小綬賞2005 → 歌会始選者2006 →御用掛2018~
三枝昂之(1944~):芸術選奨文科大臣賞2006 → 歌会始選者2008 →紫綬褒章2011
永田和宏(1947~):歌会始選者2004 → 紫綬褒章2009 →瑞宝中綬章2019 →?

 (参考)
栗木京子(1954~):芸術選奨文科大臣賞2007 → 紫綬褒章2014 → 歌会始召人控2020 →?
 現代歌人協会理事長(女性初)2019
馬場あき子(1928~):紫綬褒章1994 →芸術院賞2002 →芸術院会員2003 →文化功労者2019
佐佐木幸綱(1938~):芸術選奨文部大臣賞2000 → 紫綬褒章2002 → 芸術院会員2008

 5)明仁天皇の生前退位時前後の天皇制の行方~リベラル派、護憲派の天皇制への傾斜

リベラルな人たちの天皇制への傾斜、たとえば・・・・

矢部宏治(1960~):「初回訪問時の約束通り、長い年月をかけて心を寄せ続けた沖縄は、象徴天皇という時代の「天皇のかたち」を探し求める明仁天皇の原点となっていったのです」(『戦争をしない国―明仁天皇メッセージ』小学館 2015年)。著書に『日本は、なぜ基地や原発を止められないのか』(集英社インターナショナル 2014年)。
金子兜太(1919年~2018年):俳人。 金子兜太選「老陛下平和を願い幾旅路」(伊藤貴代美 七四才 東京都)選評、「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ」(「平和の俳句」『東京新聞』2016年4月29日)。「アベ政治を許さない」のプラカード揮毫者。
金子勝(1952~):マルクス経済学者。「【沖縄に寄り添う】天皇陛下は記者会見で、沖縄のくだりで声を震わせて「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました」「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と語る。アベは聞いているのか?」(2018年12月23日ツイート✔ @masaru_kaneko)。
白井聡(1977~):「今上天皇はお言葉の中でも強調していたように、「象徴としての役割」を果たすことに全力を尽くしてきたと思います。ここで言う象徴とは、「国民統合の象徴」を意味します。天皇は何度も沖縄を訪問していますが、それは沖縄が国民統合が最も脆弱化している場所であり、永続敗戦レジームによる国民統合の矛盾を押しつけられた場所だからでしょう。天皇はこうした状況全般に対する強い危機感を抱き、この危機を乗り越えるべく闘ってきた。そうした姿に共感と敬意を私は覚えます。天皇が人間として立派なことをやり、考え抜かれた言葉を投げ掛けた。1人の人間がこれだけ頑張っているのに、誰もそれに応えないというのではあまりにも気の毒です。」という主旨のことを述べています。(「天皇のお言葉に秘められた<烈しさ>を読む 東洋経済新報オンライン 2018年8月2日、国分功一郎との対談)。『永続敗戦論―戦後日本の核心』(太田出版 2013年)の著者。
内田樹(1950~):「天皇の第一義的な役割が祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること、天皇は祈ってさえいればよい、という形でその本義を語りました。これは古代から変りません。陛下はその伝統に則った上でさらに一歩を進め、象徴天皇の本務は死者たちの鎮魂と苦しむ者の慰藉であるという「新解釈」を付け加えられた。これを明言したのは天皇制史上初めてのことです。現代における天皇制の本義をこれほどはっきりと示した言葉はないと思います。(「私の天皇論」『月刊日本』2019年1月)
永田和宏(1947~):歌人、歌会始選者。「戦争の苛烈な記憶から、初めは天皇家に対して複雑な思いを抱いていた沖縄の人々でしたが、両陛下の沖縄への変わらぬ、そして真摯な思いは、沖縄の人々の心を確実に変えていったように思えます。両陛下のご訪問は、いつまでも自分たちの個々の悲劇を忘れないで、それを国民に示してくださる大きなと希望になっているのではないでしょうか」(『宮中歌会始全歌集』東京書籍 2019年)。安保法制の反対、学術会議の会員任命問題でも異議を唱えている。
望月衣塑子(1975~):東京新聞記者。。コロナの時こそ、天皇や皇后のメッセージが欲しいと天皇・皇后へ賛美と期待を示す(作家の島田雅彦との対談、「皇后陛下が立ち上がる時」(『波』新潮社2020年5月)。
落合恵子(1945~):新天皇の大嘗祭での「おことば」を「お二人に願うことは、お言葉で繰り返された平和を、ずっと希求される<象徴>であって」(「両陛下へ」『沖縄タイムズ』2019年11月12日)

 美智子皇后との交流を重ねて語る石牟礼道子、安保法制に反対を表明した憲法学者の長谷部恭男は天皇制は憲法の「番外地」といい、木村草太は天皇の人権の重要性を説く。政治学者の加藤陽子は、半藤たちとご進講を務める。著書『それでも、日本人は『戦争』を選んだ』(朝日出版社 2009年)、半藤・保阪との共著『太平洋戦争への道1931-1941』NHK出版 2021年)
 リベラル、革新政党の天皇制への傾斜と同時に、安保法制反対、学術会議任命問題に異議を表明する歴史家や歌人たちが親天皇制を表明し、天皇夫妻の言動や短歌を高く評価する傾向が顕著になった。中堅、若手の歌人たちも「歌会始」への抵抗感も薄れている。こうした状況の中で、民主主義の根幹である「平等」に相反する天皇制を廃するにはどうしたらよいのか、現在の憲法のもとでできることは何か。
 私としては、天皇制廃止への志は忘れずにいたい。現制度の下で、できること、願うことといえば、天皇夫妻はじめ、皇族たちには、ひそかに、しずかに、質素に暮らしてもらうしかないのではないか。なるべく、国民の前に現れないように、そして、メディアも追いかけることはしないでほしい。天皇たちの人権を言うならば、天皇制が、さまざまな差別や格差の助長の根源であったことを思い返してほしい。一人の人間が、国民の「象徴」であること自体、「統合」であるとする「擬制」自体が、基本的人権に反するのではないか、といった趣旨で、締めくくった。下記のような感想や質問が出された。

・反戦主義者と思っていた半藤一利さんが意外であった。
・まず、男女平等の観点から「皇室典範」で女性天皇を認めるべきではないか。
・日本人には、古くから、短歌という文学形式が深く身についているから、短歌による発信が浸透するのではないか。
・宮中祭祀における、いわゆる「秘儀」に皇后たちは、苦悩したに違いない。その実態が明らかになっていないのが問題ではないか。
・黙っていて、というのは、天皇夫妻にも表現の自由があるのだから、酷ではないか。
・退位後、ネット上の美智子皇后へのバッシングがひどいのは、どうしたわけか。
・落合恵子さんは共和制を主張している人だが、天皇制を支持するとは、信じられないのだが。

  短歌が、国民に根付いた文学形式といっても、文学史上、多くの国民が短歌による発信ができるようになるのは、たかだか、近代以降で、それ以前の「和歌」は、一部の国民の発信ツールに過ぎなかったのではないか。美智子皇后へのネット上のバッシングというのは、私は詳しく知らないが、昭和・平成期にも潜在的にあったし、それを煽るようなメディアもあったと思う。「宮中」に入るからには、美智子皇后、雅子皇后にしても、当然覚悟していたことだと思う。いじめやバッシングは、法的な措置も辞さず、それによって、宮中内の実態も明らかになってゆくだろう。
  また、いわゆるリベラル派による天皇夫妻への敬意や積極的にも思える天皇制維持の発言は、これからも、噴出、拡大していくのではないか。それは、革新政党の、ウイングを広げようとして「寛大さ」や「柔軟性」を掲げ、民主主義の根幹を忘れるという退廃と、その一方での若年層の、天皇や天皇制への無関心が相俟って、この国の進む方向には、不安は募るばかりである。
 質疑も含めて二時間弱、オンラインに慣れない私は、もうぐったりしてしまった。対面での研究会や集会が待たれるのであった。

 

 

 

 

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2021年7月13日 (火)

代替わりに見る天皇の短歌と歌人たち―平成期を中心に(1)昭和天皇の死去報道において、天皇の短歌が果たした役割

 これまでも、オンラインでの会議や研究会に参加したことはあったが、自分が報告するのは初めてであった。トラブルが起こらなければいいがと、かなり心配したが、先週の土曜日、7月10日は、スムーズに入れた。
 「新・フェミニズム批評の会」という研究会の例会で、久しぶりの報告だった。 今回は、2月23日のWAM(女たちの戦争と平和資料館)での「<歌会始>と天皇制」という報告が縁となり、お勧めいただき、急に決まったことだった。新・フェミの会にはしばらく欠席が続いているので、ためらわれたが、せっかくの機会なので、準備を始めた。

(参考)
2月23日、「<歌会始>と天皇制」について報告しました(1)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/02/post-39aa28.html

2月23日、「<歌会始>と天皇制」について報告しました(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/02/post-4455ac.html
2月23日、「<歌会始>と天皇制」について報告しました(3)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/02/post-156790.html
2月23日、「<歌会始>と天皇制」について報告しました(4)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/02/post-319669.html
「歌会始」が強化する天皇制―序列化される文芸・文化(要約版)
file:///C:/Users/Owner/Desktop/WAM%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC/p10-11-%E5%86%8D.pdf
 『WAMだより』47号(2021年3月)

 内容的には、WAMでの話とほとんど重なるのであるが、一時間という枠で、質疑も長くとっていただけるようなので、前の反省から、「天皇制」への国民の認識が大きく変わったと思われる平成期に焦点を当てることにした。そして、歌人たちにもいえることなのだが、リベラル派、護憲派といわれる論者たちの「天皇制」への傾斜の表明が顕著になったことをどう考えるのか、今後の自身の課題をも探りたかった。事前に、1頁のレジメと20頁ほどの資料を配信していただいた。
 平成期を中心にといっても、その前段として、昭和天皇の短歌に触れないわけにはいかなかった。主にその追悼報道において、どのように語られ、鑑賞され、どんな役割を果たしたかを簡単にたどってみたかった。
以下が前段に、話した内容の概略である。手短にと思いながら20分近くになったしまったか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
1.昭和天皇の死去報道において、天皇の短歌が果たした役割
1)病状・死去報道の実態
 病状・死去報道の実態については、1988年9月26日『毎日新聞』の「秋雨の列島「ご回復を」の列」の記事と1989年1月8日、死去の翌日の『読売新聞』のテレビ欄とを写真で紹介し、ほとんどのメデイアが、歌舞音曲の自粛、さまざまな業種の営業自粛、試合自粛、天皇制批判自粛・・・を事々しく報道する一方で、いわゆる「下血報道」へとエスカレートしていった。天皇の体温・血圧・脈拍とともに下血何ミリといったことまで、繰り返し報道されるのだった。

 1989年1月7日の死去を境に、今度は追悼報道において、昭和天皇の短歌が、いきなりクローズアップされ、短歌によって昭和天皇の生涯を振り返り、昭和史をたどろうとする記事が氾濫、量産されるのであった。もっともその予兆としては、昭和末期に、つぎのような天皇の短歌関係の書物が出ていたことは確かであった。

1986年3月 坊城俊民『おほみうた』桜楓社
1986年5月 <天皇在位60年記念号>『短歌』(角川書店)
1986年12月『ともしび』(皇太子夫妻歌集)婦人画報社
1986年12月「皇太子殿下美智子妃殿下の御歌」『アサヒグラフ・昭和短歌の世界』臨時増刊号
1987年4月 徳川義寛ほか『昭和の御製集成』毎日新聞社

 死去の翌日から、昭和天皇の短歌にかかわるところの追悼記事、追悼文、追悼歌が新聞・雑誌に氾濫した状況を、資料、2枚の文献リスト「昭和天皇病状死去報道に現れた短歌」(拙著『現代短歌と天皇制』2001年、からのコピー)と上記の1月8日の「テレビ欄」とで示した。とくに、文献リストでは、 多くの歌人たちが動員され、追悼文や追悼歌が競うように発表されたことがわかる。こうした文献で、もっとも多く引用されたのがつぎの三首ではなかったか。

・峰つづきおほふ むら雲ふく風の はやくはらへと ただいのるなり(1942年歌会始「連峰雲」)
・爆撃にたふれゆく民の上おもひ いくさとめけり身はいかならむとも(1945年 木下道雄『宮中見聞録』1968年で公開)

 1首目は、真珠湾攻撃直後の歌会始で発表され、天皇は太平洋戦争「開戦」には「慎重」であったことがよくわかる歌として、繰り返し紹介された。同時に、2首目をもって「終戦」という「英断」に至ったということが強調され、昭和天皇は「平和主義者」だったとのイメージが増幅された。
 1首目についてその典型的な解説といえば、
岡野弘彦(1924~)(長い間、歌会始の選者と御用掛を務めた歌人)「<連峰雲>の御製では、戦争が早く終わって平和になるようにとお望みになっていた」「しかし時勢は陛下のお気持ちとは逆の方向に進み、陛下も開戦 となさった」(昭和天皇歌集『おほうなばら』解題 1990)
下馬郁郎(=半藤一利、1930~2021)(昭和史研究、1989年当時の『文芸春秋』編集長):「沈痛きわまりない感情の表白というべきか。そして陛下が、あの激越な戦争中、ただ祈りつづけてこられたことに気付かせられる。陛下にとっての<昭和史>とは、ことごとに志に反し、ひたすら祈念の時代であったということなのだろうか」(「御製にみる陛下の“平和への祈り”」『文芸春秋』1989年3月号)

・思はざる病となりぬ沖縄を たづね果たむつとめありしを(1987年)
 この歌も、昭和天皇晩年の歌として、よく引用された一首。1987年10月、沖縄での国民体育大会に病気のため出かけられなくなったことを歌い、皇太子夫妻が代わりに参加している。この歌を、保阪正康(1939~)は、「昭和天皇は、沖縄訪問の責任が果たせなかったという特別の思いを持ち、沖縄の人々への思いやり」を示した歌としている(『よみがえる昭和天皇 御製で読み解く87年』2012年 文芸春秋)。昭和史の第一人者と言われる半藤、保阪の二人が短歌により昭和史を読み解こうとしているのに、いささか驚いている。天皇の短歌をもって、歴史的検証もなく、情緒的に、物語性を伴って、歴史が語られることは、歴史を歪めてしまわないか、その危険性は大きいと言わざるを得ない。

)「昭和天皇は平和主義者だった」のか  
 先の短歌をもって、太平洋戦争開戦には慎重で、英断をもって終戦至ったという二つの「聖断」を強調し、短歌にこそ本心が吐露されたとし、天皇は常に平和を祈り、平和を願ったということが拡散された。

しかし、少なくとも、沖縄に関して、昭和天皇は、つぎのような、決定的な、重大な行動をとっていたことは周知の通りで、「平和主義者」のうらの顔というより、真の姿であったと言えよう。

・1945年3月末の上陸から6月23日にわたり、本土決戦の引き延ばしたい作戦として、沖縄地上戦の続行を固守し、20万人の犠牲者を出したこと
・1947年9月19日、GHQへ沖縄の長期占領を願い出た文書(沖縄メッセージ、天皇メッセージとも)を送っていたこと(進藤栄一「分割された領土」『世界』1979年4月号で明らかに)

3)昭和天皇の「戦争責任」の行方
 また、一方で、憲法制定のさなか、東京裁判が進むなか、天皇に戦争責任ないのかという問題も、当時、全国紙の社説、雑誌などでは、学者たちの「天皇退位論」が盛んに交わされていた。しかし、天皇は、東京裁判では責任は問われず、退位もしなかった。それはGHQのスムーズな占領政策遂行と日本政府の天皇制維持の思惑が一致した結果であった。
 
1946年1月1日の年頭詔書、いわゆる「人間宣言」と言われているが、この詔書の主旨は「五か条御誓文」を民主主義の根本とするもので、「神の国」、「天皇の神格」を明確に否定したものでもなく、自分が現人神ではないことを述べるにとどまるものだった。この年頭に発表されたのがつぎの短歌だった。 

・海の外の 陸に小島にのこる民の うへ安かれとただいのるなり(1946年1月1日、新聞発表)
・ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき人もかくあれ(1946年1月22日 歌会始「松上雪」)

 2月には、はや、地方巡幸が始まり、巡幸の先々で、立ち直る姿と歓迎ぶりを目にしたというが、受け入れの地元の負担は大きく、その準備ぶりを「天皇は箒である」とも揶揄されていた。

たのもしく夜はあけそめぬ水戸の町うつ槌の音も高くきこえて(1947年歌会始「あけぼの」)
ああ広島平和の鐘も鳴りはじめ たちなほる見えてうれしかりけり(1947年12月広島・中国地方視察)
 これらの短歌が詠まれたころ、1946年5月には食糧メーデーが起き、「朕はたらふく食っているぞ、汝臣民は飢えて死ね」というプラカードが目を引いていたし、47年二・一ゼネストが急遽中止となったりする不穏な時期でもあった。2首目は、広島訪問の折の歌だが、被爆の実態を知らないわけではないのに、まるで明るく、軽快な「流行歌」のようにも思える。1975年10月訪米後の記者会見で「原爆投下はやむを得なかった」と述べた認識にも通じようか。 

・戦果ててみそとせ近きになほうらむ人あるをわれはおもひかなしむ(1971年イギリス)
さはあれど多くの人はあたたかくむかへくれしをうれしと思ふ(1971年イギリス)
戦にいたでをうけし諸人のうらむをおもひ深くつつしむ(1971年オランダ)

 1971年訪欧したとき イギリスでは、かつての日本軍の捕虜やその遺族からの抗議行動に遭い、植樹した木を抜かれ、オランダでも、インドネシアで日本の捕虜になって、送られた強制収容所で犠牲となったオランダ兵士やオランダ系市民たち、その遺族たちの抗議行動に遭い、卵を投げつけられたとも報道されていた。「おもひかなしむ」「深くかなしむ」という先から、「さははあれど」とすぐ立ち直ってしまい、反省や責任を感じている気配はない。1975年の訪米後の記者会見で、戦争責任を問われ「文学上のアヤの問題」とかわした発言にも通じる。 
しかし、天皇の短歌を恣意的に拾い上げ、短歌でこそ「本心が吐露」されたとする言説が流布されるのと同時に、さまざまなエピソードや側近たちの日記などにより平和主義者であったとか、戦争への反省をにじませていたとかの記述により、上記のような短歌と補い合う関係になることも見逃せない。

『木戸幸一日記』上下巻(東大出版会 1966年)(1937年近衛内閣時代の閣僚、敗戦時は内大臣だった、天皇の側近中の側近)
『芦田均日記』(岩波書店 1986年)(外交官から政治家となり、リベラルと称せられ、敗戦後片山哲内閣の後を継いで首相となった)
木下道雄『側近日誌』(文芸春秋 1990年6月)(後の独白録と重なる部分もある)
『入江相政日記』全6巻(朝日新聞社 1990~91)(歌人、歌会始関係の記事も多い)
『昭和天皇独白録―寺崎英成御用掛日記』文芸春秋 1991年3月(『文芸春秋』1990年12月初出)(1946年3月~4月、松平慶民宮内大臣・松平康昌宗秩寮総裁・木下道雄侍従次長・稲田周内記部長・寺崎英成御用掛による天皇の回想録聞き書き記録。目的が不明ながら時期的に東京裁判対策のため開始か。GHQの天皇無答責の情報の前後かが問われている。戦争指導・人事介入の実績にもかかわらず、立憲君主主義を貫いたとして、政府に責任転嫁の場面も)
『昭和初期の天皇と宮中 侍従次長河井弥八日記』全6巻(岩波書店 1993~94)、『河井弥八日記・戦後編』全5巻(信山社 2015~20年)
マッカーサーと昭和天皇との会談通訳松井明の日記(朝日新聞2002年8月5日)
(GHQの東京裁判対応に謝意の伝達)
『昭和天皇最後の側近―卜部亮吾侍従日記』全5巻(朝日新聞社 2007年5~9月)
『昭和天皇 最後の侍従日記』(小林忍・共同通信社 文春新書 2019年4月)
初代宮内庁長官田島道治の「拝謁記」(毎日新聞 2019年8月19日ほか)

4)昭和天皇死去時の歌人、歌壇の対応
 過剰な病状・死去報道と自粛の中、現代、とくに歌会始の選者たちを中心に、昭和天皇の短歌の賛美の記事、追悼歌があふれ出たが、歌人からの表だった批判はほとんどなかった。

資料「昭和天皇病状・死去報道にあらわれた短歌」(関連記事・文献一覧)
(拙著『現代短歌と天皇制』風媒社2001年、所収)

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 少しだけ話題になったのは、天皇より一日遅れの1月8日に亡くなった上田三四二の追悼歌と追悼文で、天皇死去前の予定原稿であったことが歴然であったことだった。

・「昭和天皇のお歌」『東京新聞(夕)』1月9日
・現人神人間天皇ふたつながら生きて歴史のなかに入りましぬ
(「天皇陛下と昭和」『短歌』臨時増刊1989年1月12日発売)

 一方、このフィーバー後には、網羅的ではないものの、つぎの資料に見るように、当時は、多くの反省と批判もなされていたことは、忘れてはならない。

資料「天皇・皇室報道検証と批判(1986~1992)」
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2021年7月 7日 (水)

職域ワクチン接種はどうなってしまったのか?まさに「捕らぬタヌキの皮算用」ではないか!

 私は、7月3日に、高齢者としてかかりつけ医のところで、第1回目のワクチンを接種した。2回目は、今月末であり、連れ合いの2回目は8月にづれ込んでいる。 
 NHKの「新型コロナウイルス」特設サイトによれば、全国で2回目の接種が完了しているのは14.41%、東京都の高齢者は38.95%、千葉県で35.43%(7月5日現在)という状況である。
 
高齢者接種でもこんな進捗状態なのに、6月21日には、本格的に大手企業の職域接種まで手を広げ、その従業員の家族にまで接種するとまで発表していた。

 数日後、知人から、勤める会社のグループでもワクチン接種が始まるとの電話があって、それは安心だねと喜んだ。7000回分ながら全員分ではないので、どんな順番になるのかなとも言っていた。6月28日には、河野担当大臣は、あちこちの会社の接種会場にまで出かけて、その加速ぶりをアピールし、そんな報道も一斉になされた。KADOKAWAグループや吉本の接種会場では、漫画のキャラクターやお笑い芸人と記念写真を撮ってはしゃいでいた。

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6月28日、吉本新劇において、東京会場?

 ところが、職域接種の要望が多すぎて、余分に上乗せして申請する会社もあるとか、配送に問題があるとかで、受付を一時休止すると発表したのが6月23日。受付を休止するのだから、受付済みの会社は、大丈夫と思っていたところ、知人からは、社内での接種希望者を募り始めるという段取りになっていた7月5日、突如、供給が滞っているので、ワクチン接種は中止になったというメールが入っていた。ええーそんなことってあるの?と驚き、わがごとのように腹立たしい思いをしている。

 今日、7月7日の報道によれば、なんと5月連休頃には、モデルナのワクチンの4000万回供給が不可能なことが分かっていたというのである。

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7月7日「朝日新聞」より

 そもそも、政府がワクチンメーカーと協議した、合意したとかのニュースは、「捕らぬ狸の皮算用」であったのだ。その上、実現不可能なことが分かりながら、ワクチン接種を加速させる、加速していると、ウソをついていたことになる。都議選が終わったとたん、実はと、不都合な事実を開陳するに及んだというわけか。なんともお粗末な顛末であることか。

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いずれも7月7日テレビ朝日「羽鳥モーニングショウ」のパネルより

 住まいの隣町でもある八街市で、下校時の児童の交通事故で死傷者を出した事件、歩道も路側帯もない、交通量の多い道路での事故であった。私も、数年間、交差点の一つで、小学生の登下校時の見守りを続けていただけに、これも他人事には思えなかった。全国の通学路の安全点検と整備を指示したという菅総理、八街の事故現場に出向いて花を供えたというニュースには、いささか驚いた。現場に赴くことでは、なんの解決にもならない、これも都議選前のパフォーマンスにも思えたのである。

 

 

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