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2022年1月24日 (月)

1929年、貞明皇后は詠んでいた!「世の人にひろくたからをわかつこそまことのとみといふべかるらめ」

 論文とも言えない、エッセイにしてはいかにも気の利かない原稿ながら、「貞明皇后の短歌」について書き終えた。活字になるのはいつ頃のことか。
 貞明皇后(1884~1951年)は、明治天皇には皇太子妃として、大正天皇には皇后として、昭和天皇には皇太后として、天皇三代に仕えた人だった。貞明皇后の歌集や伝記などを読んでいると、15歳で、嘉仁皇太子と結婚し、病弱な夫を助け、女官制度の改革などにも取り組み、天皇家の一夫一婦制を確立したが、その苦労も格別だったことがわかる。天皇と政府、自身と政府との間での自らの立ち位置、長男、後の昭和天皇との確執などに悩みながら、慈善事業や「神ながらの道」に活路?を見出していく過程などを知ると、その健気さと痛ましさに、同情の念さえ覚え、のめり込んでしまいそうになる。しかし、片野真佐子さんの『近代の皇后』(講談社 2003年)と原武史さんの『皇后考』(講談社 2017年)の政治思想史からの論考に助けられながら、冷静さを取り戻すことにもなった。 そんな中で、私は、つぎのような短歌に立ち止まり、しばし考えさせられた。

・かなしさを親はかくしてくにのためうせしわが子をめではやすらむ」(1907年)

・生きものににぎはひし春もありけるをかばねつみたる庭となりたる(1923年)

・世の人にひろくたからをわかつこそまことのとみといふべかるらめ(1929年)

 1首目は、日露戦争後に詠まれたものだが、太平洋戦争下では、決して公には歌ってはならぬテーマであったろう。2首目は、関東大震災直後に詠まれたもので、「庭」はどこを示しているのかは定かではないが、「宮城前広場」は、震災直後は三十万人の避難民であふれかえっていたという(原武史『皇居前広場』光文社 2003年)。3首目は、1929年世界恐慌の不況時の歌で、富の格差への疑問が率直に詠まれている。1・3首目は、『貞明皇后御歌集』(主婦の友社編刊 1988年)に収録されているが、2首目は、その生々しい内容からか、上記『御歌集』には収録されておらず、伝記の一つ『貞明皇后』(主婦の友社編刊 1971年)に記されていた1首だった(148頁)。
 3首目は、「成長と分配の好循環?」などと岸田首相は叫んでいるが、この歌を「しっかり」読みこんで欲しいとさえ思う。三首とも、皇后らしからぬ、現代にあっても決して触れてはならない領域、暗部を詠んでいて、あの平成の美智子皇后だって、詠みはしなかった。
 アメリカの富裕層や欧米9か国の富豪たちが「今こそわれら富裕層に課税せよ」と提言しているというのに、日本は、日本企業は、富豪たちは何をやっているのか。

参照
ソロス氏ら米大富豪「超富裕層に課税を」(日本経済新聞 2019年6月25日)

世界の富豪102人が19日、「今こそ私たち富裕層に課税を」(2022年1月20日 AFP=時事)

 

 

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2022年1月22日 (土)

天皇制の行方(3)憲法との矛盾、整理してみると

 今年の「歌会始」
 私のしたことが。18日の「歌会始」のNHK中継を見逃してしまった。カレンダーにも、日記帳にも書いておいたのに。その頃、何をやっていたのだろう。加齢現象とするには悔しい。18日のNHK、夜7時のニュースでは、めずらしく、関係の報道はなかった。何しろ、オミクロン株の急激な感染拡大状況とその対策が、時間の大半を占め、トンガの火山爆発関連、春闘関係のニュースが続いた。他のニュースと一緒に、あのなんとも奇妙な歌の披講を聞かずに済んだのは可としなければならないだろう。

「皇位継承問題」国会に投げられたが
皇位継承問題についても、18日の7時のニュースではスルーしていた。1月の有識者会議の報告を受けた岸田首相が両院議長に投げ、その報告の説明を受けた各党代表の対応は、9時からのニュースウオッチナインでの報道となった。

 当ブログの「天皇制の行方」(1)(2)でも述べたように、有識者会議の報告は、次の2点に尽きる。

①女子皇族が結婚後も皇族としての身分を保持する
②旧宮家(1947年廃止され、11宮家51人が皇籍離脱)の男系男子を養子として皇族復帰する

の二案であった。「安定的な皇位継承策」は先送りとなったが、NHKは、世論調査を実施、①案賛成65%反対18%、②案賛成41%反対37%という結果であった。各党の反応はまちまちで、自民党の茂木敏充幹事長は「バランスの取れた報告だった。皇位継承の問題と切り離して皇族数を確保することが喫緊の課題」と表明している。「皇族数の確保」って、山からくだって街に出没する猪やクマを「確保」[捕獲」するかのような扱いではないか。とりあえず、①の女性皇族の「確保」を目指すらしい。②に至っては、75年前に廃止された宮家の男系男子を養子に迎えよ、とは、何を考えているのかわからず、時代錯誤もはなはだしい。戦前に「万世一系」などと言われた天皇家ではあるが、そもそも歴代天皇が確定したのは大正時代の末期、1926年3月、宮内省に「帝室制度審議会」のもと「臨時御歴代史実考査委員会」が立ち上げられ、同年10月には、皇統譜から神功皇后が排除されたという経緯がある。明治、大正天皇は、皇后の実子ではなかった。そんな風に継承されてきた皇位である。

「憲法にてらして女性・女系天皇を認める」という共産党の対応
そして、私が、あらためて驚いたのは、共産党の対応だった。「しんぶん赤旗」の電子版(2022年1月19日)によれば、小池晃書記局長は「日本国憲法では、第1条で、天皇について『日本国の象徴』『日本国民統合の象徴』と規定している。この憲法の規定に照らせば、多様な性を持つ人々によって構成されている日本国民の統合の『象徴』である天皇を、男性に限定する合理的理由はどこにもない。女性天皇を認めることは、日本国憲法の条項と精神に照らして合理性を持つと考える。女系天皇も同じ理由から認められるべきだというのが、日本共産党としての基本的な立場だ」と述べている。
  たしかに、平成からの天皇代替わり直後の「しんぶん赤旗」(2019年6月4日)の「天皇の制度と日本共産党の立場 志位委員長に聞く」(聞き手 小木曽陽司・赤旗編集局長)のインタビューで、
志位委員長は「私たちは、憲法にてらして女性・女系天皇を認めることに賛成です」とし、つぎのように、続けている。

 「日本国民統合の象徴」とは、天皇が積極的・能動的に国民を「統合する」ということではありません。もしかりにそのよう な権能を天皇に認めたら、政治的権能を有しないという憲法の制限条項と矛盾するという問題が生まれてくるでしょう。「日本国民統合の象徴」という憲法の規定は、さまざまな性、さまざまな思想、さまざまな民族など、多様な人々によって、まとまりをなしている日本国民を、天皇があくまで受動的に象徴すると理解されるべきだと考えます。

理解しがたい説明、ますます窮地に
 「日本国民を、天皇があくまでも受動的に象徴する」というが、象徴に受動的、能動的もないように思うし、天皇が勝手に「国民統合の象徴」になってもらっても困る、というより、「統合される国民」と「象徴となる天皇」とう存在を認めること自体が「法の下の平等」に反するのではないか。同時に、憲法に天皇の「世襲」条項がある以上、その不平等な枠内で、男女平等をうたって、女性、女系天皇を認めるということは、本末転倒ではないのか。
 志位委員長自身も、「皇室の内部での男女平等という見地からこの問題に接近すると、『もともと世襲という平等原則の枠外にある天皇の制度のなかに、男女平等の原則を持ち込むこと自体がおかしい』という批判も生まれるでしょう」と自覚しながら「私は、そういう接近でなく、国民のなかでの両性の平等、ジェンダー平等の発展という角度から接近することが重要ではないかと考えています」と言って、天皇を男性に限定している現状をただすことは、国民のなかでの男女平等の発展に寄与するから、ということらしい。
 さらに、公明党の山口代表の衆院解散直後の演説(2021年10月14日)で、共産党が「天皇制は憲法違反、廃止すべきだ」と言っているなどとの攻撃をされたのに対して、共産党の小池晃書記局長は10月15日、記者会見で、「わが党の綱領には、『天皇の制度は憲法上の制度』と明記しており、『憲法違反』であるわけがない。しかも、天皇の条項を含め、『現行憲法の前文をふくむ全条項をまもる』としている」と指摘、「二重の意味で誤りであり、荒唐無稽で完全なデマ発言だ」と厳しく批判した。
 また、昨年末には『中央公論』(2022年1月)において、山口代表が、共産党は「法の下の平等、国民主権と天皇制とは両立しないから」「天皇制は憲法違反の存在」と主張していると指摘したことに対して、『しんぶん赤旗』には、次のような記事があったらしいが、電子版では見当たらなかった。記事は、山口代表が、共産党綱領の「一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく」の部分を取り上げて、「法の下の平等原則と世襲の天皇の制度が両立しない」と曲解しているという(「公明代表、共産党攻撃を正当化」『しんぶん赤旗』2021年12月28日)。
  その根拠としてつぎのような一文が続く。「そもそも憲法14条は『国民』の『法の下の平等』を保障したものであって、天皇は象徴としての地位にあるかぎり、その憲法上の地位は『国民』とは区別されたものであり、『法の下の平等』を享有しません。このことは広く共有された論点です」と。さらに、綱領の「人間の平等の原則」は「自然人である人間がすべて平等であるということであり、現在の憲法の枠内で天皇を除外した『国民の平等』とは異なります。」というのである。

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 天皇は自然人ではない?!
 「え?天皇は自然人ではない」と私には読めたのである。そうだとしたらいったい何なのだろう。人間天皇と地位とを区別せよとでもいうのだろうか。天皇の象徴としての地位は「国民」とは区別されたものであり、「法の下の平等」は享有しないというならば、何をいまさら「女性天皇、女系天皇」に賛成などというのだろう。基本にたちかえれば、天皇制を「天皇の制度」と呼び変えたところで、「国民主権」と「天皇の制度」とは両立しないのは、当然のことではではないのか、と私は考える。ただ、宮中祭祀と神道との関係に触れないまま、創価学会を母体とする公明党が言うことか。「おまいう」の部類かもしれない。
  また、先の綱領の続きでは「一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである。」と宣言しているわけで、少なくとも、「国民主権の原則の首尾一貫した展開のため」に努力をすべきはずなのに、共産党は、目の前の、ともすれば、情緒的で移り気な国民の動向を気にするばかりで、現憲法内の矛盾を、「矛盾」として認めることをなぜそれほど拒むのだろう。言を弄して、矛盾を矛盾として認めないことを助長するような解釈や弁明を繰り返している。それでいて、支持者を増やすばかりか、減っているのが現実である。
  いま、天皇家が断絶して、天皇制が消滅したからといって、困るという国民がどれほどいるのか、とくに、若年層にあっては、なおさらのことであろう。何が何でも天皇制を残したい人たちというのは、どこかで利用してきた、利用したいと考えているからではないか。

  そもそも、共産党が、2004年の綱領改定のとき、「君主制の廃止」を綱領から削除したのはなぜか。前述の志位委員長のインタビューでは、「日本国憲法の天皇条項をより分析的に吟味した結果」だとし、改訂前は、戦後の天皇の制度について「ブルジョア君主制の一種」という規定づけをしていたが、主権という点では、日本国憲法に明記されている通り、日本という国は、国民主権の国であって、君主制の国とはいえないことから、民主主義革命が実行すべき課題として「君主制の廃止」を削除した、という主旨のことを話している。現憲法施行後、半世紀以上も経っていたのに、「より分析的に吟味した結果」というのも、にわかに信じがたい。

  かつての、2010年、鳩山由紀夫首相の「沖縄の普天間基地移転、県外を断念」表明の折の「学べば学ぶほど」の言を思い出してしまうのだが。
https://www.youtube.com/watch?v=h7md9o_4_SE

 

 

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2022年1月12日 (水)

ものを言う気も失せる?!近頃の歌壇

   前の記事で、「書き続けたい」など宣言したものの、もう、近頃の世の中や小さな短歌の世界を見ていて、何を言ってもむなしくなる日が続いたりする。気を取り直して、植物図鑑や年表を取り出して眺めたり、パソコンに向かったりするが、いっこうに原稿は進まない。断捨離もはかどらず、帰省した娘には、しっかりと叱られる年始だった。以下は、11月に送稿した『ポトナム』の歌壇時評である。

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   昨年三月号の本時評*でも触れたのだが、松村正直の「短歌時評」(『朝日新聞』二〇一九年一二月二〇日)が「雪見だいふくだとあまりにふたりで感なのでピノにして君の家に行く 月」(石井大成)を引いて、なんとも不安定な「ふたりで感」という造語が、二人の関係に「ぴったりではないか」と言い、「最先端」の作品と評価していた。
*2021年3月3日「現代短歌の”最先端””最前線”とは」(http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/03/post-794792.html) 
 また、最近、山田航による同紙の「短歌時評」(二〇二一年一〇月二四日)でも、「ふたりで感、遠い感」と題して、上記、石井の一首や同じ一九九八年生まれの郡司和斗の「遠い感 食後に開けたお手拭きをきらきらきらきら指に巻いている」を引き、「ディテ―ルを突き詰める従来のリアリズムの方向に逆行して」、「雑でゆるいからこそリアル」と評価していた。私は、どちらの歌にもなじめず、「勝手にしたら」の感想しか持てないでいる。一九七〇年生まれの松村と一回り若い山田の評価には若干の違いはあるが、先輩歌人としての自負と過褒がないまぜになっているのが気になった。
  昨年九月、『現代短歌』が組んだ、一九九〇年以降生まれの六〇人のアンソロジー特集では、それらの作品を対象とした、一九八九年生まれの大森静佳と薮内亮輔の対談には、興味深いものがあった。対談は、身近な先輩の、よき理解者であるという雰囲気の中で進められていた。ちょうど石井、郡司の二首に触れている部分で、「身のまわりのこと、トリビアルなことを詠っているようだけど、言葉を工夫しようというのは通底してるんですね」「そうそう・・・」というのが、二人の結論であった。「言葉の工夫」というならば、多くの近・現代の歌人たちの骨身を削っての工夫と努力と比べて、少し甘くはないのか、の疑問も残った。
  特集の六〇人に限っても、一括りにはできないが、アンケート「最も影響を受けた1首」についても、かなりのばらつきがあるのがわかる。三票集めたのが、俵万智、雪舟えま、笹井宏之、平岡直子、小原奈美。二票が与謝野晶子、葛原妙子、穂村弘、小島なお、五島諭、服部万里子、大森静佳、山中千瀬、浅野大輝。一票の中には、啄木、茂吉、牧水、佐太郎、修司に続き、岡井隆、山中智恵子、小野茂樹なども登場するが、他は、自分たちと同世代の作品がほとんどらしく、私などは、初めて接する名前もあった。ちなみに、塚本邦雄、春日井建、岡野弘彦、馬場あき子、佐佐木幸綱はだれからも引かれていないし、中学校の国語の教科書すべてに登場する栗木京子の「観覧車」の歌もなかった。ちなみに、『ポトナム』の松尾唯花は、晶子の一首をあげ、安森敏隆前代表との出会いを語っていた。
  こうした現象をどうとらえるべきなのか。東郷雄二は「歌壇時評」(『短歌』二〇二一年一〇月)において、「少し意外だったのは穂村弘(一九六二年~)がトップではなかったことだ。一九八一年生まれの永井祐の世代の歌人はほぼ全員が穂村チルドレンである。永井より十年後に生まれた世代は穂村以後の歌人の影響下から出発したことがわかる」とし、特集自体、歌人の世代幅が狭いのが特徴だが、「昔の歌人よりも、自分の年齢に近い身近な歌人に共感を感じる傾向が見える。世代の輪切りがいっそう進行しているのだろう」と総括、「穂村チルドレン」とは、言い得て、頷けるものがあった。
  穂村の第一歌集『シンジケート』(一九九〇年)の新装版(講談社)が出るほどだから、その影響力はまだ大きいのだろう。短歌総合誌の露出度も高いし、『朝日新聞』紙上では、「フロントランナー」(二〇二〇年一一月二八日)として登場、昨年からは、同紙の「言葉季評」を執筆するという活躍ぶりである。(『ポトナム』2022年1月号)

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1月7日朝、雪に覆われたエサ台、鳥は来らず

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2022年1月 3日 (月)

書き続けたい

暮れから新年にかけて、いただきものにずいぶんと助けられた。大事に保存しておいた、Sさんから立科のリンゴ園から送っていただいた蜜入のリンゴ、果樹園を手掛けるYさんからの黒イチゴ、まさにブラックパールの名に恥じない。Tさんからは、長野の親類からの野沢菜漬けのおすそ分け。連れ合いの二人の姉からは、キンメダイの姿煮、猪の肉。姪からはセゾンファクトリーのドレッシングのセット、娘からは、通販で、丹波篠山の青山米と厚いのし餅が届けられた。このめぐみを力に、ことしも書き続けたい。

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2022年1月 2日 (日)

新春

新年のごあいさつ申し上げます。
いたらないブログですが、お立ち寄りいただきありがとうございます。
ことしもどうぞよろしくお願いいたします。というより、まず、もっとまめな更新をしなければというのが、ことしの願いです。

皆様のご健勝を祈ります。

2022年新春

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 大晦日、元日と一歩も外へ出なかったので、散歩がてら、3時過ぎにひとり家を出た。連れ合いはイオンへ買い物という。壊れてしまった目覚まし時計を依頼した。まず、近くの中学校の100メートルの直進コースと200メートルトラックとを回った。青い細かい砂で整備されていたので、かつてよりよほど歩きやすかった。そして、初詣というわけではないが、八社大神まで足を延ばした。風もなく西日がきついくらいで、雪国の人には申し訳ないようなお天気だった。4200歩。

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元旦には、ご近所の神主さんがお祓いをしてくださるのが恒例である。

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奉造灯篭の文字と元禄、青菅村の文字が読める碑二基。

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この彫刻は、かなり古いのだろう。八社はもともと十二神が祭ってあったというが、青菅村のとなりの小竹村に四社が分かれたという。後ろの木立は、室町時代の臼井城の支城、井野城跡で、発掘はされたが埋め戻されている。

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左手が八社、右側は、かつて北部調整池であったが、開発に伴い親水公園となった。いま、八社の森は、マンションや小ぶりな雑居ビルに隣れることになった。最近、猪出現の看板が出た。

 

 

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