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2022年6月29日 (水)

自衛隊の「黎明の塔」参拝中止は何を語るのか

 沖縄には、まだ行かねばならない場所がたくさんあり、コロナ禍や当方の体調もあって、諦めるほかないないと、気持ちはあせる。今年の慰霊の日も、家で黙祷するほかなかった。

 翌日の『琉球新報』デジタルによれば、陸上自衛隊第15旅団の幹部らが、慰霊の日の明け方に「黎明の塔」に参拝するのが、2004年来の恒例行事だったが、今年は中止、「確認」できなかったというもの。従来から、自衛隊サイドは、あくまでも私的な参拝であって、組織的なものではないと言い続けてきたが、6月9日、『琉球新報』は、ある活動家の情報公開によって 「私的に(制服着用)黎明之塔を含む各施設に慰霊を実施」という報告文書が防衛省陸上自衛隊幕僚監部の陸幕長、陸幕副長、人事教育部長に共有されていたことが判明し、決裁欄には「報告」「部長報告後呈覧」などの記載があったことを報じていた。

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公開された文書、『琉球新報』(2022年6月9日)より。

 「黎明の塔」とは何か。沖縄県と南西諸島の守備に任じられた第32軍司令官の牛島満(大将)と参謀長の長勇(中将)の慰霊のための塔で、糸満市摩文仁の丘の平和祈念公園の85高地と呼ばれる崖の上に、1952年、元部下や関係者によって建てられている。

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 地図で見るように、「平和の礎」以外にもさまざまな慰霊碑が建てられている。この塔の参拝が、なぜ問題なのかといえば、一つは、1945年4月1日米軍の本島上陸以降、住民を巻き込んだ凄惨な地上戦は、天皇・軍部の意向を受けて、犠牲者は拡大した。さらに、第32軍司令部は、1945年5月下旬、首里城の地下壕から轟壕を経て、この地まで追い詰められた末、高台の壕から、6月19日、牛島は最後の軍命令「最後まで戦闘し、悠久の大義に生くべし」とゲリラ戦を指示した。6月22日には、大本営は組織的戦闘終結を発表、23日には、この壕内で牛島と長が自決したという経緯がある。本土の軍部、32軍司令部の状況判断に大きな誤りが、島民の四分の一が犠牲になったという悲劇をもたらしたという怨念がある。
 さらに、戦後の自衛隊がかつての軍隊の組織や体質の改革がなされていないという実態と不信感が島民、ひろく国民の間に根付いているからではないか。

 個人的には三回ほどのわずかな沖縄訪問、短い年月ながら『琉球新報』の購読を経て、理解できることもあったが、まだ知らないことが圧倒的に多い。

 今回は、一個人の情報公開によってはじめて確認された事実、なぜ、地元や全国紙・誌などのマス・メディアや研究者が見逃してきたのだろうか。
 国会論議にしても、『週刊文春』のスキャンダル報道によって、敵失に追い込んだつもりの情けなさ、政党への助成金、議員の調査研究費は、どんな使われ方をしてきたのか、国民は監視しなければならない。
 昨夜、この記事をアップしようとしたが、睡魔に勝てず、きょうになった。今朝の『東京新聞』の「こちら特報部・ニュースの追跡」で「陸自、未明の参拝確認されず/「沖縄慰霊の日」18年間続いていたが・・・」の記事が目についた。

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6月24日『琉球新報』より。6月23日未明、これだけの報道陣が待機する中、中止に追い込まれたのは、9月に控えた知事選に配慮してか、の報道もある。

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「黎明の塔」と向き合った、壕の脇には軍人・軍属をまつった「勇魂の碑」がある。2014年11月撮影。当時、修学旅行生は、平和の礎、資料館あたりまでで、険しい階段を上ってくる人はいなかった。眼下に見下ろす海と崖、崖の茂みの中にはまだ収集されない遺骨もあるという。

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2014年11月、黎明の塔を訪ねた折のレポートに以下があります。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141111146-f07.html

 

 

 

 

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2022年6月26日 (日)

忘れてはいけない、覚えているうちに(1)「戦後短歌史とジェンダーを研究する会」の最後の会計係

 あまり好きな言葉ではないが、「断捨離」のさなか、身辺整理を始めてはいるが、なかなか片付かない。この間は、台所の食器類を整理した。まるで使ってないワイングラスのセットやコーヒーカップ、菓子皿や茶たくなどを取り出してみた。近くの散歩コースにある高齢者施設には、いきなり声をかけさせてもらった。若い施設長がやって来て、「ほんとに欲しいものだけでいいんですか」「これはお客さん用に」「花びんはありがたいです。季節の花は、皆さんよろこばれますから」と段ボール一杯ほどだが引き取ってくださった。雑誌や本、ノート、コピーした資料、手紙などになるとそう簡単にはいかない。

 古いファイルの一つを開いてみると、「戦後短歌史とジェンダーを研究会 会計ノート」と会場借用料の領収書が出てきた。記帳によると、2002年11月30日から2009年11月20日までで、残高2805円とあり、現金が入った封筒が挟まれていた。ノートによれば、私が、2009年6月から会計係を務めていたらしい。

 この会のあらましは、『扉を開いた女たち―ジェンダーからみた短歌史』(砂小屋書房 2002年3月)の「あとがき」にも記しているが、1995年秋、阿木津英の呼びかけで、1996年1月、銀座の「滝沢」で8名の女性歌人によって立ち上げられた。当初は、ほぼ2カ月おきに、戦後の短歌雑誌を、ひとまず1953年まで読み込んでみようということで、交代のレポートをもとに検証を進めた。そして、その成果は、最後まで残った阿木津、小林とし子と私の3人の共著『扉を開いた女たち』となった。この書は、東京女性財団の出版助成100万円を受けたことも忘れ難い。当時の石原都知事は、2001年度をもって、この事業を廃止してしまったのである。

 その出版を受けて、あたらしいメンバーで、再スタートした痕跡が、上記ノートに残されていた。2002年11月、銀座ルノアールで、上記の阿木津、小林、内野に、森山晴美、藤木直実、佐竹游が参加、その後は、空室を求めて中央区の区民館―銀座、人形町、新場、久松町、堀留町、京橋・・・と転々とした。途中、浜田美枝子も参加したが、去るメンバーもあって、2010年9月7日、銀座ルノアールの会で、研究会は中止となった。その成果を会として、まとめられなかったのは残念な思いもするが、その後は、各自が、ここに挙げるまでもなく、自らの研究成果や歌集を出版され、活躍されているのは、かつての、あの熱量を懐かしむとともに、心強くも思う昨今である。

 残高は、私がいつも古切手をお送りしている、かにた婦人の村「かにた後援会」(千葉県館山市大賀594)にカンパさせてもらうつもりなのだが、それでよろしいものか。

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先日、シルバーサービスのK
さんたち二人にお願いして、ドクダミほかの草引きをしていただいた。二年半ぶりなので、今度は早めにと言われてしまった。7月初めには、庭木の剪定もお願いしているが、スケジュールが込んでいるそうだ。写真左、数年前、移植したあじさいも今年は咲いてくれそう。

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2022年6月19日 (日)

今、「自治会と寄付金」はどうなっているのか~日赤、社協、消防団、地域の祭り・・・、佐倉市は?!

 定着しつつあった「寄付は個人の自由」

 昨年度、十数年ぶりで、地域の自治会の班長の役が回ってきた。コロナ禍のため、活動は極端に縮小し、月一回の班長会の参加とそのときに手渡される会報と行政からの配布や回覧物を班の人たちに届けるのが仕事だった。
 その中には、日本赤十字社、市の社会福祉協議会への寄付へのお願いのチラシと当自治会が用意した集金袋もある。当ブログでも、相当しつこく?自治会が会費以外に、他団体への寄付を募るのは違法だと言い続けてきたし、もう20年前にもなろうか、私が自治会長を務めていたとき、役員会での協議の末、班長の戸別訪問による一律500円会費(日赤の場合は「社資」)の集金を廃し、自治会員の自由意思による寄付ということで、集金袋の回覧方式に変更し、定着しつつあった。
 私たちの自治会では、集金袋を回す際に、集金袋には、寄付は強制はでなく自由意思によるもので、会費(社資)として一口500円以上収める者は小袋に住所氏名を記して入れることになり、領収書は後で発行、届けるという仕組みとなって久しい。何回か当ブログでも紹介したが、その上、近年には、自治会長名による「補足説明」が集金袋といっしょに回覧されるようになり、寄付は自由意思によるとの念押しもされて、「進化」してきたなと思っていた。私としては、さらに自治会が「募金」に協力すること自体、止めにして欲しいと願うばかりなのだが。
 さらに、いつからか自治会が拠出するようになった「消防団協力金」、また、地域のNPO法人となったボランティア団体へ団体会員として納めている会費、地域の商店会などによる広域の祭りへの協力金が自治会財政から支出されていることも気になっている。これまでも、消防団員が特別地方公務員であることからその違法性が問われ、あとの二者についても、会員の意思にかかわらない自治会としての支出は、適切ではないとする意見書や要望書を佐倉市や自治会にも提出してきたが、改まる気配はない。

 先日、佐倉市が、毎年、年度初めに、市内の自治会長、町内会長・役員を集めて実施する説明会に配布する「自治会等役員の手引き」を、久しぶりにホームぺージで確認したところ、「手引き」の曖昧な文言は、相変わらずではあった。ところが、これはいつからホームページに載せるようになったのか不明だが、問答式の「自治会等問題解決の手引き」というものが掲載されていた。「令和3年4月改訂」版に「募金の収集で悩んだら・・・」①という頁に行き当たった。拡大して読んで欲しい。

朱文字で、コピーしてみると・・・。
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問 募金の収集で悩んだら・・・
事例 (前略) A自治会長は、募金を自治会費にあらかじめ上乗せして集めることを考え、総会にかけることとした。
一つの解答案
1.募金の一律収集は危険
 自治会費から寄付金や募金等を出すことは危険です。寄付金や募金は、本来、個人の自由な意思のもとに行われるものです。一方、自治会費は、会員に対して金額の差が生じる場合があっても会員であることを理由に一律に課されるものです。特に事実上自治会が抜けられない等の状態にある場合には、思想・信条の自由を侵害する可能性が高まります。この様な募金の収取を定める総会決議は無効となる可能性が高いです。

裁判例としては以下のものがあります(略)

2.会費からの募金への振り替えも危険
 上記の裁判例の趣旨は、一律徴収というやり方の問題ではありません。また、自治会からの制裁的な対応があることを問題にしたものでもありません。ポイントは会員の意思に反するような方法で募金を集めてはいけないということです。したがって、会員の同意もなく自治会費の一部を募金へ流用してしまうようなことも危険です。
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 上記の文書①「1.募金の一律収集は危険」の後略部分の「裁判例」は、2008年8月31日最高裁決定により上告棄却となったので、大阪高裁2007年8月24日確定した判決の要旨である。判決文というのは、いつ読んでも、何回読んでも、意味がとりにくいし、判決独特の言い回しがあるので、まさに要注意なのである。とくに、佐倉市が要約した上記下線部分「一方、自治会費は、会員に対して金額の差が生じる場合があっても会員であることを理由に一律に課されるものです。」などは、どういう状況を指しているのかわかりにくい。しかし、見出しは「募金の一律収集は危険」と警告しているのである。
 また、「2.会費からの募金への振り替えも危険」の下線部分以降の「ポイント」部分は明快だが、前段は、「一律徴収も可」、「自治会の制裁的な対応も可」とも読めないか。しかしここでも、会員の意思に反する方法での募金集め、「自治会費の募金への流用が危険」であることを警告していたのである。これまでの、「手引き」などでの曖昧表現や文言に比べると、ともかく「募金の一律徴収」と「自治会費の募金への流用」が自治会としては危険なことを明言するようになったとの感慨もある。

 佐倉市は、なぜ後退したのか

 ところで、この記事を書くにあたって、もう一度、市のホームページににアクセスすると、6月1日付で、「自治会等役員の手引き」の令和4年度版と「自治会等問題解決の手引き」が掲載されていた。あらためて、両者の必要個所を確認してみると、前者の「手引き」の内容は前年度とほとんど変更はなかった。後者の「問題解決の手引き」の表紙には「令和3年4月改訂」と記されていたので、これも昨年度と変わりはないだろうが、念のため、同じ28頁の「募金の収集で悩んだら・・・」②を見ると、設問も変わりがないまま、下記のように変更されていたのである。

 裁判例はまったく同じながら、その前後を拡大して読み比べて欲しい。
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一つの解答案
〇募金の一律収集は注意が必要です
募金を自治会費に上乗せして集める場合は注意が必要です。募金は自治会費に上乗せして強制的に徴収するとした決議は無効であるとした裁判例があります。

裁判例としては以下のものがあります。(略)

〇自治会内で募金について様々な意見が出た場合
募金は任意であり、強制力を伴わないものです。会員から募金について様々な意見が出た場合は、総会や役員会等で十分話し合ってください。
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 最初に、ホームページで閲覧した日は、何日だったのだろう。5月下旬だったようにも思う。「問題解決の手引き」の方は「令和3年4月改訂」と銘打って、何の変更もないような体裁ながら、少なくとも、28頁に限っては、重大な改変がなされていたのである。昨年度の「警告」は何であったのかの思いが強い。「警告」は、いつの間にか?実にどうともとれる短い文章に変更されていた。「自治会と寄付金」の佐倉市のスタンスは確実に後退したのである。昨年度分も、一昨年度分も、過去のものはホームページ上では確かめることができない。これって、もしかっしたら、公文書改ざん?!

 一律に集めて欲しい、上乗せして集めて欲しい募金団体からのクレームでもついたのか、そうした団体に関係のある会員のいる自治会やいささかでも手間が省けると考えた自治会役員たちから抗議があったのか。いや、行政内部で異議が出たのか・・・。

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上記は、拙稿「私の視点/自治会と寄付金~一律集金に異議を唱ええよう」『朝日新聞』2014年3月17日。2016年には、TBS『白熱ライフビビット』の「自治会特集」コーナーに出演?したり、『朝日新聞』の「自治会は、今」シリーズの取材を受けたりしました。

なお、当ブログの関連記事の主なものをまとめてみました。その他の関連記事は、ブログのカテゴリー「寄付・募金」の検索で見ることができます。

自治会費からの寄付・募金は無効」の判決を読んで―自治会費の上乗せ徴収・自治会強制加入はやっぱりおかしい(2007年8月31日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2007/08/post_6d09.html

赤い羽根共同募金の行方~使い道を知らずに納めていませんか1~3(2009年12月7日、9日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/12/post-2f90.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/12/post-dd38.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/12/post-8c19.html

自治会の募金・寄付の集金の問題点~やっぱりおかしい、全社協や共同募金会の考え方(2010年11月8日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/11/post-1838.html

消防団・社協・日赤などへの寄付を強制されていませんか~自治会の自治とは(1)(2)(2017年4月9日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/04/post-8f66.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/04/post-7804.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/11/post-1838.html

赤い羽根共同募金」の使い道、ふたたび(2019年10月2日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/cat20187440/index.html

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2022年6月11日 (土)

戦時下に、ひたすら家族を歌い、房総の地を詠み続けた伯父がいた~若くして、病にたおれた無念を思う(1)(2)

戦時下に、ひたすら家族を歌い、房総の地を詠み続けた伯父がいた~若くして、病にたおれた無念を思う(1)

昭和十一年
大利根の曲りて廣く見ゆるところ浚渫船は烟ながしぬ(佐原短歌誌抄)

まばゆくてま向かひがたき入りつ日にしばし目つむりあたたまりけり

昭和十二年
大土堤に登りてゆける子供たち空のさ中に見えて遊べり(寒光) 

ラヂオをばかくるべしと言ひ止めよと言ひ妻起ちゆかし心さびしも

傾きて石の祠の小高きに野火はするどく燃え寄りにけり(野焼)

椿咲く忠魂の碑に人寄りて他愛なきこと語り居にけり(さくら)

銅像は桜の上にそびえたり灯ともし頃の公園の空を

わが命つたなきものかこの十年むしばまれつつ生き来りける(病床吟)

附添ひをやめてかへれる妻はいま花札など送りよこしぬ(病院にて)

出征兵士の列車止まれる駅の屋根に早やも積もれる樫の落葉か

萬歳のとどろく汽車の中にゐてわが腑甲斐無き病を憶ふ
『宮田仁一作品集』(LD書房 1988年8月)より

 母方の伯父宮田仁一は、1901年生まれで、1941年に亡くなっている。会うことはなかったが、母方の叔母やいとこたちから話は聞いていた。とくに、長女だった母は、二歳年上の長兄仁一は、自慢の兄だったらしい。千葉県佐原で中学校卒業後、父親と同じ銀行員になったが、すぐにやめて、その後の事情は、聞いてはいないが、英語は先生に教えるほどだったと言い、当時は、ヴァイオリンも得意とし、東京には本やレコードを買いに、映画を見にも出かけていたらしい。兵役は、佐倉連隊から近衛歩兵第4連隊に移ったことも、母は誇らしげに話していた。仁一は、いっとき、東京で、サイレント映画の楽士を務めていたこともあったというから、「大正デモクラシー」のさなかに青春時代を送ったのではなかったか。

 その片鱗は、いま私の手元にある一枚のハガキにも残されていた。左の宛書(元は鉛筆書きで、後から墨でなぞった形跡が見える、薄れるのを怖れて、母がなぞったのかもしれない)は、母が千葉県女子師範学校本科第二部(高等女学校卒業後の一年制)の卒業後、教師生活を始めたのが伊能小学校だったと聞いているが、消印は読み取れない。おそらく、1922年(大正11年)年前後、東京の仁一から母に届いたハガキである。2006年には成田市に編入された伊能村にあった分教場である。ハガキの裏には、仁一の作詞・作曲と思われる歌詞と楽譜が書かれているが、薄れてしまって、判読が難しい個所もある。

ああ世の中はゆめなれや/□の小草をふみわけて/花の錦を身にまとひ/吾が故郷へきてみれば

誓ひし山はかはらねど/くみし水はかはらねど/君は昔の君ならで/悲しや去りて人の花

「おれは最高音楽と俗歌との間のリズムの妥当性と□□とを研究してゐる」との文面も読める。

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 宮田仁一は、短歌も俳句も作っていたし、クラッシク音楽にも詳しかった。長女の歌人でもあった河野和子(『橄欖』所属)が、五十年忌にあたる1988年8月、『宮田仁一作品集』(LD書房)として遺されていた短歌と俳句をまとめた。出版当時、もちろん私もいただいていたのだが、歌の背景なども知りたい、きちんとした感想も伝えたいと思いながら、当方の佐倉市への転居、転職などが重なっていたこともあって、その後も失礼を重ねていた。佐原に住んでいた河野和子とは、同じ県内なので、いつでも会えるような気がしていたが、和子さん、カッちゃんは、十数年後に鬼籍の人となってしまったのである。    そして、今、『宮田仁一作品集』を読んいると、果たせなかった夢、妻と三人の子どもを残し、時代をも嘆き、水郷佐原を愛してやまなかったが、闘病の末、41歳で亡くなった伯父の口惜しさが、思われてならなかった。肺結核からの腎臓結核で片腎を失い、父親から経済的支援を受けながら、養鶏を、養蚕を試みるも、家族を養えない闘病生活が続いた。それでも、千葉の大学病院の近くに下宿して療養生活や入退院を繰り返していた暮らしが歌われている。もちろん一冊の歌集も句集も残すことはなかった。個人的な感慨ながら、率直で、やさしい多くの作品には、ときには涙して読み続けた作品集だった。ここに、その一部を記録に留めておきたい。
 伯父は、1927年に結婚、佐原に落ち着き、長女和子、長男を授かったが、幼い長男を病気で失った頃からか、俳句や短歌を作り始め、地元の仲間たちと句会を開き、雑誌も発行しており、その一部が作品集に収められている。短歌の方は、購読していた短歌雑誌があったことは歌にも詠まれているが、寄稿していたかどうかはわからない。遺品や遺稿の中から、収集し、編集した河野和子の熱い思いも伝わってくる作品群だった。

 昭和十三年
(死児の三周年に)
壁に画きし自動車の落書は叱りたれども形見となりぬ

急性腎臓炎とわかりて医者より連れ帰りしは寒き日なり

吾子が通夜は集ふ人らにまかせつつ我は切なき思ひにふける

学校を休みたがる幼子を病と知らず行かしめにけり

(短歌日記)
積みてある薪すでにしみにけり寒き雨いま降りつづきをり

病院へ通ふ下宿にほど近く見ゆる師範学校に妹は学びき

遺りをる右腎も悪きならむと言はれ我汗ばみて緊張しぬ

樹を透きてはつかに見ゆる千葉の海ひかりきらひて春めきにけり

師範学校より竹刀の音きこえくる夕べを寒むみ佇みてをり

吾子逝きて吾子が鞦韆幾とせか雨かぜにさらされて立つなり

節分の門辺に吊す柊は祖母がなしつつ杳かなるかな

大雪を犯して活動見に行きし少年のころを思ひ出しけり

俳優の顔ぶれ移り変るのみ映画は少しも進歩してゐず

離りゐる妻を思ひて目覚むればそのままあとは眠れざりけり

一週に一度帰れる父われと会ひ居て子供らは夜更かしをせり

四十分でゆくといふ東京へゆきて見たしと脳裏に浮かぶ

長く病むたつきを噂すならむとひがみ心は妻にありけり

この汽車に遺骨を守る人らゐてその故郷へ帰りゆくなり

映画の原作者となりし友ありてその如き職う羨ましと思ふ

アララギと多磨と二つへ歌を出す進歩はせざる歌人の名あはれ

ゆくゆくは妻子が困るならむ銭をかろかろしくも費ふわれなる

金持ちでもあるが如き振舞ひを幼きときよりして来しあはれ

夕庭に白きつつじの暮れ残り子を負ふ妻は戻りにけり

むづかりし子を抱き出でて空の中の白き昼月を見するほかなし

洪水の波のさなかに映りゐるあはれに黒き電柱のかげ

入りつ日は鉄道官舎のかたはらの並み立ちそよぐポプラに射しぬ

飲み忘れし薬のまむと廊に出ぬはたと止みたるこほろぎの声

久しく家をあけしかば短歌雑誌たまり請求書も来てゐぬ 

銭なしと妻に言ひしが妻もまた銭もたざれば泪うかべぬ

子を負ひてまゆ売りて来しとふわが妻はみすぼらしくも雄々しとも思ふ

週毎に親より銭をもらひつつ幾年病院へ通ふならむか

海へ行く道 夕立の雨に会ひ県庁前の街路樹にやどりぬ

病気にて銭かかりをれどなほ写真機を買ひレコードを買はむとす

この夜頃目覚めて殊に咳出づる かの病かあらむと思ひて寝られず

水害地のはつかに実る田の端に真白き山羊はつながれてをり

防空演習の飛行機あまた飛ぶ見れば重爆などと覚えたりし吾子憶ふ

深靄に駅もポプラもほのかなる中のシグナルはね上りけり

 「短歌日記」の二首目は、まさに、妹の私の母が在学した師範学校を詠んでいる。40分もあれば、東京へ行けるのにと、好きな映画に携わっている旧友を羨ましがり、貧困に直面しながらも、カメラやレコードを買おうとする自分を戒める一面を見せる一方、つぎのような歌も詠む。

冒頭「昭和十二年」の末尾で
出征兵士の列車止まれる駅の屋根に早やも積もれる樫の落葉か

萬歳のとどろく汽車の中にゐてわが腑甲斐無き病を憶ふや

「昭和十三年」では、
師範学校より竹刀の音きこえくる夕べを寒むみ佇みてをり

この汽車に遺骨を守る人らゐてその故郷へ帰りゆくなり

防空演習の飛行機あまた飛ぶ見れば重爆などと覚えたりし吾子憶ふ

戦争の暗雲は、身近な人々へも、ひたひたと押し寄せてくる息苦しさをも歌っていた。(つづく)

 

戦時下に、ひたすら家族を歌い、房総の地を詠み続けた伯父がいた~若くして、病にたおれた無念を思う(2)

 昭和十四年
この朝のラヂオで言ひし雪降りぬ鶏の住む屋は筵掛けたり

バッハのツーヴァイオリンコンチェルト聞き居る時算術の問題を子に問はれぬ

かくばかり冷めたきものか米とぐと手を濡らしゐぬ妻臥せせしかば

買ひ与ふ事とてはなき幼年雑誌 借り集めつつ読む子となりぬ

夕焼が薄れて暮れゆくこの庭に病を忘れゐるが寂しき

妹が連れ来し子等が立ち騒ぎ魂祭る夜もしみじみとせず

夕空のあきつのむれをながめゐて 野をかへりくる妻にすまなし

いささかの蚕飼ひする身は生糸の相場をいち早く見ぬ

昂りて妻を責めたる夕つべは吾が非を悔いぬいつものごとくに

諍ひは眼にあまりたるか四歳の子われに向ひて挑みかかれり

手紙などはさみあるかと今日妻が送よこせし肌着しらべぬ

病室に陽を恋ふ幾日たちにけり三十九歳の働きざかりを

旅の歌作るによしなし歎かざらむ子規は臥しゐて歌をつくれり

さむざむと国防婦人かたまりて川の向うへ戻りゆくらし

昭和十五年
妾腹の赤子の記憶よみがへる高校受験準備してをり

十日目毎医者に支払ふ札束を出ししぶりつつ父は出したり

都合良く運ぶがままに弟を恋愛もなきところへやりぬ

女学生ら勤労奉仕の鎌もちて散らばる道をわれはゆくなり

くらぐらに起き出て村の産土神へ参りしといふ入試の朝を(和子、県立佐原高女)

江間に出て消防ポンプを洗ひをる村人達をわれは避けゆく

新体制を言挙げしつつこの村に強くいら立ちて踏むものもなし

昏れてなほ止まぬ細雨に白々と十薬の花散らばり咲けり

枯桑を透きて働く人の見ゆはるかに遠き桑畑にして

 宮田仁一は、1941年8月に亡くなるのだが、作品集には、1940年までの作品しかない。ここに挙げたのは、多く妻子を詠んだ歌に偏っているかもしれない。しばしば水害をもたらすと利根川だったが、魚釣りにもしばしば出かけた水郷の風景や庭の草花や農作業にいそしむ人々をも歌っていることも忘れてはならないだろう。また、つぎのような歌も作り続けるが、決して声高な反戦歌ではないが、憂慮する一部の国民の思いを代弁しているかのように思える。

さむざむと国防婦人かたまりて川の向うへ戻りゆくらし

女学生ら勤労奉仕の鎌もちて散らばる道をわれはゆくなり

新体制を言挙げしつつこの村に強くいら立ちて踏むものもなし

 「昭和十五年」の冒頭の二首には、やや説明がいるかもしれない。母と二人の叔母からよく聞かされた話だったのだが、この伯父も、晩年になって、このように歌っていたとなると、なかなかな複雑な人間模様だったことが、いっそう鮮明になったのである。いまは関係者が、みなが故人となられたので、私なりの理解でいうならば、つぎのようなことらしい。

仁一や母の父親は、銀行員で、二人の息子と三人の娘がいたが、その後、妻を亡くした。そして、家を出て、駅前食堂の女将だったところに住み着いしまったが、子供たちの反対もあって再婚することはなかった。息子や娘は、父親を取られたという思いがあったのかもしれない。その女将は、連れ子の娘と店を切り盛りする、いわゆる「やりて」だったらしい。そんなことから「妾」という表現がなされたのだと思う。父親とその女性との間には、一人息子が生まれ、はや、高校受験の年になり、彼は頑張って、仙台二高を経て医師となる。一方、年の離れた仁一や母たち三人姉妹の実弟、私の叔父は、例の女性の連れ子と結婚したことを詠んだのが三首目だったのである。いわば政略結婚とみていたようで、私たち家族が、東京の空襲を逃れて佐原に疎開した折も、母たち三人姉妹は、その女将と連れ子の蔭口をよくたたいていたようだった。その実弟は、実直な信用金庫勤めを全うしている。
 仁一は、そんな父親から経済的援助を受けざるを得なかった不甲斐なさにも耐えていたことになる。かくいう、私たち、疎開家族も、その祖父のお陰もあって暮らすことができた部分があったかもしれない。その頃の祖父は、食堂の奥の小さな和室で、冬は炬燵に入って食堂の客や立ち働く人たちを眺めていて、母が私を連れて立ち寄ると、なにがしかのお菓子や御馳走がふるまわれたことも確かであった。 
 疎開先で、まず世話になったのが、伯父仁一の奥さん、三人の遺児を育てているさなかに、私たち家族が転がり込んだのである。細長い庇の部屋を貸してもらって、七輪で煮炊きをしていたものの、食料も何かと融通してもらい、別の家を借りるまで、厠も風呂も使わせてもらっていた。すでに、仁一伯父が他界していたにもかかわらず、母にすれば、自分の実家という思いもあったかもしれないが、敗戦前後のお互いに苦しいときに厄介になったことになり、いま思えば、きちんとした感謝の言葉も伝える機会を失ってしまったという思いがある。

 河野和子は、母親の死後、遺品整理の中で、父親の短歌や俳句関係の資料を見出だし、『宮田仁一作品集』を編むに至ったというが、この作品集の「あとがき」の末尾に、河野和子自身の母親への挽歌が何首も綴られていた。

耐ふる事のみに終りし一生なれど母の死顔花咲くがに

色褪せぬ母との会話冬は冬の夜をぬくめつつ我らを包みき

父の遺稿編みつつ涙やまざりき国も人も貧しかりし杳かなる日よ

父の弾くバイオリンの音が聞こえ来る五十年祭の夏近づきて

 河野和子自身は、次の4冊の歌集を出版している。父宮田仁一の歌風とは違って、情熱的で、幻想的な歌も多い。いつかじっくり読みたいと思っている。まだ読み残している『作品集』の宮田仁一の俳句とともに。なお、宮田仁一、河野和子の両名は、ともに、章を違えて、新井章『房総の歌人群像』(短歌新聞社 1989年9月)に収録されている。

『花宴』 短歌研究社 1966年2月
『艶』柏葉書院 1971年2月
『移ろい』 東京四季出版 1990年10月
『ら・ろんど』 東京文芸館 1996年8月

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2022年6月 7日 (火)

『喜べ、幸いなる魂よ』(佐藤亜紀)~フランドル地方が舞台と知って

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  近年、めったに小説など読むことはないのだが、主人公がフランドル地方のゲント(現地の読み方がヘントらしい)のベギン会の修道院で暮らす女性と知って、読み始めた。というのも、すでに20年も前のことなのだが、2002年の秋、ブリュッセルに何泊かしたときに、日帰りで、ゲントに出かけて、その小さな街の雰囲気が印象深かったこと、ブルージュに出かけた日は、ふと立ち寄ったベギン会修道院のたたずまいが忘れがたいこともあって、ぜひ、読まねばとの思いに駆られた。 

  小説は、18世紀、亜麻糸を手堅く商う家に生まれた双子の姉ヤネケと養子として引き取られたヤンとの愛の物語である。読書が大好きで、数学や天文学などにも関心が深いヤネケはまるで実験かのようにヤンと愛し合い、二人の間に生まれた子は、二人と引き離され乳母に預けられる。ヤネケは、母方の叔母が暮らすベギン会修道院に入ってしまう。ヤンは、子への愛を断ち切れず引き取り、亜麻糸の商人として働きながら育てるのだった。当時の女性は子を産むことと家を守ることに専念すべきで、学問をするなど許される時代ではなく、双子の弟のテオやヤンの名前で本を出版して、認められるようにもなってゆく。テオは、野心家の市長の娘と結婚するが不慮の事故で急逝すると、市長の娘とヤンは結婚、亜麻糸商を任されることになる。ヤンは、店の帳簿を、数字に強いヤネケに点検してもらうために、修道院に通ったり、ヤネケは、二人ならば許されるという外出を利用して、しばしば生家を訪れたりして、ヤンや子供のレオとの交流もする。

  ベギン会の修道院は、一般社会と切断されているものではなく、統括する組織もなく、信仰に入った単身女性たちは、敷地内のテラスハウスのような住居を所有する。外出も可能で、居住区以外は、男性の出入りもできたという。それぞれ、資産を持ち、亜麻を梳いたり、レース編みをしたり、あるいは家庭教師になったり、さまざまな技能と労働をもって、自分で生計を立て、貯えもする。

  敷地内で、ヤネケが育てているリンゴの木、毎年少しづつ美味になってゆく果実をヤンと食す場面が象徴的でもある。市長の娘の妻との暮らしもつかの間、風邪をこじらせ急逝、今度は、ヤンが市長の座にふさわしい妻をということで、貴族の未亡人と結婚したが、出産時に死去、ふたたびひとり身になるのだ。

 ただ、成長した子供のレオは、ヤネケが母とは知らず、なつかないまま、商売の手伝いをするわけでもなく、やがて家を出てしまう。そして、ヤネケとヤンの老齢期に近づくころ、二人にとっても、フランドル地方にとっても思わぬ展開になるのだが、二人の愛は、揺らぐものではなかった・・・。

 登場人物の名をなかなか覚えられないので、外国文学は苦手なのだが、この小説でも登場人物一覧にときどき立ち戻るのだった。著者は、フランスへの留学経験があるものの、研究書などによる時代考証に苦労したに違いないが、女性の自立と愛の形を問いかける一冊となった。

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ブルージュの街を散策中、長い石塀をめぐらせている施設があったので、何の気なしに小さな戸口から入ってみると、そこには、林の中に白い建物が立ち並ぶ静寂な世界が広がっていた。旧ベギン会の修道院で、13世紀のフランドル伯夫人の手により設立されたが、現存の建物は、17世紀にさかのぼる。いまはベネデイクト会女子修道院として利用されている。ゲントには、二つのベギン会の修道院があるが、訪ねることができなかった。フランドル地方に14あったベギン会修道院は、ユネスコ世界遺産に登録されてるという。

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上が、ゲント市内全景。2002年当時の現地の観光案内書から。下は、正面が聖バーフ大聖堂。

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ゲントは、どこを切り取っても絵になるような街である。

ゲントについては、下記の当ブログ記事でもふれている。

エミール・クラウス展とゲントの思い出(2)(2013年7月9日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/07/post-d279.html

 

 

 

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