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2022年8月31日 (水)

図書館が危ない!司書という仕事

 もう、終活の方が迫っているのだが、たまに外出して、車内で就活スーツの女子学生に出会うと、「頑張ってね」との思いが募る。かれこれ60年前の就活について思い出しては、危ない橋を渡ってきたものだと、思い返す昨今である。

 つい最近、ネット上で、つぎのような見出しの記事に出会った。神戸新聞の「まいどなニュース」である。

「手取り9万8000円では暮らせない」非正規図書館員の訴え 知っていますか図書館の“現実”
8/26(金) 19:30配信
https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/omoshiro/202208/0015586692.shtml

 30年近く、図書館職員として働いていてきた身としては、やはり気になる見出しだった。最近、古巣でもある国立国会図書館の資料はデジタル化されて、検索や遠隔複写、個人配信の資料も増えたので、よく利用する。買ってもいいかな、と思う本は、まず、地元の公共図書館の所蔵を調べて、なるべく借りて読むようにしている。新刊のベストセラーものは、ブームが去ってからでないとまず借りられない。所蔵してない古い図書や学術書を読みたい場合は、相互利用制度によって他館から貸し出してもらい、多くは自宅に持ち帰って利用する。現代詩歌文学館などは、雑誌などでも貸出してもらえるが、自宅には持ち帰れず、館内閲覧・コピーしかできないながら、大いに助かっている。 
   こうして、近くの市立図書館を利用していて思うのは、カウンターの女性がよく変わることだった。市の広報で、一年限りの、いわゆる「会計年度任用職員」募集の記事のなかに、保育士、栄養士、看護師、保健師などとともに図書館職員の募集も見かけたことがある。「任期付き職員」の募集もあって、こちらの方は2年とやや長期で、待遇も職員並みとあるが、図書館職員の募集記事は見かけない。

   冒頭の「まいどなニュース」によれば、日本図書館協会の統計では、全国の公共図書館3316館の専任職員(いわゆる正規職員)の数はここ20年、減少傾向にあり、2001年には1万5347人だったのが2021年には9459人に減少、逆に、非正規職員は、職員全体の7割を占め、その9割が女性だというのである。
   30年近く前ながら、私の最後の職場だった千葉県の新設大学の図書館では、退職時、私を含めて職員二人に、アルバイト三人だった。その後どうなったか。その前に、11年間働いていた名古屋の短大図書館では、職員四人、バイト二人であった。ここは、すでに四年制大学になって久しく、新館も完成、学部新設でキャンパスは二つなったが、その後の状況はわからない。国公立大学の図書館でも、非正規職員の激増が伝えられている。

  地元の佐倉市立図書館の場合、2021年、「令和3年度の当初予算」で見てみよう。図書館としては分館を入れて4館の職員の21人分の給与・手当・共済費併せて人件費総額約1億8972万円、会計年度任用の図書整理員42人分の報酬・手当・共済費は、図書館の一般事務費のなかに約6638万円計上されている。総額を人数で割れば、ざっくり、職員856万、非正規158万と待遇の差は、信じられないほど歴然としていた。税金や共済費が天引きされるわけだから、冒頭の記事にある「手取り9万8000円」という実態に近いのではないか。
   市立図書館のみならず、学校司書の場合も、状況はかなりきびしい。佐倉市は小学校23校、中学校11校あるが、「学校図書館活性化事業/令和3年度」の説明書によると、会計年度任用職員は11人、1校当たり年間勤務数平均50日、月平均25時間という数字が示されている。報酬・手当などを合わせて1177万円になる。1人が1週間で3校を回るという目まぐるしさ、佐倉市は各校の司書配置などは念頭にないらしい。

 また、佐倉市の2021年6月市議会での質疑によれば、2021年4月1日現在、佐倉市の市職員が1006人、会計年度任用職員は63種職、819人に及ぶという(6月16日、萩原陽子議員)。図書館は、21人の職員、非正規42人なのだから、正職員は3分の1ということで、全国平均でもある。非正規職員採用を通り越して、図書館の民間委託が隣の印西市で検討を始めているという。全国的には、すでに、ツタヤが委託されて運営する公共図書館もある。佐倉市においても、学校用務員、学童保育所は、すでに、民間委託が定着してしまったようだし、近くの学童保育所は、まとめて地元開発業者のグループ会社が指定管理者になっている。政府は、「働き方改革」、「人への投資」とかを口にするが、家庭や学校でのいじめや虐待の対応の無責任さ、教員の超過勤務・人手不足、奨学金返済困難者の激増、若手研究者の任期付き採用などが引き起こすさまざまな悲劇が明らかになると、具体的な解決策が示されないまま「再発防止」とか「第三者機関設置」とかでやり過ごすことが多い。「人への投資」というならば、国民の健康・福祉、教育・研究が基本であろうに、行政の手抜き・無為無策とさえ思われる事案、企業の都合が優先されてしまう無力感に苛まれる昨今である。

 司書として働く人たちは、熱心で使命感をもっている人が多い。箱モノとしての図書館ではなく、蔵書構成、整理、選書、レファレンス、出納業務などを利用者目線でこなすためには、暮らしのできる報酬とともに、安心して、長期展望のもとで働き、研鑽できる環境が必要で、ときには他館の利用者となってみる余裕があってもよいはずである。

 新町にある佐倉図書館が、移転新築されて、来年3月には開館予定であるというが、その建設費25億が30億に膨らみ、総額37憶5000万円になるという。総合施設の中の地下スペースが図書館になるとして、市民団体が反対運動をする過程で、様々な問題が浮上、いま裁判にもなっている。そして、こともあろうに、新館の新規購入は、ヤングアダルト用と大型絵本に限るという方針が打ち出されていることがわかった。何を考えているのか、図書館は崩壊の道を歩んでいる。

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「佐倉図書館等新町活性化複合施設実施設計」のパースの一枚。この入り口のキャノピーだけでも5000万円、いまでも、必要性と安全性を問い続けたい。

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「よりよい佐倉図書館が欲しい会」の会報53号には、姿を現したキャノピーの写真が右下に収められている。なんときゃしゃな造りで、風雨に耐えられるのだろうか。城下町?佐倉に似合いそうもないではないか。

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2022年8月26日 (金)

『論潮』15号に寄稿しました~GHQの検閲下の短歌雑誌に見る<天皇><天皇制>

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 一昨年、岡村知子さんから『杉原一司歌集』を送っていただいたご縁で、日本近代文学の女性研究者を支援する同人誌『論潮』を知った。八月発行の15号に、お誘いいただき、ゲストとして、かなり長文の拙稿を掲載していただいた。これまで、雑誌やブログに断片的に書いてきたものだが、何とか、まとめることができたのは、ありがたいことだった。

<内容>
研究ノート・GHQの検閲下の短歌雑誌に見る<天皇><天皇制>90~128頁

はじめに
一 『短歌研究』一九四五年九月号に見る敗戦
二 天皇の「声」はどう詠まれたか
三 検閲下の「第二芸術論」
四 『アララギ』一九四七年一月号に見る「天皇」と「天皇制」
五 『八雲』登場
六 語りたがらない歌人たち
  内務省の検閲とGHQの検閲
  歌人はGHQの検閲をどう受け止めていたのか
  語り出す歌人たち

<関連拙著>
・「占領期における言論統制――歌人は検閲をいかに受けとめたか」

・『ポトナム』19739月、『短歌と天皇制』風媒社198810月、所収。

・「被占領下における短歌の検閲」『短歌往来』18873月、『現代短歌と天皇制』風媒社 20012月、所収

・元号が変わるというけれど、―73年の意味()~(9)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(1)~(5
  2018年107日~115

https://app.cocolog-nifty.com/cms/blogs/190233/entries/90067631

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/7352-e1cf.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/736-7809.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/73-4720.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/11/735-edf2.html

・「占領軍による検閲の痕跡」『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』 一葉社 2019年1月

・『プレス・コードの影』(中根誠著)書評「警鐘の書」『歌壇』20217

・『プレス・コードの影』(中根誠著)書評「表現の自由とは」『うた新聞』20218

 

 

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2022年8月19日 (金)

マイナポイントのCMに、いったい、いくらかけているのか

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 このところ、「マイナポイント第2弾」のCMが目に余る。5月の本ブログでも触れたが、館ひろしや新庄らの動員に、さらに松坂大輔が加わっての新聞やテレビ、ネット上CMがすごい勢いで流れている。政府は、2万円というポイントをぶら下げて、マイナンバー制度の普及を図りたい一心らしい。 さらに、マイナンバーカードと健康保険証の一体化を義務づけ、2024年度には従来の保険証を廃止!とまで厚労省は目論んでいる。

マイナンバーカード、ここまでやるの?また始まったマイナポイント

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/05/post-fd7ddf.html

  一方、日本医師会の会長は、日程的には到底無理だとの認識を示し、実態としては、システムの導入・運用可能な医療機関や薬局は、7月末日時点で26.1%だというから、ようやく4分の一というところである。なぜそんなに急ぐのか。
   デジタル化で、医療体制は充実するのか。本来、患者の生命、安全が一番のはずだ。安心して子どもが産める病院は減り、高齢者の医療費負担を倍にして、診療抑制を図ろうとしているのが露骨である。少子化対策、健康寿命の延伸とは真逆の政策でしかない。
   マイナンバーカード促進の蔭で、デジタル化のための機器・システム導入業者、広告業界と政府、政治家たちの間で、よもやあやしい、黒いカネが動いてはいないか、そんな不安もよぎる。

   コロナ感染者数の激増、死亡者・重症者の増加、医療体制ひっ迫が、繰り返されているにもかかわらず、コロナ対策の緩和は無為無策に等しいのではないか。自宅療養者の死亡の増加、トリアージによって、見捨てられる命の危機にさらされている国民がいる。

マイナ保険証導入より、先になすべきことがあるはずである。

 

 

 

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2022年8月12日 (金)

忘れてはいけない、覚えているうちに(4)小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<2>

   そして、冒頭の件にもどって、苳三は、なぜ、公職追放に至ったのか。

 その経緯は、『ポトナム』の一般会員には、なかなか伝わってこなかった。未見ながら、平成の初め、1989年、『立命館文学』(511号1989年6月)に、苳三の立命館での教え子である白川静が、その「真相」を明かしているとのことであった。以降1990年代になると、苳三について書かれた文献は、その経緯に言及するようになった。後掲の和田周三、大西公哉によるものだった。2000年代になると、白川静により詳細な経緯が知らされるようになった。

参考文献⑨⑩によると、
苳三は、「中川(*小十郎、立命館創立者)総長の意を承けて北京師範大学の日本語教授として赴任され、相互の親善に努力されたことがあり、東亜の問題にも深い関心を持たれていた。それで支那事変が勃発すると、その前線の視察を希望され、軍の特別の配慮(*陸軍省嘱託)で、河北、河南から南京に及ぶまで、すべての前線を巡られた」 *は筆者注
 とあり、『山西前線』から、つぎの二首をあげて、

 〇〇の敵沈みたる沼の水青くよどみて枯草うかぶ
 〇〇の死骸埋まれる泥沼の枯草を吹く風ひびきつつ
  *1939年3月6日作。○は伏字。(下関馬太路附近)「揚子江遡行(中支篇)」

 「この歌集において、あくまでも歌人としての立場を貫かれた。この一巻を掩うものは、あくまでも悲涼にして寂寥なる戦争の実相にせまり、これを哀しむ歌人の立場である。」として、「このような歌集が、どうして戦争を謳歌するものと解釈され、不適格の理由とされ、不適格の理由とされたのだろうか。その理由は、先生の歌や歌人としての行動にあるのではない。それはおそらく、学内の事情が根底にあったのであろうと思われる。」

 参考文献⑩の白川静「苳三先生遺事」では、さらに詳しく、つぎのような状況が記されている。

 「大学に禁衛隊を組織して京都御所の禁衛に任じ、そのことを教学の方針としていたので、もっとも右傾的な大学とみなされ、その存続が懸念されていた。それで、相当数の非適格者を出すことが、いわば免責の条件であるように考えられていた。」(253頁) 

 学内では、民主化が急がれ、進歩派とされる人たちと保身をはかるかつての陣営とが入り乱れるなか、学内の教職員適格審査委員会についてつぎのように述べる。

「故中川総長の信望がもっとも篤かった小泉先生が、その標的とされた。審査委員会は、先生の『山西前線』の巻末の一首<東亜の民族ここに闘へりふたたびかかる戦(いくさ)なからしめ>をあげて、『本書最終歌集は、所謂支那事変は、東亜に再び戦なからしむる聖戦であるとの意味をもつ一首である』

 としたが、この一首が、戦争の悲惨を哀しみ、ひたすらに戦争を否定する願望を歌ったものであることは、余りにも明白であり、この程度の理解力で先生の歌業の適否を判断し得るものではない」(254頁)と訴える。その後、白川ら教え子たち17名により再審要求書が中央審査会に提出されたが、覆されることはなかった。


 では、『山西前線』とはどんな歌集だったのだろうか。
 1938年12月12日に陸軍省嘱託に任ぜられ、22日に日本の○を出港し、28日北支の○港から上陸している。北支篇・山西前線篇一・山西前線篇二・中支篇からなり、天津・北京から前線に入り、兵士たちの戦闘の過酷さ哀歓をともにした記録的要素の高い歌を詠む。当時の立命館総長中川小十郎と支那派遣軍総参謀長板垣征四郎の序文が付されている。そして、この歌集の序歌と巻頭の一首をあげてみる。

戈(ほこ)とりて兵つぎつぎに出(い)で征(ゆ)けりおほけなきかなやペン取りて吾は(序歌) 
心ふかく願ひゐたりし従軍を許されて我の出征(いでゆ)かんとす(従軍行)

 従軍中の1月中旬からは半月以上の野戦病院での闘病生活を経験するが、南京、上海を経て、1939年4月1日に帰国する。巻末には「聖戦」と題する五首があり、最後の一首が「東亜の民族ここに闘へりふたたびかかる戦(いくさ)なからしめ」であったのである。
 そこで、ほんとうに、先の一首だけが教職不適格の理由であったのだろうか。不適格判定がなされた年月日、判定の法的根拠は、『ポトナム』の記念号の年表や小泉苳三を論じた文献・年譜には記載がなく、あるのは、1947年6月に「昭和22年政令62号第3条第1項」(*1947年5月21日)によって職を免ぜられた、という記述である。その後の⑦の『立命館百年史』及び⑨⑩の白川静の文献により、判定月日が1946年10月26日であることがわかった。46年10月26日に判定され、翌47年6月に「教職不適格者」として「指定を受けた者が教職に在るときは、これを教職から去らしめるものとする」というのが上記政令の第3条第1項であった。
 上記の判定内容についてとなると、前述の白川文献と『立命館百年史』にあるつぎのような記述で知ることしかできなかった。しかも、『百年史』の方は『京都新聞』(1946年10月29日)の引用であった。

「小泉藤造(苳三)教授(国文学) 従軍歌集を出版し侵略主義宣伝に寄与」

  そして、⑪の来嶋による資料の提供で、全貌が明らかになってきた。苳三から窪田空穂にあてた「再審査請求」するに際して「御見解を御示し下され度御願ひ申上候」という手紙とともに学内の教職員適格審査委員会委員長名による「判定書」と苳三自身による再審査請求のための「解釈草稿」を読むことができたのである。「判定書」の理由部分は、画像では読みにくいので核心部分を引用する。『山西前線』の刊行経緯を述べた後、つぎのように述べる。

 「本書(*『山西前線』)によれば氏の従軍は他からの強制といふが如き事に由るのではなく、自らの希望に出たものである事は明らかであり且本書最終歌(東亜の民族ここに闘へりふたたびかかる戦なからしむ)は、所謂支那事変は東亜に再び戦なからしむる聖戦であるとの意味をもつ一首となつてゐる」

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来嶋靖生「ある手紙からー小泉苳三〈教職追放の闇〉」『ポトナム』90周年記念 2012年4月

 これに続き、「更に氏の主宰するポトナム誌には」として、誌上に発表された、「撃ちてしやまむ」「八紘一宇の理念ぞ輝け」などと歌う六首を無記名であげ、「もとより以上は和歌によるとはいへ、その和歌を通して、また上記の行動によつて侵略主義の宣伝に積極的に協力したもの、もしくはこの種の傾向に迎合したもので」明らかに法令に該当する者と認められるので「教職不適格と判定する」としていた。「判定書」の後半には、苳三が主宰する『ポトナム』に発表された六首が具体的に引用されていたことを知った。この部分への言及がなかったのは、六首の作者へ同人たちへの配慮であったのだろうか。
 一方、苳三は、判定理由について、当時発表していた著述論文などには一切触れず、「私が歌人として中国に旅行し、その歌集山西前線を刊行したこと、及び戦争中の多数の作品の中から僅か六首の歌をとりあげて、私への不適格の理由としてゐる。私が中国に旅行したのは、戦争といふ現実を、国民として身を以て体験し、真実を歌はうとする文学的な要求からであった。戦場を通るには、軍の取り計らひがなくては不可能であつたことは、常識的にも分る筈である。旅行の目的は、私の実際の作品によつて実証されてゐる。(後略)」と「判定」へ反論をしている。
 来嶋は、苳三の依頼に空穂がどう対応したかは不明としていたが、白川文献によれば、前述の17名による再審査請求書とは別に、窪田空穂・頴田島一二郎の両名が個人として「意見書」を中央審査会に提出していたことが明らかになっている。
 なお、上記大学の教職員適格審査委員会による苳三に対する「判定」根拠法令は、「教職員の除去・就職禁止及び復職の件(昭和21年勅令263号)」(*1946年5月7日)と同時に、この勅令を受けた「教職員の除去・就職禁止及び復職の件の施行に関する件(閣令・文部省令1号)」の範囲を定めた「別表第一」の「一の1」によるのではないかと思う。来嶋文献では、「別表第1の11号」と読めるが、別表第一には11号がない。「別表第一」の「一の1号」は、以下の通りであった。

「一 講義・講演・著述・論文等言論その他の行動によつて、左の各号に当たる者。」
 侵略主義あるひは好戦的国家主義を鼓吹し、又はその宣伝に積極的に協力した者及び学説を以て大亜細亜政策、東亜新秩序

 1.その他これに類似した政策や、満州事変、支那事変又は今次の戦争に理念的基礎を与えた者。」

 ここで、GHQによる公職追放の流れと立命館大学の対応と小泉苳三の動向以下のような年表にまとめてみた。

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  苳三は、1951年報道などにより、追放解除が近いことを知ると、夏には、つぎのように歌う。その後に歌われた、わずかな追放関係短歌から選んでみた。いずれも『くさふぢ以後』からである。

歌作による被追放者は一人のみその一人ぞと吾はつぶやく
追放解除の訴願を説く友に吾は答へず成り行くままに
省みて四年過ぎしと思ひをりあわただしくてありし月日を
天皇制を倒せ学長を守れといふビラ貼りてあり門の入口に
(*以上1951年作)
図書館の暗きに歌書を調べをり久しく見ざりしこの棚の書を
(*1952年作)
正面の図書館楼上の大時計過ぎゆく時を正しく指し居り
(*1953年作)
病み臥してかなしきおもひ極ればそのまま眠に入れよとねがふ
(*1954年作)
追放解除の後の生活がやや落ちつくに病み弱くなれり
(*1955年作)

 最初の3首は、口惜しさとあきらめがないまぜになった心境だろうか。4首目は、1951年9月に追放の指定解除がなされた後の年末、かつての職場の立命館大学を訪れた折の作で、「R大学 十二月八日」の小題を持つ一連の冒頭歌である。敗戦直後から立命館大学学長に就任し、大学の民主化を目指した末川博を詠んだものである。末川は、1933年いわゆる「滝川事件」で京大を辞職し、大阪商科大学教授となっていたが、前述のように乞われて立命館大学学長となって、数々の大学民主化を図ったとして有名である。しかし、苳三にとっては「教書不適格者」と「判定」した最高責任者であった。前述の『立命館百年史 通史2』によれば、「巣鴨入りで石原を失った末川が強力なリーダーシップを発揮したことはほぼ間違いであろう。」とも。さらに続けて「適格審査に末川の意向がどれだけ影響を及ぼしたかを語る資料は残されていないが」としながら「末川の勇み足ともいわれたような事件も起こっている」として、1946年10月の教職不適格者判定と同時に、休職処分としてしまったことをあげている(113頁)。本来ならば、「判定」後、指定が決定するまでは、身分保留にしなければならい制度であったのである
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 小泉苳三は、2回ほど登場した、大岡信「折々のうた」。上段の歌は、上記の1首目、学内の教職員適格審査委員会は「烏合の衆」とまで評されている(2007年2月23日)。

 5首目は、すでに1940年苳三が自ら収集した近代短歌史の膨大な資料の大半を寄贈していた立命館大学図書館を訪ねた折の作である。埃をかぶっていたり、見当たらない図書もあったりしているのを嘆く一連の一首である。この資料群は、没後にも遺族から立命館大学図書館に追加寄贈され、「白楊荘文庫」と名付けられ、現在も、近代短歌資料の貴重な文庫として利用されている。この文庫については、参考文献⑬に詳しい。6首目は、指定解除後、関西学院大学教授となり、あたらしい職場となるキャンパスの図書館の時計塔を歌っているが、学究としての意欲をも伺わせる一首ではないだろうか。晩年の作となる最後の二首は、自らの病や出版社経営上の苦境などが重なって、さびしい死を遂げる前兆のような気がしてならない。
 戦中・戦後を変わり身早く、強引に生き抜いてきた歌人たちもいる。戦犯と称される政治家たちが再登場するのをやすやす受け入れてしまった国民の在り様、戦前回帰や保守一強を願う人たちがいることを目の当たりにする昨今ではある。ほんとうに責任をとるべきだった人たちがいたことを忘れてはならないだろう。 
 これまで、私自身、曖昧にやり過ごしてきたことが、『ポトナム』創刊100周年記念を機に、少しはっきりしてきたのでなかったか。

<参考文献>

①岡部文夫「ポトナム回顧」『ポトナム』1954年11月/中野嘉一『新短歌の歴史』昭森社 1967年5月(再版)
②新津亨「回想のプロ短歌」/内野光子「小泉苳三著作年表・編著書解題」、ともに『ポトナム』600号記念特集 1976年4月
③和田周三「小泉苳三の軌跡」/大西公哉「創刊より復刊まで」、ともに『ポトナム』800号記念特集 1992年12月
④和田周三「小泉苳三・人と学芸」/内野光子・相楽俊暁「小泉苳三資料年表」、ともに『ポトナム』小泉苳三生誕百年記念   1994年4月
⑤和田繁二郎(周三)「小泉苳三先生の人と学問」『立命館文学論究日本文学』61号 1995年3月
⑥大西公哉「山川を越えては越えて―ポトナム七十五年小史/ 和田周三「小泉苳三歌集『山西前線』」、ともに『ポトナム』創刊75周年記念特集 1997年4月、所収
⑦『立命館百年史 通史』1・2 同編纂委員会編刊 1999年3月、2006年3月
⑧拙著「ポトナム時代の坪野哲久」『月光』2002年2月(『天皇の短歌は何を語るのか』所収)
⑨白川静「小泉先生の不適格審査について」/片山貞美ほか「小泉苳三の歌」(小議会)」、 ともに『短歌現代』2002年11月、所収
⑩白川静「苳三先生遺事」/白川静「小泉先生の不適格審査について」(栞文、⑨の再録)/上田博「生命ありてこの草山の草をしき」、ともに「『小泉苳三全歌集』2004年4月
⑪来嶋靖生「ある手紙から 小泉苳三<教職追放>の謎」『ポトナム』90周年記念特集 2012年4月
⑫安森敏隆「小泉苳三論―『山西前線』を読む」『同志社女子大学日本語日本文学』2012年6月
⑬中西健治「白楊荘文庫のいま」『ポトナム』創刊100周年記念特集 2022年4月

ほか『ポトナム』記念号・追悼号など。

           <再掲>

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ポトナム短歌会と立命館大学図書館・白川静東洋文字文化研究所との共催で『ポトナム』創刊百周年記念の展覧会が開催されている。立命館大学図書館の特殊コレクション「白楊荘文庫(旧小泉苳三所蔵資料)を中心とした展示となっている。衣笠キャンパスでの開催は終わったが、現在は大阪いばらきキャンパスで開催中、10月7日からは、びわこ・くさつキャンパスでで開催される。私も、コロナ感染が収まったら、ぜひ出かけたいと思っている。お近くの方は、ぜひ立ち寄ってみてください。

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2022年8月10日 (水)

忘れてはいけない、覚えているうちに(3) 小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<1>

 今年の4月、私が会員となっているポトナム短歌会の『ポトナム』が創刊百周年を迎え、その記念号が出た。そのついでに、さまざまな思い出をつづったのが、当ブログのつぎの2件であった。

1922~2022年、『ポトナム』創刊100周年記念号が出ました(1)(2)
(2022年4月6日、9日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-559b22.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-a2076e.html

 また、今月は、『ポトナム』百周年について書く機会があった。あらためて、手元にある、これまでの何冊かの記念号や『昭和萬葉集』選歌の折、使用した戦前の『ポトナム』のコピーを持ち出し、頁を繰っていると、立ち止まることばかりである。今回の依頼稿でも詳しくは触れることができなかったのは、1922年『ポトナム』を創刊した小泉苳三(1894~1956)の敗戦後の公職追放についてであった。これまで、気にはなっていたので、若干の資料も集めていた。その一部でも記録にとどめておきたいと思ったのである。実は、2年前にも、故小川太郎さんからの電話の思い出にかかわり、この件に触れてはいる。

小泉苳三、そして小川太郎のこと(2020年12月13日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/12/post-691047.html

 私は、1960年ポトナム短歌会に入会しているので、苳三の生前を知らないが、『ポトナム』600号記念(1976年4月)に、図書館勤めをしていたこともあってか、編集部からの依頼で「小泉苳三著作年表」と「著作解題」を発表している。もちろん公職追放の件は知ってはいた。ただ、『(従軍歌集)山西戦線』(1940年5月)の一冊をもって、なぜ、立命館大学教授の職を追われなければならなかったのか。戦意高揚の短歌を発表し、歌集も出版していた歌人はたくさんいたのに、なぜ苳三だけがという漠然とした疑問はもっていたが、その歌集も真面目には読んでいなかった。

 苳三の職歴や教職歴をみると、平たんではなかったようだ。東洋大学の夜間部を出て中学校教員の資格を得た後も、養魚、金魚養殖をやったり、朝鮮に渡ったりしている。福井県、埼玉県での中学校教諭を経て、1922年28歳で、京城の高等女学校教諭に赴任、現地で、百瀬千尋、頴田島一二郎、君島夜詩らと「ポトナム短歌会」を立ち上げ、4月に『ポトナム』を創刊している。東京に戻った後も、東京、新潟、長野県での国語科教諭の傍ら、作歌と大伴家持研究など国文学研究、『ポトナム』の運営を続け、1932年、38歳で、立命館大学専門学部の教授に就任する。1931年9月「満州事変」に端を発した日中戦争が拡大する。恐慌は深刻化し、農村不況の中、労働争議が頻発し、弾圧もきびしくなるが、プロレタリア短歌運動は活発であった。『ポトナム』の作品にも、口語・自由律短歌も多くなると、苳三は、プロレタリア短歌もシュールリアリズム短歌も、もはや「短歌の範疇を越える」ものとして排除し(『ポトナム』1931年5月)、坪野哲久と岡部文夫が去っている。1933年1月号において、「現実的新抒情主義」を提唱し、「ポトナム短歌会」という結社の指針を示した。現在でも、結社として、その理念を引き継いできているが、その内容はわかりにくい。要は、短歌は目の前の現実を歌うのではなく、「現実感」を詠んで、「抒情」を深めよということではないかと、私なりに理解している。
 戦争が激化し、短歌も歌人も「挙国一致」「聖戦」へと雪崩れてゆくのだが、苳三は、創刊した『ポトナム』、自ら創刊・編集した『立命館文学』や種々の雑誌、NHK大阪放送局などで近代・現代短歌研究の成果などを矢継ぎ早に発表している。1940~42年には、『明治大正短歌資料大成』全三巻を完成させ、近代短歌史研究の基本的資料となり、1955年6月に刊行された『近代短歌史(明治篇)』は、その後の短歌史研究には欠かせない文献となった。短歌史研究上の評価については、『ポトナム』同人の研究者、国崎望久太郎、和田周三、白川静、上田博、安森敏隆らにより、社外からは、木俣修、篠弘、佐佐木幸綱らによっても高く評価されている。
 生前の歌集には、①『夕潮』(1922年8月)②『くさふぢ』(1933年4月)③『(従軍歌集)山西戦線』((1940年4月)があり、没後には④『くさふぢ以後』(1960年11月)⑤『小泉苳三歌集』(1975年11月)⑥『小泉苳三全歌集』(2004年4月)が編まれた。④は、墓所のある法然院に歌碑建立した際の記念歌集で、①は全作品収録されたが、②③④については抄録であり、⑥は、①~④をすべて収録した上、略年譜、短歌初句索引、著書解題、資料として追悼号や記念号で発表された、和田周三、阿部静枝、小島清、君島夜詩、国崎望久太郎による苳三研究論文が収録されている。さらに、白川静と上田博による書下ろしの評伝も収録された。
 いまここで、私の気になる何首かを上げたいところだが、各歌集から一首だけにして、先を急ごう。

①『夕潮』「大正十年」
白楊(ポトナム)の直ぐ立つ枝はひそかなりひととき明き夕べの丘に(朝鮮へ)

②『くさふぢ』「桔梗集 自昭和五年至昭和七年」
わがちからかたむけて為(な)し来(きた)りつること再(ふたた)び継(つ)ぐ人あらむや(書庫)

③『山西前線』「山西前線篇二」
 最後まで壕に拠りしは河南学生義勇軍の一隊なりき(黄河々畔)

④『くさふぢ以後』「Ⅲ自昭和二十一年 至三十一年」
ある時は辛(から)きおもひに購ひし歌書の幾冊いづち散りけむ(一月八日)

(続く)

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ポトナム短歌会と立命館大学図書館・白川静と用文字文化研究所との共催で『ポトナム』創刊百周年記念の展覧会が開催されている。立命館大学図書館の特殊コレクション「白楊荘文庫(旧小泉苳三所蔵資料)を中心とした展示となっている。衣笠キャンパスでの開催は終わったが、現在は大阪いばらきキャンパスで開催中、10月7日からは、びわこ・くさつキャンパスでで開催される。私も、コロナ感染が収まったら、ぜひ出かけたいと思っている。お近くの方は、ぜひ立ち寄ってみてください。

 

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