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2022年9月21日 (水)

忘れてはいけない~覚えているうちに(5)60年前の女子の就活

 私が大学に入ったその年の暮れに、母は56歳で病いで急逝した。その母は、女も資格を持って働き続けなければというのが持論で、大正末期、師範学校を出ながら、出産のため数年で小学校教師を辞めなければならなかったことを嘆いていた。薬局という自営業の父を助け、三人の子育てもしたが、少しは、暮らしに余裕ができて、これから自由にという矢先だったに違いない。もう60年以上も前のことである。

 私も教育系の大学だったので、高校の社会科の教員になるのが第一志望だったが、卒業当時、高校の社会科の教員は、東京都は募集もなかった。近県の教員試験はパスして名簿に登録はされたものの、四月採用は無理だと知らされた。一方で、何の準備もなく大学の就職課の掲示板を眺めては、受験資格「女子も可」という朝日新聞社、岩波書店、中央公論社、講談社・・学生社、グラムフォンなども受けていたが、いずれも一次や二次で落とされていた。当時は、会社説明会なんてなかったのでは。教授や先輩の伝手で、電通や東映などへも、紹介状を持って訪ねていたが、受験には至らなかったのだろう。しかし、なに一つ特技など持たない女子には、厳しかった。不採用通知は今でもファイルに残してある。法律専攻だったので、男子たちは、金融・製造関係や公務員、進学を目指すものが多かった。私は、不勉強がたたって、公務員試験にはまったく自信がなかった。それでも、ようやく年内に、内定をもらっていたのが流通業界、いまでこそ大手スーパーを経営する会社だった。「商売を覚えて来いよ」?と父も喜んでくれた。

スーパーか大学の「助手」か
 ところが、G大学から非常勤でこられていた先生とゼミの先生が勧めてくださったのが、G大学の「助手」にならないかという話だった。G大学は、翌年の法学部新設に伴い共同研室勤務の「助手」が必要だったのである。「大学の助手」の名に惹かれたというのか、ただのミーハーだったのか、大学職員として、ともかく二年間務めた。この間のことは、当ブログでも何回か触れているが、色々な先生たちの「生態」や「私立大学」の実情を垣間見ることができたし、生家の池袋や出身大学にくらべると、目白のキャンパスは別世界のようで、楽しかった。考えてみれば当たり前だったのだが、共同研究室の「助手」の仕事はあくまでも先生方の「お手伝い」であることが分かって、二年目にして転職を考えなければならなかった。

図書館で働く
 国家公務員試験には、手が届きそうもない。国立国会図書館(NDL)が独自の採用試験を実施していることを知って、もしかしたらと、にわか勉強の末、何とか、面接までたどり着いた。古巣のゼミの先生にその顛末を告げると、OBのNDL職員を紹介してくださり、会うことになった。さらに、そのOBの先輩の職員にも会い、アドバイスを受けた。面接試験の日も迫ってのことだった。面接の内容は、もう思い出せないのだが、ともかく合格し、本格的な職業生活のスタートを切った。後から考えると、この年の採用は、新館完成を控え、採用人数が、例年になく多い年だったのだ。紛れ込んだといってもよかったかもしれない。
 もう、「ここで、一生働くぞ」との思いだった。一時期、働きながら司法試験を目指す大学の友人たちのグループに入ったりもしたが、基礎学力不足と私の性格からムリとあきらめたこともある。もし、第一志望通り、教員になれたとしても、教育実習先の母校の高校で指導に当たった先生からは、「君は教師には向かないかも」とまで言われていたし、内定していたスーパー業界に入ってたとしても、激烈な競争業界で無事すごせたか、どちらも長続きできたか、怪しいものである。
 NDLでの仕事は、法律関係のレファレンス部門だったが、自分のペースで仕事ができる雰囲気の職場だった。飛び込んでくる利用者にも、ある程度、「過去問」の蓄積で回答できるものもわかってきたり、一緒に閲覧カード!!(現在はすべて撤去)を検索したりした。電話での質問も多く、即答できるものもあれば、時間をもらって回答することも多かった。外部から届く文書での質問は、上司から振り当てられたが、課内にある書誌や参考図書からスタートして、書庫との往復で、ずばり回答に近い資料に行きあたればよろこび、回答には至らなかったものについては検索過程を知らせるようにして、悔しい思いもする。その過程で、多くの先輩たちの残した資料や指導には教えられることが多かった。そして、何より楽しみだったのが、毎週1回「選書日」というのがあって、納本された図書をこの目で確かめられることできたことである。自分の課でレファレンス用として欲しい副本を選んでカードを挟むのが本来の目的だった。ともかく、背表紙だけでも新刊書と出会えるのがうれしかった。それに課内でのお茶の時間、年1回の職場旅行、暑気払い、忘年会、有志でのスキーなども結構盛んであった。書道サークルでの展覧会や合宿もと、忙しかった。

名古屋の女子短大図書館へ
 10年後には、縁あって結婚したが、連れ合いの職場が名古屋だったもので、名古屋で職が見つかるまでは、このまま、頑張る!と、私の単身赴任?が続いた。当時はまだ、「単身赴任」といういい方はなく、「別居結婚」とか言われていた。週末には、どちらか名古屋と当時私の住まいのあった川崎と行ったり来たりという生活だった。その間、名古屋での就活では、NDLの上司からの紹介により、当時、県立図書館長にお会いしたところ、市内のT女子短大の図書館の話が持ち上がった。翌年の四月採用ということであったのだが、なんと出産予定日が八月とわかり、この話は、半分諦めかけていた。それでも、短大の面接に出かけ、実情を話した。が、すんなり、決まったのである。
 その年の三月三一日までNDLに出勤し、翌四月一日には名古屋の短大図書館に出勤していた。短大での同僚の女性二人は年下で、短大の卒業生で、司書資格を持っていた。彼女たちに、私の八月出産のことは「聞いていない!」と言われたときはショックであった。短大の先生たちの産休には、もちろん先例はあったが、職員は初めてだという。当時は産前産後の休暇は6週間であった。ともかく、6週間前まで務め、夏休みを挟み、産後は診断書をもらい2週間延長して8週間の休暇をもらった。教員が主力の労働組合であったが、アドバイスももらったが、代替要員などについては、事務局も応じることはなかった。
 何しろ、その短大図書館は、当時、図書購入費が2000万円を越える規模で、全国の短大でもトップクラスであった。大部分が研究図書費で、多くは研究室に別置され、図書館で利用できる図書が極端に少なかった。副学長、館長を含む教員たちによる図書館委員会では、研修の必要性を説き、地元の短大図書館協議会はじめ、全国短大図書館協議会の研修会、全国図書館大会ほかいくつかの研修会には、職員三人が交代で参加できるようにし、図書館職員の「出張」が認められるようになった。図書館業務にも機械化が進み、その研修などにも追われた。徐々に学生が利用できる雑誌を増やし、図書も増やし、研修、ニュースの発行なども重なると、今度は人員が足りなくなる。アルバイト1人、2人と増えたが、やはり正職員が欲しかった。その後、男子職員も入ったが、県立高校長を退職した上司を迎えるはめになった。 
 名古屋に転職した翌年、お世話になった県立図書館長から、それまで兼任されていた愛知学院大学司書講習会講師の話をいただいた。「参考書誌演習」という科目(2単位ながら1日4コマ1週間)を10年間担当していた。講習会は、夏の休暇を中心に展開されるので、一週間とはいえ、娘の保育園・小学校時代と重なるので、苦労も多かった。「教える」ことはまさに学ぶことでもあって、苦しいこともあったが、楽しさもあった。毎年200人前後の受講生を相手に、概論の後、少人数のグループごとに演習課題を課し、発表してもらい、講評するという手順だった。テキストの作成と補充、演習課題は、毎年少しづつ新しいものに変えていくのは、短大の仕事とは違う楽しさもあり、名古屋を離れるまで、ちょうど十年にわたっての仕事となった。いまのようなネット社会が来るとは思わなかったが、現在も「演習」は形を変えて残っているようで、愛知学院大学の司書講習会は120人規模で健在であった。

千葉の新設大学図書館に
 名古屋弁も聞きなれた10年後には、連れ合いの東京への転任が決まった。仕事を手離したくなかった私は、またもや就活である。こちらも若くはなかったが、続けるとしたら、やはり図書館しかないと、思いつめていた。結局、『図書館雑誌』の求人欄に応募して、都内の私立大学の図書館の非常勤職員として、四月半ばから勤めることになっていた。名古屋から千葉県の仮住まいに転居し、引っ越し荷物の整理のさなか、まったくの前触れもなく、千葉県に新設されたばかりの大学のN図書館長という人の訪問を受けた。いま職員は二人いるが、図書館業務の経験のある人を探しているというのである。ある国立大学で助手を務めていた友人の上司にあたる教授から当方のことを聞いたという。希望するならば、正職員として採用の予定だから、大学の理事長に会って欲しいと。二日後には、面接を受けて、前職直近の給与、図書館は土曜も開館するが、週休二日でという条件を出してみたところ、即決してしまったのである。N図書館長は、後から伺うと、NDLからある研究所に転職、定年まで勤められ、新設大学の教授となった方だった。その新設大学は、中・高等学校を含む学園の創業者の発言力が強いことがわかった。図書館が発行する「図書館だより」の中身までチェックされるようになり、仕事が増えても、増員は非正規でしか補われなかった。


 結局、六年余りで、早期退職し、進学の道を選ぶことになる。振り返れば、どの場面の就活でも、なんと多くの方々にお世話になったことかと感慨深い。きちんとした謝意を伝えられたのか、期待に応えた仕事ができたのかも心細い。そして、支えてくれた家族にも。考えてみると、四つの職場を渡り歩いた三十年余りの半端な職業生活ではあったが、いまの暮らしや考え方に大きな影響を受けていることは確かなようである。
 ネットを見れば転職サイト、テレビでも転職を進めるCMも多い時代である。いまの若い人の「転職」の考え方も知りたい。とくに女性は働きやすくなったのか、女性が非正規という働き方の受け皿になっていないのか、転職が「正解」なのか、転職するしかなかったのか。就活スーツの女性を見ると「就活」頑張ってね!「転職」して大丈夫?と声をかけたくなるのだが。

 

 

 

 

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2022年9月16日 (金)

元首相の「国葬」には反対です~貞明皇后の葬儀でも、もめていた!

小学生が動員された: GHQの統治下にあった1951年5月17日、大正天皇の妻、昭和天皇の母、節子皇太后が66歳で急逝した。追号は貞明皇后とされ、6月22日、「大喪儀」が行われている。護国寺に隣接する豊島岡墓地での葬儀後、その日のうちに、多摩東陵に埋葬されている。この日、地元、池袋の小学校から先生に引率されて、護国寺近くでその葬列を見送った記憶がある。どの先生と誰と、何人くらいで出かけたのかも曖昧ながら、6年生の何人かの代表の一人であった記憶がある。今回の安倍元首相の国葬騒動で、思い出したのである。
 私の卒業した小学校は、とっくに他校と統合されて名前を変えている。気になるので、いま手元にある『創立三十五年記念誌』(1961年)の「沿革」を見てみたが、そんな記録はない。ではと、豊島区役所教育委員会に電話すると、それだけ古いと文書は残っていないというのが庶務課の回答、「行政情報センター」に相談してみてはと、直通電話を知らされる。センターにかけ直してみると、こちらとしても教育委員会に調べてもらうしかないと、まさにタライまわしの展開であった。せめて「豊島区史」のようなもので調べられませんかと尋ねると、1951年には、そのような記載はない、ということであった。手元の貞明皇后の評伝でも、学校現場の弔意状況までの記載がみあたらなかった。当時の新聞を見なければと思うが果たせないでいる。

貞明皇后の葬儀の顛末: 今回の国葬論議にかかわり、元首相ということで、吉田茂の「国葬」が前例として話題になっているが、実は、貞明皇后の葬儀の折にも、政府と宮内庁の間で、つまり、吉田茂首相と昭和天皇との意向の違いがあったらしい。宮内庁のホームページには、「貞明皇后大喪儀」について「昭和26年5月17日、皇太后陛下(貞明皇后と追号された。)が崩御になったので、同年6月22日の斂葬の儀を中心として、一連の大喪儀の儀式が行われました。事実上の国葬とされました。」との記述がある。「事実上の国葬」が気になるところである。
 敗戦後失効した「国葬令」(1926年10月21日)は、大正天皇死去の直前に成立しているが、「国葬」となるのは、「天皇、皇后、皇太后、太皇太后」と明記され、「国家に偉功ある者」も対象になり得るが、ときの内閣の判断に拠ることも明記されていた。貞明皇后の場合は法的根拠も前例もなかったのである。
 貞明皇后の葬儀をめぐっては、田島道治の『昭和天皇拝謁記』に詳しいらしい。未見なので、以下の記事を参考に、そのいきさつをたどってみよう。実にややこしいが、「天皇の政治利用」には違いなかった。

・森暢平「占領期、「国葬」が政治的論点となった貞明皇后逝去 社会学的皇室ウォッチング!/43」(週刊エコノミストオンライン 2022年8月8日配信)
https://weekly-economist.mainichiま.jp/articles/20220808/se1/00m/020/001000d

 貞明皇后が亡くなったのは、1951年5月17日の午後だった。
5月17日夜  吉田茂首相「占領下のため国葬は望まない」➡ 田島道治宮内庁長官
5月18日未明 大橋武夫法務総裁(法務大臣)・佐藤達夫法制意見長官(法制局長官)「国葬は法制上存在しないが、皇太后という身分であることからプライベートとは言い難く、公的な面もあることから、皇室の私的予算の「内定費」扱いではなく、「宮廷費」支弁による「皇室行事」にしては」と提案 ➡ 田島宮内庁長官
5月18日朝9時 田島「上記提案」➡ 昭和天皇「已むを得ず」
5月18日朝10時 岡崎勝男官房長官「宮廷費扱いの準国葬とする」➡ 宮内庁
5月18日夕刻 松井明首相秘書官「内閣は国葬をお願いしたが、陛下の考えで国葬にしないことになった、と説明したいので、了解を」➡ 田島宮内庁長官、拒否

 費用の出所を内定費にしても宮廷費にしても、国費には違いないのだが、このような経過をたどり、首相サイドの提案を宮内庁サイドは拒否した一方、「国情に鑑み、なるべく質素に行うようにとの「御思召」があった」との説明部分を容認したという。吉田首相は、「天皇の意向」ということにして、貞明皇后の葬儀に関しての国会での議論と占領軍への忖度批判の両方を封じたい思惑あったと、上記文献で森暢平は推測する。まさに、天皇の政治利用の一端であったのである。

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1951年6月23日『官報』「皇室事項」に、 葬儀の次第報告と昭和天皇と吉田茂の誄(るい)辞が再録されている

今回の「国葬」: 岸田首相が安倍元首相の葬儀を「国葬」とすると、その理由も曖昧なまま、議会に諮ることもなく、早々に表明した。それというのも、さまざまな政府批判―物価高、コロナ対策、旧統一教会問題、オリンピック汚職などへの批判を、「国葬」をすることによって、いささかでもシャッフルしたい思惑だったのだろう。岸田首相は、元首相の長期の首相在任・功績に加えて、各国からの元首相への哀悼と国民への弔意が示されているので、「国葬」で応えるとの弁を繰り返し、「丁寧な説明」からは程遠い、というより説明がつかないのである。「弔問外交」といっても、参列する国のトップはわずかでしかない。新聞社などの世論調査でも、国葬反対が多くなり、50パーセントを越える結果も出ている。国民の多くは、気づいてしまったのである。
 イギリスのエリザベス女王の葬儀関連の行事が伝統に則して、華麗に進められているが、いまは、チャールズ新国王に渡る4兆円以上の相続財産が国民の関心の的にもなっているという。それこそ、女王が、「国情に鑑み、私の葬儀は極力質素に」とか、相続財産の一部を大型寄付にあてるなどの遺言を残していたら、彼女の人気はさらに高まったのではないか。

 なお、吉田茂や他の国葬については以下に詳しい。
・森暢平「55年前の社会党の失敗 立民は同じ轍を踏むな 社会学的皇室ウォッチング!/47」(サンデー毎日9月25日・10月2日合併号 2022年9月12日配信)
https://news.yahoo.co.jp/articles/93c69894ab305ce6ee25c9c0f362f594cdba28b7

・前田修輔「戦後日本の公葬―国葬の変容を中心に」(『史学雑誌』130-7 2021年7月) https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/130/7/130_61/_pdf

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めずらしく鳩がやって来た!もう一羽は、フェンスのてっぺんを歩いていた。

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2022年9月 4日 (日)

デジタル庁一年、進まぬマイナンバーカード

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   9月3日、またもや、マイナポイントの「つくらなくちゃ!もらわなくちゃ!」の新聞全面広告が出た。我が家で購読している朝日と東京の二紙にはあったのだが、他紙はどうだったのか。しつこい、と言われてみても、「書かなくちゃ!」

マイナポイントの昨年夏以来、洪水のような広告の異様さは、多くの読者の顰蹙を買っているのではないか。昨年も、同じことを書いていたのだが。

マイナンバーカード、このCMの洪水はなんだ?!(2021年10月15日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/10/post-8b9bd0.html

 先週8月31日の東京新聞は「社説」で「デジタル庁1年 暮らしの利便性第一に」の見出しのもと、デジタル庁の最優先課題のマイナンバーカードの普及が5割程度にとどまるのは、「国民が利便性を感じず、個人情報漏えいの懸念が拭い切れないからだ。カード普及を目指すなら、ポイント還元ではなく、制度の信頼性向上に努めるのが先決だ」と述べる。
 同じ紙面の投書欄にも「〈マイナ〉安全性を示せ」(山崎猛)と題して「国民がマイナカードに慎重な理由は個人情報の管理に不安があるからである」として「安全性を示さずにCMやお金で釣るとは国民をばかにした話である」と結んだ発言があった。
 さらに、「デジタル庁発足から1年 信頼性・透明性道半ば」(山口登史)の見出しで、マイナンバーカードの普及率が47%に留まる理由として、個人情報漏えいと国家による監視強化を懸念する記事もある。現在、デジタル庁職員750人の内250人が民間出身であり、庁内の有識者会議の議事録が非公開であるというのだから、その透明性が確保できないのは当然だろう。
 そして、9月3日の全面広告だったのであり、同日の「時事川柳」にはつぎのような一句もあるではないか。

・ひょっとして 支配の道具じゃ あるマイナ(川崎市 じゅんきち)

 朝日新聞は、9月3日の全面広告の前日9月2日、「1年〈何でもできるデジ庁〉の現実」の見出しで、デジタル庁の一年を振り返って、「マイナ保険証」めぐっての厚労省との壁、行政自体のデジタル化も人員不足ということで進まない作業などを伝えるのみで、7月13日の「社説」では、「政府が、自治体ごとのマイナンバーカードの交付率を、地方交付税の額に反映させる方針を打ち出した。住民がカードを取得した率が高い自治体には、交付税の配分を増やす。先月閣議決定した「デジタル田園都市国家構想」の基本方針に盛り込まれた」と報じ、「交付税は、すべての自治体が一定の行政サービスを行う財源を保障するために、国が自治体の代わりに徴収し、財源の不均衡を調整するものだ。この「地方固有の財源」を、国策の推進に用いるのは、明らかに交付税の精神に反する。 なぜここまで理の通らないことをしようとするのか」と疑問を呈している。

 8月31日の毎日新聞は「自治体間競争 あおる国 伸び悩むマイナンバーカード」に見出しで、「地方交付税の算定にカード交付率を反映し、交付率自治体には支給額を上乗せすることを検討している」と伝える。総務省は、22年度からホームページで全国すべての自治体の交付率が公開され、公布先進地域として、上位10位までが【特別区・市】【町村】【都道府県】別にトップに掲載されているのが下の表である。

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総務省/マイナンバーカードの市区町村別交付枚数等について(令和47月末時点)
https://www.soumu.go.jp/main_content/000828898.pdf

 ちなみに、佐倉市も以下のように表示されている。予備校の模擬試験成績発表の掲示板を思い出すし、かつて、ハンセン病者強制隔離政策の一環として「無らい県運動」と称して実施されたハンセン病者隔離を実施した歴史を想起する。丁目ごとに、マイナンバーカード未取得者リストができたりして・・・。佐倉市は41.5%であった。

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 そして、洪水のようなCMの財源といえば、なかなかずばりの数字は出てこないのがもどかしい。

「21年度補正デジタル予算は2.8兆円 マイナポイントだけでない増強点」「日経コンピュータ」(2021年12月23日)によれば、以下の数字になる。
 日経コンピュータが集計した主なデジタル関連項目の総額は2兆8616億7100万円と、過去最大の規模に達し、このうち6割強の約1兆8486億円は、1人当たり最大2万円分を付与するマイナポイント事業であり、マイナンバーカードの普及・普及・促進事業に346億円を計上している。デジタル庁にはマイナンバーカードのシステム整備に101億円が計上されているという。 2022年度の当初予算では、総務省のマイナンバーカードの交付・申請・促進には1064億円(前年度比0.8%増)、デジタル庁のマイナンバーカード制度の推進に4. 7億円(前年度比74%増)ということになっている。当初と補正の落差は理解に苦しむのだが、こんなデータもある。
 日経クロステックの集計ではデジタル関連は総額2兆8616億7100万円だった。補正予算と一体化した2021年12月~2023年3月までの「16カ月予算」で見ると、岸田政権は総額4.1兆円強をデジタル分野に投入する。1年前に一体で編成した「15カ月予算」(2020年度第3次補正予算と2021年度当初予算)で投じた1.7兆円の2.5倍近い規模に拡大する(2022年1月4日)。

 あの執拗なCMの財源はと、昨年も、総務省の担当(自治行政局住民制度課マイナンバー制度支援室)に質問したが、広告代理店に聞かねばわからない?!というのだった。新聞社もテレビ局も、マイナンバー制度についてあれこれは言うものの、政府は巨大広告の大事なスポンサーなので、正面から批判することはしない。メディアの権力監視機能は、すでに翼をもがれているようなものではないか。
 少し古いデータなのだが、2020年9月にマイナポイントがスタートしたころ、その広報費として政府が計上しているのは、なんと53億8000万円。しかも、すでに約1カ月でその約半分となる約27億円がかけられているというのだ(『リテラ』2020年9月24日)。

 一方で、共同通信によれば、取得者に最大2万円ぶんのポイントが付与される2022年6月にスタートした「マイナポイント第2弾」の事業には、総務省が約1兆4000億円の予算を確保しているが、カードの新規取得者が伸びないため、約6000億円余り、9月末の期限延長もあり得ると、報じている(「予算が6000億円残余「マイナカード」普及しない理由は「メリット感じない」…身分証明書にならない事態も」『Flash』 2022年8月28日)。ちなみに、8月25日現在、交付率が5割を超えたと総務省が発表したという。
 依然として、広告費の全貌は、わからないでいる。

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たった一本のヤマボウシの実が庭一杯に。

 

 

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