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2022年10月31日 (月)

「貞明皇后の短歌」についてのエッセイを寄稿しました

 「新・フェミニズム批評の会」が創立30年になるということで記念論集『<パンデミック>とフェミニズム』(翰林書房 2022年10月)が出版されました。私が友人の誘いで入会したのは、十数年前なので、今回、創立の経緯など初めて知ることになりました。毎月きちんと開かれている研究会にも、なかなか参加できないでいる会員ですが、2012年以降の論文集『<3・11フクシマ>以後のフェミニズム』(御茶の水書房 2012年)、『昭和前期女性文学論』(翰林書房 2016年)、『昭和後期女性文学論』(翰林書房 2020年)には寄稿することができました。30周年記念の論集は、エッセイでも可ということでしたので、「貞明皇后の短歌」について少し調べ始めていたこともあって、気軽に?書き進めました。ところが「査読」が入って、少し慌てたのですが、何とかまとめることができました。

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執筆者は、30人。表紙は、鳩の下の羽根には花畑が、上の羽根には、ブランコに乗った女性いる?という、やさしい装画(竹内美穂子)でした。

 

「貞明皇后の短歌が担った国家的役割――ハンセン病者への「御歌」を手がかりに」

1.沖縄愛楽園の「御歌碑」

2.「をみな」の「しるべ」と限界

3.届かなかった声

4.変わらない皇后短歌の役割

以下で全文をご覧になれます【12月11日】

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2022年10月24日 (月)

田端文士村散歩へ~初めての田端駅下車

 土曜10月22日は、秋晴れの予報だったが、すっきりしないものの、出かけることにした。久しぶりの東京、池袋育ちながら、田端には降りた記憶がない。国鉄の操車場のイメージである。北口を出ると、左手に高い陸橋、ほぼ正面に、曲線を描いた長い壁に「田端文士村記念館」とあった。

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 なんと、入館無料である。1993年開館、1988年設立の北区文化振興財団の運営という。今回の企画展「朔太郎・犀星・龍之介の友情と詩的精神」(10月1日~23年1月22日)は、こじんまりした展示ながら、充実しているように思えた。展示は以下のようで、常設展は「漱石と龍之介」「野口雨情の生誕140周年~童謡に込められた雨情の詩心」であった。漱石や龍之介にしても熱心な読者ではなかったし、教科書のほか少しばかり“義務的”に読んだ記憶しかない。朔太郎や犀星については、作品よりも伝記的関心の方が強かった。

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 企画展は、ほぼ同世代といえる三人、萩原(1886~1942)、室生(1889~1962)、芥川(1892~1927)の親密ながらも緊張感を失わない交流が立ち上がってくる。芥川が「文芸的な、余りに文芸的な」を『改造』に連載中の1927年7月24日に、自殺をしてしまう悲劇。その連載のなかの「十二 詩的精神」には、つぎのようなくだりがある。

僕は谷崎潤一郎氏に会ひ、僕の駁論ばくろんを述べた時、「では君の詩的精神とは何を指すのか?」と云ふ質問を受けた。僕の詩的精神とは最も広い意味の抒情詩である。僕は勿論かう云ふ返事をした。

 芥川は「神経衰弱」と不眠に悩まされていたのは一つ事実だが、「遺書」にある「ぼんやりした不安」どころではない、自らの病苦、家族8人での生活苦、人間関係での不信などに苛まれていたのではないか。展示室にある「田端の家」復元の模型を見て、この田端の地に大きな屋敷で大家族を養っていたことが思われてならなかった。これまでもよく見かけた、自宅の庭で、子供たちの前で木登りをする動画フィルム、出版社の宣伝用だったというが、この会場でも流されていた。
 また、ともに北原白秋に師事していた犀星と朔太郎だったが、1915年、朔太郎は、白秋宛の手紙で「室生は愛によって成長するでせう。私は悪によって成長する。彼は善の詩人であり、私は悪の詩人ある」などと記しているのも知った。

 連れ合いは、朔太郎のファンなので、撮影禁止といわれ、盛んにメモも取っていた。つい先日、赤城山の帰りに前橋文学舘に行ってきたばかりでもある。

 記念館を出て、高い陸橋、東台橋をくぐって、両脇が高い崖になっている、まさに「切通し」の道路を進むが、少し違うらしい。戻って陸橋の急な階段を上り切ると、高台に住宅が広がっている。童橋というところまで進むと、左手の路地から、十人近くの一団が出てきたと思ったら、入れ替わりに入っていく一団もあった。「龍之介の旧居跡」に違いないと、私たちも入っていくと、民家ならば3・4軒建ちそうな空き地に「芥川龍之介記念館予定地」の看板が見える。そしてその先の角のお宅の前には掲示板があった。

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『ココミテ シート」2018年夏号(田端文士村記念館)より。上段の写真は、龍之介没後の1930年7月撮影、右から、長男比呂志(俳優)三男也寸志(音楽家)、次男多加志、母、文。文は育児に苦労したにちがいない。多加志は、応召、1945年4月13日、ビルマで戦死、22歳であった。

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「木の枝の瓦にさはる暑さかな」という龍之介の俳句の書幅が展示されていた。旧居の敷地は200坪近くあったという。

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 今度は、童橋を渡って、童橋公園へ。犀星旧居の庭石を移したという一角がある。さらに一筋違う路地には、平塚らいてう、中野重治が住んでいたというが、何の表示があるわけでもなく、家がびっしりと立ち並び、女の子二人が、スケボーで遊んでいた。
 童橋から駅前を通り越すと、福士幸次郎の旧居があったところで、サトウハチローが転がり家でもあったらしい。福士はハチローの父、佐藤紅緑の弟子で、ハチローの面倒を見ることになったらしい。犀星はこの町で何度も転居を繰り返しているが、次に回ったのが、田端523番地の旧居跡、犀星が引っ越した後の家に菊池寛が転入している。その路地を抜けると広い道路に出て、右へと曲がり、八幡坂に向かう。今日の目的の一つが、大龍寺の正岡子規の墓参だった。緩いが長い坂をくだると右側には上田端八幡神社の生け垣が続く。坂を下り切れば、神社の隣が大龍寺、そこへタクシーを降りた中年の女性と出会い、子規のお墓ですよね、という。三人で、墓地に入るが、案内図があるわけでもない。手分けして探し、ウロウロする。墓参に来た若い家族連れにも尋ねてみたが、「うーん、あることは聞いているけど、どこだか・・・」という。古そうなお墓の一画、角に、あった! 一緒に探していた女性は、「俳句がうまくなりたいから、今日は、子規庵を回ってきて、墓参も」と群馬から上京したそうだ。 

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右側が子規の母八重の墓、子規の墓の文字は、子規が入社した新聞『日本』社主陸羯南の筆になる。 代々の墓と墓誌は子規の墓の左横にある。

 あとは八幡坂をのぼって、ひたすら、駅方面に向かう。田端高台通りを右に折れると江戸坂、いまは高層ビルもあるが、正面はJRの宿舎でもあった巨大な建物がある。短いながら、文士村散歩は終りとした。回れたのは、文士村と言われる地区の三分の一ほどだったろうか。

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八幡坂、駅方面に向かって登る。左手が上田端八幡神社のキンモクセイ          

 朔太郎の旧居跡も回れなかったし、『アララギ』の鹿児島寿蔵、土屋文明、五味保義、高田浪吉らや太田水穂・四賀光子、尾山篤二郎らの歌人も住んでいたという。きっと魅力のある街だったのだろう。1945年4月13日の城北大空襲ですべてが灰塵に帰したのだった。

 

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2022年10月19日 (水)

「マイナ保険証」義務化?ここまでやるの、バカにしないでョ!

 10月13日、河野デジタル大臣は、首相との面談後の記者会見で、現在の健康保険証を24年秋には廃止し、マイナンバーカードと一体化すると公表した。ついこの間の6月7日閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針 2022  新しい資本主義へ ~課題解決を成長のエンジンに変え、持続可能な経済を実現~」(タイトルからしてなんとも欲張った?「骨太の方針」)では、マイナンバーカードについて、以下のようにまとめられていた。

2.持続可能な社会保障制度の構築
(社会保障分野における経済・財政一体改革の強化・推進)
オンライン資格確認について、保険医療機関・薬局に、2023年4月から原則義務づけるとともに、導入が進み、患者によるマイナンバーカードの保険証利用が進むよう、関連する支援等の措置を見直す。2024年度中を目途に保険者による保険証発行の選択制の導入を目指し、オンライン資格確認の導入状況等を踏まえ、保険証の原則廃止を目指す

 要するに、保険証の原則全廃には期限が付されていなかったが、すでに、昨年21年10月からマイナンバーカードが保険証として利用可能になったところもある。一方、医療機関・薬局でのカード読み取り機の普及が進まないので、6月の段階では、そちらの方に期限が付けられていたのだ。それが、突然、24年秋という期限もって現行保険証の廃止が打ち出されたのである。
 これまでも、政府はマイナンバーカードの普及には躍起になって、コロナ対策の10万円一律給付にはカードがあった方が便利だとか、マイナポイント1弾では5000円分付与、第2弾では、カード取得自体で5000円分、保険証、銀行との紐づけで各7500円分と併せて20000円分のポイント付与というニンジンをぶら下げた。カードの普及率がようやく50%をこえたというので、今回の方針転換へと勢いづいたのかもしれない。第2弾のマイナポイント付与は9月末終了を12月末まで延長した。繰り返される、あの広告のいじましさ、一番喜んでいるのは、それこそ、広告代理店だろう。
 さらに、カードの普及率によって、政府は自治体への地方交付税の算定に反映させると明言しているのだ。自治体にも、交付税というニンジンをぶら下げて、「尻を叩く」という、暴力的にさえ思える手段に出たのである。
 ここまで来たのだから、意地でも、全国民にカードを持たせようというのか。この間は、近くのスーパーの前で、「ここで、カードが作れます」と呼び込みをやっていたし、これからは郵便局でも作れるようにするとか。ニンジンに目がくらんで?作ってはみたが、おそらく、大したメリットもないと思い知らされるのではないか。さまざまなリスクが潜んでいるというのに。
 保険証の利用者、患者側からすれば、まず、必要性がない。身分証明書代わりというけれど、これまでだって、健康保険証、運転免許証、パスポートで、用がたりる。
 健康保険証として使用できるというが、マイナカードと一体化したとしても大病院はともかく、現在、通院している近隣のクリニックなどでは使えない。読み取り機―オンライン資格確認システム―を導入している医療機関や薬局は少ない。

 マイナカードには住民の基本情報、氏名・住所・生年月日・性別が内蔵されている上に、医療情報が加わることになり、その情報漏れのリスクがある。マイナカードの管理は、昨年成立したデジタル改革関連法により、国と地方公共団体が共同して管理運営する法人に改められた。実際の管理作業は、ほぼ、民間への委託、再委託が実態であろう。情報の拡散、情報漏れのリスクは高まり、政府はさらに、民間のカードの利活用を目論んでいるから、カードに蓄積された個人情報のセキュリティの整備は一層困難になるにちがいない。

 上記「骨太の方針」では、このオンライン資格確認システムの義務化には、医療機関側から、さまざまな問題点が指摘されている。「全国保険医団体連合会」発行の『全国保険医新聞』のアンケート結果は以下のようであった。

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 設備設置の経済的な負担は、助成金の30万程度では間に合わない場合が多く、ランニングコストもかかる。導入済みの機関では、トラブルにも悩まされているらしい。医師の高齢化によって閉院を予定しているケースも一割程度あって、義務化の必要性や助成金の返済などが課題になっている。これを機に閉院を早めるケースもあるという。
 私自身の周辺でも、当地に転居以来30年以上かかっていた内科のクリニックが、コロナの出現の直前に閉院した。コロナのさなかには、眼科クリニックが閉院してしまって、戸惑いもした。地域で親しまれた街のお医者さんが消えてゆく。近くの大学病院は、紹介状なしでは相手にしてもらえない。医療費も2割負担になってしまい、医療難民になりかねない様相になって来た。どうも長生きはさせてくれない国らしい。

 そもそも、マイナンバー法(行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律)17条1項では、個人番号カードは、住民の申請により交付するものとされており、カードの取得は任意なのに、保険証を原則廃止することは、カードの取得を事実上強制するものであり、法律に違反するのは明らかなのである。

 むかし、学校でならったことわざを思い出す。
You can take a horse to the water, but you can't make him drink.

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2022年10月 3日 (月)

「私説『ポトナム』百年史」を寄稿しました。

 

 私が永らく会員となっている「ポトナム短歌会」ですが、今年の4月に『ポトナム』創刊100周年記念号を刊行したことは、すでにこのブログでもお伝えしました。上記表題の小文を『うた新聞』(いりの舎)9月号に寄稿しました。『ポトナム』100年のうち60年をともにしながら、その歴史や全貌を捉え切れていませんので、”私説”とした次第です。

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私説『ポトナム』百年史   

・ポトナムの直ぐ立つ枝はひそかなりひと時明き夕べの丘に

   一九二二年四月『ポトナム』創刊号の表紙に掲げられた小泉苳三の一首である。当時の日本の植民地、京城(現ソウル)の高等女学校教諭時代の小泉が、現地の百瀬千尋、頴田島一二郎、君島夜詩らと創刊し、誌名は「白楊」を意味する朝鮮語の「ポトナム」とした。二三年には、東京の阿部静枝も参加した。

  二〇二二年四月、創刊百年を迎え、大部な記念号を刊行した。年表や五〇〇冊余の叢書一覧にも歴史の重みを実感できるのだが、『ポトナム』が歩んだ道は決して平坦なものではなかった。

  今回の記念号にも再録された「短歌の方向―現実的新抒情主義の提唱」が発表されたのは、一九三三年一月号だった。それに至る経緯をたどっておきたい。二三年は関東大震災と不況が重なり、二五年は普通選挙法と抱き合わせの形で治安維持法が公布された。反体制運動の弾圧はきびしさを増したが、社内には新津亨・松下英麿らによる「社会科学研究会」が誕生し、二六年には『ポトナム』に入会した坪野哲久、翌年入会の岡部文夫は、ともに二八年一一月結成の「無産者歌人聯盟」(『短歌戦線』一二月創刊)に参加し、『ポトナム』を去り、坪野の作品は一変する。

・あぶれた仲間が今日も うづくまつてゐる永代橋は頑固に出来てゐら(『プロレタリア短歌集』一九二九年五月)

  苳三は、『ポトナム』二八年一二月号で、坪野へ「広い前途を祝福する」と理解を示していたが、社内に根付いたプロレタリア短歌について、三一年五月に「プロレ短歌もシュウル短歌もすでに今日では短歌の範疇を逸脱」し、短歌と認めることはできず「誌上への発表も中止する」と明言した。先の「現実的新抒情主義」について、多くの同人たちが解釈を試みているが、「提唱」の結語では「現実からの逃避の態度を拒否し、生々しい感覚をもつて現実感、をまさしくかの短歌形式によつて表現することこそ我々の新しい目標ではないか」、その実証は、「理論的努力と実践的短歌創作」にあるとした。総論的には理解できても実践となると難しいが、この提言によって『ポトナム』は困難の一つを乗り切った感もあった。

  以降、戦争の激化に伴い、短歌も歌人も「挙国一致」の時代に入り、「聖戦」完遂のための作歌が叫ばれた。四四年一月の「大東亜戦争完遂を祈る」と題して、樺太から南方に至る百人近い同人たちの名が並ぶ誌面は痛々しくもある。その年『ポトナム』は国策によって『アララギ』と合併し、三月号を最後に休刊となった。その直後、苳三と有志は「くさふぢ短歌会」を立ち上げ、敗戦後の『くさふぢ』創刊につなげ、さらに五一年一月の『ポトナム』復刊への道を開いた。

  しかし、苳三は、四七年六月、勤務先の立命館大学内の教職不適格審査委員会によって、『(従軍歌集)山西前線』(一九四〇年五月)が「侵略主義宣伝に寄与」したことを理由に教授職を免じられたのである。GHQによる公職追放の一環であった。歌集を理由に公職を追われた歌人は他に例を見ない。

・歌作による被追放者は一人のみその一人ぞと吾はつぶやく
(一九五一年作。『くさふぢ以後』収録)

  追放に至った経緯はすでに、教え子の白川静、和田周三、安森敏隆らが検証し、敗戦後の大学民主化を進める過程での人事抗争の犠牲であったともされている。大岡信は「折々のうた」でこの歌を取り上げ、審査にあたった学内の教授たちを「歌を読めない烏合の衆の血祭りにあげられた」と糾弾する(『朝日新聞』二〇〇七年二月二三日)。歌人の戦争責任を問うならば、まず、多くの指導的歌人、短歌メディア自身の主体的な反省、自浄がなされるべきだった。

  苳三は、この間も研究を続け、追放解除後は、関西学院大学で教鞭をとった。戦時下の四一年から三年かけて完成した『明治大正短歌資料大成』三巻、早くよりまとめにかかっていた『近代短歌史(明治篇)』(五五年六月)など多くの著作は近代短歌史研究の基礎をなすものだった。五六年一一月、苳三の急逝は『ポトナム』には打撃であったが、五七年からは主宰制を委員制に変更、現在は中西健治代表、編集人中野昭子、発行人清水怜一と六人の編集委員で運営されている。先の教え子たちと併せて小島清、国崎望久太郎、上田博、中西代表らにいたるまで国文学研究の伝統は、いまも受け継がれている。

  古い結社は、会員の高齢化と減少に歯止めがかからない局面に立っている。結社が新聞歌壇の投稿者やカルチャー短歌講座の受講生などの受け皿であった時代もあったが、結社内の年功序列や添削・選歌・編集・歌会などをめぐって、より拘束の少ない同人誌という選択も定着してきた。さらにインターネットの普及により発信や研鑽の場が飛躍的に広がり、多様化している。短歌総合誌は繰り返し結社の特集を組み、各結社の現況を伝え、結社の功罪を論じはするが、それも営業政策の一環のような気もする。すでに四半世紀前、一九九六年三月号で『短歌往来』は「五〇年後、結社はどうなっているか」とのアンケートを実施、一五人が回答、「短歌が亡びない限り」「世界が滅びるまで」「形を変えて」「相変わらず」存在するだろう、とするものが圧倒的に多かった。私は、「現在のような拘束力の強いとされる結社は近い将来なくなり、大学のサークルや同好会のような、出入りの自由なグループ活動が主流となり」その消長も目まぐるしく、活動も「文学的というより趣味的で遊びの要素が強くなる」と答えていたが、残念ながら二五年後を、見届けることはできない。

  私にとっての『ポトナム』は、一九六〇年入会以来、一会員として、歌を詠み続け、幾多の論稿を発表できる場所であった。婦人運動の活動家でもあり、評論家でもあった阿部静枝はじめ個性的な歌人たちから、多くを学んだことも忘れ難い。(『うた新聞』2022年9月)

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 なお、拙稿の発表後、9月18日、大甘さん(@kajinOoAMA)のつぎのようなツイートがなされているのに気づきました。大事なご指摘をありがとうございます。創刊にかかわった先達から、「白楊」と聞いておりましたまま、調べもしませんでした。


ポトナム短歌会の「ポトナム」って何だろうって思っていた。『うた新聞』9月号、内野光子氏の寄稿に、1922年、植民地朝鮮の京城にて創刊、"誌名は「白楊」を意味する朝鮮語の「ポトナム」とした"とあり、謎は解けた。久々に日韓・韓日両辞書を引っ張り出し、軽い気持ちで"確認"を試みたが… pic.twitter.com/eVWdkhMakj

 

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当ブログ過去の関連記事

1922ー2022年、『ポトナム』創刊100周年記念号が出ました(1)(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-559b22.html
(2022年4月6日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-a2076e.html
(2022年4月9日) 

忘れてはいけない、覚えているうちに(3)小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<1>
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/08/post-448784.html
(2022年8月10日)
忘れてはいけない、覚えているうちに(4)小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<2>
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/08/post-f5f72b.html
(2022年8月12日)



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2022年10月 2日 (日)

「国葬」に登場した山縣有朋の「短歌」

 かたりあひて尽しゝ人は先立ちぬ今より後の世をいかにせむ

  9月27日に開催された安倍晋三「国葬」における菅義偉の弔辞に登場したのが、山縣有朋の伊藤博文への弔歌であった。「今、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません」と結んだ。菅が「短歌を持ち出すとは」が最初の疑問だった。さらに、その前段の、安倍の議員会館の部屋の机に読みかけの岡義武の『山縣有朋』があって・・・のくだりにも、「うーん、ほんと?ちょっとできすぎでは」と思ったのだった。第一、「安倍が岡義武の本を読むか?」も疑問であった。

  今回の岸田首相の弔辞があまりにも長いばかりで無味乾燥だったため、菅の弔辞の焼き鳥屋談義や上記の追悼歌などが盛られたところから、参列者や国葬TV中継視聴者の一部から礼賛のツイートやコメントがなどが拡散していた。

そもそも、今回の弔辞の原稿作成に広告代理の手が入っているかどうかは別として、当然のことながら、岸田や菅にしても、秘書は、もちろん、ゴーストライターかスピーチライターと言われる人たちとの総力あげての?共同作成ではなかったか。

 と、この稿を書きかけたところ、10月1日、「リテラ」のつぎ記事で、その冒頭の謎が解けたのである。

・菅義偉が国葬弔辞で美談に仕立てた「山縣有朋の歌」は使い回しだった! 当の安倍晋三がJR東海・葛西敬之会長の追悼で使ったネタを
https://lite-ra.com/2022/10/post-6232.html

 詳しくは、上の記事を読んで欲しいのだが、次の2点を報じているのだ。
 一つは、上記の山縣の伊藤への「挽歌」は、安倍元首相が、今年6月17日、Facebookの投稿に、以下のくだりがあったというのである。葛西敬之JR東海名誉会長の葬儀をうけて、
 常に国家の行く末を案じておられた葛西さん。国士という言葉が最も相応しい方でした。失意の時も支えて頂きました。     葛西さんが最も評価する明治の元勲は山縣有朋。好敵手伊藤博文の死に際して彼は次の歌を残しています。
「かたりあひて尽しゝ人は先だちぬ今より後の世をいかにせむ」

 一つは、安倍元首相の2015年1月12日のFacebookで、岩波新書版の『山縣有朋 明治日本の象徴』の表紙の写真とともに、「読みかけの「岡義武著・山縣有朋。明治日本の象徴」(ママ) を読了しました」に続けて、山縣の歌を紹介していたのである。
 伊藤の死によって山縣は権力を一手に握りますが、伊藤暗殺に際し山縣は、「かたりあひて尽くしし人は先立ちぬ今より後の世をいかにせむ」と詠みその死を悼みました。

 菅の弔辞の「読みかけの・・・」のエピソードについては、安倍が読了した本を再読していたとも考えにくいし、「しるしがついていた」歌についても、数か月前の安倍のフェイスブックを読んでいたか、くだんの『山縣有朋』から拾いだしたかとなると、この物語性は崩れるのではないか。「どこか嘘っぽい」が解明できた思いだった。なお、「リテラ」によれば、2014年の年末に、安倍が葛西と会食した際に、『山縣有朋』をすすめられていたのである。

 こんな弔辞を聞かされるために、妙な祭壇を作り、4000人以上の人が集められ、会場関係費だけに2.5億円もかけ、2万人規模の警備、接遇費など合わせて16億円もかけたというのだから、国民はもっと怒らねばいけない。あすからの臨時国会で「国葬は法令に拠らずとも、時の政府が判断できる」などと「丁寧な説明」をされても、国民の多くは納得できないだろう。

 たしかに、伊藤は、1909年10月27日、ハルピン駅構内で、安重根による銃弾に斃れた。そこは共通する。伊藤は四回の首相時代を含め、山縣とは、さまざまな場面で意見を異にしている。伊藤の評価につながるものではないが、攘夷思想、憲法制定、政党政治・・・などにおいて、山縣は、攘夷、征韓論、強兵、君主制にこだわっていたのだから、伊藤への追悼の短歌は、あくまでもしらじらしい儀礼的なもので、誰への追悼にもなる、使い回しのできる平凡な一首ではあった。
  だが、この一首以前に、山縣は、自由民権運動を弾圧し、教育勅語、軍事勅語の制定をすすめた人物を登場させたこと自体、時代錯誤も甚だしく、こんな弔辞に、感動したり、涙したりする人たちの言に惑わされてはならない。

 

 

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