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2022年11月30日 (水)

二冊の遺稿集に接して(2)長沼節夫著『ジャーナリストを生きる 伊那谷から韓国・中国そして世界へ』

 長沼節夫(1942-2019)さんの名前を知ったのはいつのことだったのだろう。何がきっかけだったのかが思い出せないでいる。ともかく、今回、遺稿集が出されたと聞いて、求めたのが457頁に及ぶ大冊であった。飯田高校同窓生、京大吉田寮生、ジャーナリストの方々による渾身の遺稿集である。

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長沼節夫著作集編纂委員会編 南信州新聞社 2022年7月

 長沼さんは、京都大学在学中の「京都大学新聞」の記者時代から、いわばジャーナリストであり、アメリカ留学を経て、ヨーロッパ・中東・アジアなどを歴訪、大学新聞に寄稿を続け、院生時代には京都ベ平連での活動、韓国大統領選取材に始まる金大中との交流、「天皇の軍隊」の執筆などの傍らフリーの記者や予備校講師をしていたが、1972年時事通信社に入社している。経済部、社会部配属の記者として、時にはプライベートの取材を重ね、ポーランドの「連帯」取材、日本の原発取材、「第3回天皇マッカーサー会見録」の発掘などについて執筆、2002年60歳で時事通信社を退社している。在職中には、組合運動を理由に記者職をはずされたため不当配転無効確認訴訟を起こし、賃金差別の東京都労働委員会への救済申し立てなどの活動を続けた。退職後も、「生涯ジャーナリスト」を貫いた。

 その長沼さんが、短歌を詠み始めたのである。私の属するポトナム短歌会に入会されたのが、今回の遺稿集の年譜では、2001年、小学校の恩師代田猛男さんの勧めすすめとあった。今年の4月、創刊100周年記念の『ポトナム』の年表によれば、長沼さんは、すでに2000年8月には「五七五七七のミッシング・リンク」を寄稿している。2011年退会するまでに、つぎのようなエッセーを寄せていた。

五七五七七のミッシング・リンク     2000年8月
「大事件」と短歌「9・11テロ」を巡って 2002年4月
漢字短歌の面白さ            2004年8月
イラク派兵と「サマワ詠」        2005年2月
諏訪・岡谷の空気を深呼吸…忘年歌会に参加して
                    2007年2月*
私の歌枕 日比谷公園          2009年7月*
白秋のパレット             2010年6月*
国際ペンのシンポ「短歌とTANKA」傍聴記 2010年12月*
*は遺稿集にも収録されている

 何しろこのあたりの『ポトナム』を最近、近代文学館に寄贈してしまったもので、確かめられない。短歌も同様で、いつから発表して始めたのかも、定かではないが、ブログ「チョーさん通信」では、2006年から2010年まで、「ポトナム詠草」として残されている。遺稿集にも厳選された68首が「源流」と題されて収録されている。

 いま手元にある、長沼さんからのはじめての手紙(2001年2月27日)によれば、やはり入会は、2000年小学校時代の恩師代田猛男・直美夫妻の勧めに拠ったとの記載があった。猛男さんは2004年に、直美さんは2022年1月94歳で亡くなられた。若い時、『ポトナム』の全国大会などで代田夫妻にはお目にかかってはいるのだが、晩年は、作品を読むにとどまってしまった。いまから思えば長沼さんの話も伺っておきたかったなどと思う。その長沼さんの手紙には、私が出版したばかりの『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年)をお送りした折のお礼と感想が書かれていた。簡易封筒いっぱいの文字、身に余る励ましの言葉が綴られていたので、私も大事にしていたのである。さらに、翌日日付のはがきの追伸もあり、これも裏表に綴られている。和歌の時代からの天皇制の呪縛、歌壇の一笑に付すべき文章などに触れていた。またもう一通は、私の第二歌集『野の記憶』(ながらみ書房 2004年)への礼状であった。この頃、『ジャーナリスト同盟報』をお送りいただいており、手紙と一緒にファイルに収めてあった。さらにメールでは、「メディアウオッチ100」も何度かお送りいただいたことなどを思い出す。
 それにしても、お会いしたことはただの一度、2004年以降だと思うが、議員会館での集会で、初対面の挨拶だけをした記憶がある。たぶん、連れ合いが集会の主催者側で、私もあたふたとしていて、ゆっくりお話しすることができなかったのではないか。また別の集会でも、参加者としてお名前がありながら、お目にかかれなかったこともあった。
 あらためて、ご冥福をいのるとともに、残された短歌の一部を紹介したい。ブログの短歌詠草300首近い中から、私の気になった、そして共感する短歌は多すぎるのだが・・・その思いに重ねて。とくに注記がない作品は、『ポトナム』詠草である。

ああ短歌なぜ「みそひと」だけなのか思い余りて行をこぼれる【2006年4月】

2005
・白日にさらせ特高の拷問を「横浜事件」の再審裁判 

・ブラジルに明日発つ午後の紀伊国屋で南の空の星座表探す

・提灯屋も下駄屋も炭屋も綿打ち屋も 町内会は屋号で呼び合う

・市長より「ふるさと大使」の委嘱受く我がふるさとは万緑の中

・地下鉄にイスラムの民乗り来れば不安よぎれりその我れを叱る

・自裁せし我が先達の死に顔の凛たるを見て襟を正せり

・取り入れを目前逝きし人の米四十九日の土産に賜ぶる

2006
・年明けて初出勤に急ぐ道心持ち胸を反らせて行かん

・残生もかくあれかしとこころもち胸張りて行く仕事場への道 

・我ら記者に定年などなし「生涯一記者」を自負する我ぞ

・木曽谷に隠れキリシタンの歴史あり首毀たれしマリア地蔵よ

・踏み場全くなきにはあらねども所狭(せ)き家いざ片付けん

2007
・残留孤児の老人たちにねぎらいの一語だに無き棄却判決

・まやかしの予測はあれど「もしかして」と沖縄密約裁判に並ぶ

・真実に目つぶる判決相次ぎて国の僕(しもべ)か司法危うし

・若者が死ぬるや哀れまして今みずから逝くはなお哀れ

2009
・記者皆が批判精神失せしより記者会見は空しくも過ぐ

・ごみでしょういや資料だと争いつつ我が家を埋める「切り抜き」の山

・大路往く金大中氏の国葬の列に手を振りて別れを告げる

・投獄や死刑判決拉致監禁乗り越えし人いま身罷りぬ

・去年まで気付かざりしに曼珠沙華窓の向かいの小暗き土手に

2010
・ああミレナあなたは真夏のダリアです、どこを切っても水のしたたる
(カフカの恋人)
・エッセーもルポもあなたの文章はそのまま短歌になりそうだね、ミレナ

・大丈夫これで治すと励ませる丸山ワクチンに夢をあがなう

・お互いに「否!」とう言葉を戒めるわれらの中の安保体制

・伊那路なる飯田市歴史研究所その静けさに風そっと行く

・化粧箱に入れ仕舞いたる母の骨時々振りて母を思えり

歌集『伊那』2015年版
・ 今日もまた国会前を埋め尽くす人らに交じりて抗議叫びぬ 

・ 朝礼のたびに倒れし傍にいて支えてくれし恩師を見送る
04年代田孟男氏死去)

・ 鶴見さんと「六・一五」に国会で花捧げしは十年前か
(05年7月鶴見俊輔氏 死去)

・ 鶴見さんに仕事課された幸せをかみしめており訃報聞きつつ

・「この夏を忘れないように」と呼びかける女子学生に未来の光

歌集『伊那』2019年版
・治りません。付き合うのですときっぱりと若き医師から励まされいる

・うず高き資料の山が部屋を埋め我が「平成」は未整理に逝く

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2022年11月28日 (月)

ポーランド映画祭~見逃した「EO」と「赤い闇」

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 11月22日から始まった、11回目を迎えたというポーランド映画祭、パンフの解説を頼りに、26日「ショパン」「EO(イオ)」、27日「赤い闇と「パンと塩」に出かける予定にしていた。26日の朝は雨、寝不足もあって、11時には間に合いそうにもない。13時30分からのポーランドの巨匠とも言えそうなイエジー・スコリモフスキ監督の新作「EO」(2022年)だけでもと出かけたのだが、なんとチケットは午前中に売り切れていた。この監督は、若干24歳でポランスキーの「水の中のナイフ」(1962年)のシナリオを手掛けている。目当ての「EO」は、動物愛護グループにサーカス団から連れ去られたロバのイオが主人公というのである。イオの目を通してみた現代のポーランドの人間模様・・・。残念ではあったが、それではと、気を取り直して、2時間待ちながら15時30分開演の同じ監督の「イレブン・ミニッツ」(2016年)を見ることにした。隣の会場での星野道夫の写真展もにぎわっていたが、恵比寿のガーデンプレイスを巡ってみることにした。週末だけあって、家族連れやカップルの往来をコヒー店の窓から眺めたり、行列ができているパン屋さんで食パンを買ってみたり、真っ白いテントが並んでいるので何かと思えば、「婚活フェア」だったり・・・。

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 そして「イレブン・ミニッツ」は、夕方5時から11分間の出来事を同時多発、同時進行の形でまとめているという解説だったが、画面のテンポについてゆけず、私には、もう容赦なく目まぐるしいばかりで、最初は理解不能の世界だった。進むにしたがって分かりかけてきたものの、舞台がワルシャワの街中なのに、観光客が巡るような場所はいっさい出てこない。さもありなんという、さまざまな夫婦やカップル、家族が交差しながらの分刻みでの展開である。その核になるのが、ホテルの一室での男女―映画監督と女優という設定で、抜擢を条件に関係を迫るという、いわば映画界の内輪話というのが、私には少し安易すぎると思った。もっとも、日本の映画界でも、パワハラ、セクハラが表ざたになって問題視されるようになっているのだから、ポーランドでも、よくある話なのだろうか。ホテルの部屋を突き止めた女優の夫、出所したばかりの屋台のホットドック屋、息子と分かるバイク便の配達夫、元カレから犬を渡され、ホットドックを買いに来る若い女、強盗に入った店のオーナーが首をつっているのに出くわして、慌てて逃げる若い男・・・、まだまだいろんな人物が登場する。そして最後に、登場人物たちの想像を絶する衝撃的な死の連鎖で幕を閉じるのだが、エンドロールの前には、画面いっぱいに小さい画面が並び、そのコマは際限なく無数となったところで、画面は真っ暗になるという仕掛けである。

 制作の意図はわからないではないが、私の体調もあってか、“疲労困憊”の一語に尽きるのだった。恵比寿駅への長い、長い動く歩道、乗換駅を乗り過ごさないように必死であった。電車のなかでは、ワルシャワの高層ビルの間を巨大な航空機が低空飛行をする、9・11を想起するような画面が何度か現れたのは、なんの暗喩なのか・・・を考えたりしていたら眠らずに済んだ。

 そして、見逃した「赤い闇」は、一足先の11月24日に見ていた連れ合いから、話を聞いてはいた。1933年、世界恐慌の中で、なぜソ連だけが繁栄しているのかを謎に思ったイギリスの若いジャーナリストが、モスクワへ、そしてウクライナへと向かって目にしたのは、スターリンによる人工的大量餓死の悲惨な姿であったのである。まさに、いまのウクライナとプーチンを想起するではないか。くすしくも、11月26日は、ホロドモールの追悼の日であった。

 そして、“体力の限界”を感じて、翌日の二本は、あきらめたのである。

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2022年11月26日 (土)

二冊の遺稿集に接して(1)和田守著『徳富蘇峰 人と時代』

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萌書房、2022年10月20日

帯の表には、つぎのように紹介されています。

等身大の蘇峰の生涯を思想的変遷にも重きを置きつつ辿ることから始め,これまであまり論じられることのなかった社会事業家としての側面にもスポットを当て,この不世出の思想家・ジャーナリストの活動を青・壮年期を中心に時代状況も交えながら描出。政治思想史界の第一人者が後進の研究者に贈る畢生の成果

目次

第Ⅰ部 評伝 徳富蘇峰
序 論/第1章 新聞記者への立志と思想形成/第2章 平民主義の唱道/第3章 帝国主義への変容/
第4章 国家的平民主義
第Ⅱ部 欧米巡遊、社会と国家の新結合
第1章 徳富蘇峰の欧米巡遊/第2章 国民新聞と国民教育奨励会/第3章 青山会館の設立/第4章 国民新聞社引退と蘇峰会の設立/第5章 徳富蘇峰という存在
第Ⅲ部 思想史研究の視点から
第1章 近代日本のアジア認識 ―連帯論と盟主論について―/第2章 私の辿った思想史研究―グローカルな視点から―

 著者の和田さんとは、「法律政治学専攻」という一学年でたった16人ほどのクラスの同期でした。1959年4月入学だったから、60年安保改定を控え、大学は騒然とした雰囲気であったのです。いわばノンポリだった私は、自治会が呼びかける集会やデモには時折参加していましたが、和田さんはクラス討論や学年を越えての雑誌の発行などにも率先してかかわっていました。そんな中でも、松本三之介先生の指導の下、政治思想史の研究者になるべく努力されていたのだと思います。博士課程を了え、山形大学、静岡大学を経て、大東文化大学に移り、法科大学院の設置や大学行政にも携わっていました。2019年4月、病に倒れ、やり残した仕事もあったに違いありません。

 蘇峰に関しては、すでに『近代日本と徳富蘇峰』(御茶の水書房 1990年2月)がありますが、その後の論稿と未定稿を合わせて、伊藤彌彦さんの編纂により、今回の出版にいたったといいます。

 私など専門外のものには、清水書院「人と思想史シリーズ」の未定稿として残された序論としての蘇峰論、「自由民権」から「国家的国民主義」形成に至る青年時代までを描いた部分が読みやすく、興味深いものがありました。

 目次にありますように、これまでの蘇峰像とは異なる側面にも光があてられていますので、関心のある方は、ぜひ、近くの図書館にリクエストしてみては。

 個人的には、和田さんが山形大学に赴任してまもなくの松本ゼミOB会の研修旅行に誘われて、山形・福島の旅に参加しました。予定外だった斎藤茂吉記念館にも立ち寄ったこと、近年では、主宰されていた「思想史の会」で「沖縄における天皇の短歌」の報告の機会をいただいたことなどが思い起されます。あらためてご冥福を祈る次第です。

 

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2022年11月15日 (火)

写真集『原発のまち 50年のかお』(一葉社)の勁さとやさしさ

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カバーの写真は、1976年9月23日、女川原子力発電所絶対阻止三町連合決起集会

 編者の阿部美紀子さんは、「度重なる奇跡のような出来事で」、この女川原発阻止闘争の写真集を出版するにいたったという。その奇跡とは。阿部さんは、地元で原水協の活動をされていた町議の父、阿部宗悦さんと共に、大学卒業以来、長年、女川原発阻止の活動をされてきた方だ。東日本大震災の津波で、家ごとすべて流されて、活動の記録も写真も失った。大震災の3年前に、町役場から、反対闘争も町の歴史だからと写真のデータベース化をした折、CD版ももらっていたが、それももちろん流されたが、そのデータをパソコンに取り込んでいた仙台のお仲間がいたという。ほとんど美紀子さんが撮影したその写真を中心に、地元のカメラマンや仲間の撮影による写真を集成したのが今回の写真集で、詳細な年表も付す。また、後半の「原発と暮らす」のインタビューは、どれも、一緒に活動してきた雄勝湾、女川湾、鮫浦湾に面したいくつもの浜の漁師さんたちへの阿部さんのやさしい問いかけに、かつての活動や近況などが立ち上がってくる。

目次
「女川原発差し止め訴訟」意見陳述書(要旨)
写真集発刊にあたって
<参考>「三町期成同盟」当時の女川町周辺略図
かつて、まちは――奇跡の証言写真
大津波のまちで――ありえない原発との共存
原発と暮らす――生き証人は語る
<資料>女川原発反対運動の略史

 知人に紹介していただいた阿部美紀子さんとは、2016年5月、私たち夫婦が女川を訪ねた折、かさ上げ工事さなかの町と鳴浜にある原発の近くまで車で案内していただいたご縁がある。道中、小雨の降るなか、まだ木立に引っ掛かったままのブイ、原発へのトンネルの工事現場、特攻艇の戦跡、廃校跡など下車しては説明をしてくださったことを思い出す。
 
 
 女川の原発阻止闘争は、1967年3月原子力委員会が、女川を原発立地予定地として公表した時から始まる。9月女川町議会は、原発誘致を全会一致で決議、東北電力の土地買収が始まり69年1月女川原発設置反対女川・雄勝・牡鹿三町期成同盟会結成、6月女川漁協反対決議を経る。三町期成同盟による数千人規模の海上デモや現地集会が続くが、70年代に入ると、東北電力による女川漁協幹部の切り崩しが始まる。

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75年12月7日、第1回原発反対総決起大会、壇上に並ぶ各浜代表のうち3人は大震災で亡くなっているという

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1976年6月14日、東北電力への抗議、交渉が続く

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1976年6月23日、 女川町主催の漁業説明会、阿部宗悦・美紀子さん

 女川漁協ョット臨時総会では、77年1月には条件闘争を強行採決、78年8月漁業権放棄を可決。79年3月28日スリーマイル島原発事故があるも、12月一号機着工に至り、81年12月女川原発建設差止訴訟、仙台地裁に提訴、2000年12月最高裁の上告棄却。この間、95年2号機、2002年3号機営業開始に至る。そして11年3月11日、東日本大震災の津波により女川町は壊滅的な被害を受け、女川原発は三号機とも停止、福島第一原発事故発生。以降、脱原発、女川原発再稼働阻止の運動は、宮城県民による運動となる。18年10月女川原発1号機廃炉は決定するが、20年11月11日村井宮城県知事女川原発2号機再稼働同意表明している。

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2011年4月19日、小屋取漁港(日下郁郎撮影)

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2011年4月19日、小屋取の集落の被害(日下郁郎撮影)

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2011年4月30日、鷲神の阿部家被災地跡に、流れ着いていた股引に「すべての原発廃炉に!チェルノブイリ25周年」と書き、掲げる阿部宗悦さん(スペース21撮影)。5月連休明けに自衛隊によりガレキはすべて撤去されたという。宗悦さんは、2012年7月7日に逝去された。美紀子さんは、宗悦さんの遺志を継ぎ、町議選に臨み、2012年11月から、現在三期目となる。「女川から未来を考える会」代表。

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阿部さんに案内していただとき、2016年5月撮影、女川原発がもっともよく見える場所、小屋取浜から望む。
29m防潮堤が築かれているという。

 美紀子さん、貴重な一冊をありがとうございました。この写真集にも、お会いしたときの寡黙ながら、やさしさとゆるぎない意思を感じとることができました。

 なお、写真集の出版社、一葉社は、拙著『斎藤史~「朱天」から『うたのゆくへ』の時代』(2019年1月)でお世話になっている。

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関連の過去記事

女川原発2号機はどうなるのか~再稼働反対の声は届かない(2020年10月30日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/10/post-bb75a1.html

連休前、5年後の被災地へ、初めての盛岡・石巻・女川へ(6)(7)(2016年5月14日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-5cf0.html


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