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2022年12月25日 (日)

2022年12月、怒りのの年末(3)有識者とはだれか、なぜ隠す

 毎日の新聞やテレビを見ていて、怒りのタネは尽きないのだが、ふだんから、どうして?と腑に落ちないことがある。政府の方針策定、閣議決定する前には、政府の諮問委員会、首相の私的諮問委員会、数々の審議会が長期的に設置されたり、臨時的に新設されたりする。

「GX実行会議」って
 近々では、12月22日「グリーントランスフォーメーション(GX)実行会議」での結論が政府の基本方針として決定した。7月に立ち上げられ、5回の会議で決まったと言い、そもそも、「GX」と略されているが、「X」というのはなに?
 「クロス」を意味し、ビジネス用語で使われているらしいが、そんな用語でけむに巻かないで、日本語で示せ、と言いたい。それはともかく、実行会議の結論は、福島第一原発事故以降、原発の新設・建て替えは想定しないとする政策を大きく転換する内容であった。その骨子は、①脱炭素推進のため再生可能エネルギーとともに原子力を最大限に利用する、②次世代型の革新的な原子炉の開発・建設を進める、③原発の運転期間を「原則40年、最長60年」という法律のもと、審査による停止期間を除外し、60年以上の運転を可能にする、④企業の脱炭素投資を推進するため、10年間20兆円規模の特別国債「GX経済移行債」を発行する、というものだった。
  2011年3月の原発事故の悲惨さと深刻さ、避難生活を余儀なくされている人たち、生業を失った人たちの切り捨て、避難解除になったからといって、暮らしができる環境にないのに戻れといった愚策が続く。再処理に回すはずの使用済み核燃料も各原発で貯まる一方だし、最終処分場選定もとん挫、後始末ができないまま、建て替え・新設を進めるというのは暴挙に他ならない。
  それもそのはず、「実行会議」のメンバーは、各界代表というつぎのようなメンバーであり、ほとんどが企業のトップであり、エネルギーや原発についての「有識者」ではない。環境問題にかかわっている竹内委員は東京電力出身だし、生協出身の河野委員、研究者と思われる伊藤委員・白石委員は、いずれも様々な政府審議会のメンバーとして重用されている、”安心・安全な“人たちなのであった。

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 政府の諮問機関は「有識者会議」と称され、有識者の代表が首相や担当大臣に重々しく、しかもにこやかに、報告書や答申案が手渡される光景はよく報じられる。審議会のの様子が頭出しで、メンバーの顔が映し出されるが、その名前が表示されることはない。政府は、まず、“有識者”たちの議論や結論を“十分踏まえる”形を整える。しかし、内実は、有識者を選ぶのは、政府なのだから、よほどの手違いがない限り、政府の意向に添った「結論」にいたる。というのも、提出資料も論点整理も結論も官僚が作成、有識者は、ベルトコンベアに載せられているようなものなのではないか。異論があるときは、「両論併記」に落着き、議会での審議はもはや形骸化し、与党多数で決まる。「議会民主主義」など、どこかにすっ飛んでしまっている。

安倍元首相国葬を「検証」したのはだれか
 また、同じ12月22日に、政府は、安倍元首相の国葬に関し、有識者への意見聴取に基づく検証結果を発表した。この検証は、岸田首相が安倍元首相の死亡から一週間足らずで国葬の開催を表明し、内閣府設置法の所管事項「国の儀式」をその根拠に内閣が開催の決定をなしうるとした。その手続きや規模、国費によるものとしたことから、世論が二分されたことを受けての検証であった。

 9月27日の国葬後、約50人の法律・政治・歴史の研究者や報道関係者に打診の上、応じた21人の意見聴取が10月から12月に実施された。「静謐な環境で進めたい」という政府の意向で、メンバーの事前発表はなされなかった。会議を開いて議論するつもりもなく、政府が
①法的根拠 ②実施の意義 ③国会との関係 ④国民の理解 ⑤対象者の選定 ⑥経費や規模、
にわたる論点整理をして、その賛否の両論併記したものだった。その21人を明確に報じるメディアは、少ない。『東京新聞』は豊田洋一論説主幹が聴取に応じていることもあって、各論点の賛否意見要旨を名入りで記事にし、彼の「国民の理解が十分に得られないようなことを閣議決定してよかったかという問題が残る」の意見を紹介している。以下は、毎日新聞紙上によるImg532_20221225185901

<参考>
東京新聞:「これが検証?政府が安倍氏国葬を巡る「論点整理」を公表 有識者の見解並べただけ 今後の対応は示さず」2022年12月22日 21時43分https://www.tokyo-np.co.jp/article/221568

東京新聞:こちら特報部「世論を分断した「国葬」 衆院報告書はわずか3ページ 検証結果を検証してみると…」2022年12月21日 06時00分https://www.tokyo-np.co.jp/article/221184

毎日新聞:「安倍氏国葬評価二分」「国葬の基準 遠い結論」【12月23日朝刊】

 なお、この意見聴取の報告に先だって、12月10日に、安倍元総理大臣の「国葬」について検証してきた衆議院議院運営委員会に設置された与野党の協議会は、結果として世論の分断を招いたと指摘したうえで、今後、国葬を実施する場合には国会が的確な行政監視を行う機会を確保することが望ましいなどとした報告書をまとめ、細田衆院議長に手渡している。
 山口俊一委員長(自民)のもと、丹羽秀樹(同)、吉川元(立憲民主)、中司宏(日本維新の会)、岡本三成(公明)、浅野哲(国民民主)、塩川鉄也(共産)の議運メンバー6会派の6人で「率直な意見が出しあえるように」と、非公開で行われた。会派の推薦で選ばれた有識者計6人麗沢大の川上和久教授(政治心理学)、東京工業大の西田亮介准教授(社会学)、中央大の宮間純一教授(日本近代史)、九州大の南野森教授(憲法)、早稲田大の長谷部恭男教授(同)、関西学院大大学院の井上武史教授(同)のヒアリングを実施した。その報告というのが、たった3頁の「概要報告」を全文掲載した下記の『東京新聞』の記事によれば、
国民の間で国葬の共通認識が醸成されておらず、結果的に世論の分断を招いた。
②国民、国会への説明では実施に至るまでのプロセス
③法的根拠・実施の
理由
④対象者のルール化
⑤国会の関与の在り方、
についての様々な意見を列記している内容で、誰の発言かも分からない。国費による実施については、いっさい記載がない。

 以上、議会での検証協議会、政府による意見聴取においても、結論を先送りのまま、丁寧な説明など在り様がない。両者に共通しているのは「国葬」自体の是非の論議に触れていないことである。ぐずぐずのまま、閣議決定の国葬を正当化する役割をはたしたのではないか。皇族であっても、政治家であっても、「国葬」なるものは、身分・評価以前に、もともと不要であると私は考えている。

<参考>
東京新聞:こちら特報部「世論を分断した「国葬」 衆院報告書はわずか3ページ 検証結果を検証してみると…」2022年12月21日 06時00分https://www.tokyo-np.co.jp/article/221184

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数日前に、短歌の友人から、作ってみましたと、可愛らしいリースをいただいた。

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2022年12月23日 (金)

櫻本富雄著、二冊のミステリーが刊行されました。

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左:幻冬舎 2022年6月15日刊。右:鳥影社 2022年12月18日刊。                                                                                                                                          

 大先輩の知人、櫻本富雄さんが、今年6月、12月に小説二冊を立て続けに出版されました。櫻本さんとは、2006年、著書『歌と戦争―みんなが軍歌をうたっていた』の書評を「図書新聞」に執筆したご縁で、以後、多くを教示いただくことになったのです。著書は、ご覧の通りで、戦時下の、文化人、文学者の戦争責任、戦後責任を資料にもとづいて詳細に検証し、その責任を問うものがほとんどです。自身が軍国少年であったことを起点としながら、戦後は精力的に戦時下の出版物―図書や雑誌、パンフレットや紙芝居などの収集をしています。その数10万点にも及んだそうですが、それらを駆使して著書の中でも、『空白と責任』(未来社1988)『文化人たちの大東亜戦争』(青木書店 1993)『日本文学報国会』青木書店1995)『本が弾丸だったころ』(青木書店 1996)などは、戦時下の文学や評論を対象とする研究者や関心を寄せる人たちには避けては通れない文献です。

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 その櫻本さんは、もともと詩人で、小説も何篇か書かれているのですが、新刊の二冊は、数年前、蔵書の全てを処分した後に書かれています。構想はかなり前からできていたそうです。ミステリーですので、あらすじは書けませんが、二冊の舞台は、アジア・太平洋戦争末期の日本の占領地、国内の各地に展開します。事件を追う捜査関係者は別として、読み終わってみれば主な登場人物すべてが非業の死を遂げていたことが分かってきます。読むにあたっては、あたらしい地図帳がそばにあった方がいいかもしれません。

 興味を持たれた方は、近くの図書館にぜひリクエストしてみては。

 なお、櫻本さんが出演した下記の番組がユーチューブでご覧になれます。櫻本さんが資料を携え、横山隆一、山本和夫、丸木俊、住井すゑさんたちにインタビューをし、戦時下の言動を質そうとしますが、誰もが反省や後悔の弁どころか自らを正当化する様子が記録されているドキュメンタリーです。次作も執筆中とのことです。1933年生まれの櫻本さんのエネルギとゆるぎない信念に脱帽です。

・「ある少国民の告発~文化人と戦争」(毎日放送製作 1994年8月14日放映)
 https://www.youtube.com/watch?v=8-dC55hmhbc

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上記、映像から。上:戦時下の雑誌の数々。下:住井すゑにインタビュー。

 なお、当ブログの関係記事は以下の通りです。

・書評『歌と戦争―みんなが軍歌をうたっていた』― 歌と権力との親密な関係―容認してしまう人々への警鐘(『図書新聞』2005年6月11日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2006/02/post_d772.html(2006年2月17日)

 ・「ある少国民の告発~文化人と戦争」(1994年放送)を見て
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/09/1994-2d3e.html(2017年9月23日)


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2022年12月18日 (日)

怒りの年末、次からつぎへと(2)国民に執拗に迫るマイナカード

 マイナンバーカードについては当ブログでも何度も書いてきた。政府がこれほどまでに執拗に、マイナンバーカードで迫ってくるのはなぜなのか。“丁寧に”説明すればするほど、政府への不信は募るばかりである。

 10月13日、河野太郎デジタル大臣が、健康保険証を2024年秋に廃止し、マイナンバーカードへ一体化した形に切り替えると表明したのを受けて、NHKは直ちに、その日の夜のニュースでつぎのように報道している。登場した、関係閣僚や官房長官の発言は、日頃の言動から直ちに信じられない思いで見ていた。

「政府 再来年秋 健康保険証を廃止 マイナカード一体化発表」(2022年10月13日 18時56分) 
岸田総理大臣は13日、河野デジタル大臣や加藤厚生労働大臣、寺田総務大臣と、マイナンバーカードについて協議しました。

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この人、コロナワクチン担当時は、「来週にもお示しします」を連発、デジタル化すればすべてが解決するような発言を覚えてますよ。

河野デジタル大臣が記者会見を開き「デジタル社会を新しく作っていくための、マイナンバーカードはいわばパスポートのような役割を果たすことになる」と述べ、2024年の秋に現在使われている健康保険証を廃止し、マイナンバーカードへ一体化した形に切り替えると発表しました。

松野官房長官「よりよい医療 受けてもらうこと 可能に」

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この人、記者会見では、めったに顔をあげず、ひたすら朗読が続く。メディアは、記者との質疑を決して伝えないのはどうしたわけか。

 松野官房長官は、午後の記者会見で「マイナンバーカード1枚で医療機関を受診してもらうことで、健康・医療に関する多くのデータに基づいた、よりよい医療を受けてもらうことが可能となる。こうしたことから、マイナンバーカードと健康保険証の一体化を進めるため、再来年秋に保険証の廃止を目指すことにした」と述べました。

加藤厚生労働相「理解得られるよう丁寧に取り組んでいく」

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この人、安倍政権時代の厚労大臣のとき、「働き方改革法案」の基礎データのデタラメを追及されていましたね。

加藤厚生労働大臣は、記者会見で「システム改修などの対応に必要な予算は経済対策に盛り込んでいく。岸田総理大臣からは国民や医療関係者から理解が得られるよう丁寧に取り組んでいく必要があると指示があった。医療関係者や関係省庁などと連携して取り組みを進めていきたい」と述べました。

寺田総務相「保険証と一体化 格段に普及が進む」

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この人、何で総務大臣を辞めさせられたのでしたっけ。

寺田総務大臣は、記者団に対し「日本は国民皆保険制度であり、保険証と一体化するということは、ほぼすべての国民にマイナンバーカードが行き渡るということで、格段に普及が進む。ただ、生まれてすぐの0歳児にどうやってカードを取得してもらうかや認知症の方への対応など、いろいろクリアすべき点がある。(中略)マイナンバーカードは非常に安全なものだ。ナンバーが仮に他人に知られたとしても個人情報が流出することは一切ない。」と述べました。

 さらに新聞各社は、つぎのような社説を掲載している。その主張は、見出しを見ても分かるように、毎日・朝日・東京の三紙と日経・読売ときれいに分かれた。

毎日「マイナ保険証に一本化 国民不在の強引な普及策」【10月14日】
朝日「マイナ保険証 あまりに拙速、乱暴だ 」【10月15日】
東京「マイナ保険証 強引な義務化許されぬ」【10月15日】
日経「もっと使えるマイナンバーカードに」【10月15日】
読売「マイナ保険証 丁寧な説明で普及を図りたい」【10月20日】

 三紙は、政府の強引な手法に疑問を呈してはいるものの、結論的には、「利用者の理解と納得があっての話である」(朝日)、「導入を急がず、制度への不信感と誠実に向き合うことが先決」(東京)、「国民に対し丁寧に説明し、理解を得る手続きを怠ってはならない」(毎日)と、要するに「丁寧な説明」と「国民の理解」を求めるにとどまり、マイナンバー制度そのものには、決して切り込まない。それはそうでしょう、マイナポイントの全面広告をあれだけ掲載しているのだから。NHKは、各党の反応、専門家・街の声・現場の声を取材するものの、メインのニュース番組では、中立・公正どころか、編集次第、「残る課題」「動向を注視」の指摘で終わる<政府広報>となるのが現状なのだ。

【こちらで詳しく】健康保険証がなくなる… “マイナ保険証”導入の現場では

 の後、従来から指摘されてきたさまざまな問題点や新しいトラブルが浮上してきた。私のような一般市民の素朴な疑問が投書欄に見かけない日がないくらい寄せられている。

情報管理への不安
 一つは、マイナンバー制度そのもの、情報一元管理への不安である。政府は、カード自体に情報が蓄積されているわけではない上に、暗証番号が必要だし、情報は国や自治体が分散管理しているから、芋づる式に情報い洩れが生じない、としている。すでに社会保障・税番号として機能しているわけだが、自治体の事務上の作業は、2021年度の個人情報保護委員会の報告によると、45%以上が外部の業者に委託し、再委託もあることが分かっている。この個人情報の拡散は、さまざまな重大な漏えい―データの誤送付、不正アクセス、職員による違法収集・・・も報告されている(朝日新聞22年10月30日)。さらに、民間での利用拡大の方針をすでに打ち出しているのである。

交付、普及を急ぐ拙速
 カードの交付は2016年から始まっているが、2017年3月には8.4%であって、20年9月から21年12月にわたって、カード申請すれば特定のキャッシュレス決済に限って2万円に5000円のポイントが付くというキャンペーンを実施した。第2弾として、22年1~12月までは、公金受取口座に紐づけなど含め、2万円のポイントを付けるというキャンペーンを実施の末、22年11月現在53.9%にたどり着いたようだ。この間のすさまじいほどのネットやテレビでのCM、度重なる新聞の全面広告は記憶に新しい。なぜここまで、政府は躍起になるのか、逆に不信を招いたのではないか。
 しかも、このマイナポイント事業には、第1弾に2979億円、第2弾に1兆8134億円を計上していることが、12月1日の参院予算委員会の質疑で判明した。いわゆる宣伝費はここに含まれていたわけである。さらに、カード交付の申請サポートを民間施設に委託拡大、その費用を加えると今年度だけで2兆円を超える。

医療現場の混乱、利用者の不安
 2021年11月からマイナ保険証の運用ははじまっているが、2022年11月現在、システム導入の医療機関・薬局は35.7%である。顔認証のカードリーダーの不具合、トラブルが続出して、その原因も未解明なのが現状であり、全国の開業医約11万人が加盟する全国保険医団体連合会の調査によれば、保険証廃止に反対が65%、システムを導入しない・できないと回答した1279件の内、その理由のトップはセキュリティ対策の不安で、多額の費用の発生、オンライン請求をしていないが続く。スタッフが少ない・いない、高齢で数年後に閉院予定などという切実な理由も挙げられている。詳しくは以下の記事をご覧ください。

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『全国保険医新聞』2917号(2022年12月15日)、調査は10月14日から11月20日、回答数は8707件(医科診療所5186、歯科診療所2668、病院449、無回答ほか)

 マイナンバーカードやマイナ保険証について、国民の受け止めについてのある調査によれば、「健康保険証の廃止」について、全体では概ね、約25%が肯定的、約45%が否定的、約30%が「わからない・どちらともいえない」であった。以下のようにまとめている。
「現段階では反対の割合が高いと言えよう。ここでも、マイナンバーカードの取得有無によって、考えが異なる。既にマイナンバーカードを取得している層は、約30%が肯定的、約40%が否定的となるが、マイナンバーカードを取得するつもりがない層は、約7%が肯定的、約67%が否定的と、強い抵抗感が窺える」。SMPOインスティチュート・プラスhttps://www.sompo-ri.co.jp/2022/11/15/6126/

 かつて私は、自治体に、マイナンバーの付与を拒否する要望書を出したことがあるが、自治体判断のマターではないとの回答を得ている。残念ながら、番号は付与されている。そもそも、マイナンバーカードの交付は法律上任意のはず、強制、義務化されるいわれはない。利用者としての私は、マイナ保険証を登録しない最大の理由は、やはり、セキュリティへの不安である。現に、カードを持つことの必要性もメリットも感じない。身分証明は、保険証やパスポートで用が足りるし、薬情報はくすり手帳で用が足りている。公金の入金口座は登録している。現在、保険証の確認は月一であるが、マイナ保険証は毎回提示しなければならない。乳幼児や未成年のカードの交付、カードの保管、利用のこと、紛失や災害時、停電のことなど想定するとリスクは際限がない。

 私は、マイナンバーカードの交付も申請しないし、当然、マイナ保険証の登録も出来ない、しないことになる。

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2022年12月16日 (金)

怒りの年末、次から次へ(1)やはり、ドーハも

 腹立だしいことこの上なく、何から言い出しても怒りは収まらない年末である。

 メディアが勝手に盛り上げていたサッカーW杯も日本が負けてホッとしたのだが、全く関心のない者には苦痛でもあった。どのニュース番組も、どの局のワイド番組でも、他に報道すべきニュースはあっただろうに、日本の敗因は、勝因はとか、選手の生い立ちや周辺のエピソードまで、実に騒々しかった。サッカーの好きな人は、テレビの中継やネットで見ればよい。しかし、ホッとしてもいられない事態が生じていたのである。
 東京五輪開催の経過も見ても、東京開催誘致の裏にもお金が動いたことはほぼ確実だったし、スタジオ建設、ロゴ問題の騒動、コロナによる延期、マラソン開催地、コロナ対策・・・、問題はあげれば切りがなかった。そして、ようやく明るみに出た五輪の談合疑惑は、泥沼の様相を呈している。W杯についても、開催地誘致や放送権などの利権をめぐっての汚職は、絶えることなく、広く知られるところである。動くお金も多額だし、国を越えての広がりを見せ、W杯の歴史は汚職の歴史、まさに黒歴史といってもいいだろう。マス・メディアは、まったくと言っていいほど報道されてこなかった。

 

 決勝戦を待たず、ドーハ大会をめぐっては、やっぱりというか、EUの欧州議会の副議長が汚職嫌疑で逮捕され、副議長職を解任された。時事通信によれば「欧州連合(EU)欧州議会は13日、汚職などの容疑でベルギー検察当局に逮捕、訴追されたエバ・カイリ副議長の解任決議案を賛成625、反対1、棄権2で可決した」という。彼女は、ギリシャ出身で、元テレビのキャスターだったというが、カタール政府から開催地誘致をめぐって、金品を受け取っていたという(「欧州議会副議長を解任 カタール巡る汚職疑惑で」12/13(火) 23:13配信)。ベルギー捜査当局は、前議員ら4人も逮捕、家宅捜査により現金も押収している。


 カタールは、すでに、11月、欧州議会によって移民労働者や性的少数者(LGBTQなど)に対する非人道的な扱いを非難する決議を採択されていた。その人権問題というのが、今回、初めて知ったことなのだが、想像を絶するものだった。

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 カタールは人口が約280万人で、その大部分が外国人労働者で構成されている。具体的には200万人以上の外国人労働者が働いており、今回のW杯に向けた8つのスタジアムやホテルなどの施設建設のためにも、インド、ネパール、バングラディシュ、パキスタンをはじめとする国外から来た何万人もの外国人労働者が働いているのが現状で、虐待と言えるような状況に置かれていることが明らかになり、大きな問題となっていたのである(Aoi Yagi「カタールW杯の期待に隠れた現実」GNB 2022年10月17日、https://globalnewsview.org/archives/19824

 選手はあずかり知らないことだし、まして観客や中継の視聴者が熱狂するのがどこが悪い?!と、済まされるものなのだろうか。

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2022年12月14日、ヤマボウシのえさ台にやって来たメジロのつがい。ガラス窓越しなので、早く直接撮りたいのだが。それにしても仲がいい。

 

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2022年12月 7日 (水)

1960~70年代の<ソビエト映画祭>を振り返る~ロシア映画は、今

なぜ、ソ連映画だったのか
 10年以上前にも、当ブログで触れているのだが、私が通っていた頃のソビエト映画祭のプログラムやキネ旬の特集などが、「日本におけるソビエト文化の受容」の研究を進めている知人からもどってきた。ロシアのウクライナ侵攻以来、当時見ていたソ連映画はどんなだったのだろうという思いに駆られていたので、さっそく読み返している。かなりは、忘却のかなたであるが、あれほど熱心に毎年ソビエト映画祭(在日ソ連大使館主催)に通ったのはなぜだったのか。

書庫の隅から見つけた、私の昭和(2)昭和40年代のソ連映画(2010年4月16日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/04/40-7f18.html

 60年安保反対運動のさなか、通っていた大学の自治会は、「全学連反主流派」が主導していた。1960年6月15日樺美智子の死、その年末に、大学歌人会で、一・二度顔を合わせたことのある岸上大作の自死に直面した。たしかに情緒的な反応をしていた時期もあったが、既存の革新政党への疑問が去らなかった。職場では、70年安保を体験することになり、大学の二部に通う同僚職員が、いわゆる「過激派」のデモに参加して逮捕されたときの職員組合の冷たい対応が、余りにもセクト的であったことを、苦々しく思い出す。
 何で知ったのか、1964年の秋、初めて、第二回ソビエト映画祭(10月26~28日 有楽町読売ホール、新潟巡回)に出かけている。プログラムには、「ソビエト映画・一九六四年―誕生四十五周年を迎えて」の解説が付されている。上映は「アパショナータ」「怒りと響きの戦場」「白いキャラバン」(グルジアフィルム)「私はモスクワを歩く」「ハムレット」(1964年)だった。「白いキャラバン」以外はモスフィルム撮影所製作であり、新作の「ハムレット」を除きいずれも1963年作であった。何を観たのか定かでないなか、「私はモスクワを歩く」だけが印象に残っている。偶然出会った男性3人、女性1人という4人の青年たちのモスクワの街での一日のできごとを描いた作品で、けれんみのない、清新な青春群像にどこかほっとした思いがしたのである。監督のゲオルギー・ダネリヤ(1930~2019)は、ソビエト、ロシア時代を通じて、さまざまなヒット作を生むが、検閲との折り合いをつけてきたらしい。この「私はモスクワを歩く」にも、ロケ地やセリフにまでチェックが及んだという。脚本・テーマソングの作詞のゲンナヂ・シュバリコ(1937~1974)は、この作品の10年後に自死したということである。つぎの上段の写真で、左で首をかしげている「モスクワっ子」を演じたニキータ・ミハルコ(1945~)は、俳優から監督も手掛けるようになるのだが、現在は、プーチンを支持し、ウクライナ戦線に送られた囚人の兵士を英雄視する発言などで、ウクライナの裁判所からは「領土保全の侵害」の疑いで逮捕状が出ているという。
 ソ連映画といえば、「歴史・革命もの」や「レーニンもの」などの個人崇拝的なプロパガンダ映画が多く、その種の映画を見るときは、どこか不信感を拭えず、冷めた目になってしまうのだった。

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「私はモスクワを歩く」には、スチールにしたい場面が数多い。上は、グム百貨店内のレコード店で店員のアリョーナと青年たちが出会う場面。レコードというのも懐かしいが、古めかしいレジスターも。真ん中の青年には何かともめているらしいが婚約者がいる。左右の青年と店員と関係が微妙なことになる。下のシーンは、主人公たちとは関係ない?カップルで、濡れながら裸足で踊る恋人を自転車で追い巡る青年との場面、ポリスボックスから警笛がしきりに聞こえてくる。「警笛」がほかのいろんな場面でも鳴り続けるのも興味深い。それにしても、今、ユーチューブで見られる字幕なしでも十分楽しめるが、会話が分かったらどんなにかと。https://www.youtube.com/watch?v=vbjs5zfxDMs&t=2829s

  1965年、第三回も10月下旬(虎の門ホール 大阪・広島巡回)で、短編を含むと7本を上映、もちろん全部を観てはいないが、今でも思い出すのが、短編ながら、ラトビアのリガを舞台にした「ふたり」(リガ・フィルム製作 1965年)である。音楽大学に通う青年が美しい女性に出会うが、彼女は幼時に爆撃で聴覚を失い、言葉が不自由であった。彼女は音のない音楽の世界へと導かれ、青年は彼女の書く文章によって、愛は深まっていくという展開だったと思うが、ラトビアの過酷な歴史を忘れるほど、港町リガの街並みに魅せられた。監督ミハイル・ボーギンの映画大学卒業制作であったという。間違いなく私も若かったのだなと思う。「戦火を越えて」(1965年)は、戦地で負傷した息子と彼を訪ね巡る一徹な父親との物語であるが、グルジアフィルムの製作であった。
  1966年、第四回の長編「ポーランドのレーニン」(1965年)はモスフィルムとポーランドの合作であり、「忘れられた祖先の影」(1964年)はウクライナのキエフ撮影所製作であって、各民族共和国製作の映画が日本でも多く紹介されるようになった頃だった。
 1967年第五回は<ソ連50周年記念>として、「ジャーナリスト」(ゴーリキイ撮影所製作 1967年)、アルメニアの「密使」(アルメンフィルム製作 1965年)、ゴーリキイ撮影所とポーランドとの合作「ゾージャ」(1967年)の長編が上映された。「ゾージャ」は、女性の名前で、ボーギンの長編第一作。プログラムの解説によれば、1944年のポーランドの小さな村で、戦火の合間、再編を待つ部隊の兵士とゾージャ、村人たちとの愛と信頼を描くが、私には、ラストの、ふたたび、ドイツ軍との戦闘へと向かう兵士との別離の画面だけがかすかに甦るのである。

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パンフの装丁は、なかなか定まらなかったようで、A4の横組みで始まるが、B5の横組みになり、B5の縦組みに落ち着く。 

日本でのソビエト映画
 ソビエト映画の国際的な進出は著しく様々な国の映画コンクールで受賞が続いている。日本では、1966年7月~8月に国立近代美術館において「ソ連映画の歩み」と題して、1924年~1961年製作の16本を上映している。手元のパフレット「ソ連映画の歩み」(山田和夫ほか編 フィルムライブラリー助成協議会)によれば、私は、ここでエイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」やグリゴーリ・チュフライの「誓いの休暇」を観ていたらしい。翌年の秋にも同美術館で「ソ連映画祭の回顧上映」が開催されているが、私が出かけた形跡はない。

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「ソ連映画の歴史(1)誕生から大祖国戦争まで」を岩崎昶 , 「同(2)大祖国戦争から今日まで」を山田和夫が、「ソ連の撮影所」を牛原虚彦が書いている。ソ連全土で撮影所は41を数える。山田和夫は、フルシチョフの政治路線は「矛盾と破綻をむき出しにした」との評価であったが。表紙絵のドームの中は「戦艦ポチョムキン」のオデッサの階段のシーンのようだ。

 また、『キネマ旬報』も1967年11月下旬号で<ソビエト革命五十周年記念特集 ソビエト映画の全貌>と題して、かなり多角的な特集を組んでいて、これは購入していたものと思われる。1967年前後には、革命50年周年を記念するか革命や歴史をテーマとする作品が目白押しの中、文芸大作「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」、「カラマーゾフの兄弟」なども一般上映されている。
 当時のソビエトは、1953年のスターリン没後、1956年、フルシチョフによるスターリン批判―個人崇拝と粛清排除によって、大きな転換期を迎え、1964年10月にはフルシチョフが失脚するという微妙な時期でもあった。革命や「大祖国戦争」のリアリズムによる伝達、いわばプロパガンダの要素が高い作品より、現代の都市や農村の生活、家族や個人の内面に目を向けた作品が好んで製作され、歓迎されるようになったのではないか。そうした映画の端々には、公式的な官僚主義の体制をそれとなく批判するセリフや映像が散見できるのであった。
  映画祭のパンフには、必ず駐日ソビエ大使の挨拶が巻頭に掲載されていて、1967年4月にウラジミール・ヴィノグラードフ
からオレグ・トロノヤスキーへと交代している。本国では、1972年8月、国家閣僚会議映画委員会議長(映画大臣)アレクセイ・ロマノフが解任され、フィリップ・イェルマッシュが就任している。その背景について、私の古い雑誌のコピーには、つぎのように書かれていた。

(更迭の直後の)『プラウダ』が「新しい課題にこたえる映画の製作に望む」とい論文を掲載し、「社会主義リアリズムと無縁な外国映画の無批判な模倣をやめよ」「社会的関心のないの代りに共産主義思想に一身を捧げる主人公を登場させよ」「革命精神をもって青少年を教育する作品を作れ」などとアピールしたことを合わせると、やはり映画大臣の更迭は政府の映画sで遺作の大幅な変更のあらわれだと見るのが至当であろう。(「ロマノフ更迭で路線変更ー引き締めに向かうソ連映画」『朝日ジャーナル』1972年10月6日、末尾にPANとの署名がある)

 記事は続けて、ロマノフは、党幹部出身ながら、自由主義的な思想の持ち主で、チュフライやタルコフスキーなどの「芸術派」の輩出を可能にしたのではないか、としていた。

 私が観た映画で、かすかに記憶があるのは・・・。 

1968年第六回「月曜今でお元気で」(ゴーリキ撮影所 1968年)
1969年第七回「夜ごとのかたらい」(モスフィルム撮影所 ?年)
1971年第九回「デビュー」(レン<レニングラード>フィルム 1970年)
「白ロシア駅」(モスフィルム 1971年)
1972年第十回「うちの嫁さん」(トウルクメンフィルム 1972年)
1973年第十一回「おかあさん」(モスフィルム ?年)
 「ルカじいさんと苗木」(グルジヤフィルム?)
1974年第十二回「モノローグ」(レンフィルム1973年)

 第十回の出品作品は、上記以外の「先駆者の道」(モスフィルム 1972年)は、宇宙開発の先駆者の半生を描き、「ルスランとリュドミーラ」(モスフィルム 1972年)はプーシキン原作、古代キエフ公国の人びとを異民族の襲撃から守った英雄のファンタジックな児童向けの作品という。そのパンフに挟まっていた新聞切り抜きには、当時のソ連映画について、端的につぎのように報じていた。

「ここ数年ソビエト映画はやわらかくなりつつある。本国では「社会主義リアリズムに忠実ではない」と、当中央委から大目玉をくったというが、日本ではむしろこの軟化がソビエト映画のファンをつくっている。」(毎日新聞 1972年10月17日)

 いまから思えば、プーシキンの原作の児童向け物語ではウクライナのキエフはどう位置づけられていたのだろうか。独り身の気ままな私のソ連映画祭通いは、1974年で終わる。

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その後の、ソビエト・ロシア映画祭は
 ソビエト映画祭は、1991年第二十三回まで開催されたようであるが、その後は、「ロシア・ソビエト映画祭」として、実行委員会形式で散発的に開催されていたらしい。2006年には、日ロ国交回復50年を記念し、「ロシア文化フェスティバル」の一環として、東京国立近代美術館フィルムセンター、ロシア・ソビエト映画祭実行委員会の共催で「ロシア・ソビエト映画祭」が開催されている。12年間の空白を経て、「日本におけるロシア年 2018年 ロシア・ソビエト映画祭」として、国立映画アーカイブが引き継いでいるが、定期的に開かれているわけではないようだ。

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上記は、ネットから拝借した1989年のプログラム。1991年まで続いているが、どんな映画が上映されていたのだろう。「秋のマラソン」はゲオルギ—・ダネリアの監督作品である。

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