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2023年4月30日 (日)

はじめての巣鴨地蔵、初めての染井霊園、そして六義園

 連休前の4月28日、東京へ出かけた。池袋に生まれ、池袋で育ったはずなのに、巣鴨のとげぬき地蔵も知らず、駒込の六義園に入ったこともなかった。染井霊園というのも聞いてはいたが、初めてなのだ。 関西出身の夫の方が、巣鴨も霊園もすでに訪ねていた。

 巣鴨の駅から白山通りを少し進めば、巣鴨地蔵通り商店街のアーケードが見える。なるほどここがと、しばらく進むと右手にとげぬき地蔵尊に着く。一通りお参りをして、最近快方に向かったという友人にと、お守りをいただき、まだまだ続く商店街だったが、そこで引き返した。パン屋の「タカセ」は、池袋東口の「タカセ」の支店らしいが、萬盛堂薬局は池袋西口の店とは関係がないらしい。「雷神堂」でせんべいとおいも屋さんではいも羊羹を買い、染井霊園に向かった。

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  霊園のHPからコピーした案内図と著名人の墓の番地一覧を片手に進むと、福田英子の墓地は一直線の道の端にあり、すぐ見つかった。高村光太郎の墓地は、案内の看板と⇒があったのですぐに分かった。その後、西そめいの通りに入り、夫とは別々の墓地に参ることになり、私は、五島美代子の墓地がなかなか見つからず、行ったり来たりした。警備の見回りらしい人とすれ違ったので尋ねると、すぐ後ろから「五つの島のゴトウだったらここにありますよ」との声、見落としていたのである。夫の姿は、どこへやら、シャツがちらちら見えたので、「見つかったの」と叫べば「まだ」という。そこへ、重装備のカメラを持ったグループの人たちがやって来て、「さがしているのは誰?」と声をかけられ、夫が目当ての「宮武外骨さん」といえば、すぐそこですよと、墓前まで案内してくださった。そこには「中村」という新しい墓標もあったので、気づかなかったと。さらに、隣接する慈眼寺の芥川と谷崎の墓参である。夫はすでに、数年前に訪ねている。

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左の碑には「尽誠待天命 
福田英」と刻まれているが、比較的最近に建てられたものではないか。この言葉と、婦人解放に身を捧げたと言ってもよい福田英子にはにつかわしくないと思えたのだが。隣の墓誌には、英子が筆頭で、没年が昭和二年五月二日(1927年)とあり、1865年11月生まれなので、61歳で亡くなっている。続いて子どもたちの名前がきざまれているようだ。5月2日という英子の命日も近いではないか。

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地図には、外人墓地の一画のように記されていたが、墓標は、一基だけが残されて、写真のような巨樹が二本生い茂っていた。

  ところで、私にとっての高村光太郎といえば、数年前に、いまから思えば終刊間近い『季論21』からの依頼で、高村光太郎について書いた縁もあるし(拙著「暗愚小傳」は「自省」となりうるのか―中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして」『季論21』 46号 2019年10月)、戦前の光太郎の翼賛ぶりへの批判は、何度かしてきた縁もあるので、一度は、ご挨拶?とも思っていた。また五島美代子に関していえば、夫の五島茂とともに、昭和初期のプロレタリア短歌の担い手だったが、茂の英国留学に伴い、戦後の『母の歌集』を経て、美智子皇太子妃の短歌の師への道をたどったことを知り、資料も若干集めている縁もあることから、ぜひと思っていた墓参であった。

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 案内の標識がなければ、高村光雲、光太郎、智恵子の墓とはわかりにくかった。墓前に供えられたレモンが一つ、短い影を落としていた。

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五島茂・美代子の長女ひとみは、母美代子とともに東大に通っていた時期もあったが、1950年、23歳での自死を遂げる。両親の慟哭はいかばかりであったか。美代子79歳、茂103歳、次女いづみが2017年80歳で亡くなっていることを物語る墓誌であった。

  

   次は、12時30分に予約をしている、女子栄養大学のキャンパス内にあるというレストランに向かうのだが、薄いセーターも脱いでも汗ばむほどだった。東京スイミングセンター、本郷高校、大きなマンションを目当てに、知らない街を夫の後をついてゆくのは、少々きつかった。ようやくたどり着いた女子栄養大学、守衛さんに名前を告げることになっていたらしい。4号館の五階という。夫がネット検索で偶然見つけたレストランで、学生食堂とは違うというので、興味津々であった。一階の大きな教室では、料理の実習中らしかった。五階では、矢印に沿って廊下を進むと、「松柏軒」の看板、さらに奥へ進む。「注文の多い料理店」を思い出すほどだったが、大きな部屋に通された。大きなテーブルが二つ、仕切りもなく半分は、畳の大広間になっている。お客は、どうも私たちだけで、シェフの男性が給仕もし、むずかしい料理の説明もしてくださり、ランチのフルコースを堪能することができた。どこか隠れや的な静かな空間であった。

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デザートのムースには、撮る前に、思わずフォークを入れてしまったのだが。

 次は、六義園なのだが、正門まで、駒込駅を通り越して商店街を歩くことになる。なかなかの人通りで、バラエティに富んだお店も多く、きっと住みやすい町に違いないと。

  六義園も都立公園なので、後楽園と同様、高齢者は150円の入園料であった。歩いて汗ばんだ身には、新緑の木陰の道は心地よく、ツツジの丘の花はまだ残っていた。ところどころの木陰のベンチで休みながら、徳川綱吉の時代、柳沢保吉が造営したという大きな池をめぐる回遊式の庭園を楽しむことができた。学校での日本史では、綱吉、柳沢のコンビはよからぬ印象の方が強かったのだが。

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帰宅後の歩数は、13000を超えていた。明日が、いや明後日が、どうなることやら、心配にもなる。 池袋に30年余住んでいながら、まだまだ知らない東京ではある。海外旅行はムリにしても、達者ではない足腰をなだめながら、今少し、小さな旅を続けたい。

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