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2023年6月30日 (金)

 梅雨空の下諏訪~今井邦子という歌人

  国家公務員共済の宿「諏訪湖荘」のビーナスラインの観光バスと北八ヶ岳ロープウェイを乗り継ぎ、坪庭一周という企画を楽しみにしていたが、あいにくの霧と雨に見舞われた。足に自信がなかったので、私は坪庭はあきらめ、ロープウェイ山頂駅のやたらと広い無料休憩所で、お弁当を一足先に失礼し、スケッチをしてると、40分ほどで一行は戻ってきた。足元がかなり悪かったらしい。観光バスの窓は拭ってもぬぐってもすぐ曇り、百人乗りも可というロープウェイの窓は、往復とも雨滴が流れるほどで、眺望どころではなかった。

 とはいうものの、前日は、夫とともに、下諏訪の今井邦子文学館とハーモ美術館を訪ねることができたし、翌日は雨もやみ、原田泰治美術館に寄り、館内のカフェでのゆったりとランチを楽しむこともできた。鈍色の湖面には水鳥が遊び、対岸の岡谷の町は遠く霞んでいた。諏訪湖一周は16キロあるとのこと、再訪が叶えば、内回り、外回りの路線バスを利用して美術館巡りをしてみたいとも。

 今井邦子文学館は、ところどころ、宿場町の面影を残す中山道沿いの茶屋「松屋」の二階であった。邦子(1890~1948)は、幼少時よりこの家の祖父母に育てられ、『女子文壇』の投稿などを経て、文学を志し、上京し、暮らしが苦しい中、ともかく『中央新聞』社の記者となったが、1911年、同僚の今井健彦(1883~1966。衆議院議員1924~1946年、後公職追放)と結婚、出産、16年に「アララギ」入会、同郷の島木赤彦に師事、短歌をはじめ創作に励むも、自らの病、育児、夫との関係にも苦しみ、一時「一灯園」に拠ったこともあった。困難な時代に女性の自立を目指し、1936年、「アララギ」を離れ、女性だけの短歌結社「明日香」社を創立、1943年には、『朝日新聞』短歌欄の選者を務める。戦時下は、萬葉集『主婦の友』と発行部数を競った『婦人倶楽部』の短歌欄選者をローテーションで務めいる。1944年、親交のあった神近市子の紹介による都下の鶴川村への疎開を経て、1945年4月には、下諏訪の家に疎開したが、1948年7月、心臓麻痺により急逝している。58歳だった。 

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  今井邦子への関心は、かつて『扉を開く女たち―ジェンダーからみた短歌史 1945ー1953』(阿木津英・小林とし子・内野光子著 砂小屋書房 2001年9月)をまとめる過程で、敗戦前後の女性歌人の雑誌執筆頻度を調べた頃に始まる。20年以上前のことだったので検索の手段はアナグロの時代であって、決して網羅的ではないが、今井邦子の登場頻度が高かったことを思い出す。最近では、邦子が、つぎのような歌を『婦選』創刊号(1927年1月)に山田邦子の名で寄せていることを知って、紹介したことがある(『女性展望』市川房枝記念会女性と政治センター編刊 2023年1・2月号)。

・をみな子の生命(いのち)の道にかゝはりある國の會(つど)ひにまいらんものを

 1924年5月の総選挙で、夫、今井健彦が千葉県二区から衆議院議員に当選している。18歳歳以上の男女に選挙権をという普選運動は、1925年3月が普通選挙法が成立、1928年3月の総選挙で初めて実施されたのだが、婦人参政権獲得運動の願いもむなしく、女性は取り残されたまま、そんな中で、久布白落実、市川房枝らによって創刊されたのが『婦選』であった。邦子が寄せた歌にもその口惜しさがにじみ出ているのだった。

  今井邦子文学館は1995年、松屋跡地に復元再建して開館、二階が展示室になっているだけだった。展示目録もなかったようだし、当方のわずかな写真とメモだけで語るのはもどかしい。それでも、斎藤茂吉や島木赤彦からの直筆の手紙、邦子から茂吉のへ手紙など、活字に起こされていて、生々しい一面も伺われて興味深かった。

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展示室の冒頭、詩などを投稿していた『女子文壇』と姉との写真が目を引いた。転任の多かった父の仕事の関係で、邦子は、姉はな子とともに、祖父母に預けられ、育てられ、両親との確執は続く。その姉との絆は強かったが、若くして死別する。

 1911年の結婚、翌年の長女出産を経てまとめた歌文集『姿見日記』(1912年)には相聞歌も見られるが、出産を機に、つぎのような歌が第一歌集『片々』(1915年)には溢れだすのである。

・月光を素肌にあびつ蒼く白く湯気あげつゝも我人を思ひぬ『姿見日記』
・暗き家淋しき母を持てる児がかぶりし青き夏帽子は」『片々』 
・物言はで十日すぎける此男女(ふたり)けものゝ如く荒みはてける
・入日入日まつ赤な入日何か言へ一言言ひて落ちもゆけかし

 1916年アララギ入会、島木赤彦に師事、1917年長男妊娠中にリューマチを患い、治療はかどらず、以降足が不自由な身となる。1924年夫の政界進出、1926年島木赤彦の死をへて1931年に出版した『紫草』では、赤彦の影響は色濃く、作風の変化がみてとれる。「あとがき」によれば「大正五年から昭和三年(1916~1928年)まで」の3000余首から781首を収めた歌集だった。私にとって、気になる歌は数えきれないほどであったが・・・。子供、夫との関係がより鮮明に表れ、思い煩い、嘆き、心が晴れることがなく、一種の諦観へとなだれていくようにも読める。身近に自分を支えてくれた人たち、その別れにも直面する時期に重なる。以下『紫草』より。

・眠りたる労働者の前をいく群の人汗を垂り行きにけるかも(砲兵工廠前)(「しぶき」大正五年)
・青草の土手の下なる四谷駅夜ふけの露に甃石(いし)は濡れ見ゆ(「夜更け」大正六年)
・病身のわれが為めとて蓬風呂焚き給ふ姉は烟にむせつ(「帰郷雑詠」大正六年)
・三年(みととせ)ぶり杖つかず来て程近き郵便箱に手紙入れけり(「荒土」大正八年)
・もの書かむ幾日のおもひつまりたる心は苦し居ねむりつつ(「さつき」大正九年)
・争ひとなりたる言葉思ひかへしくりかへし吾が嘆く夜ふけぬ(「なげき」大正十年)
・つくづくとたけのびし子等やうつし世におのれの事はあきらめてをり(「梅雨のころ」大正十二年)
・土の上にはじめてい寝てあやしかも人間性来の安らけさあり(「関東震災」大正十二年)
・夫に恋ひ慕ひかしづく古り妻の君が心の常あたらしき(「喜志子様に」大正十三年)
・真木ふかき谿よりいづる山水の常あたらしき命(いのち)あらしめ(「山水」大正十四年)
・うつし世に大き命をとげましてなほ成就(とげ)まさむ深きみこころ(「赤彦先生」大正十五年)
・みからだをとりかこみ居るもろ人に加はれる身のかしこさ(「赤彦先生」大正十五年)
・嘆きゐて月日はすぎぬかにかくに耐ふる心に吾はなりなむ(「梅雨くさ」昭和二年)  
・姉上の野辺のおくりにふみしだく山草にまじる空穂の花は(「片羽集二」)
・ありなれて優しき仕へせざりしをかへりみる頃と日はたちにけり(夫に)(「萩花」昭和三年)

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展示会で見た時は、気が付かなかったが、よく見ると謹呈先が「山田邦子様」となっているではないか。今井邦子が旧姓にちなむ、かつてのペンネームであった「山田邦子」あてなのである。かつての自分への「ごほうび」?「おつかれさま」?なのか、ユーモアなのか。

 1935年にはアララギを離れ、翌年には『明日香』(1936年5月~2016年12月)創刊し、みずからも萬葉集などの古典を学び、後進の指導にもあたる。女性歌人の第一人者として、歌壇ばかりでなく、一般メディアへの登場も著しい。その一例として、つぎの調査結果を見てみたい。戦時下の内閣情報局による『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』(1941年7月)という部外秘の資料からは、当時の八つの婦人雑誌への女性歌人の執筆頻度がわかる。期間は1940年5月号から1941年4月号までの一年間の執筆件数ではあるが、今井邦子は、他を引きはなし、婦女界5、婦人公論2,婦人朝日2、婦人画報1、新女苑1で計11件、五島美代子4件、茅野雅子3件、柳原白蓮3件であった。さらに2件以下として四賀光子、杉浦翠子、中河幹子、築地藤子、北見志保子、若山喜志子が続いている。いわゆる、当時は「名流夫人」として、名をはせた歌人たちであった。今井健彦、五島茂、茅野蕭々、宮崎龍介夫人であったのである。

 また、短歌雑誌ではどうだろうか。かつて、敗戦前後の女性歌人たちの執筆頻度を調べたことがある(前掲『扉を開く女たち』)今回、若干手直ししてみると、次のようになった。もし、邦子が敗戦後も活動できていたら、どんな歌を残していたか、どんなメッセージを発信していたのか、興味深いところである。

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上記の表から、今井邦子と四賀光子は、敗戦を挟んで激減し、阿部静枝と杉浦翠子は、増加している。生方、水町、中河は変わりなく、一番若かった斎藤史は倍増していることがわかる。

 なお、1942年11月、日本文学報国会の選定、内閣情報局によって発表された「愛国百人一首」について、「一つ残念な事があります」として、声を上げていたのである(「婦人と愛国百人一首」『日本短歌』1944年1月)。選定された百首のうち女性歌人の作が「わづか四人であるといふ、驚くべき結果を示されて居ります。現在の短歌の流行を考へ合わせると、そこにもだし難き不思議ななりゆきを感ずる訳であります」と訴えている。小倉百人一首には女性歌人が二十人選定されている一方、昭和の時代の選定に四人だけということを「長い長い歴史に於て真面目に婦人として考へて見なければならぬ事ではありますまいか」と婦人の無気力を反省しながらも、それはそれとして「女の心は女こそ知る、女も一人でも二人でもその片はしなりと相談にあづかるべきではなかつたらうかと、今も口惜く思ふ次第であります」と、12人の選定委員に女性がひとりもいなかったことにも抗議していた。「愛国百人一首」が国民にどれほど浸透していたかは疑問ながら、こうした発言すら、当時としてはかなりの勇気を要したのではなかったかという点で、注目したのだった。

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戦時下、雑誌統合により休刊となった『明日香』は、1945年10月には、謄写版が出され、その熱意が伝わってくる。1946年2月、邦子の下諏訪の家を発行所として復刊号が出されている。扉の一首「雨やみし故郷の家に居て見れば街道が白くかはきて通る」。

 また、『明日香』は、邦子の没後、姉の娘岩波香代子、川合千鶴子らによって続けられたが、2016年終刊に至る。

 

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2023年6月14日 (水)

川村記念美術館「芸術家たちの南仏」へ

 梅雨入り直前の晴れ間、6月8日、佐倉市内の川村美術館に出かけた。企画展の「南仏」が気になったといっても、私たちは、かつて、エクス・アン・プロバンスから日帰りのニース、マルセイユを訪ねたというレベルのことである。先日のマティス展に続いて、マティスにも出会うことができるかもしれない。

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 カタログの表紙も、チラシもマティスの切り紙絵「ミモザ」(1947年)だった。入館料、シニアは200円引きの1600円であった。

  今回、はじめて、午後2時からの学芸員による常設展、企画展をふくめてのガイドツアーに参加した。常設展は、印象派のルノアールから20世紀のアメリカ美術に至るまで、バラエティに富んでいるが、ふだんなら、通り越してしまいそうなマーク・ロスコの壁画やフランク・ステラの部屋での解説を聞いて知ることも多かった。ロスコの壁画はニューヨークのレストランからの注文であったというが、彼は、その店の雰囲気が気にいらず、納めなかったものの一部が、川村美術館に収蔵されたというエピソードも興味深い。ステラの作品の自在さと多様性には驚きつつ、美術館入り口近くのモニュメント「リュネヴィル」(1994年)という彫刻?には、職人たちとの苦労が偲ばれるのであった。

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ステラ「リュネヴィル」(1994年)、八幡製鉄所の職人さんたちとの汗をも思う。

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セザンヌ「マルセイユ湾、レスタック近郊のサンタンリ村を望む(1877-78)

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アルベール・アンドレ「マルセイユのプティ・ニース」(1918年)。プティ・ニースは、1917年にできたばかりのレストランであったが、現在では高級ホテルとレストランとして健在である。アンドレは、上記のセザンヌとは親子ほど年も違うが、親しく交流し、多大な影響を受けた。1918年はセザンヌの没年でもあった。

 マティスやシャガールには癒される作品も多いのだが、ピカソの前では、どうしても構えてしまう。しかし、今回は、以下のようなわかりやすいメッセージ性の高いポスターや広告もあって、心和むのだった。

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ピカソ「平和のための世界青年学生祭典(東ベルリン)」(1951年)。こんなスカーフがあったとは。この祭典は、第1回が、1947年プラハで開催され、第3回が東ベルリンであった。以後、中断もあったが、共産圏の都市を巡回して開催され、ソ連崩壊後も続いている。

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ピカソ「リュマニティ(日曜版)挿絵」(1953年12月27日)。ピカソの「ゲルニカ」(1937年)は有名であるが、彼は、フランスがドイツナチスから解放された1944年に、フランス共産党に入党、1973年亡くなるまで党員だった。しかし、スターリンの死去の折、描いたスターリンの肖像画はソ連から拒否されている。1949年以来、鳩は何度か
描かれ、平和のシンボルとして、定着し、世界に広がっていった。

 ピカソの女性遍歴は目まぐるしいが、最近、愛人の一人フランソワーズ・ジローの訃報が、小さな記事となっていた。抽象画家として活躍、6月6日、101歳で、ニューヨークのでなくなっている。1943年、1881年生まれのピカソが、1921年生まれの画学生ジローと出会い、二児をもうけたが、1953年の破局後は、ピカソはかなり未練がましかったらしい。

 なお、これまでまったく知らなかった、ラルフ・デュフィの「花束」の里芋の葉がなぜ青なのか、気になる作品だったし、また、マティスやピカソ、ボナール、シャガールらの作品で飾られた「ヴェルヴ」(1937年12月~1960年)という文芸美術雑誌の表紙にも興味をそそられたのだった。

 川村記念美術館は、DIC(旧大日本インキ)が所蔵する美術品を中心に、1990年に開館、3万坪の庭園は、みごとに整備され、折々の自然を楽しめる。京成佐倉・JR佐倉を巡回する無料のシャトルバスがありがたい。

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美術館の渡り廊下から。

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ツツジ、藤の花の季節は終わってしまったが。

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藤棚から美術館を望む。

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いまは、アジサイが見ごろ、ガクアジサイの下にひそむカタツムリ。

 

 

 

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2023年6月12日 (月)

宮内庁広報室全開?!天皇家、その笑顔の先は

 新年度4月以降、宮内庁に広報室が新設されたのと、Coronaが2類から5類に移行し、感染対策の緩和がなされたことが重なり、一気に皇室報道が目立ち始めた。

 5月以降、私自身が新聞・テレビで目についた報道から天皇・皇后はじめ皇族の動向を拾い上げただけでも、以下のようになった。天皇には、内閣の助言と承認を得て行う国事行為について、憲法第三・四条・七条に定められており、国事行為は限定的であり、皇室典範に定めのある儀式は、即位・大喪の礼のみである。たとえば、以下、この一カ月余りの活動は、そのほとんどが私的活動とみてよい。いわゆる「公的行為」について、法律上の基準はなく、平成期における天皇は皇后とともに、この「公的行為」を創出、拡大してきた経緯があり、定着したかのような様相を呈していたが、代替わりとCorona禍により、そうした行為、活動は、中止や縮小、オンラインなどで実施されることが多かった。が、どうだろう、天皇家、皇族の写真や動画が溢れだしたのである。

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 上記の表の備考に、純然たる私的行為と思われるものに「私」を記してみた。そうでないものについて、例えば、戴冠式参列(1953年、エリザベス女王戴冠式に皇太子参列)、園遊会主催(1953年~)、植樹祭参加(1950年~)などにしても、法的な根拠はなく、新憲法下の昭和期、平成期において、たんに「恒例」として実施されてきた行事に過ぎない。行事の筆頭に、第○回と付されているものは、その限りの沿革であることがわかるし、備考欄に、「○年~」と記したものもある。
 今回、突如、発表されたインドネシア訪問は、即位後初めての親善訪問とされ、皇后も同行することが注目されている。この国が選ばれたのは、現在、外交的にも経済的にも密接な関係を保ち、対日感情も東南アジアの中では良好とされているからであろう。

 しかし、アジア・太平洋戦争時1942年から、日本の軍政下にあった三年半の間、コメの強制供出や労務者の強制徴用、さらには、日本語、日の丸、君が代などを強要された世代は、もちろん、犠牲となった現地人の遺族たちの存在も忘れてはならないはずである。彼らには、いったいどのように対応するのか、関係省庁と調整中なのであろう。

 こうした親善の訪問と戦争犠牲者のいわゆる「慰霊の旅」は、平成期に増大した。昭和・平成期において、皇太子時代を含めて明仁天皇夫妻は沖縄へ11回も訪ねていることでも明らかであろう。それに加えて、被災地訪問も随時実施され、「公務など」と括られ、拡大されていった。
 このような「公的行為」には、必ず訪問先や移動時の警備体制や訪問先の受け入れ準備に多大の業務と費用が伴うはずである。「国民に寄り添」うことによって「慰撫され」「励まされ」る人々を生み出したかもしれないが、実質的な解決や成果につながることは、まずなかった。
 令和期の今に至って、こうした「公的行為」の環境が整ったことになるのか。

 また「私的行為」によって、三代にわたる「理想的な」家族像を発信できたとしても、それがいったい何の意味があるのだろう。
 若い人たちは、非正規という不安定な働き方を強いられ、結婚も出産もできない。大事に育てられるべき子どもたちは、家庭や学校で不安定な日々を送っている。社会保険料は値上げされ、高齢者の年金は抑えられ、老後生活への不安は尽きない。
 この現実と天皇家の風景との落差は、何なのか。すべての差別の根源ともいえる天皇制、この辺で、じっくり立ち止まって考えてみなければ。

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2023年6月 4日 (日)

マイナンバーカードを持たない<わけ>~健康保険証とマイナカード一体化の虚実

 6月2日、マイナンバー法・関連法の改正案が成立した。カードの申請の任意性には変更はない。2016年に発足したマイナンバー法の趣旨は、マイナンバーを使用して、災害、社会保障、税における行政事務の効率化であった。しかし、情報漏えいやプライバシー侵害の怖れから、国民の不安を払しょくできない中、例えば、コロナ禍における給付金の遅延やトラブルにより利便性への疑問も高まった。マイナンバーカード申請の伸びは鈍く、進捗しなかった。

 そこで、マイナポイント制度、5千円、2万円というポイントで、「申請しなきゃ損!?」かのような新聞広告、テレビ、ネット上での広告をなりふり構わず展開していたのは、記憶に新しい。さらに、昨年からは、健康保険証としても利用できるようになったが、大病院はともかく、多くの医療機関やクリニックでの利用が増すにつれて、トラブルや不具合が続出している。その他の種々のトラブルは、人的ミスとあしらい、システム上のトラブルは、下請け会社に責任を転嫁している。

 しかも、デジタル庁、総務省、厚生労働省の大臣たちは、まるで他人事のように、他の省庁や下請けに、その責任を擦り付けているのが現状である。

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5月28日、日曜の朝の何の番組であったか。左から河野デジタル庁、加藤厚生労働省、松本総務省の担当大臣だが。

 そして、今回の法改正によって、2024年の秋をめどに、健康保険証とマイナンバ―カードの一体化を図るといい、いわば脅しにかかってきたのである。この改正法によれば、カードの利活用の拡大を促進するあまり、セキュリティの強化が追い付いていない。

 以上のように、マイナンバー制度の経緯を、なんど振り返ってみても、当ブログでも、その都度、制度自体への疑問を提示してきたが、その疑問は解けないままである。

 私は、マイナンバーカードを持たない生活を続けていきたいだけである。

 なお、朝日新聞の報道によれば、デジタル庁は、マイナンバー制度十年目にあたる2026年、あたらしいマイナンバーカードの導入を検討しているとのことである(2023年6月3日)。利活用の拡大、口座の紐づけ・・・。所得税と言わず、何億もの預貯金、資産、スイスの銀行?に口座を持つ富裕層の口座にこそ紐づけて、<富裕税>を新設、しっかりと税金を取り立てて欲しい。切なる願いである。与野党とも、なぜ、それを言い出さないのか。

 少子化対策の財源にしても、6月にも骨子が示されるはずが、年内と先送りされた。増税は封印しているので、歳出改革という名の社会保障費の見直し、介護保険対象の見直し、つなぎ? の国債発行ということになる。高齢者軽視、国の借金は増えるばかり、次世代へ負担が重くなるばかり。手当、手当と増やしてみても、若者たちの安定的な雇用に基づく所得が保障されない限り、安心して結婚し、子どもを持ちたいという気持ちにはならないのではないか。
 「こども未来戦略」?こども家庭庁の創設基本理念「こどもまんなか社会」?実質が伴わない限り、まるで、ことば遊びにも思えてくる。

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ヤマボウシとキンモクセイの間で、肩身の狭い思いをしているような夏椿、今年の最初の一輪。いつの間にか、たくさんツボミをつけていた。

 

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