関東大震災100年、日付が変わってしまいましたが。
雑誌『歌壇』9月号の特集「その時歌人たちはどう詠んだかー関東大震災から百年」に寄稿しました。一頁の短文ですが、ご覧ください。私が会員の『ポトナム』は、1922年創刊ですから101年目、私の入会が1960年、会員歴だけは長くなっていますので、依頼があったのだと思います。ところが、肝心の1923~24年の『ポトナム』の所蔵館が少なく、難儀しました。
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『ポトナム』揺籃期の震災詠
一九二二年四月、小泉苳三は赴任先の朝鮮、京城で百瀬千尋と『ポトナム』を創刊した。大震災で、東京の発行所で発送直前の九月号を焼失している。一二月号の編集後記で、苳三は、所用で東京市内を移動中、大森の吉植庄亮宅で地震に遭遇し、翌日、ようやく片瀬の住まいにたどり着いたと記し、「雑然とした歌を並べたり、有名無名の大家の作を頂いて以て光栄としてゐる醜態」を嫌い、「ポトナム」の拓くべき境地は「量よりも質こそ芸術に於ては尊まるべき」と結ぶ(「片瀬より」『ポトナム』一九二三年一二月)。苳三自身の震災詠は見当たらない。以下、出典が『ポトナム』の場合は省略した。
『水甕』の尾上柴舟に師事していた阿部静枝は『ポトナム』にも『水甕』にも同時に震災詠を残している。
・地の震れにおびえあかしし今朝さむし倒れたる垣に朝顔咲けり(「災後(八首)」一九二四年一月)
・黒き煙来るとみえしやたちまちに割れて火焔のうづまきあがる(「地変(六首)」『水甕』一九二四年一月)
市川信一郎は、東京の冬の厳しさを次のように詠む。
・やけあとにひとつのこれる井戸の水をくまむとて霜のみち遠く来し(「入日(八首)」一九二四年二月)
平塚の農業高校に勤める小泉穂村は、パンを握ったまま逃げ果せたが、校長の「御真影を」との声に、再び駆け込み持ち出した後、次は牛舎から牛を助け出し、「生きてあることのうれしさたらちねの手をとりてただなみだこぼせり」と詠む(「震災雑感」一九二四年一月)。
お互いに無事を喜び合う家族がいる一方、社会では残虐な悲劇が起きていた。『ポトナム』にも「地震」と題した歌の中に「姿(なり)わろき人のちまたを行く見れば心は躍るもしも鮮人(よぼ)かと」といった一首を見出してドキリとしたのである。「よぼ」は朝鮮語本来の意味を離れて、当時の日本人が蔑称として使用する「差別語」であった。
大震災直後、『ポトナム』は京城で発行、編輯者である苳三は、創刊翌年の六月まで『水甕』に在籍、一九二四年六月には、吉植庄亮の『橄欖』と合併し、半年後には復刊という不安定な時期であったためか、所蔵館は少ない。一部、中西健治ポトナム代表の提供に拠った。(『歌壇』2023年9月)
「『ポトナム』揺籃期の震災詠」(「歌壇」2023年9月)
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