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2023年10月31日 (火)

「官報に載せるのを忘れてた」って! 文化功労者選考分科会委員

 「官報」に載せるのを忘れてた?って、そんなことがあるのだろうか。
   10月22日、「文化勲章は誰が決めるのか」を書いたあと、やはり気になって、今年の委員は誰だったのだろうと、毎年発表のある9月1日前後の「官報」をもう一度調べてみたが、見つからない。10月23日、「官報」掲載の日だけでも聞きたいと思って、ネットで見つけた文化審議会委員任命(文化功労者選考分科会委員を除く)の報道資料担当「文化庁長官官房政策課」に電話した。一緒に電子版「官報」を検索するが、わからずじまい。「担当の者が調べて電話します」とのこと。翌日、文部科学省の担当?から回答があったのだが、「たしかに、9月2日に任命されていますが、官報担当の者が、登載を忘れていまして、10月31日の官報に登載します」という。「ええ! そんなことってあるんですか。10月31日?」といえば、「ご迷惑おかけしました。担当の者への引継ぎがうまくいかなかったもので・・・。記者クラブの記者さんには報道資料として配布しているんですが」ともいう。1週間以上も先ではないか。任命からほぼ2カ月後になるなんて。これぞ、役所仕事、責任の所在はどこへやら。

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2023年10月31日「官報」、浅川ひとみ(萩尾瞳)、天谷雅行、鍋島稲子、猪又宏治、木部暢子、塩見美喜子、清水玉青(有吉玉青)、寺井真実(片岡真実)、原久子、沼上幹、三島良直、村田善則とある。

  そして、きょう10月31日の「官報」に、なるほど小さく載っていた。私が電話しなかったら、ずっと忘れていた?っていうことなのか。たった一日しか開かれない「文化功労者選考分科会委員」とはいえ、ずいぶんと軽んじられたものである。それもそのはず、“選考”との名の付くものの、役所のどこかで選ばれた“文化功労者”を承認するだけのこと。250万円の年金がつき、やがて”文化勲章“の候補者にもなる人たちの決め方なのである。メデイアも、文化功労者や文化勲章の受章者は、華々しく報道するが、どんな仕組みで決まるのかは、報道しないことになっているようだ。きょう「官報」に文部科学省人事として発表されたのは10名の委員の氏名のみ。「清水玉青」?、下の名前から、もしかしたら有吉佐和子の娘?報道資料には、肩書も記されているだろうが、私が知るのは、この人くらい。自分でもかなりしつこなと思いながら、委員の肩書をネットで調べ始めると、元大学学長から元野球選手まで、取り揃えていた。いわゆる政府の審議会の常連もいる。しかし、その決め方について、なるほどという記事を見つけた。当時の新聞記事を見過ごしていたらしい。前川喜平元文部科学省事務次官が、日本学術会議の任命問題に関連して、つぎのように語っていたのである。

政権にたてつく人間は排除し気に入った者は重用する。官邸のその姿勢を、私自身、じかに感じたことがある。
文部科学事務次官だった2016年、「文化功労者選考分科会」の名簿を官邸に持っていった。この分科会は文化審議会の下に置かれており、選考する文化功労者のなかから文化勲章受章者が選ばれることもあって、人事について閣議で了解をとる必要があった。 約1週間後、呼びだされて官邸に行くと、杉田和博官房副長官から、10人の委員のうち2人を差し替えるようにと指示された。「政権を批判する発言をメディアでしたことがあった」「こういう人を選んじゃだめだよ。ちゃんと調べてくるように」と言われた。(朝日新聞デジタル「前川喜平元次官が語る官邸人事 不当と違法の分かれ目は」2020年10月28日)

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2023年10月29日 (日)

「今も輝くスター55」一挙、2本公開です。

菅沼正子さんの「今も輝くスター55」のクラーク・ゲーブルとヴィヴィアン・リーが届きました。

今回は、「風と共に去りぬ」つながりの二人です。私にとってのヴィヴィアン・リーはなんといっても「哀愁」でした。もちろん2本とも名画座で観たのですが、私が生まれた頃の製作でした。なんとまあ、古い映画だったのですね。

今も輝くスター55(4)クラーク・ゲーブル キング・オブ・ハリウッド

今も輝くスター55(5)ヴィヴィアン・リー まなざしの奥に強烈な個性のきらめき

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2023年10月22日 (日)

文化勲章受章者、文化功労者は、いったい誰が決めるのか。

  10月20日、政府は、7人の文化勲章受章者と文化功労者を発表した。21日の新聞は、話題性のある受章者のよろこびの声や文化勲章の川淵三郎、文化功労者の北大路欣也らは、写真入りのインタビュー記事が掲載されていた。学術・文化・芸術の分野で、最高の栄誉に輝く人々と報じられ、11月3日には、授与式があり、また、その“よろこび”の姿が報道されるだろう。

 文化勲章や文化功労者は、どこでどのように決まるのか。そんな疑問から、調べてみるのだが、釈然としない。

 2013年の省庁再編で、文化庁にあった従来の国語審議会、著作権審議会、文化財保護審議会、文化功労者選考審査会を統合して文化審議会を設置された。文化功労者選考審議会は、分科会の一つとなった。その分科会の選考委員名や選考過程も知りたかったのだが、ネット上の検索では、文化庁のホームページに「第23期文化審議会委員名簿」(2023年4月1日付)は掲載されているのだが、どういうわけか、「文化功労者選考分科会分属の委員は除く」との但し書きがついている。

 2019年、下記のブログ記事を書くにあたって、たどり着いた文科省の大臣官房人事課栄典班によれば、ホームページに載せないのは、「文化功労者選考分科会は他の分科会と違って、会合は年一度しか開かないので、載せないことになっています」という。一回きりなので、いつまでもホームページに名前が残るのは好ましくないという主旨のことも話していた。名簿が欲しいのなら、今から読み上げるからメモしてくださいという。ファックスもできないことになっているというので、理不尽ながら、慌てて書きとった12人の中で、知っているのは、田中明彦、都倉俊一くらい。この分科会委員の任命は毎年9月1日前後らしいので、今年は、と「官報」を調べてみるが、私には見つけることができなかった。お気付きの方、ご教示いただければありがたい。ただし、官報無料公開は直近90日までとなっている。

 文化審議会委員はすべて文科大臣の任命である。任命された文化功労者選考分科会委員は、今年だと、多分野にわたる20人の文化功労者を一日で選考できるわけでもないから、大臣官房の担当部署が作成した候補者名簿を承認することくらいしかできないだろう。名簿作成の資料は、いろいろな伝手から入手してのことだろうと推測する。要するに、選考分科会はすでに形骸化していることになる。文化勲章は、上記のような経過で“選考”された過去の文化功労者の中から文科大臣が推薦した文化勲章候補者を分科会委員全員の意見を聞き、内閣府賞勲局で審査を行い、閣議に諮り決定するのである。

 こうした状況は、各省庁の審議会も同様で、官僚の”作文“を了承するセレモニーの一端を担うに過ぎず、「審議会行政」と言われる所以である。そして、官僚が選んだ文化勲章・文化功労者なのに、学術・文化・芸術の分野での最高峰、到達点かのような、華々しさで報道するメディアも、メディア。政府に不都合と思われる人は選ばれない。不都合な言動があった人でも、政府は「なびき」そうな人に目星をつけるのも巧みである。 

 当ブログでは、すでに何度も繰り返し書いてきたり、拙著『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 2013年8月)の中でも、指摘していることなのだが、最近の記事としては、つぎの2件がある。 

・ほんとうの「学問の自由」とは~日本学術会議、日本芸術院、文化勲章は必要なのか(2020年10月4日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/10/post-02d75a.html

・いったい、文化勲章って、だれが決めているのだろう~その見えにくい選考過程は、どこかと同じ?  (2019年11月27日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/11/post-35d417.html

 

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2023年10月17日 (火)

「雨の神宮外苑」(NHKTV2000年制作)について書いた後、知って驚くことばかり(2)~「内閣調査室」のこと

  1952年、内閣官房に「内閣調査室」を立ち上げた時からのメンバー、志垣民郎については、以下の当ブログ過去記事でも紹介した。志垣が、最晩年に出版した『内閣調査室秘録―戦後思想を動かした男』(志垣民郎著 岸俊光編 文春新書 2019年7月)を読むことができた。

「雨の神宮外苑」(NHKTV2000年制作)について書いた後、知って驚くことばかり~「わだつみ会」のこと  (831日)

 同書には、どういう人物とどこで、情報交換していたのか、<研究費>と称して、手渡した金額などが日誌風に記録されている。彼らが接触するのは、たいていは高級レストランらしい。<接待費>も<研究費>も、もちろん国費で、もとはといえば税金だったわけである。私が、初めて知ったのは、鶴見俊輔とも接触があって、『共同研究 転向』上中下(平凡社 1959年1月、1960年2月、1962年4月)へ資料提供をしていたことであった。「金は手渡さなかった」との記述にほっとしたのであったが。また、さまざまな研究者の名前と手渡した金額が明記されていた。その中で、私が新卒で2年ほど勤務していた学習院大学の先生たちの名も登場する。アメリカ帰りの行動科学専攻の先生の研究室には、巨大な「電気計算機」なるものが設置されていたのだが、その後の1960年台の後半、その先生から、150万円を要求された志垣は、そんな大金には応じられないとの記述もあった。

 断捨離のさなか、紙が悪いのだろう、茶色くなった冊子が2冊出てきた。表紙にはなんと「内閣官房内閣調査室」のゴム印が押されていた。かつて勤務していた図書館には、納本される新刊書からレファレンスブックを選書する日があって、棚の片隅に、処分されそうな何冊もの副本の中から、レファレンスの事務用にと部屋に持ち帰ったのだろう。退職の時の私物に紛れ込んでしまったのかもしれない。

  • 「文学者の政治的発言」(社会風潮調査資料10)昭和三十七年(1962年)
  • 「社会風潮としてみた流行歌―歌謡曲を中心とした思潮の変遷」(1966年)(社会風潮調査資料37)昭和四十一年三月

  今回、あらためて読んでみた。①には、さまざまな文学者の名前や団体名が登場し、思想的な色分けをした上で、若干の解説が付されている。B5版の80頁ほどで、タイプ印刷のようにも見える。 巻末に参考文献も示されているが、当時としても、おそらく、あたらしい事実もないし、分析もそっけなく、内調のオファーに応じたかのような、かなり、偏向した内容でもあり、大学生の卒論くらいにしか思えなかった。②も同様に70頁ほどの冊子だが、この内容も、既刊の関係文献をなぞった程度で、巻末の「昭和の主な歌謡年表」も粗末なものである。この冊子が出されていた頃、私も、流行歌、歌謡曲には、けっこう興味を持っていて、関連の書物は何冊か今も持っている。②と対極にあるのは、「赤旗日曜版」の連載をまとめた高橋磌一『流行歌でつづる日本の現代史』(音楽評論社 1966年8月)だろうか。少し後に出された、作詞家4人による『日本流行歌史』(古茂田信男・島田芳文・矢澤保・横沢千秋著 社会思想社 1970年9月)は、歴史編・歌詞編・年表篇とに分かれ、巻末には、歌い出し・曲名・主要人名事項の索引がついている557頁もの労作である。さらに下って、『歌謡曲大全集1-5』(全音楽譜出版社 1981年)まで購入している。歌は歌でも、短歌ではなくて歌謡曲にも興味津々であった。さらに下って、戦時下の歌謡曲については、櫻本富雄『歌と戦争』(アテネ書房 2005年3月)と先の『日本流行歌史』は、調べる本として、いまでも利用している。後者は、発行が1970年だが、1964年創業のジャニーズ事務所は登場せず、言及は渡辺プロダクション止まりであった。

 話はいろいろに飛んでいったが、借りた福間良明『「戦争体験」の戦後史』(中公新書 2009年3月)が、まだ読み切れていない。

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北側のキンモクセイがいい香り漂わせていた。物置に邪魔されたキンモクセイはまだらしい。

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2023年10月 4日 (水)

<関東大震災100年>特集に思う~5首を発表しました。

 関東大震災100年ということで、多くのメディアが特集やシリーズものを組んでいた。短歌雑誌の『歌壇』9月号では、≪その時歌人たちはどう詠んだか―関東大震災から百年≫が組まれ、私も「『ポトナム』揺籃期の震災詠」を寄稿した。9月2日の当ブログにも収録している。今回は、『現代短歌新聞』10月号の特集≪関東大震災100年≫に拙作五首を発表している。ご笑覧のほどを。3頁にわたり43人が出詠していた。★

観音寺の鐘楼   内野光子(ポトナム)

縛られて〈払い下げ〉られし六人を殺せと命じられし村びと
息つめて向うは高津観音寺晩夏の雨に鐘楼濡れおり
朝鮮の技にて成りし鐘楼に犠牲者慰霊の礼のひたすら
命じられ殺めし人らを供養せる碑には銘なく落葉とどまる
二九六の往来激しき道の辺に潜まり建つは〈無縁仏の墓〉
(『現代短歌新聞』2023年10月)

 関東大震災について、私は、書物や映像でしか知らない。両親は結婚する前で、父は海外にいたし、母は千葉県の佐原で小学校教師をしていたはずだが、震災の話を聞いた記憶がない。書物や映像からの作歌は、むずかしいし、私は、なるべく戒めることにしている。数年前、佐倉市の隣町、八千代市内に大震災時に犠牲となった朝鮮人の慰霊碑がいくつかあり、毎年、追悼式が行われていることを知った。高津団地に近い「高津山観音寺」では追悼式と同時に開かれる学習会にフィールドワークが開催されているが、一度参加したことがある。「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の主催である。ことしは9月9日に百周年慰霊祭が行われたが、猛暑の中、体調に自信がなく、残念ながら参加できなかった。

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『いしぶみ』は「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の機関誌で、1978年創刊という。さまざまな関連行事の案内や報告、研究論文も掲載される。最新号の「関東大震災朝鮮人虐殺をめぐる質問主意書の意義」は2015年から資料を巡る質問書は八回も出され経過、今年は、5月23日の参院内閣委における杉尾議員も関係資料について質問までを追跡している。8月30日の記者会見で松野官房長官の「政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」との発言は記憶に新しい。ちなみに質問主意書については、以下に詳しい。


関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会HP<質問主意書一覧>
https://www.shinsai-toukai.com/top-japanese-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/%E8%B3%87%E6%96%99%E5%AE%A4-japanese/%E8%B3%AA%E5%95%8F%E4%B8%BB%E6%84%8F%E6%9B%B8-%E7%AD%94%E5%BC%81%E6%9B%B8/

「<100年ぶり>の国会質問に政府の答えは? まもなく発生100年の関東大震災「朝鮮人・中国人虐殺」問題」『東京新聞』2023年5月24日https://www.tokyo-np.co.jp/article/251995

★『現代短歌新聞』の特集の作品の中で、気になったのが、柳宣宏さんの「一会員」と題する五首だった。
・「まひる野」の会員たりしえみこさんは大杉栄と伊藤野枝の子
 第一首目と『天衣』という歌集を残したという第五首目を手掛かりに調べてみると、伊藤には、辻潤との間に二人、大杉との間に五人の子供がいる。「えみこさん」は、三女の「エマ」さんで、後に笑子と改名している。『天衣』は、1988年に出版されていたが、著者は野沢恵美子となっていた。

 

 

 

 

 

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