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2023年11月30日 (木)

横浜へ~三渓園、日本大通りの銀杏、どこの黄葉も見事でした(1)

三渓園~みごとな大イチョウ

  11月28日、KKRポートヒル企画の三渓園散策に参加した。KKRの企画のいいところは、目的地への往復は、公共交通で行くことになっているので、バス停まで歩いたり、路線バスの乗客乗り降りやバス停名などを目の当たりにしたりできることか。ただ、高齢者には、ホテルから目的地まで、バスで往復してくれるとありがたいときもある。「旅行業者」ではないので、それができないそうだ。

 「山下埠頭入口」から、横浜市営バス8系統の「本牧車庫前」行に乗るのだが、20人弱の参加者が、満員で一度に乗れず、二便に分かれた。そのバス停は、ヘボン式ローマ字のヘボンの旧居跡前でもあって、しっかりした石碑が立っていた。
 三渓園へは20分弱で到着、二班に分かれて、ボランテイアのガイドさんに案内していただく。三渓園についての予備知識はほとんどないままだった。明治時代、生糸・製糸の貿易で財を成した原善三郎を継いだ養子原富太郎(三渓)が、1902年頃から約5万3000坪の地を日本庭園として造営に着手している。自らの住まいとしていた鶴翔閣を中心とした内苑部分と、早くより市民に開放していた外苑とからなる。三渓は、明治期の廃仏毀釈により、京都の寺などで壊されそうになったり、手離したりした数々の美術品などを蒐集、建造物を移築している。それらが庭園内に点在していて、それぞれのいわれを、ガイドさんは熱心に語るのだが、各々脈絡があるわけではないので、どうも記憶にとどめ難いのは、年の所為ばかりではないかもと、案内のリーフレットをひっくり返している。

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 今回の散策は内苑が主で、入り口から右手に蓮池、左手に大池を見ながら鶴翔閣に近づくが、幾棟かが連なっていて全容が見えない。原家の住居部分につながる客間や広間では、政財界人が集い、庇護を受けていた大観、観山、青邨ら画家たちの制作の場にもなっていたという。 さらに進むと、右手に18世紀初めに建てられた京都東山西方寺の薬医門を移築したという「御門」があり、ここでは、結婚式の「前撮り」?というらしいが、式の衣装の新郎新婦がカメラマンに向かってさまざまなポーズをとっていた。先の鶴翔閣では、一日一組の結婚式・披露宴もできるらしい。さらに奥の右手の臨春閣も幾棟もが連なった建物で、前庭の池とともに、一巡りすると、今は紅葉とススキ、ツワブキなどを前景にして、さまざまな風景が楽しめるようになっている。

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 聴秋閣のある高台から見下ろせば、大銀杏の黄葉が舞い散って、黄色い絨毯をなしていた。実はもう一本の銀杏があって、この季節は見事だったというが、数年前の台風でバッサリ折れたという。見上げると太い幹の先には緑の葉が茂っているのがわかる。年々枝を張って元のようになったら見事なことだろう。

 一時間半ほどの散策は、私にはだいぶきつかった。最後に、三渓記念館に立ち寄り、企画展「大正十二年の原三渓」では、百年前の関東大震災後の横浜の復興に復興委員会会長として尽力した功績などが展示されていた。
 ホテルに戻って、五時からの懇親会では、私たちの班は四組の夫婦で、名前は名乗らないままながら、新聞記者、ピアノ教師、航空管制官など職歴もさまざま、旅行やマラソン、テニス、病歴などにも話は及び、ひとときを楽しんだ。

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11月30日に、近くで菜園をなさっている方からたくさんの冬野菜をいただいた。大根の兄弟もあり、かぶの一家には赤ちゃんもいるようだ。さてこれからは、なにはどうする・・・。今月は、さつまいものシルクスイートも二度ほどいただいたばかりだった。スイートポテトパイは帰省した娘にも好評だった。

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2023年11月20日 (月)

<座談会>、かなり緊張したのですが。

 11月18日、土曜の午後、G—W—G (minus) 同人の方からのご依頼で座談会に参加しました。同人の三方、位田将司さん、立尾真士さん、宮沢隆義さん、どなたも近代文学の若い研究者で、G—W—G (minus) のバックナンバーを一部拝読、これは手ごわいぞ、の第一印象でした。座談会に至るまでは、進行や資料など丁寧に対応していただき、1週間前にはzoomの打ち合わせもしていただきました。

 会場は、私の住まいの近くの古民家カフェ「入母屋珈琲」の2階の広々とした会議室、入るなり、中央のテーブルにはなんと、写真のように、私のこれまでの著作、収録された論文集、雑誌のコピーまでが、積まれているのを目にして驚き、もはや感動に近いものがありました。私も、拙著の一部や1960年代の雑誌などを持参しましたが、机上のこれらの資料から突っ込まれると、かなりの覚悟が・・・、などと思ったのですが、話が始まると、三人は各様に、私の4冊の歌集や拙著を読まれていて、おぼつかない私の話をうまく掬い取ってくださりで、あっという間の4時間!でした。多くの刺激をいただきました。

 当日の夕方には、以下のツイートにも。 

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本日、歌人の内野光子さんと座談会をおこないました。短歌と天皇制の関係を中心に、「60年安保」及び「68年」と短歌、阿部静枝と『女人短歌』、齋藤史と『万葉集』、前衛短歌、そして「歌会始」の問題を大いに議論しました。2024年5月刊行予定の『G-W-G(minus)』08号に掲載予定です。乞うご期待! pic.twitter.com/7y1qnDWvmx

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2023年11月12日 (日)

知覧、唐突ながら、知覧へ行ってきました

 鹿児島中央駅東口からの東16番の路線バスで、終点特攻観音入口まで、1時間30分ほどかかった。市街地を抜けると、南九州市、知覧へは上り坂が続く。この小旅行で、いちばんつらかったといえば、特攻隊員が出撃の前の数日間を過ごすことになっていた「三角兵舎跡」へとのぼる松林の中の山道であった。今でこそ、階段が整えられ、決して長くはない、この道をのぼる隊員たちの気持ちを思うと胸が痛い。のぼりきった平地は、陽が射さず、コケに覆われ、モグラの仕業か、地面のあちこちがひっくりかえされ、「三角兵舎跡」の碑がひっそり立っているのだった。

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角兵舎跡への階段、三角兵舎の跡の石碑。

  少し離れた、軍用施設となっていた二軒の旅館から、出撃が間近くなった隊員が、この地の兵舎に移動してくるのだった。さらに、出撃当日は、ふもとにトラックがやってきて、飛行場へと赴いたという。二本の滑走路近くには「戦闘指揮所」があって、「俺も後から行くからな」という上官や女学生たちに見送られて、機上の人となり、二度と帰ることはなかったのである。

 知覧の旧基地の一画には、知覧特攻平和会館(特別攻撃隊戦没者慰霊顕彰会、1987年2月開館)がある。九州、台湾、琉球諸島にあった特攻基地から、1945年4月1日、沖縄本島への上陸米軍への総攻撃が始まり、4月6日の第一次総攻撃から6月21日の第11次総攻撃まで、さらにその前後、とくに、1945年6月23日、牛島満軍司令官の自決をもって、沖縄戦終結後の7月、8月にも、出撃が続いている。その戦没者合わせて1036人の遺影が壁いっぱいに展示され、ケースには遺書や遺品などが並べられている。20歳前後の若者たちが、“志願”の名のもとに、殺されていたかと思うと、遺影とはいえ、彼らの視線には耐えられず、会館を後にするのだった。

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大破した、海軍ゼロ式艦上戦闘機。

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松永篤雄さん(19歳)の辞世「悠久の大義に生きん若櫻唯勇み征く沖縄の空」。

 掩体壕まで案内してくれたタクシーの運転手さんは、「特攻機も、特攻隊員も出撃までは大事にされてたわけですな」の一言には、複雑な思いがよぎるのだった。

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知覧町が、敗戦50年、1995年に建てている。

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掩体壕のめぐらされた土手の高さは4メートルほど。後方には、茶畑が広がる。

 この知覧行には、忘れ難い一件もあった。鹿児島中央駅のバス停で、台湾から来日した若い女性に出会った。上手な日本語で、二カ月の休暇で、北海道から日本を縦断する形で、旅をしてきたという。知覧を最後に、帰国するというのだ。
「日本語はどこで学んだの」には、「塾に通い、あとは独学です」と。「日本に興味を持ったきっかけは」には、「日本のアニメが好きだったのと、池上彰の話を聞いたりして・・・」という。
 知覧特攻平和会館では、ちょうど「鹿児島県の戦争遺跡」という企画展も開かれていることも知っていて、私たちもできれば聞きたいと思っていた、その日の企画展に伴う講座のことを話すと、すでに知っていて、参加するという。かなり調べていて、準備不足だった私など教えられることもあって、その学ぶ意欲に脱帽。日本の台湾旅行者で、ここまで調べている若者がいるかな、と。彼女は、終点の一つ手前の武家屋敷群前で「今日、またどこかで会えるかもしれませんね」とバスを降りていった。

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知覧飛行場跡概略図、『旅の雑誌』(南九州市)より

 

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2023年11月11日 (土)

紫綬褒章の受章者はどのようにして決まるのか

「またまた、もういい加減にして」の声も聞こえるが、やはり、書きとどめておきたい。
 俵万智(六〇)が二〇二三年秋の紫綬褒章を受章した。多くのマス・メディアには、彼女のよろこびの言葉が報じられていた。短歌関係の雑誌は、どう扱うだろうか。

 紫綬褒章は、内閣府によれば、「科学技術分野における発明・発見や、学術及びスポーツ・芸術文化分野における優れた業績を挙げた方」に与えられるとある。
 1955年に新設された紫綬褒章は、これまでも多くの歌人たちが受章している。近年では、2014年栗木京子、2017年小島ゆかり、今年の俵万智と女性が続いたが、1994年の馬場あき子以来女性は見当たらず、1996年岡井隆、1999年篠弘、2002年佐佐木幸綱、2004年高野公彦、2009年永田和宏、2011年三枝昂之、2013年小池光と男性だった。女性が続いて、歌壇の現状がようやく反映されるようになったとよろこんはでいけない。
 そもそも、受章者はいったい誰が決めるのだろうか。当ブログでも、「文化勲章は誰が決めるのか」の記事を何度か書いてきた。さて、紫綬褒章はどうなのか。

 「褒章受章者の選考手続について(平成15年5月20日)(閣議了解)」によれば、根拠法は、なんと「 褒章条例(明治14年太政官布告第63号)」であって、「明治」なのである。 褒章の種類は、紅綬、緑綬、黄綬、紫綬及び藍綬で、受章者の予定者数は、毎回おおむね800名とし、春は4月29日に、秋は11月3日に発令する、とある。
 「議院議長、参議院議長、国立国会図書館長、最高裁判所長官、内閣総理大臣、各省大臣、会計検査院長、人事院総裁、宮内庁長官及び内閣府に置かれる外局の長は、春秋褒章候補者を内閣総理大臣に推薦し、文書により、あらかじめ、文書により内閣府賞勲局に協議する。内閣総理大臣は、推薦された候補者について審査を行い、褒章の授与について閣議の決定を求める」となっている。

 4月19日は、かつては「天皇誕生日」という祝日で、昭和天皇の誕生日であった。すでに知らない世代も多いのかもしれない。11月3日は、「明治節」、明治天皇の誕生日という祝日であった。 

 なお、内閣府の「栄典の手続き」によれば、その手続きは、以下のようになる。要するに、各自治体及び関係団体、各省庁、内閣賞勲局の間で行ったり来たりしながら、内示の段階でほぼ確定ということになる。つまりは、役人が選考しているので、「文書」にいくつもの押印はあったとしても責任は不問に近い。なお、「栄典に関する有識者」の会議の委員は3年任期で、年に1・2度開催して、栄典の在り方を大所高所からの意見を内閣総理大臣に届けるらしい。その委員たちは、大学教授だったり、会社の社長だったり、他の審議会にも掛け持ちのような「常連」が多い。中には、元内閣官房副長官杉田和弘の名もあった。

 以下、直近の受章者数、その中の紫綬褒章受章者、女性の割合を示し、選考過程の流れを図解してみた。

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 その点、少なくとも民間の、雑誌社やいろんな団体から、歌人に与えらる賞は、選者や選考委員が明確ではある。その先のことは知らないが。

 私は、かねてより、あたらしい憲法のもとでは、国家による勲章や褒章の制度を批判してきたし、結論的には不要と思っている。というより、法の下の平等に反するし、差別――人間のランキングを助長する害悪とも思っている。さらに、選考過程をみると、役人サイドで、綿密に審査がなされているらしいことがわかる。役人たちが、この人なら、「ハメ」を外さない、「安心安全な歌人」として、褒賞されるとみてよい。岸田内閣のような、閣僚、政務官選びの杜撰さとはわけが違うようなのだ。

 

 

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