細々と資料の整理はつづけているものの、処分するもの、古書店に引き取ってもらえそうなもの、やっぱり手離せないものと仕分けるのだが、なかなか踏ん切りがつかずに困っている。12月には、少し大掛かりに、短歌関係雑誌を捨てた。そんな作業の中で、佐藤通雅の個人誌『路上』が途切れ、途切れに出てきた。
その中の一冊97号(2003年12月)の表紙に「児玉暁ノート」とあるのが目に留まった。加藤英彦さんが、ともに属していた『氷原』時代から、文学を語り、短歌を語り、飲み明かしながらも、妻子、家庭を大事にしていた児玉暁さんの様子と突然の訃報に接した顛末が書かれていた。私にも、児玉暁さんとの少しばかりの接点があったのを思い起すのだった。(以下敬称略)
創刊号の表紙と最終刊と思われる18号の奥付
児玉の個人誌『クロール』の創刊は1995年12月1日、B5版16頁のワープロによる手作りの冊子であった。非売品となっていて、たぶん、送ってくださったのだと思う。私の手元には、18号(2000年6月1日)まではそろっていて、創刊号だけは水色の用紙を使用している。挟まれていた「送り状」には、時候の挨拶に続いて「さて、このたび不肖、長年所属しておりました「氷原」を離れ、個人誌「クロール」を創刊することに意を決しました」の一文がある。この個人誌の圧巻は、毎号の30首と「第二芸術論異聞―戦中から戦後、その活断層地帯」の連載であった。「第二芸術論異聞」の第1回で、戦中から戦後の短歌史を深く険しく切断しているのは「活断層地帯」があるからとの見立てにより、次のように述べる。
「歴史的事実を改竄することなく、隠蔽することなく、有耶無耶に放置することなく正当に埋め込む作業を施すこと、言葉を換えて言えば、戦中と戦後の流れを合流させて一本の太い近代短歌史を築き直すことが急務だと思われてならない」(1号 1995年12月)
このスタンスは全編に貫かれている。例えば、佐佐木信綱『黎明』(1945年11月)について、小田切秀雄「文学における戦争責任の追求(ママ」)」(『新日本文学』1946年6月)、木俣修『昭和短歌史』(明治書院 1964年10月)、篠弘『現代短歌史Ⅰ戦後短歌の運動』(短歌研究社 1983年7月)、佐佐木幸綱編『鑑賞日本現代文学 32巻 現代短歌』(角川書店1983年8月)においても言及がないことを指摘した上、戦時下の作品が『佐佐木信綱全集9佐佐木信綱歌集』(竹柏会 1956年1月)にも収録されてないこと、に疑問を呈している(2号 1996年2月)。さらに、佐佐木信綱、窪田空穂、太田水穂、前田夕暮、川田順らの名をあげ、次のように、明快に断じるくだりもある。
「歌人には生前であれば、全歌集や全集を自選できる権利がある。今ではそうともいえないが、文学者の全集といえば、彼の死後、遺族の許諾を得て編集委員の尽力で組まれるのが通例のようだ。それはともかく、自らの総作品を自選できる権利とそのすべてを明らかに示す義務と比べてみるとどちらを上位に置くべきだろうか。私は後者を支持する」(9号 1997年11月)
これらの論考は、その後、私が「斎藤史―戦時・占領下の作品を中心に1~10」(『風景』1998年7月~2001年3月)を書き始めようとしていた動機とまさにつながるものであった。この拙稿を、のち大幅に補充し、まとめたのが『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代―「歌集」未収録作品から何を読みとるのか』(一葉社 2019年1月)であった。
児玉のプロフィル的なものはいっさい知らなかったのだが、『クロール』の毎号の「編集後記」によって、その一部を知ることになる。休日を利用して、目黒の近代文学館や都立中央図書館で資料検索やコピーをとっていたが、卒業生なら書庫に入れる早稲田大学図書館を知り、近代文学館では一枚100円のコピーが、早稲田では千円のカードで105枚とれることになってワクワクする様子、1996年12月の5号では、パソコンを購入、利用し始めるが覚束ない様子、やがて、藤原龍一郎たちと「サイバー歌仙」をまき、住まい近くの江戸川河川敷のウォーキングや週2回の1500メートルの水泳によって健康管理をしていることなど、いきいきと綴っている。1999年5月の15号では、ホームページを立ち上げたことも報じている。なお、祖父は、沖縄で財を成し、父親が沖縄生まれであり、児玉自身の生まれは鹿児島県で、小学校高学年から大学進学で東京に出るまでは佐賀県唐津で暮らしていたことも書かれていた。
1998年8月の12号に、斎藤史の『朱天』が登場し、『現代短歌全集第9巻』(筑摩書房 1981年1月)に、『朱天』の収録を許諾した斎藤史を、隠蔽することなく、潔いと評価している部分があった。『風景』で連載中の上記、斎藤史に関する拙稿では、1977年12月、最初の『斎藤史全歌集』(大和書房)に『朱天』を収録した折、「はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば」の一首を添えて、戦時下の歌集も隠蔽しないことを強調していた。そのことをもって、歌壇では、潔い態度と称賛しきりだったのである。ところが、初版の『朱天』(甲鳥書林1943年7月)から17首の削除と数首の改作を、その拙稿で指摘していたこともあって、コピーを送ったのだと思う。児玉からは「平成10年12月25日」付で丁寧な礼状をいただいていた。その手紙は今でも手元にあるのだが、端正な楷書で、便箋4枚に認められている。拙稿の指摘について、『朱天』については初版に当たらなかったことを反省するとの一文があり、「あの当時の短歌史の空白には是非とも書き込みが必要です」とし、「本来ならば近藤芳美氏など「新歌人集団」の人々がきちんと整理しておくべき問題だったと思います」とも書かれていた。 その手紙の後だったのだろう、今では、その用向きを思い出せないのだが、江戸川区の自宅に電話をしたことがあった。すると、夫人らしい方の声で「児玉はここにはいません」と電話を切られたのである。ちょうど手紙から一年後、1999年11月の16号の「第二芸術論異聞(第15回)」と「編集後記」で、単身で唐津に暮らし始めたことを告げている。一年弱の間に、何が彼を変えたのか。転居後の巻頭の30首の中には、つぎのような短歌が掲載されるものの「編集後記」では、『クロール』発行への意欲を語り、「第二芸術論異聞」の連載も、マラソンに例えれば30キロ地点に達した、とも記している。
・荒亡の幾日か過ぎ碧緑海ほどよき平を泳ぐクロール(16号(1999年11月)
・棄京とは人生謀反 文学の言葉をわれの生の帆と張れ(同上)
・高層のビルの上なる寒月光われを導く縄文の世へ(17号 2000年2月)
・三途の川の渡し守なる父が居て紅涙ながしつつ舟漕ぎはじむ(同上)
・みどり豊かな欅の大樹さながらに心の木の葉言の葉かがやけ(同上)
・人の生は一冊の本さなりされど付箋幾枚あっても足らぬ(18号 2000年6月)
・歴史には世紀末ありわが身には最期が待ち居り自ら決むべし(同上)
・残る月三日月消えて太陽が昇りくる此処も原郷ならず(同上)
寂しい歌や悲壮感漂う歌が多い中、「生の帆と張れ」「言の葉かがやけ」のような歌を見出し、ほっとしたものだったが、その後、人づてに、児玉の自死を知るのだった。なお、冒頭の加藤英彦の一文には、その死は「1999年12月」だったとするが、これは明らかな間違いである。『クロール』18号は2000年6月に発行されている。親しかった友に、数年も経たないうちに、間違われてしまうとは、寂しいことではあった。
篠弘の戦時下における土岐善麿、北原白秋への擁護論、木俣修、三枝昂之の昭和短歌史論などについても、大いに語り合いたかった。斎藤史の件に限らず、高村光太郎の「暗愚小伝」、山小屋生活、芸術院会員固辞などによる「自己糾弾」、金子光晴の戦争詩を書かなかったが傍観者だったという「自戒」を高く評価していた児玉、近年になって、両者への反証にたどり着いた私だが、意見を聞きたかったし、議論をしてみたかったと切に思うのだった。
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