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2023年12月31日 (日)

名前はぜったい「いわない」女の児、無事、家に帰れたろうか

  きょう、昼過ぎに、最後の買い物と思って近くのスーパーへ出かける途中、十字路の横断歩道を渡ろうとしたところ、一台の車が止まってくれたが、なんと横断歩道の真ん中に、小さな女の児がひとり立ち止まって、動かない。車を降りてきた男性と、危ないよ、と歩道まで誘導した。見れば、辺りにだれもいない。裸足に紫色の女物のサンダルをつっかけていて、歩きにくそうだった。

 車の方と「おうちはどこ?」と尋ねても、右を指差したり、左を差したりする。二人で「迷子ですね」と。「お名前は?」と尋ねると、小さな声だが「いわない」と答える。車の方が、「近いですから、いま、車を置いてきます、110番しましょう」と、私は女の児と残されて、少し不安になってきた。もう一度名前を聞いてみるが、「いわない」との返事。ケイタイは家に忘れてきてしまったのを後悔した。すると、ご近所のOさんの奥さんと先ほどの男性がやって来て、「弟です」とOさんに紹介され、ほっとしたのだった。Oさんの「いくつ?」には三本の指を差し出す。「うちの孫と同じくらい」という。「おうちにだれがいるの?」には、「じじ」と答えていた。暮れに祖父の家に来たのだろうか。自分の家ではなかったのかもしれない。そう遠くから歩いてきたとは思われない。私は「ママはおうちにいるの?」と聞けば、「いない」と答える。マズイ質問だったかなと。そして、弟さんが110番すると、寒かろうと、自分の上着を女の児に着せていた。

 女の児は、長い袖から手を出そうと、まくり上げようと必死で、泣くでもない、上着の裾が地面につきそうなのに、ジッパーを上げようとまでする。「ふだん、着替えができる子なんですね」と、私は感心していた。「雨でなくてよかった」「夜でなくてよかった」「それにしてもパトカーが遅い」と女の児を囲み、大人3人で、待つこと10分余、警官は2台のバイクでやって来た。110番をした弟さんが、住所から名前、いろいろ質問されて、事情を話し始めたので、申し訳ないが、私は、そこで、失礼した。

 20分は経っていただろう、帰り道にもなんと、同じ場所に、警官二人はまだいたのある。女の児はバイクにまたがって、警官と遊んでいる風であった。「何かわかりましたか」と尋ねると、まだという。防災放送はするのですかと尋ねれば「パトカーを待っているところです」とのこと。思わず「ご苦労さま」と声をかけるのだった。

 なんと気丈な女の児なのだろう。名前は、たしかに最大の個人情報ではある。祖父はじめ家族の方はさぞかし心配されていることだろう。その後、防災放送の尋ね人はなかったので、無事帰ることができたのかもしれない。孫のいない私には、幼い児への対し方を忘れかけていたことを思い知らされた、大みそかの一件だった。お年寄りの行方不明者の防災放送は、よく聞く。せめてケイタイは忘れずに身に着けていよう。

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2023年12月28日 (木)

『クロール』は突如、消えてしまったが~児玉暁の遺したもの

 細々と資料の整理はつづけているものの、処分するもの、古書店に引き取ってもらえそうなもの、やっぱり手離せないものと仕分けるのだが、なかなか踏ん切りがつかずに困っている。12月には、少し大掛かりに、短歌関係雑誌を捨てた。そんな作業の中で、佐藤通雅の個人誌『路上』が途切れ、途切れに出てきた。 

 その中の一冊97号(2003年12月)の表紙に「児玉暁ノート」とあるのが目に留まった。加藤英彦さんが、ともに属していた『氷原』時代から、文学を語り、短歌を語り、飲み明かしながらも、妻子、家庭を大事にしていた児玉暁さんの様子と突然の訃報に接した顛末が書かれていた。私にも、児玉暁さんとの少しばかりの接点があったのを思い起すのだった。(以下敬称略)

19951220006
創刊号の表紙と最終刊と思われる18号の奥付

 児玉の個人誌『クロール』の創刊は1995年12月1日、B5版16頁のワープロによる手作りの冊子であった。非売品となっていて、たぶん、送ってくださったのだと思う。私の手元には、18号(2000年6月1日)まではそろっていて、創刊号だけは水色の用紙を使用している。挟まれていた「送り状」には、時候の挨拶に続いて「さて、このたび不肖、長年所属しておりました「氷原」を離れ、個人誌「クロール」を創刊することに意を決しました」の一文がある。この個人誌の圧巻は、毎号の30首と「第二芸術論異聞―戦中から戦後、その活断層地帯」の連載であった。「第二芸術論異聞」の第1回で、戦中から戦後の短歌史を深く険しく切断しているのは「活断層地帯」があるからとの見立てにより、次のように述べる。

「歴史的事実を改竄することなく、隠蔽することなく、有耶無耶に放置することなく正当に埋め込む作業を施すこと、言葉を換えて言えば、戦中と戦後の流れを合流させて一本の太い近代短歌史を築き直すことが急務だと思われてならない」(1号 1995年12月)

 このスタンスは全編に貫かれている。例えば、佐佐木信綱『黎明』(1945年11月)について、小田切秀雄「文学における戦争責任の追(ママ」)」(『新日本文学』1946年6月)、木俣修『昭和短歌史』(明治書院 1964年10月)、篠弘『現代短歌史Ⅰ戦後短歌の運動』(短歌研究社 1983年7月)、佐佐木幸綱編『鑑賞日本現代文学 32巻 現代短歌』(角川書店1983年8月)においても言及がないことを指摘した上、戦時下の作品が『佐佐木信綱全集9佐佐木信綱歌集』(竹柏会 1956年1月)にも収録されてないこと、に疑問を呈している(2号 1996年2月)。さらに、佐佐木信綱、窪田空穂、太田水穂、前田夕暮、川田順らの名をあげ、次のように、明快に断じるくだりもある。

「歌人には生前であれば、全歌集や全集を自選できる権利がある。今ではそうともいえないが、文学者の全集といえば、彼の死後、遺族の許諾を得て編集委員の尽力で組まれるのが通例のようだ。それはともかく、自らの総作品を自選できる権利とそのすべてを明らかに示す義務と比べてみるとどちらを上位に置くべきだろうか。私は後者を支持する」(9号 1997年11月) 

 これらの論考は、その後、私が「斎藤史―戦時・占領下の作品を中心に1~10」(『風景』1998年7月~2001年3月)を書き始めようとしていた動機とまさにつながるものであった。この拙稿を、のち大幅に補充し、まとめたのが『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代―「歌集」未収録作品から何を読みとるのか』(一葉社 2019年1月)であった。

 児玉のプロフィル的なものはいっさい知らなかったのだが、『クロール』の毎号の「編集後記」によって、その一部を知ることになる。休日を利用して、目黒の近代文学館や都立中央図書館で資料検索やコピーをとっていたが、卒業生なら書庫に入れる早稲田大学図書館を知り、近代文学館では一枚100円のコピーが、早稲田では千円のカードで105枚とれることになってワクワクする様子、1996年12月の5号では、パソコンを購入、利用し始めるが覚束ない様子、やがて、藤原龍一郎たちと「サイバー歌仙」をまき、住まい近くの江戸川河川敷のウォーキングや週2回の1500メートルの水泳によって健康管理をしていることなど、いきいきと綴っている。1999年5月の15号では、ホームページを立ち上げたことも報じている。なお、祖父は、沖縄で財を成し、父親が沖縄生まれであり、児玉自身の生まれは鹿児島県で、小学校高学年から大学進学で東京に出るまでは佐賀県唐津で暮らしていたことも書かれていた。 

 1998年8月の12号に、斎藤史の『朱天』が登場し、『現代短歌全集第9巻』(筑摩書房 1981年1月)に、『朱天』の収録を許諾した斎藤史を、隠蔽することなく、潔いと評価している部分があった。『風景』で連載中の上記、斎藤史に関する拙稿では、1977年12月、最初の『斎藤史全歌集』(大和書房)に『朱天』を収録した折、「はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば」の一首を添えて、戦時下の歌集も隠蔽しないことを強調していた。そのことをもって、歌壇では、潔い態度と称賛しきりだったのである。ところが、初版の『朱天』(甲鳥書林1943年7月)から17首の削除と数首の改作を、その拙稿で指摘していたこともあって、コピーを送ったのだと思う。児玉からは「平成10年12月25日」付で丁寧な礼状をいただいていた。その手紙は今でも手元にあるのだが、端正な楷書で、便箋4枚に認められている。拙稿の指摘について、『朱天』については初版に当たらなかったことを反省するとの一文があり、「あの当時の短歌史の空白には是非とも書き込みが必要です」とし、「本来ならば近藤芳美氏など「新歌人集団」の人々がきちんと整理しておくべき問題だったと思います」とも書かれていた。 その手紙の後だったのだろう、今では、その用向きを思い出せないのだが、江戸川区の自宅に電話をしたことがあった。すると、夫人らしい方の声で「児玉はここにはいません」と電話を切られたのである。ちょうど手紙から一年後、1999年11月の16号の「第二芸術論異聞(第15回)」と「編集後記」で、単身で唐津に暮らし始めたことを告げている。一年弱の間に、何が彼を変えたのか。転居後の巻頭の30首の中には、つぎのような短歌が掲載されるものの「編集後記」では、『クロール』発行への意欲を語り、「第二芸術論異聞」の連載も、マラソンに例えれば30キロ地点に達した、とも記している。

・荒亡の幾日か過ぎ碧緑海ほどよき平を泳ぐクロール(16号(1999年11月)

・棄京とは人生謀反 文学の言葉をわれの生の帆と張れ(同上)

・高層のビルの上なる寒月光われを導く縄文の世へ(17号 2000年2月)

・三途の川の渡し守なる父が居て紅涙ながしつつ舟漕ぎはじむ(同上)

・みどり豊かな欅の大樹さながらに心の木の葉言の葉かがやけ(同上)

・人の生は一冊の本さなりされど付箋幾枚あっても足らぬ(18号 2000年6月)

・歴史には世紀末ありわが身には最期が待ち居り自ら決むべし(同上)

・残る月三日月消えて太陽が昇りくる此処も原郷ならず(同上)

 寂しい歌や悲壮感漂う歌が多い中、「生の帆と張れ」「言の葉かがやけ」のような歌を見出し、ほっとしたものだったが、その後、人づてに、児玉の自死を知るのだった。なお、冒頭の加藤英彦の一文には、その死は「1999年12月」だったとするが、これは明らかな間違いである。『クロール』18号は2000年6月に発行されている。親しかった友に、数年も経たないうちに、間違われてしまうとは、寂しいことではあった。

 篠弘の戦時下における土岐善麿、北原白秋への擁護論、木俣修、三枝昂之の昭和短歌史論などについても、大いに語り合いたかった。斎藤史の件に限らず、高村光太郎の「暗愚小伝」、山小屋生活、芸術院会員固辞などによる「自己糾弾」、金子光晴の戦争詩を書かなかったが傍観者だったという「自戒」を高く評価していた児玉、近年になって、両者への反証にたどり着いた私だが、意見を聞きたかったし、議論をしてみたかったと切に思うのだった。

 

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2023年12月24日 (日)

引退されたはずではなかったのですか~「上皇」の卒寿報道に見る

 12月23日は、平成期の明仁天皇の誕生日であった。購読紙の朝日新聞は、「上皇さま90歳に」「平成流 求めた旅」(多田晃子)の見出しで、毎日新聞は、「上皇さま 卒寿」(高島博之)「平和願う心 変わらず」(高島博之・村上尊一)の見出しで、それぞれ二カ所で報じられた。読売新聞WEB版では、「上皇さま90歳、規則正しく穏やかな日々…沖縄や戦争と平和への思い今も強く」と報じられている。

 2016年8月、生前退位の意向を公表したテレビでの心痛な面持ちの画面を思い出す。法令上根拠のない、「公的行為」、「公務」を拡大してきた結果でもあったのだろう。例を見ない事態に直面し、私もいささか驚いたが、この高齢社会にはいずれやってくる事案であろうと思ったものある。政府は、慌てて特例法で対処し、同時に表面化した後継者問題は置き去りに、ともかく改元は実現した。現実は別として、当初は、天皇、上皇による二重権威が懸念されていたためか、退位した天皇のメディアの登場は少なくなったかに見えた。その内、コロナ禍にみまわれ、皇室自体の出番は減少した。それが、どうしたことだろう、Cobit19が五類に移行すると、皇族たちの活動報道が増え、明仁前天皇夫妻の動向を報ずるニュースも多くなり、今日に至っている。
 いずれも、「穏やかな日々」を送っているはずの夫妻の静養や旅行の再開、家族との交流、平和を願い、国民を思いつつ、過ごしている様子、そして病状までも、宮内庁提供や代表撮影の夫妻の写真を添えて報ずる紙面構成であった。
 ともに、宮内庁発のあたらしい情報と平成期の天皇夫妻の動向を辿るものであった。朝日、毎日とも、上皇御用掛としてのハゼ研究を支える林公義とのインタビュー記事も同じである。朝日が、羽毛田信吾元宮内庁長官のインタビューを「国民に寄り添う姿 象徴の役割の一つでは」の見出しで伝えている。

 12月1日の愛子さん、9日の雅子皇后の誕生日に続いての記事であったから、宮内庁詰めの記者は忙しかったというより、宮内庁広報室からの情報に、若干のエピソードなどを補っているに過ぎない。

 前のブログ記事で、宮内庁は、焦っているのはないか、とも書いた。皇室への関心が日々薄れてゆく歯止めとして、佳子さんや愛子さんの姿を追い、引退したはずの明仁前天皇夫妻のいわばプライベートに属する情報、画像や映像までも流している。報道されることが分かっているのなら、ご本人たちは、それを拒んでもいいはずなのに、なぜ?である。もともとガードが堅い宮内庁なのだから。

 明仁前天皇の誕生日12月23日、1947年12月23日、当時の皇太子の誕生日に、東京裁判により死刑が確定したA戦犯7人の死刑が執行された日であった。昭和天皇の戦争責任が問われないことになったのも、この東京裁判のさなかであった。 

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2023年11月28日、横浜三渓園の落葉でした。

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急にヒヨドリが立ち寄り始めました。メジロもヒヨのいる合間を縫って、時々やってきます。先日の雨あがり朝、近くの駐車場の水たまりには、ムクドリが群れていました。

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2023年12月21日 (木)

天皇の「おことば」の出来上がるまで

  きのう12月20日のテレビでは、12月19日に、安倍派、二階派の事務所に家宅捜索に入ったという報道がトップニュースだった。そんなニュースに隠れがちであったが、12月20日には、30年を経た外交文書が公開されたという報道があった。何気なくテレ朝の「大下容子のワイドスクランブル」を見ていたところ、1992年の天皇夫妻の訪中の際の天皇の「おことば」をめぐって、日中の外交筋による水面下の交渉が報じられていた。
 「やっぱり」というか、当然というか、天皇の「おことば」が出来上がるまでの過程が外交文書には記されていたのである。「中華人民共和国楊尚昆国家主席主催晩餐会」(1992年10月23日 北京 人民大会堂)での「おことば」の中段には、つぎのようなくだりがある。

 「この両国の関係の永きにわたる歴史において、我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります。戦争が終わった時、我が国民は、このような戦争をふたたび繰り返してはならないとの深い反省にたち、平和国家としての道を歩むことを固く決意し、国の再建に取り組みました。」

 番組では、上記の「多大な苦難を与えた」の「多大」をめぐってのやり取りに焦点をあて、中国側は「多大」が中国語ではただ大きさや広さなどを示す意味で、適切ではないと言い、「重く積み重なった」を意味する「深重」という言葉に置き換えて、中国では発表したというのである。ちなみに、『中国語辞典』(白水社)によれば「多大」とは「疑問文に用い、年齢・時間・広さや雨風の強さなどがどれくらいか」を表し、「深重」は「深刻、恨み深い、重大」を表す、とある。日本語の「多大」との隔たりは大きい。

  また、NHKの「政治マガジン」(12月20日)によれば、「<おことば>めぐる神経戦」と題して「今回、外交文書で明らかになるか注目されたのが、訪問した際の「おことば」だった。外交文書には、中国側から事前調整を持ちかけるようなやりとりが記録されていた。」という。1992年2月20日の段階で、つぎのようなやり取りがあったことも報じている。

中国外務省 武大偉 日本担当課長:「過去の歴史の問題について、中国側は大きな関心を有している。事前におことばを見せて頂き、話をするということを行ってはどうか」
槙田邦彦参事官:「だれの責任と明確に述べることについては慎重に臨まなければならない」

 上記の「おことば」には、「反省」はあっても「謝罪」はなかった。公開された外交文書では、「おことば」の原案にあたる部分は黒塗りで、どのような変遷をたどったのかは不明である。

 なお、戦後、どの天皇も、韓国を訪問することはできていないが、1998年、平成期の天皇は、「大韓民国金大中大統領夫妻を迎えて」(10月7日 宮中晩餐会)において、

「このような密接な交流の歴史がある反面、一時期、我が国が朝鮮半島の人々に大きな苦しみをもたらした時代がありました。そのことに対する深い悲しみは、常に、私の記憶にとどめられております。」

 また、時代はくだって、2016年、フィリピン訪問の際、「フィリピン国ベニグノ・アキノ三世大統領主催晩餐会にて」(1月27日)において

「昨年私どもは、さきの大戦が終わって七十年の年を迎えました。この戦争においては、貴国の国内において日米両国間の熾烈な戦闘が行われ、このことにより貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないことであり・・・」

 こうした「おことば」をたどってみても、アジア・太平洋戦争における、日本の侵略、そこでなされた戦闘や過酷な占領政策による犠牲について、「我が国が大きな苦しみをもたらした」「日米両国の戦闘により多くの人が命を失い、傷ついた」と語り、忘れててはいけない、と表明するにとどまる。天皇個人や日本国民の「悲しみ」や「記憶」、「反省」があったとしても、日本政府としての謝罪はいっさいない。天皇の「おことば」を介在させながら、日本政府のスタンスを提示し、まさに、日本政府が天皇の政治利用を実践している場面である。

 巷では、いや識者と称する人たちの間でも、天皇の「おことば」を政府の姿勢と対比してリベラルな発言として評価する向きもある。しかし、上記のように天皇の「おことば」は、天皇の若干の個人的な体験や感想などを容れながら、役人たちの調整の結果であるとみてよいのではないか。それがさらに、コピペ化したり、AIの産物であったりしかねないのが、現状ではないか。天皇の「おことば」への過剰評価や期待感ほどむなしいものはない。

 今日の朝日新聞朝刊は2頁にわたって、外交文書による「1992年10月天皇訪中」を特集をしている。文書をベースに、国交正常化20周年にあたって天皇訪中に積極的な中国と小和田恒外務省事務次官、谷野作太郎アジア局長、自民党内の反対派を押さえきれるかと慎重な宮沢喜一首相、自民党内の幹部たちに根回しをした橋本恕駐中国大使らの動向を通して、天皇訪中が実現した様子が描かれている。ここでも、天皇の「おことば」についての事前調整について語られているが、上記の「多大」などの具体的な記述はされていなかった。

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2023年12月20日 (水)

菅沼正子さんの「今も輝くスター55」(8)(9)が届いてます

 今回は、ジェニファー・ジョーンズとジャン・ギャバン。二人とも忘れられない名優でしたね。ともに語れる友人が少なくなってしまい、それに、断片的なシーンは思い出せても、残念ながらストーリーは忘れてしまっている。菅沼さんはさすがにプロ、『スクリーン』の記者出身。思い出とともにお楽しみください。

  私にとっては、正直なもので、「慕情」はウィリアム・ホールデン、「終着駅」はモンゴメリー・クリフトの印象の方が強い。ジャン・ギャバンの「望郷」は「ぺぺ・ル・モコ」という原題の方を思い出す。1956年、池袋のフランス座で「第三の男」との二本立てで見ている。「地の果てを行く」(1935年)、「我らの仲間」(1936年)は、1960年シナリオ研究所の夜間生で通っていたとき、登川直樹さんの解説で見たことになっているが、すでに忘却の彼方である。

今も輝くスター55(8)ジェニファー・ジョーンズ~汚れを感じさせない清純女優
今も輝くスター55(9)ジャン・ギャバン~生涯現役の大スター

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<菅沼正子>映画評論家。静岡県生まれ。著書に「女と男の愛の風景」「スター55」「エンドマークのあとで」。1972年第45回アカデミー賞、1973年第46回アカデミー賞を記者席で取材。NHKラジオ深夜便で「菅沼正子の思い出のスクリーンメロディ」を2002年から2005年まで担当。地域のミニコミ誌「すてきなあなたへ」(佐倉市)の終刊2015年まで「菅沼正子の映画招待席」を執筆。

 

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2023年12月18日 (月)

女性皇族は、皇室の広告塔? ~生き残りをはかる天皇制!

                                                                                                                                                                                      

近頃の皇室報道

 12月に入って、皇室の記事がやたら目につくようになった、一年を振り返るということもあるのか。この4月には、宮内庁に広報室が新設されたことにも拠るのだろう。雅子皇后が12月9日に60歳になり、12月1日には愛子さんが22歳になった。私の目にした範囲でも、大きく報道されていたが、皇后については、12月9日、公表された文書での感想と略年表、写真などを付した特集が組まれたりしている。

朝日新聞:「絆と歩む 自らの道」と題して、「誓った社会に貢献」「覚悟と努力の日々」1頁全面と社会面「皇后さま60歳≺また新たな気持ちで一歩を>」の記事(多田晃子)
毎日新聞:「<人の役に>たゆまぬ歩み」と題して、「苦労実り 大輪の花に」「雅子さま60歳 陛下の支えとともに」1頁全面と社会面「<新たな気持ちで一歩> 皇后雅子さま60歳に」の記事(高島博之)
東京新聞:社会面「皇后さま60歳に」「新たな気持ちで歩む」(山口登史)、4面「皇后さま60歳 感想要旨」の2か所の記事

 特集記事の表題や小見出しを見ても明らかなように、皇后の文書での感想をベースに、結婚以来の曲折を踏まえ、勤めに励んできたことを称えるスタンスであった。朝日、毎日では、ともに、皇后の中学時代からの同じ友人を登場させて、その友情にまつわるエピソードを紹介していた。その点、東京新聞の記事は短く、淡々とした報道に思えた。

 さらに、今年の4月に、宮内庁に広報室が新設して以来、皇室記事、とくに私的な動向を伝える報道が増えたような気がする。このところの推移は、前の記事に追加して、以下のような表にしてみた。

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<参考過去記事>
天皇はどこへ行く、なぜインドネシアだったのか(2023年7月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/07/post-1eb3c3.html

宮内庁広報室全開?!天皇家、その笑顔の先は(2023年6月12日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/06/post-9183da.html

 

佳子さんの奮闘は、何を意味するか

 ネット上の朝日とNHKのデータをもとにして、調べて分かったことだが、ほぼ、同じ傾向を示している。一つ違うといえば、秋篠宮家関係が、朝日51件に比べNHKが68件と多いことである。皇位継承者上位二人がいることが配慮されているのだろう。記事内容を見ると、秋篠宮家の佳子さんの記事がかなりの数を占めていることもわかる。

 それというのも、宮内庁のホームページに登載の天皇家と秋篠宮家の「ご活動」をみると、なお明確になる。広報室からの発信と思われるが、ちなみに一家を含め佳子さんの活動件数をみてみると、4~11月において31件、この中には、イベントやペルー訪問に先立っての説明や進講を受けたりした場合も含まれ、10件近く、ほぼ3分の1を占める。これらは記事やニュースにほとんどならない。それにしても、佳子さんの参加イベント、公的な活動と思われるものが記事になり、ニュースになり、もしかしたら、単独活動では一番多いかもしれない。そもそも、女性皇族に「公務」はないので、あくまでも「公的な、純然たるプライベートではない」程度のことではある。

 一方、愛子さんは、ほとんどが天皇夫妻と一緒の活動であって、20件に満たないし、単独の活動は見当たらない。4月ウイーン少年合唱団の鑑賞、御料牧場静養、5月天皇夫妻の即位5年成婚30年記念展見学、8月那須静養、今井信子演奏会鑑賞、9月日本伝統工芸展見学、10月日本赤十字社関東大震災100年展見学、11月三の丸尚蔵館記念展、やまと絵展見学など、ほとんどが純然たるプライベートな活動にすぎない。これらの中には、一家で参加している養蚕関係行事も含むのだが、上記のほとんどが新聞、テレビなどで報道されている。「優雅で、文化的な、仲良し家族で結構ですね」との感想は持つが、報道の価値がいかほどあるものなのか、と思ってしまう。たんなるセレブ?の家族とはちがい、そんな暮らしを、国が、国民がストレートに支え続ける意味はどこにあるのだろうかと。しかし、憲法上存在する制度で、財政的に支えなければならないというのであれば、宮内庁は、全面的に情報を公開すべきであるし、新聞等での「首相の動向」のような欄でも公開すべきであろう。

 さらに、愛子さんの単独活動がないのは、共同通信配信記事「愛子さま、まだ単独公務の予定なし ほかの皇族に比べて遅いデビュー、その本当の理由は」(2023年12月10日)によれば、学業優先が主な理由として挙げられてはいるが、研究者河西秀哉によれば、皇位継承者秋篠宮悠仁の手前、現在皇位継承者ではない立場で、あまり目立ってはいけないという配慮があると言い、小田部雄次によれば、皇位継承問題が決着しない限り、単独公務はかなり難しいのではとの見解を紹介している。

 となると、佳子さんの今の活動ぶりは何を意味するのか。いわゆる公的活動を拡大して、さまざまな活動に積極的なのは、彼女自身の意向というよりは、宮内庁の方針で多様なオファーにつとめて応えているというのが実態なのではないか。

 皇位継承者と目されることもなく、いずれ皇室を離れるだろうから、いま一番人気の彼女にはどんどん励んでいただこう、広告塔のお役を果たしてもらおうというのが宮内庁、広報室の本音ではないかとも思えてくる。

 

たしかに宮内庁は、焦っている

 12月1日には、こんな記事も出ていた。「識者に聞く皇室」と題しての君塚直隆へのインタビューである(聞き手、須藤孝。『毎日新聞』2023年12月1日)。「生き残るため 国民の前へ」と題して「広報 隠すより赤裸々に」の見出しのもとに「政府や宮内庁の広報は発信(だけ)ではなく、隠したり抑えたりしています」、スキャンダルを恐れているのかもしれないが、スキャンダルはどの王室にもあるので、隠すのではなく、赤裸々に示して理解を求めた方がよい。さらに、政府の足らざるところ、弱者への対応を補っていくことを提案している。「赤裸々」だったかは別として、政府や宮内庁は、すでに、必死になって発信し、皇族たちも、戦争被害者、災害被災者、病者、障がい者など、いわゆる弱者と呼ばれる人々への「心のケア」を担ってきたことだろう。とくに、平成期の天皇夫妻が、見ていても痛々しいほど努力してきたことを垣間見てきたが、なぜ、これほどまでにして、天皇制は生き残らねばならないのだろうか。

 政府は、皇位継承者問題を先送りし、日本共産党も民主主義とは相容れない天皇制へのすり寄りを見せ、フェミニストたちでさえ、女系・女性天皇待望論を語り、差別の根源たる天皇制自体の問題から逃げているとしか思えない。宮内庁は、この難しい局面に立って焦っているのではないか。

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2023年12月 8日 (金)

鹿児島の五日間~西郷隆盛ばかりではない、近代絵画の名作を訪ねて(4)

仙厳園~島津家別邸

 つぎに向かったのは、薩摩藩主島津家の別邸という「仙厳園」だった。19代島津光久によって1658年、築かれた桜島と錦江湾を望む広い庭園と別邸という。
 美術館からのタクシーで、運転さんに、あれだけのコレクションを持つ長島美術館を建てた長島さんって、どんな人かと尋ねると、もともとはパチンコ屋ですよ、とのことであった。美術館のリーフレットには、長島グループの創業者長島公佑が1989年にオープンしたとは記してあったが、それ以上は知らなかった。調べてみると、1951年設立の長島商事は遊技場経営であり、その後、不動産業、遊園地経営などにも手を広げ、一族経営で財を成したらしい。出身の喜界島町には図書館も寄付しているという。メセナというのだろうか、きれいなお金の使い方には違いないなかった。

 仙厳園では、かなりの人出、外国人の多いことにも驚かされた。開催中の菊花展なども珍しいのかもしれない。私たちは、お目当ての桜華亭というレストランでランチをすませ、季節に似合わない強い日差しの中を、広い園内の散策をそそくさと・・・。

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鹿児島市立美術館

 ここのコレクションも楽しみであったが、ちょうど「ひろしま美術館コレクション 日本近代洋画の名作」という企画展が開催中であった。思いがけず、とても充実した展示に出会え、今回の旅の中での大きな収穫の一つとなった。ひろしま美術館からの80点と鹿児島市立美術館から10点からなる、つぎのような構成だった。

1.洋画の始まり
2.日本的油彩画を求めて
3.異国で描いた画家たち
4.戦後歌壇の復活
5.新しい表現を求めて

  たとえば、第2章では、鹿児島市立美術館の有島生馬の「スザンナ」(1909)を含め、大正、昭和の東郷青児や山口長男に至るまで展示され、第3章には、藤田嗣治の乳白色の「座る女性と猫」(1923)、エビハラ・ブルーの「樵夫と熊」(1929)が市立美術館から出品されていた。

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 鹿児島市立美術館収蔵作品の一部、リーフレットより。左頁、上段左:黒田清輝「アトリエ」(1980)、右:海老原喜之助「樵夫と熊」、モネやピカソ、マチスの作品も。

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  私が、いちばん気になったというか、親しみを覚えたのは、地元の佐倉藩で生まれ育った浅井忠の「農夫帰路」(1987)であった。一日の仕事を終えた満足感と安堵感が伺える一家の表情が穏やかに見える写実的な作品、農村で働く人々を描いた一連の作品のひとつで、「春畝」(1988)、「収穫」(1890)に先立つものであった。

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 左が 「農夫帰路」、右が第5章にあった香月康男「津和野」。 

 館内に、障がい者の方のグループが運営しているカフェ「あすもね家」があり、そこでいただいたアイスクリームが、疲れた身には格別であった。そこで、販売していた、あさひが丘のみかん園でのみかんを一袋求め、帰路についた。

 翌日11月4日の知覧行きはすでに書いた。
・知覧、唐突ながら、知覧へ行ってきました(20203年11月2日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/11/post-07fa28.html

 鹿児島を去るという11月5日、そうだ、毎日ホテルの窓から眺めていた観覧車はどうだろう。15分弱で500円とリーズナブルかなと、駅ビル5階の搭乗口に向かった。ビジネスマン風の4人が、4人で1200円とは割安と先に乗り込んだ。たしかに、全方向の眺望は格別で、桜島は相変わらず、うっすらと白い煙をたなびかせていた。

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 この絵は、長島美術館「展」で、気に入って求めたものだ。作者は、ちょうど受付に立っていた山下早紀さんという若い女性だった。鹿児島中央駅の雑踏というか活気がよく描かれていたし、観覧車に乗ってみたくなったのも、この絵のお陰かもしれない。 

 そうそう、11月3日の朝、鹿児島中央駅から繰り出してきた、JRのたすきをかけた一団にであった。仙厳園へ向かうとき、交差点に差し掛かると、運転手さんが「かなりの人が集まってますよ」と車を止めてくれたが、さっそくっ警官が近づいてきた。規制線を越えたか。翌日の新聞によると、27万の人出だったそうだ。

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鹿児島中央駅から出てきた一団。

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11月4日『南日本新聞』より。

 

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鹿児島の五日間~西郷隆盛ばかりではない、近代絵画の名作を訪ねて(3)

長島美術館~「ぞ展」ってなに?

 鹿児島に来てから、リーフレットを見て、初めて知った美術館である。鹿児島にゆかりのある黒田清輝、藤島武二、和田英作、有島生馬、東郷青児、海老原喜之助らの作品と海外のルノアール、ルオー、ユトリロ、シャガール・・・等の名が並んでいるではないか。11月3日は、その長島美術館へ出かけた。丘の上にあるとは聞いたが、車を降りてからの長いアプローチ、手入れされた植込み、そして眼下の鹿児島の街の先からは、雄大な桜島が迫ってくる。

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 小企画展は、マルク・シャガール版画による「サーカス」であった。シャガールの作品のピエロ、曲芸師、軽業師らのしっかりした眼差し、動物たちのやさしい目が特徴的に思えた。好んでサーカスを描くのは「わたくしにとって、サーカスは、もっとも悲しく見えるドラマである」との言もあるという。シャガール(1887~1985)はベラルーシ生まれのユダヤ人であった。

 常設展の第1室は、いわば郷土の画家たち、和田英作(1874~1959)の「グレーの風景」(1902)は、パリ郊外のグレーに浅井忠と共同生活をしていた頃の作品、海老原喜之助(1904~1970)の「北極」などが、彼の師の有島生馬の作品と並んでいた。藤島武二の「日の出」は、昭和天皇即位記念として皇室学問所からの依頼であったという。

 第2室では、シャガールの「花嫁と花束」(1936)、藤田嗣治の「河岸にて」(1956)、モジリアニ、ユトリロなどと出会うことができた。長島美術館には、他にも薩摩焼やアールヌーヴォーのガラス作品コレクションなどがあったのだが、申し訳ないが素通りとなった。それにしても入館者が少なく、ゆっくりと鑑賞できた。大きなホールの方では「ぞ展」が開かれているとのこと。のぞいてみると、たいへんな賑わい。「ぞ」は「造形」の「ぞ」だそうで、もう7年も続いている。分野を超えた作品が所狭しと展示され、作家も見学者も圧倒的に若い人が多かった。

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佐藤忠良「ポケット」、忠良の作品は、いつも振り返ってもう一度眺めたくなる。宮城美術館の「ボタン」もそうだった。

<参照>

長島美術館の作品一覧
https://art.xtone.jp/museum/archives/nagashima__.html

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2023年12月 6日 (水)

鹿児島の五日間~西郷隆盛ばかりではない、近代絵画の名作を訪ねて(2)

 ごしま近代文学館

11月2日、昼食後向かったのは、かごしま近代文学館だった。ここでは「没後100年 さまよえる有島武郎展」と「向田邦子のはじまり」という企画展が開催されている。有島武郎と鹿児島?向田邦子と鹿児島?どんな関係?と思ったほどだ。

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 それに、武郎と波多野秋子との心中から100年も経つのか、との思いが強かった。武郎の父有島武が県内、現在の川内市出身の実業家で、後、官僚になると知る。9歳で学習院予備科に編入、寄宿舎生活となり、皇太子嘉仁の「ご学友」にもなるが、中等科を卒業後は札幌農学校に進学、教授の新渡戸稲造宅に寄寓、1901年23歳でキリスト教に入信。その後、一年志願兵として入営、1903年渡米、アメリカの大学で学び、精神病院や農場で働いたりして、ヨーロッパを巡り、1907年に帰国、札幌農科大学勤務(~1915年)、1909年結婚するが、1916年三児を残して、妻は闘病の末、亡くなる。次いで父の死後、創作活動が活発となり、『カインの末裔』『小さき者へ』(1918年)『或る女』(1919年)、「一房の葡萄」が『赤い鳥』に掲載されたのは2019年であった。その多くは、自らの体験や身近な人々をモデルした作品が多いことも知る。 学びも、住まいも、思想も、追いきれないほど、たしかに「さまよえる」武郎なのだが、この間、父や妹の嫁ぎ先などの援助で運営されていた「有島農場」を1922年、小作人たちに無償で解放するに至る。そのとき、かつての小作人たちが共同運営する農場に送った額「相互扶助」も展示されていた。

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 そして、その翌年、『婦人公論』記者の波多野秋子との関係を夫に知られ、心中に至るのである。残された三人の子供はどうなったのだろう。長男が後に森雅之という俳優になったことは知っているが。

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 向田邦子が台湾での航空機事故で亡くなったのは、1981年というから、もう40年以上も前のことになる。今回の企画展はテレビドラマ「だいこんの花」を中心とするものであった。私は、この「だいこんの花」も「七人の孫」も見てはいない。森繁久弥があまり好きではなかったからかもしれない。「阿修羅のごとく」は、今も記憶に残る。四人姉妹の三女が図書館司書で、いしだあゆみが眼鏡をかけ、男っ気がないという設定だった。「図書館司書」のイメージがかなり醸成されてしまったのではなかったか。映画や舞台にもなったというがいずれも見ていない。
 向田邦子と鹿児島との縁は、父親の転勤で小学生の時、鹿児島市内に2年3カ月住んでいたということで、向田が、鹿児島はふるさとのようだと、何かのエッセイで書いていたらしい。かごしま文学館は、1999年からほぼ毎年、向田の企画展を開いている。それだけ魅力もあり、人気が衰えないということであろう。

 常設展での林芙美子、海音寺潮五郎、島尾敏雄、椋鳩十、梅崎春生らの展示も充実していて、時間はたりないほどだった。帰路には、向田邦子旧居跡を回ってもらった。

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鹿児島の五日間~西郷隆盛ばかりではない、近代絵画の名作を訪ねて(1)

ここもデジタル

 先の知覧行きの記事は、今回の鹿児島旅行の四日目、11月4日のことだった。11月2日、夫が学習会の講師として仕事があるというので、この機会に、私も同行、少しゆっくりしようかと鹿児島市内のホテルに4泊することにした。11月1日、羽田からの空路は久しぶりだった。腰痛がひどくなってはと、念のためとコルセットをしていたところ、搭乗前のチェックに引っ掛かり、触りますよと、入念に機器を当てられ、靴まで脱がされた。よほど怪しげな風体をしていたのか。

 鹿児島中央駅に直結のホテルに入ると、受付では、突然にパネルの画面に入力を迫られ、ともども戸惑ってしまう。部屋でのアニメティグッズは、ロビーの窓側に並ぶ棚から必要なものを取ってくださいともいう。そう、今ではレストランでも注文を取りに来るでもなく、画面からの注文も多くなってきたので、不思議ではないのだが、いまだに慣れることはない。部屋の窓の真正面には観覧車がゆっくり回っていた。

鶴丸城址

  最初に訪ねたのは、島津藩の鶴丸城跡の本丸跡には1983年にオープンした資料館であり美術館でもある「黎明館」であった。館内は、申し訳ないけれども、通り抜けにも近く、天文館通りの昭和初期を模したジオラマが目を引き、この地にゆかりのある和田英作「箱根丸船長」(1922)、黒田清輝「山かげの雪」などの絵画が印象に残った。
 黎明館を出ると、辺りを圧するほど、ひときわ立派な建物は2020年3月に復元したという「御楼門」であった。周辺にはさまざまな碑も多く、第七高等学校造士館跡でもあるので、関係の碑も多い。中でも興味深かったのは、明治天皇行幸記念碑で、1972年(明治5年)6月22日、参議の西郷隆盛が明治天皇を案内している。1877年には西南戦争が起こり、西郷は、その年の9月24日にはこの城山で自害している。そして、この記念碑が建てられたのは明治末期1912年、碑銘は、西郷と同郷で、明治天皇の信頼が厚かった松方正義の揮毫であった。松方といえば西南戦争による政府の財政難を立て直したことで知らていたのではなかったか。

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ひっそりと並ぶ行幸記念碑

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 夕方になって、御楼門を出て蓮池に添ってすぐのところに県立図書館がある。たわむれに、自著の所蔵などを検索したり、開架を巡ったりした。「鶴丸タクシー」で、ホテル近くの郷土料理の「吾愛人(わかな)」に向かう。店の名は、椋鳩十の命名によるそうだ。運転手さんも勧めてくれた名物のおでんと焼き鳥、刺身盛り合わせをいただく。

学習会は

 二日の学習会は、10月の2回に続き、3回目なので、私も、この機会にと、思い切って同行。夫の話も、少し前半が長いのではなどと思いながら聞いていたが、終了後は多くの質問も出て、ほっとした。学習会共催の生活協同組合コープかごしま・鹿児島県生活協同組合連合会の皆様に感謝しながら、会場の国際交流センターを後にした。

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飼い犬のウメは2014年に亡くなったが、買ったばかりのパン焼き器をめずらしそうにのぞいている。このパン焼き器、1・2度失敗して以来、ご無沙汰しているのだが、夫、お気に入りのスナップである。 

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 会場から、飲み屋街の路地を通り抜けると市電通りに出た。街は、おはら祭の幟や提灯でにぎわっていた。10月の国民体育大会に続く一大イベントなのかもしれない。天文館通りの、ウナギの寝床のようなラーメン屋さんで、きびきびと働く若い裏方さんたちの背中をみながら、「我流風(がるふ)特製ラーメン」を待つのだった。

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2023年12月 4日 (月)

続々届いています「今も輝くスター55」

今回は、ジョン・ウェインとジェームス・ディーンです。私の映画メモによれば、1955年には「エデンの東」を、1957年には「理由なき反抗」も「ジャイアンツ」も見ている。「エデンの東」は高校の映画教室で池袋の映画館に早朝出かけ、二度見ていることになる。

菅沼正子の「今も輝くスター55」
(6)ジョン・ウェイン
(7)ジェームス・ディーン

ダウンロード - e382b9e382bfe383bcefbc95efbc95e38081efbc886efbc89e382b8e383a7e383b3e383bbe382a6e382a7e382a4e383b3efbc88efbc97efbc89e382b8e382a7e383bce383a0e382b9e383bbe38387e382a3e383bce383b3.pdf

 

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2023年12月 1日 (金)

横浜へ~三渓園、日本大通りの銀杏、どこの黄葉も見事でした(2)

日本大通りのニュースパーク(新聞博物館、情報文化センター内)へ

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 KKRポートヒルに一泊した翌朝は、きのうの風もおさまり、快晴であった。窓からは眼下に港の見える丘公園、ベイブリッジ、キリンのように並んでいた荷揚げの重機なのか、首を曲げているものもある。きょうは、ニュースパーク(新聞博物館)へと向かう。ここでも関東大震災100年の企画展「そのとき新聞は、記者は、情報は」が開催中なので、見学することにしていて、10時オープンと同時に入館した。

 

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展示物の撮影は禁止であった。ちらしには、号外の一部などがスクラップされている。上段左から「大阪朝日新聞」(9月4日、第3号外、福馬謙造記者)、「大阪都新聞」(9月6日号外、喜多吉哉特派員)、「大阪毎日新聞」(9月4日夕刊、三好正明特派員)。

展示は、以下の4部構成であった。
Ⅰ「震災発生 そのとき新聞社は、新聞は、記者は」
Ⅱ「震源地・神奈川、横浜はどのように伝えられたか」
Ⅲ「不確かな情報、流言・デマ、混乱」
Ⅳ「関東大震災前後の震災、新聞社の防災・減災の取り組み」

 1923年9月1日正午近く発生した関東大震災は、神奈川県だけでも、死者・行方不明者3万2800余人、住家被害は12万5500余棟に及んだ。その時、新聞社、新聞、記者はどうしたかを、各新聞社は、記者の移動もままならない中、号外や新聞で、必死に伝えていたことが、当時の紙面からうかがい知ることができる。

 東京日日新聞(毎日新聞)は、皇居前広場に臨時編集局を開設、9月4日には新聞発行がなされ、朝日新聞は、帝国ホテルに臨時編集局を設置、謄写版刷りの数行の号外を出したのが9月4日、定期発行は9月12日であったことがわかる。この間、大阪朝日新聞、大阪都新聞、大阪毎日新聞などが、特派記者による東京の被害の状況を伝える号外を発行している(上記チラシのコメント参照)。
 9月6日の報知新聞(夕刊)では、秋に予定されていた摂政(皇太子)の「ご成婚は未定」、大阪毎日新聞9月4日(夕刊)には「摂政宮御沙汰を賜ふ ご内幣金一千萬万円下賜」の記事も。
 横浜市内の状況は、主に横浜貿易新報(神奈川新聞)9月13日から臨時号を発行、報道している。目に留まったのが9月30日(夕刊)に「非高工移転論熱烈」という記事。横浜高等工業学校を名古屋に移転する計画が、三渓園の原三渓らが中心になって、陳情書を提出、反対運動が実り、中止になったらしい。
 この春の横浜散策で、赤レンガ倉庫の一棟の半分が倒壊したことや山下公園が大震災の瓦礫を埋め立てて造られたことなどを知ったのだが、公園は1933年、10年後に開園していることを、今回知った

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私たちが見学中に小学生の一団がどっと会場に入ってきた。リュックを背負ったまま、揃いの黄色い画板を下げて、メモを取ったりおしゃべりしながら、せっせと通り過ぎていった。見守っていた先生に、「横浜市内からですか」尋ねたところ、千葉です、という。私も千葉からと告げると、「佐倉からです」との返事にびっくり、胸の名札を見せてくれて「西志津小学校」とあるではないか。ユーカリが丘の人とここで出会えるとはと、その先生も驚いていた。生徒たちはどのくらい理解しているのでしょうね、と失礼な質問もすると、当時の写真がみな白黒なのが気になるようでと。先生は、NHKの関東大震災特集などを見ていて、写真のカラー化したものも目にしていたそうだ。ユーカリが丘出身の女性落語家を招いた話なども話していた。見学後生徒たちは、ホールに集まって、記者OBらしき人の話を神妙に聞いていた。

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ニュースパークの一画にあるカフェで、ランチのあと、通りに出れば、銀杏並木の木漏れ日が揺れ、斜め前の神奈川県庁前の銀杏もみごとであった

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