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2024年1月28日 (日)

ことしの歌会始、お題は「和」ではあったが。

 元旦早々、能登では大地震に見舞われた。ウクライナやガザでの犠牲者が増え続けている。

 歌会始のNHKの中継を見ての報告は、毎年のことになったが、1月19日、ことしも忘れかけて、途中からの視聴となった。ネットや翌日の朝刊での情報により感想を書きとどめておきたい。
 歌会始は“伝統に則った古式ゆかしい”皇室行事の一つと言われるが、中継の画面を見てしまうと、長い間短歌に親しんできた身ながら、まずもって参加者たちの服装が気になって仕方がなかった。 
 ことしはマスクがなく、女性皇族は、ロングドレスに着帽、皇后だけは無帽、男性は参加者全員がモーニングのようであったし、もしかしたら選者の永田和宏は紋つきの和服であったかもしれない。入選者の女性は、制服の女子高校生をのぞいて、全員和服だった。陪聴者は遠くでよく見えなかったが、女性はドレス、和服もあり、そのチグハグは、違和感は何なのだろう。一層、平服にしたらどうだろう。
 参加者全員が、おごそかとも違う、ただ緊張しているような雰囲気の「歌会」に思えた。誰もが姿勢を正して、マスクを着けてないためか、女性皇族は、口角を上げるのに必死といった趣であった。世間の「歌会」は、参加者の間での批評の厳しさはあっても、「歌会」ってもっと楽しいものではなかったのか。
 ことしも、陪聴者はコロナ禍前の三分の一ほどであったというが、大阪の吉村知事、作家の筒井康隆も招ばれていたらしい。 私の見間違えでなければなのだが、俵万智の姿も陪聴者席の二列目か三列目に見えたような。
 入選の詠進歌は、年齢の若い順に披講(朗詠)される。ことしの入選者は、10代・20代・30代に各一人、40代・50代はゼロ、後の七人は、60代から80代であった。応募者、入選者の高齢化は否めないが、入選の高校生が在学する新潟の私立校は、学校ぐるみで多くの生徒が応募するらしく、近年、八人の入選者を輩出する常連校で、そのことをもって、学校の広報に一役買っているのが、ホームページなどから見て取れる。宮内庁にとってもありがたい存在になっているのだろう。

・「それいいね」 付和雷同の私でもこの恋だけは自己主張する(神田日陽里さん、17歳)

 つぎに、召人、選者一人の歌が披講されてから、高円宮承子さん、秋篠宮夫妻の三人の歌に続いて皇后・天皇の歌が披講された。

・広島をはじめて訪(と)ひて平和への深き念(おも)ひを吾子(あこ)は綴れり(皇后)

・をちこちの旅路に会(あ)へる人びとの 笑顔を見れば心和(なご)みぬ(天皇)

 そもそも、「歌会始」は宮廷内の行事の一つで、明治以降、形ばかり国民にも開かれてはいたが、「御歌所」の歌人たちが取り仕切る閉鎖的なものだった。新憲法下の象徴天皇制のもとで、「民間歌人」が選者となって、誰もが応募できる現在のような形になった。それでも、一般の短歌コンクールと違って、天皇に「詠進」するという仕組みを取り続けている。
 そんな仕組みを象徴しているのは、皇后を含む皇族たちの歌が披講される前に、立ち上がって天皇に一礼、披講されることになる場面、さらに、最後に、天皇の歌が披講される間、参加者全員、会場総立ちとなって、三回繰り返される披講を聴くことになる場面である。ちなみに、皇后の歌は、二回披講されている。こんな風に、上下、男女の関係が不平等極まりない宮中行事は、せめて宮中に留め、国民を巻き込まないでほしい。 

 マスメディアは、相変わらず、宮内庁広報そのままに、流し続けている。愛子さんは学業優先で、歌会始には欠席したとか、卒業後は、日赤の嘱託職員なるとか、佳子さんがどうしたとか・・・。また、あの「文春」でさえ、2月1日号で「<歌会始>選者が解読 愛子さま<恋への共鳴>」の見出しで愛子さん歌を取り上げているらしい。だが、私には「意味不明?」なので、とうとう買ってしまった!たった2頁の記事だったので、立ち読みも出来たのだが、松本人志の記事もあるし・・・。 
 その「歌会始」の記事によれば、何のことはない、愛子さんの「幾年の難き時代を乗り越えて和歌のことばは我に響きぬ」の「和歌のことば」とは「”恋の歌“を想像してしまいます」と選者の一人永田和宏の強引な<解読>を伝えるものであった。さらに、永田は、前掲の皇后の歌について、「深き祈り」と「深きおもい」のどちらがよいかの相談を受けて、「おもい」に皇后からの提案で「念ひ」の漢字をあてることになり「お気持ちの一層の深さが伝わる表現です」と語っていた。これって、自画自賛?「公務上」知り得た秘密ではないのか、こんな風に助言したとか、指導したとか、よほど公言したかったのかの疑問も。かつての選者にもそんな歌人がいたような。また、選者の一人の三枝昂之は、懇談の席で、愛子さんの歌について「和歌への関心と信頼を示したことは、歌人である私にとって嬉しく、共感した」という主旨のことを、天皇・皇后に伝えたとあかした、とのくだりもあった。こんな記事を積極的に流す文春も文春なのだが・・・。

 政府・政治家への、そして企業の不正への、スポーツ界・エンタメ業界のパワハラ・セクハラへの、取材に基づく文春砲への期待は、まだ消えてはいない。同時に、<天皇制>への素朴な疑念や問題にもぜひメスを入れて欲しい、と願うばかりなのである。私も、老躯に鞭打って、今少しと。

<参考>

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2024年1月21日 (日)

能登半島地震の映像を見るたびに(2)志賀原発は大丈夫なのか

「波濤園」は健在だった

 つぎに立ち寄ったのが輪島の稲忠漆芸堂という工房であった。高級な輪島塗にはもちろん手が出なかったので、自分用のお箸を買っただけであった。そして、つぎにアルバムに残る写真といえば、関野鼻であった。関野海岸の断崖が関野鼻と呼ばれ、いろいろな旅行者の情報によれば、2007年の能登地震以来、手入れがなされず、立ち入り禁止になっている。私が撮った写真の辺りには、看板は建てられているが、何しろ民有地なので、放置されているらしい。

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わずかな関野鼻の写真から。2007年来、立ち入り禁止の看板が立っているそうだ。

 そして、一行は、富来の「波濤園」で昼食をとったことになっているが、どんなごちそうだったのか記憶にない。今どきならば、ケイタイにでも収めていることだろう。昼食後は、羽咋市を経て、一気に金沢に向かったのである。その「波濤園」も、もうなくなっているに違いないと検索してみると、なんと立派に現存していて、私の思い出の証が見つかったようで、なぜかほっとしたのである。

志賀原発は大丈夫なのか

 しかし、「波濤園」の住所を見ると「羽咋郡志賀町酒見河原」と知り、志賀町、志賀原発の町だったと気づく。1号機の着工が1988年、稼働が93年、2号機の着工が1999年、稼働が2006年。前述の関野鼻が志賀町の北端で、海岸線に沿った細長い町の中央部にあるのが、約160ヘクタールの敷地を持つ志賀原発なのである。2号機着工の直前に起きた臨界事故は、8年間隠蔽されて来たこと、専門家から敷地内の活断層の存在が指摘された経緯もある。東日本大震災の2011年来、2機とも点検のため稼働停止中である。しかし、今回、強い揺れに加えて高さ3メートルの津波が襲来した。変圧器が一部破損して大量の油漏れが発生、外部電源の一部も使えなくなり、核燃料プールからは水があふれ出たという事実を、北陸電力は、まったく損傷がなく問題ないと発表し、後に訂正したのだった。また、原発事故時の避難計画では、15万人が車で県南部へ避難することになっているが、現実には鉄道はもとより、道路は寸断され、各地の集落は孤立し、多数の家屋倒壊で屋内退避も困難なこともあきらかになった(「社説・能登地震と原発 日本海側の施設点検を」『京都新聞』2024年1月19日)。北陸電力は、以下のように安全性の広報に必死なのだが、どこまで信頼できるのか。
*参照 北陸電力「能登半島地震による志賀原子力発電所への影響」(2024年1月18日)
https://www.rikuden.co.jp/outline1/shika_qa.html

金沢の「ごりや」も

 やや早めに着いた金沢では、夕ぐれも近い兼六園を散策して、向かったのは、ごり料理で有名な老舗割烹「ごりや」であった。浅野川畔の夜景と豪華な夕食をゆったりと楽しんだ。というのも、ふだんならば、お客は泊めないことになっている店だったというが、中川先生の依頼とあって、泊めていただくことになったらしい。先生たちは、布団が運び込まれた大広間で休まれた。
 翌日は、中川先生の計らいで、九谷焼の利岡光仙さんの窯に案内していただいた。九谷焼の良さも分からないままのことではあった。光仙さんは1986年に亡くなられているので、まだ若かったのである。
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 その後は、寺町の中川先生の自宅にもお邪魔して、奥様の歓待を受けた。記録では、「和光」で昼食後、12時53分発の急行「兼六」に乗り、米原で「こだま」に乗り換え、東京へと向うというレトロな道中であった。
 ちなみに、「和光」を検索してもヒットはしない。「ごりや」は健在と思ったが、検索してみると、なんと10年以上前の2010年に閉業していることがわかった。

 半世紀前の旅と現在の能登を重ね合わせながら、時代による変貌が著しいことを実感した。そして、能登半島地震の多くの犠牲者を悼み、被災者が少しでも元の暮らしに戻れるよう、被災地の復旧を願わずにはいられない新しい年となってしまった。

 

 

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2024年1月20日 (土)

能登半島地震の映像を見るたびに(1)千里浜は、今

 能登半島地震の被害状況を伝える地図が映し出されるたびに、その重大で深刻な被害に、胸が痛む。訪ねたことのある都市や町の名前が出るたびに、半世紀以上も前だというのに、思い出とともに、その地の人々の命にもかかわる不自由な暮らし、仕事を奪われた人々、学校に通えない子どもたちを思わぬ日はない。

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出典を失念してしまったのだが、1月17日現在の被害状況が分かり易いので拝借しました。

 初めて能登に出かけたのは、学生時代、一人旅を始めた頃、飯田の駅に着いて予約した宿が見つからず、途方に暮れたことがある。自分で予約したのか、交通公社の窓口で予約したのか定かではないが、予約したつもりの宿は、なんと、信州の飯田だったことが判明、その夜は、駅員に紹介された宿に着いてほっとしたことを思い出す。今回の地震で禄剛崎の灯台は無事であったらしいが、飯田の街はどうなったのだろう。

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珠洲市飯田港の防波堤が津波で破壊、津波浸水の一因か佐藤 斗夢日経クロステック/日経コンストラクション、2024年1月5日撮影)

 

誰かこの老人ホームをご存じないだろうか

 二度目は、1965の秋、父と宇奈月、黒部峡谷に出かけた折、和倉温泉に泊まったことだけは覚えている。その宿で父を撮ったスナップの添え書きに「老人ホーム中庭にて」とあり、その屋上からのスナップもある。「老人ホーム」には宿泊施設もあったのだろう。変貌著しい温泉街にも驚いたが、今回の地震での打撃は大きく、七尾市全体で2万戸近くの断水が17日現在解消されていない。

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和倉の宿の父。建物はかなり大きく、何らかの「公共」の老人ホームで、宿泊も可という施設だったのだろう。現在の旅館やホテル,老人ホームに思い当たるものがない。心当たりの方はぜひお教えいただければ幸いである。下がその屋上からのもので、一つはレンガ工場、一つは和倉温泉街を望むとの添え書きがあった。

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 和倉には珪藻土を利用したレンガ工場が1928年頃から操業していて、七輪やコンロなどを作る工場もいくつかあるが、写真の工場は、大きな白い煙を上げている。

三度目は、大人の<修学旅行>だった

 何といっても、にぎやかで、忙しい旅となったのが、三度目の、しかも半世紀も前の能登半島めぐりであった。1971年4月の春休みの、たった二泊の旅ではあったが、今回の地震の被害の甚大なところを、回っていたことになる。被災地に残る人、避難している人、孤立している人たち、とくに私のような高齢者たちの不安は身につまされる。その旅は、私が二年間ほど勤務していた学習院大学法学部のご縁あってのことだった。法学部長中川善之助先生が金沢大学学長に移られた後、法学部の先生たちの幾人かと、元共同研究室勤務の私たちにも声をかけられ、中川先生引率の<修学旅行>だったのである。どういう名目で?手配されたのか、金沢大学の小型バスに運転手さんと職員二人が「随行」されたのである。
 金沢から内灘を経て、車が走れる砂浜で有名な千里浜なぎさドライブウェイにさしかかると、写真のような小屋掛けの売店が並ぶ。その日も北風が強かったことを覚えている。あの千里浜は、地震でなくとも、砂の固さや砂浜の面積も減じて、細ってきたようで、天候にもよるが、通行できない日数が増えていたらしい。

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途中でバスをとめての集合写真。後列左から3番目が中川先生。私が撮ったようだ。

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焼きハマグリ、ヒメ貝、バイ貝のこんな売店が並んでいた。

 

「九十九館」はいずこ

 一泊目は、九十九湾の「九十九館」であった。下が宿のリーフレットで、立派な大広間の写真も載っていたのだが、そんな名前の旅館は、現在見当たらない。

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翌朝、宿を発つ前に。住所は珠洲郡内浦町小木となっている。

 小木は、八戸、函館と並んでイカで有名らしいのだが、その港の冷凍庫は停電のため使用できなくなった。私も利用している生活クラブ生協の埼玉の飯能デリバリーセンターから飲料水やブルーシートなどの救援物資を届け、イカを引き取ったというニュースも報じられ、これまで小木港水揚げのイカを食していたとあらためて知った次第である。

 翌朝、小木の「九十九館」を出発、北上し、飯田を経て、能登半島の先端を横断、大谷に出ている。テレビでは、この大谷の七輪製造所で取材、七輪の山が崩れて散乱している状況も伝えていた。
 さらに、曽々木海岸を経て時国家へと向かっている。私たちが下車したのは、上時国家で、能登に流された平時忠の子孫の時国が、現在の輪島市町野町に建てた家で、江戸時代の豪商の生活ぶりがわかる住宅として国の重要文化財にもなっていた。それが今回の地震では、そのかやぶき屋根がすっぽり落ちて倒壊してしまったのである。

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登り坂の正面に見える屋根が倒壊してしまって、1月14日の報道写真(読売新聞)によるとその上に雪がこんもりと積もっていた。

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当時の上時国家のパンフレットで、右下に記念スタンプも押していたが、残念ながら薄れてしまって、印影は見えていない。そのかわりのスナップは上時国家を後にする一行、前方に広がる田園風景は、今どうなっているだろうか。

 

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2024年1月16日 (火)

嵐山の女性教育会館が閉鎖?!これまでの実績を思う

  すでに、旧聞に属するが、昨12月中旬の報道によれば、埼玉県、武蔵嵐山にある国立女性教育会館の閉鎖が、取りざたされていた。この会館の管轄である文部科学省と内閣府の担当者から、嵐山町長に「会館維持には5億円の修理費がかかるので、閉鎖するという方針」が伝えられたというのである。

女性教育会館 閉鎖伝達 国方針(読売オンライン 2023/12/13)https://www.yomiuri.co.jp/local/saitama/news/20231212-OYTNT50195/

修繕費など年5億円…埼玉・嵐山の「国立女性教育会館」国が閉鎖方針 「愛郷心の原点」町などは存続要望 (埼玉新聞オンライン 2023/12/14)https://www.saitama-np.co.jp/articles/58848/postDetail

  国立女性教育会館(2001年1月に「婦人」を「女性」に変更、2001年4月に独立行政法人に)は、1977年、国立婦人教育会館として発足して、全国の自治体や市民団体による女性の地位向上、男女平等の普及活動の中心的な役割を担い、女性関係資料のアーカイブの充実にも寄与してきた。

  もう、四半世紀も前のことながら、私は、その会館の活動を目の当たりしていたので、閉鎖、機能移転の国の方針には賛成できないでいる。地元、嵐山町の議会は全会一致で閉鎖反対の意見書を提出したという。

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嵐山町議会の意見書(読売オンライン2023年12月13日より)

「国立男性教育会館」なるものは、たしかに存在しないが、残念ながら、女性の地位向上が極端に立ち遅れている日本には、「国立女性教育会館」は、まだ、必要なのではないかと思う。

 政府は、年度内の閉鎖が決まっているわけではないと言っているが、女性の経済的自立を促し、全国にある男女共同参画センターの中核を担う法人「ナショナルセンター」なる施設を設立するという案を示している。

 さまざまな公的な施設が、その利活用や業務の効率化を図ると標榜して、統合したり、多目的化したりする傾向は進むが、ほんとうに市民へのサービスが向上しているのだろうか。たとえば国立の教育・研究機関や病院などの統合化が進んだし、身近では、図書館、学校、保育園などの合併や統合が進んだ。国民や市民へのサービスの量も質も向上したのだろうか、むしろ縮小、後退してしまっているのではないかという思いが去らない。

 1998年の夏、私たち「戦後短歌史とジェンダーを研究する会」のメンバーは、婦人教育会館主催の「女性学・ジェンダー研究フォーラム」に参加していた。全国から、女性のエンパワーメントにかかわる研究・教育・実践活動をしている団体、グループ、個人、行政が集い、その成果を出し合い、情報交換を行う一大イベントである。参加者2027人(内、男性136人)ワークショップ運営者589人、120件のワークショップが展開され、私たち、阿木津英、小林とし子、内野の三人は3日目の8月9日、「戦後の女性歌人たち、昭和20年代を中心に」を報告、参加者10人と討議が行われた。10人はやや寂しかったが、ふだんの月一の研究会の成果の一部を発表することができたのである。この体験に気をよくして、1999年の夏にも、同じフォーラムに参加、今度は、タイトルのネーミングを少し変えて「女には女の歌があるのか」、チラシも作って、三人で臨んだ。私たちの分科会には、28人もの参加者があったので、報告にも熱が入った。

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 全体の参加者は、前年の2000余人で変わらなかったが、ワークショップは96件であった。テーマとしては、「女性に対する暴力」が増え、この当時コンスタントに多いテーマは、「学校教育における男女平等」、「女性と表現」であった。1999年6月には、「「男女共同参画社会基本法」が公布され、2000年4月から介護制度がスタートするという時代であった。

 そして、2回のワークショップに参加した私たちに、今度は、婦人教育会館から、翌2000年1月に実施の「アドバンストコース」研修のワークショップでの報告依頼が入ったのである。テーマは前年の「女には女の歌があるのか」を再演せよ、とのことであった。参加者は、主に自治体の教育委員会、首長部局職員と施設や団体職員だった。研修の4日目で、明日が終了日という、参加者はかなり疲れも出ている頃か、俵万智、小島ゆかりなどポピュラーな女性歌人たちの歌に現れたジェンダー意識について話したのだが。

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 2000年1月「アドバンストコース」研修のプログラムより

 こうした、国立婦人教育会館における活動に後押しされる形で、当時、日頃の会の研究成果を一冊にまとめる作業も加速した。そして、2001年9月、出版したのが『扉を開く女たち ジェンダーから見た短歌史1945~1953』(砂子屋書房)であった。また、この図書は、東京女性財団の「民間活動支援事業」の出版助成を受けることができたのも、望外のよろこびであった。 2002年8月のフォーラムにも、あたらしいメンバーが加わった「戦後短歌史とジェンダーを研究する会」として参加している。
 たんなるノスタルジーだけでなく、東京ドームの二個分10ヘクタールの緑豊かな敷地に建つ国立女性教育会館を残し、その上での機能強化を期待したい。

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2024年1月 1日 (月)

 新春 2024.1.1.

  きょうも、当ブログをお訪ねくださいまして、ありがとうございます。国の内外の不安は去りませんが、皆さまにはすこやかな一年となりますよう祈っております。
 当ブログは、2006年に開設、お力添えいただきまして、18年目に入ります。今後ともよろしく、お願いいたします。

 『ポトナム』1月号の時評、相変わらずのテーマですが、寄稿しましたので、お読みいただければ幸いです。

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昨秋、俵万智が紫綬褒章を受章したが

  「もういい加減にして」の声も聞こえるが、やはり、私は、書きとどめておきたい。
  俵万智(六〇)が二〇二三年秋の紫綬褒章を受章した。多くのマス・メディアには、彼女のよろこびの言葉が報じられていた。短歌関係の雑誌は、どう扱うだろうか。

  紫綬褒章は、内閣府によれば「科学技術分野における発明・発見や、学術及びスポーツ・芸術文化分野における優れた業績を挙げた方」に与えられるとある。
 一九五五年に新設された紫綬褒章は、これまでも多くの歌人たちが受章している。近年では、二〇一四年栗木京子、一七年小島ゆかり、今年の俵万智と女性が続いたが、一九九四年馬場あき子以来女性は見当たらず、一九九六年岡井隆、一九九九年篠弘、二〇〇二年佐佐木幸綱、〇四年高野公彦、〇九年永田和宏、一一年三枝昂之、一三年小池光と続いてきた。女性が続いて、歌壇の現状がようやく反映されるようになったとよろこんでばかりいられない事情を知るのだった。

 そもそも、紫綬褒章は、いったい誰が決めるのだろうか。
「褒章受章者の選考手続について(平成一五年五月二〇日)(閣議了解)」によれば、根拠法は、なんと「褒章条例(明治一四年太政官布告第六三号)」とあり、「明治」なのである。
  褒章の種類は、紅綬、緑綬、黄綬、紫綬及び藍綬で、受章者の予定者数は、毎回おおむね八〇〇名とし、春は四月二九日に、秋は一一月三日に発令する、とある。
  衆参議長・最高裁判所長官・内閣総理大臣、三権の長をはじめ、各省庁大臣その他の内閣府外局の長などが褒章候補者を内閣総理大臣に推薦し、内閣府賞勲局との協議、審査を経て内示され、閣議で決定される。最初の候補者リスト作成は各自治体、関係団体になるのだろう。
  春の発令日はかつての「天皇誕生日」、昭和天皇の誕生日であった。秋の発令日は「明治節」、明治天皇の誕生日で、戦後は「文化の日」という祝日になった。
  要するに、紫綬褒章は役人たちが選んでいるので、「文書」に幾つかの押印があったとしても不問に近い。歌人を対象にした民間の賞には、選者や選考委員が示されるのが常である。
  新憲法のもとでは、国家による勲章や褒章制度は否定されたはずである。私も結論的には不要と思っている。というより、法の下の平等に反し、人間のランキングを助長する害悪とも思っている。さらに、選考過程をみると、役人サイドで“綿密な審査”がなされていることもわかる。文化勲章、文化功労者、芸術院会員にしても、形式的な選考委員会は立ち上げられるが、役人サイドのリストの承認機関に過ぎない。文化功労者選考委員十人は、毎年九月に任命され、会は一度しか開催されない。メディアはこぞって受章者の栄誉を称えるが、誰がどのように選んだかには、触れようとしない。(『ポトナム』 2024年1月) 

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手前は、我が家のツバキ、後方が主のいない隣家のサザンカ
  

 

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