能登半島地震の映像を見るたびに(2)志賀原発は大丈夫なのか
「波濤園」は健在だった
つぎに立ち寄ったのが輪島の稲忠漆芸堂という工房であった。高級な輪島塗にはもちろん手が出なかったので、自分用のお箸を買っただけであった。そして、つぎにアルバムに残る写真といえば、関野鼻であった。関野海岸の断崖が関野鼻と呼ばれ、いろいろな旅行者の情報によれば、2007年の能登地震以来、手入れがなされず、立ち入り禁止になっている。私が撮った写真の辺りには、看板は建てられているが、何しろ民有地なので、放置されているらしい。
わずかな関野鼻の写真から。2007年来、立ち入り禁止の看板が立っているそうだ。
そして、一行は、富来の「波濤園」で昼食をとったことになっているが、どんなごちそうだったのか記憶にない。今どきならば、ケイタイにでも収めていることだろう。昼食後は、羽咋市を経て、一気に金沢に向かったのである。その「波濤園」も、もうなくなっているに違いないと検索してみると、なんと立派に現存していて、私の思い出の証が見つかったようで、なぜかほっとしたのである。
志賀原発は大丈夫なのか
しかし、「波濤園」の住所を見ると「羽咋郡志賀町酒見河原」と知り、志賀町、志賀原発の町だったと気づく。1号機の着工が1988年、稼働が93年、2号機の着工が1999年、稼働が2006年。前述の関野鼻が志賀町の北端で、海岸線に沿った細長い町の中央部にあるのが、約160ヘクタールの敷地を持つ志賀原発なのである。2号機着工の直前に起きた臨界事故は、8年間隠蔽されて来たこと、専門家から敷地内の活断層の存在が指摘された経緯もある。東日本大震災の2011年来、2機とも点検のため稼働停止中である。しかし、今回、強い揺れに加えて高さ3メートルの津波が襲来した。変圧器が一部破損して大量の油漏れが発生、外部電源の一部も使えなくなり、核燃料プールからは水があふれ出たという事実を、北陸電力は、まったく損傷がなく問題ないと発表し、後に訂正したのだった。また、原発事故時の避難計画では、15万人が車で県南部へ避難することになっているが、現実には鉄道はもとより、道路は寸断され、各地の集落は孤立し、多数の家屋倒壊で屋内退避も困難なこともあきらかになった(「社説・能登地震と原発 日本海側の施設点検を」『京都新聞』2024年1月19日)。北陸電力は、以下のように安全性の広報に必死なのだが、どこまで信頼できるのか。
*参照 北陸電力「能登半島地震による志賀原子力発電所への影響」(2024年1月18日)
https://www.rikuden.co.jp/outline1/shika_qa.html
金沢の「ごりや」も
やや早めに着いた金沢では、夕ぐれも近い兼六園を散策して、向かったのは、ごり料理で有名な老舗割烹「ごりや」であった。浅野川畔の夜景と豪華な夕食をゆったりと楽しんだ。というのも、ふだんならば、お客は泊めないことになっている店だったというが、中川先生の依頼とあって、泊めていただくことになったらしい。先生たちは、布団が運び込まれた大広間で休まれた。
翌日は、中川先生の計らいで、九谷焼の利岡光仙さんの窯に案内していただいた。九谷焼の良さも分からないままのことではあった。光仙さんは1986年に亡くなられているので、まだ若かったのである。
その後は、寺町の中川先生の自宅にもお邪魔して、奥様の歓待を受けた。記録では、「和光」で昼食後、12時53分発の急行「兼六」に乗り、米原で「こだま」に乗り換え、東京へと向うというレトロな道中であった。
ちなみに、「和光」を検索してもヒットはしない。「ごりや」は健在と思ったが、検索してみると、なんと10年以上前の2010年に閉業していることがわかった。
半世紀前の旅と現在の能登を重ね合わせながら、時代による変貌が著しいことを実感した。そして、能登半島地震の多くの犠牲者を悼み、被災者が少しでも元の暮らしに戻れるよう、被災地の復旧を願わずにはいられない新しい年となってしまった。
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コメント
活断層の上にある志賀原発が大丈夫なはずはありません。
福島原発の事故を見ても明らかなように地震大国の日本には原発は向きません。
「原発はゼロ」!
これしか選択肢はありません。
投稿: | 2024年1月22日 (月) 00時55分