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2024年1月20日 (土)

能登半島地震の映像を見るたびに(1)千里浜は、今

 能登半島地震の被害状況を伝える地図が映し出されるたびに、その重大で深刻な被害に、胸が痛む。訪ねたことのある都市や町の名前が出るたびに、半世紀以上も前だというのに、思い出とともに、その地の人々の命にもかかわる不自由な暮らし、仕事を奪われた人々、学校に通えない子どもたちを思わぬ日はない。

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出典を失念してしまったのだが、1月17日現在の被害状況が分かり易いので拝借しました。

 初めて能登に出かけたのは、学生時代、一人旅を始めた頃、飯田の駅に着いて予約した宿が見つからず、途方に暮れたことがある。自分で予約したのか、交通公社の窓口で予約したのか定かではないが、予約したつもりの宿は、なんと、信州の飯田だったことが判明、その夜は、駅員に紹介された宿に着いてほっとしたことを思い出す。今回の地震で禄剛崎の灯台は無事であったらしいが、飯田の街はどうなったのだろう。

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珠洲市飯田港の防波堤が津波で破壊、津波浸水の一因か佐藤 斗夢日経クロステック/日経コンストラクション、2024年1月5日撮影)

 

誰かこの老人ホームをご存じないだろうか

 二度目は、1965の秋、父と宇奈月、黒部峡谷に出かけた折、和倉温泉に泊まったことだけは覚えている。その宿で父を撮ったスナップの添え書きに「老人ホーム中庭にて」とあり、その屋上からのスナップもある。「老人ホーム」には宿泊施設もあったのだろう。変貌著しい温泉街にも驚いたが、今回の地震での打撃は大きく、七尾市全体で2万戸近くの断水が17日現在解消されていない。

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和倉の宿の父。建物はかなり大きく、何らかの「公共」の老人ホームで、宿泊も可という施設だったのだろう。現在の旅館やホテル,老人ホームに思い当たるものがない。心当たりの方はぜひお教えいただければ幸いである。下がその屋上からのもので、一つはレンガ工場、一つは和倉温泉街を望むとの添え書きがあった。

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 和倉には珪藻土を利用したレンガ工場が1928年頃から操業していて、七輪やコンロなどを作る工場もいくつかあるが、写真の工場は、大きな白い煙を上げている。

三度目は、大人の<修学旅行>だった

 何といっても、にぎやかで、忙しい旅となったのが、三度目の、しかも半世紀も前の能登半島めぐりであった。1971年4月の春休みの、たった二泊の旅ではあったが、今回の地震の被害の甚大なところを、回っていたことになる。被災地に残る人、避難している人、孤立している人たち、とくに私のような高齢者たちの不安は身につまされる。その旅は、私が二年間ほど勤務していた学習院大学法学部のご縁あってのことだった。法学部長中川善之助先生が金沢大学学長に移られた後、法学部の先生たちの幾人かと、元共同研究室勤務の私たちにも声をかけられ、中川先生引率の<修学旅行>だったのである。どういう名目で?手配されたのか、金沢大学の小型バスに運転手さんと職員二人が「随行」されたのである。
 金沢から内灘を経て、車が走れる砂浜で有名な千里浜なぎさドライブウェイにさしかかると、写真のような小屋掛けの売店が並ぶ。その日も北風が強かったことを覚えている。あの千里浜は、地震でなくとも、砂の固さや砂浜の面積も減じて、細ってきたようで、天候にもよるが、通行できない日数が増えていたらしい。

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途中でバスをとめての集合写真。後列左から3番目が中川先生。私が撮ったようだ。

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焼きハマグリ、ヒメ貝、バイ貝のこんな売店が並んでいた。

 

「九十九館」はいずこ

 一泊目は、九十九湾の「九十九館」であった。下が宿のリーフレットで、立派な大広間の写真も載っていたのだが、そんな名前の旅館は、現在見当たらない。

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翌朝、宿を発つ前に。住所は珠洲郡内浦町小木となっている。

 小木は、八戸、函館と並んでイカで有名らしいのだが、その港の冷凍庫は停電のため使用できなくなった。私も利用している生活クラブ生協の埼玉の飯能デリバリーセンターから飲料水やブルーシートなどの救援物資を届け、イカを引き取ったというニュースも報じられ、これまで小木港水揚げのイカを食していたとあらためて知った次第である。

 翌朝、小木の「九十九館」を出発、北上し、飯田を経て、能登半島の先端を横断、大谷に出ている。テレビでは、この大谷の七輪製造所で取材、七輪の山が崩れて散乱している状況も伝えていた。
 さらに、曽々木海岸を経て時国家へと向かっている。私たちが下車したのは、上時国家で、能登に流された平時忠の子孫の時国が、現在の輪島市町野町に建てた家で、江戸時代の豪商の生活ぶりがわかる住宅として国の重要文化財にもなっていた。それが今回の地震では、そのかやぶき屋根がすっぽり落ちて倒壊してしまったのである。

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登り坂の正面に見える屋根が倒壊してしまって、1月14日の報道写真(読売新聞)によるとその上に雪がこんもりと積もっていた。

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当時の上時国家のパンフレットで、右下に記念スタンプも押していたが、残念ながら薄れてしまって、印影は見えていない。そのかわりのスナップは上時国家を後にする一行、前方に広がる田園風景は、今どうなっているだろうか。

 

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