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2024年2月19日 (月)

断捨離の手が止まる~“皇居一周ランナー”だった頃

  断捨離とはいうけれど、時間ばかりがすぎてゆき、いろんな場所から、いろんなものが出てきて、手がとまる。先日、見つけたのが、白茶けたコクヨノートのジョギング日誌であった。東京の職場での昼休み、皇居一周を始めた1972年5月から、長女の妊娠がわかる1975年末までの記録であった。

 1970年代といえば、マラソンブームのハシリではなかったか。身近な男性職員たちが、昼休み、皇居一周を走ってきたと汗をぬぐうのを見て、「まあ、ご苦労さまなこと」と思うことが多かった。 
 生家を出て、登戸に転居してまもなく、一人暮らしの緊張と不安や職場のストレスもあったのか、肩の凝りや背中の張りが気になるた日々だった。休日になると、住まいの近くの多摩川でも、土手を走る人をよく見かけていた。わたしもと、散歩がてら、少し走り始めたのが1972年春、まだ、土曜勤務があった時代である。日曜日というのは結構雑用で忙しく、長続きはしなかった。

 そこで、同じ課の上司に先導されて、隣りの課の少し先輩のMさんと一緒に、そろりと走り始めたのである。1972年5月25日、職場から千鳥ヶ淵の土手まで10分走って、一休み、5分走ったとの記録である。5月中は毎日のように走って、1・2分の単位で距離を伸ばしている。6月7日には、皇居一周デビュー、4.9キロとのこと、30分かかっている。週に1・2回では、タイムはたいして縮まらず、いつも先をゆくMさんとは離れてしまうのだった。ときには、ほかの女性職員も加わり走ることもあった。コースは、社会党文化会館前の三宅坂から濠沿いに、最高裁判所、東条会館、国立劇場、英国大使館を左に見て、千鳥ヶ淵の土手に上がり、たいてい小休止をしたり、ストレッチをしたりする。グリーンコースと称して、北の丸公園に入ったりすることもあった。ずっと空き家だった?近衛師団司令部庁舎が国の重要文化財に指定され、竹中工務店による改修工事始まりかけていた。皇居前の広場の砂利は、走りにくかった。団体の観光客にもよく出会う。やがて、桜田門前を通り過ぎて、出発地に戻る。 

 こんなミニ・ジョギングでも、走っているさなかは、体調によって息苦しくなったり、脚が痛くなったりするが、走った後の爽快さは、それまでに体験したことのないものだった。そして、もう一つの楽しみは、濠端の風景が四季によって、さまざまな表情を見せてくれること、千鳥ヶ淵の土手の草木の営みを肌で感じられることであった。
 春は、濠沿いの柳、土手の桜、斜面の菜の花と馬酔木、対岸の連翹。躑躅の季節を過ぎると、紫陽花や夾竹桃・・・。当時の都心は、毎日のようにスモッグに覆われ、車の渋滞も日常茶飯であったようだ。土手の残雪を踏んで、椿の花にも癒された。クサギの花とかトベラの実なども初めて知った。ランナー仲間からは、セイヨウタンポポとカントウタンポポの違なども教えられたりもした。

 まだ、女性のランナーはめずらしかったのだろう、すれ違った年配の男性からは、「警視庁の方ですね」と手を振られることもあったし、巡回中の二人連れの警官には、「ご苦労様です!」と敬礼をされたこともあった。                                                                                                                                                                                                                                                                         

 男性職員のランナーは、マラソンクラブを立ち上げ、数カ月に一度記録会を開催、20人近くが参加しているようで、その記録が私の日誌に、何枚か貼り付けられている。1972年10月31日の記録会(快晴、少し強い北の風、正午の気温19.4度、湿度34%)では、25歳から48歳、18分28秒から29分56秒まで。また、クラブの会員はこぞって、青梅マラソンに参加していたらしく、手元には、第10回「青梅・報知マラソン大会」(1976年2月15日)の記録票がある。手書きのコピーで、だいぶ劣化している。30キロのコースに22人が参加、完走16人、トップが32歳のKさん、全体の完走者3382人中623位、2時間4分21秒、51歳のNさんは3時間23分で完走した歓びを「感想欄」に記している。いつもの記録会で、トップを争っていたMさんは18キロで徒歩、棄権とあった。欄外には、「1位ビル・ロジャース1:33:06」、「394位美智子・ゴーマン1:57:37」と記されていた。1972年には全国で「走ろう会」ができ始め、1976年には『ランナーズ』が創刊されている。

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第10回青梅・報知マラソンのマラソンクラブ、面々の感想が面白い。下から6人までが棄権したらしい。

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左が山田敬蔵さん、真ん中が美智子ゴーマンさん。ネットから拝借した写真です。

 私のマラソン歴?は、名古屋への転職と出産でひとまず終わる。以後、子育てと仕事でそれどころではなかったからか、名古屋では、夫の方が、マラソンにはまることになる。朝食前、出勤・退勤時、休日の天白川の土手・・・と、走っていた。娘が小学校に上がると、私と娘、三人で、天白川の記録会に参加するようになった。夫と娘は、名古屋の市民マラソン大会などにも参加するようになった。そして、夫は、とうとうフルマラソンにも挑戦、篠山の生家の前の道がコースとあって、完走したのである。1986年には、車山高原のマラソン研修会なるものに三人で参加、私にとっては、あの頃がマラソンならぬジョギングのピークだったかもしれない。

1988年、夫の転任に伴い、千葉の佐倉に転居、私も転職し、片道8キロの自転車通勤を5・6年は続けただろうか。冬の帰り道は、もちろん真っ暗になった畑道や大型トラックが行き来する”産廃道路“を、漕ぎに漕いで・・・、よく事故に遭わなかったかと、今考えると恐ろしくもなる。その後、夫の方は、NTTの墨東マラソンや富里のスイカマラソンなどにも参加していたが・・・、だんだん仕事も忙しくなり、遠のいていったのではないか。 

 次は、ちょうど半世紀前の『ポトナム』のコラムに寄稿した短いエッセイだが、これも、日誌のノートに貼りつけてあったものである。かなり気負いも見えるが、いま日誌を見ながらの思い出と、さして変わりがない?!

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 なにも走らなくても、と人は言う。私もそう思っていた。昼休み、マラソンにと飛び出して行く同僚を笑っていた。運動不足の解消といったってほかにいくらでも方法があるだろうに、この排気ガスの中を。そんな私がついに走り出してしまったのだ。職場の裏手になる三宅坂を起点に、桜田門、皇宮外苑、大手門、竹橋、乾門、千鳥ヶ淵を経て、内堀通りの英国大使館、最高裁判所庁舎前に戻る約五キロのコースを、若いひとは二十分前後で走る。

 都心の風は思いのほかやさしかった。街路樹の芽吹きを、濠端を飛ぶ水鳥の影を、土手の草いきれを風は確かに伝えてくれた。いまは、木枯らしも冬の汗に快い。だが頭上にのしかかる高速道路、荒れるにまかせた近衛師団司令部の洋館、スモッグに霞む国会議事堂が問いかけてくるものは、いつも暗くて重い。それでも走り続けるのはなぜだろう。自らの新しい汗と一緒に、いまの自分の曖昧さがいくらかでも噴き出せるものならばと・・・。だがうつむくほかない。が、走りつけてみよう。ゆっくりと。(『ポトナム』1973年1月号所収)

 

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2024年2月15日 (木)

歌壇におけるパワハラ、セクハラの行方

 2019年、23年に、どこかはっきりしないままではあったが、活字になった資料や信頼のおけるネット情報などから、一結社の一選者によるパワハラ、セクハラについて、つぎの二つの記事を書いた

・歌壇、この一年を振り返る季節(2)歌人によるパワハラ?セクハラ?見え隠れする性差(2019年12月22日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/12/post-b5862e.html

・歌壇におけるパワハラ、セクハラ問題について、いま一度(2023年9月21日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/09/post-8dcfc0.html

  昨年になって、結社内の動きや中島裕介さんからの話などを踏まえて、以下のような一文を『ポトナム』2月号の時評として発表した。
 なお、この件について、なかにしりょうたさんが以下のブログで、詳細な事実経過と分析をされているので、併せてご覧下さい。

・短歌結社は #Me Tooの告発にどう対処したか(1)(2)(3)(2024年1月15・16・17日)http://crocodilecatuta.blog.fc2.com/(和爾、ネコ・ウタ)

 また、中島裕介さんの以下のブログは、ハラスメント被害者から受けていた当事者として経過が述べられている。

・【ひとつの決着】加藤治郎さん、あなたは文章が読めない(19)Aさんのこと(2023年10月20日)https://yukashima.hatenablog.com/entry/kato_literacy19

 

 

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歌壇におけるハラスメントについて、私は、本歌壇時評や自身のブログ記事でも取り上げたことがある。そんなことが伝わったためか、昨年の九月、「未来短歌会」の選者の一人、加藤治郎氏のセクハラを受けた被害者の会員A氏から相談を受けている同じ「未来」の中島裕介氏から、他の歌友と話を伺う機会があった。ネット上では、経緯も明らかになっているので、実名で通したい。話を聞く中で、こんな事実がうやむやになっていいものかと怒りを覚えた(以下何れも敬称略)。

被害者Aから、加藤・Aとの間で交わされたメールや証拠などを託された中島の話からは、まぎれもなく選者の威を借りたパワハラ、セクハラを伺い知ることができた。

中島のブログと加藤のnoteにおいて、二〇一九年一一月、Aの#MeTooの告発を受けて以来、今年に至るまでの二十回近いやりとりを読み返してもいたので、加藤は、自らの行為を認め、被害者に謝罪すべき事案であると思われた。

この間、未来短歌会は、HPによれば、一九年一一月末日以来、ハラスメントの事実確認と併せて、ハラスメントに関する委員会と相談窓口の立ち上げを表明、翌年三月には窓口の設置、二二年七月には「ハラスメント防止ガイドライン」などを公表している。しかし、Aの健康問題などからヒヤリングができないという理由で問題解決への動向が見られなかった。

なお、『短歌研究』二〇二三年四月号は<短歌の場でのハラスメントを考える>の特集を組んだ。しかし、これは、二二年「短歌研究新人賞」の選考座談会における斉藤斎藤選考委員による、応募作にみられる「女の生きづらさ」は、「短歌の世界では追い風が吹いていて、むしろ安牌なわけです」とも読める問題発言をスルーした編集部による「反省」のパフォーマンスであったかもしれない。

そんな中、先の中島のブログによれば、未来短歌会からAに対して、理事会の席上、加藤治郎に対して、厳重注意と可能ならば被害者への謝罪を勧告したという報告が届いた(二〇二三年一〇月二〇日)。ただし、未来短歌会としては「厳重注意を行ったことを公表する予定はない」とのことであった。Aは複雑な思いは残るもののこれをもって終結とし、支援してきた中島も「ひとつの決着」として評価した。私も、Aと中島の勇気とその持続力に敬意を表したい。しかし、なぜこれだけの時間を要したのだろう。結社や選者たちの保身や短歌メディアの見て見ぬふりの構図も見えてくる。

加藤によるAや中島に対する、noteやXでの謝罪はまだなく、中島への脅しのような名誉棄損による損害賠償請求も取り下げられないままと聞く。加藤の結社内での選者や新聞歌壇選者など公の場での活動は続いている。歌壇には、伊藤詩織氏や五ノ井里奈氏は現れないだろう。

弱者へのハラスメントは公になりにくいだけに、注視していかねばならない。

(『ポトナム』2024年2月号所収)  

 

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2024年2月13日 (火)

女川の町は、いま~被災地復興のモデル?

やや旧聞に属するが、1月31日(水)朝、たまたま「羽鳥モーニングショー」にチャンネルをあわせてみると、女川町の東日本大震災後の復興が特集らしかった。途中ながら、現地の須田善明女川町長とつないで、女川の復興計画がどのように実施され、成功をおさめたかをパネルにまとめて、他の自治体の復興計画のモデルになっているという流れであった。下のようなパネルが何度も大写しになっていた。

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 東北における他の被災地の復興計画の津波対策は、多くは、大防潮堤の建設であったが、想定される津波の高さに耐えうる高さとなると、港や町からは海が見えなくなり、津波の来襲も目視できなくなるリスクもあった。
 女川町は震災で最大14・8メートルの津波に襲われ、住宅4414戸の内66・3%の2924戸が全壊し、当時の人口10014人の8・3%の827人が死亡・行方不明になり、港も町も壊滅的な被害を受けている。

 東日本大震災時の女川町長の「高台に逃げろ」「高台に町を再建」の思いを引き継ぎ、翌年に就任した須田町長だが、町の中心部であった区域全体をかさ上げし、防潮堤が見えない、海の見える街、コンパクトシィティ構想の下、区画整理を遂行した。 
 ところが、私の第一の疑問、人口が増えている?であったが、女川町の統計を見てみると、以下のような推移をたどる。

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  モーニングショーのパネルは、5年ごとの2015年と2020年の10月1日現在の国勢調査の数字から作成したもので、他の被災市町村と比べて、女川町の人口だけが増加したことを示している。その実数は6334人が6430人に増えたというのである。たしかに1.5%増なのだが、2011年から2024年の推移を見てみると、人口は確実に減少しているのがわかる。大震災直前の2月の約1万人が今年の1月には約5900人であった。ということは、国勢調査の両年の10月1日の一過性の数字にしか見えない。人口増を強調することは、視聴者をミスリードしていることにならないか。人口の流出は、止めようもない事実なのである。

 「海や港が見える街」というコンセプトは、水産業が主要な産業なだけにたしかに大切で、観光の売りの一つにしたいのかもしれないが、かさ上げ後の区画整理による街の魅力が期待されるだろうか。
 さらに、女川原発の1号機は廃炉となったが、承認された2号機の再稼働の時期がたびたび延期になっている。昨年9月、火災対策の工事への対応を理由に、ことし2月から5月に延期されたばかりだったが、1月10日の東北電力の発表によればには、さらに、再稼働には5月から数か月を要するという。ケーブルの配置を変更する必要が生じたことから、工事が必要な場所が当初の予定より10か所増え、工事の完了時期が遅れているという。重なる延期に、市民の不安は募るばかりであろう。さらに、東北電力の樋口康二郎社長は1月31日の定例記者会見で、女川原発2号機(宮城県女川町、石巻市)の安全対策工事完了や再稼働の時期に関し「示せる段階に至っていない」と述べたという(河北新報 2024年2月1日)。
 そもそも、女川原発には、事故が起きた場合の避難路が確保されていないことから、再稼働阻止・廃炉を要求する市民運動が地道に続けられているが、その声はなかなか届かない。再稼働差し止め裁判も続行中である。
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原発は石巻市との境、女川町の鳴浜に位置する。 

 今回の能登半島地震を踏まえて、1月22日には、脱原発を呼びかける宮城県内の住民団体が宮城県知事に地元同意の取り消しを、東北電力には、周辺の活断層の検証や避難計画の見直しが終わるまで、再稼働をしないことを要請している(朝日新聞 2024年1月23日)。
 にもかかわらず、モーニングショーでは、須田町長は当初より原発の容認を前提にしていたし、2020年9月には、女川町議会は2号機再稼働容認を正式に表明したという経緯があるが、その女川原発には一切触れることはなかった。コメンテイターの浜田敬子、玉川徹、安部敏樹全員が、被災地復興のモデルになると手放しで絶賛していた。宮城県出身の玉川さん、「子どもの頃食べたウニがうまかった」というが、それって、少し違うのでは。

 私たち夫婦は、女川には大震災5年目、2016年4月に一度だけ訪ねたことがある。山を切り崩しての7メートルのかさ上げ工事の真っ最中であった。2015年3月に新しい女川駅が完成し、2016年3月17日には、天皇夫妻は駅からまっすぐ海岸へとのびる、できたばかりの煉瓦道の両側の商業施設シーパルピアを視察されたとかで、そんな記念写真があちこちに貼られていた。地元からも外部からも入った店があって、確かに並んではいたが、私たち旅行者にとっても、地元の人にとってはなおさら、魅力的な店は少ないのではなかったか、どこか閑散としていて、昼食をとるにも、これはという店がなかったのを思い出す。

 それから8年にもなろうとしている、今はかさ上げ工事も終わり、あの商業施設は、町はどうなっているのか。素人ながら、盛り土による宅地造成は、安全と言えるのか、土砂崩れや地震に耐えうるのか。というのも、身近な、土地区画整理事業での体験から、盛り土による宅地造成が本当に安全なのだろうか、素人ながら危惧するのだった。斜面の植栽が一晩の雨で流されたり、宅地の一画が崩れ、土石流となって隣接の住宅街の道路や車庫に流れ込んだことがあった。鹿島や清水建設の施行ではあった。

以下は、関連の過去記事の一部である。
・連休の前、5年後の被災地へはじめて~盛岡・石巻・女川へ(6)女川原発へ
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-5cf0.html 
・連休の前、5年後の被災地へはじめて~盛岡・石巻・女川へ(7)女川町の選択 
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-be09.html
(2016514日)
2022年311日、そして、これから(2022312日)
https://app.cocolog-nifty.com/cms/blogs/190233/entries/93364868

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山を切り崩し、盛土に使った土の量は、10トンダンプトラック140万台分だったという(「復興の<今>を見に来て―宮城県女川町」『UR PRESS』58号 2029年)

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いずれも、地域医療センターへの坂道から2016年4月29日撮影。周辺には、いくつかの慰霊碑が建てられていた。下の写真の左手の道路にも、多くの花が手向けられている碑が見える。

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「復航の<今>を見に来て―宮城県女川町」『UR PRESS』58号(2019年)から、レンガ道プロムナード。このエリアマネイジメントを請け負ったのが、いわゆる<まちづくり会社>、第三セクター「女川みらい創造株式会社」ということだった。

 

参考:

須田善明「地方創生政策の現場から」『日本不動産学会誌』28巻2号 2015年9月
file:///C:/Users/Owner/Desktop/29_73.pdf

 

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2024年2月 9日 (金)

大人の対応?私の「オバサン」騒動の顛末

 1月30日、麻生自民党副総裁が地元福岡での講演の際、上川外務大臣を名指ししての「オバサン」発言は、謝罪と撤回でケリがついたようだが、上川大臣は「大人の対応」でかわしたらしい。

 2007年のことなので、20年近く前のことながら、私にも「オバサン」体験があった。佐倉市には、「市民の声」係や「市長への手紙」などを通じて、市民の要望を聞く仕組みがある。当時、私は、まだ元気があったのだろう。5年ほどの自治会役員から解放されたあとも、町内の人たちと、地域の都市計画事業に伴う環境問題などについて開発業者や市役所と交渉したり、市への情報公開請求や市政への要望書をよく提出したりしていた。

 どんな用向きであったか、今では「記憶にない」のだが、「市民の声」係に電話したところ、電話口に出た女性が、「少々お待ちください」のあと、他の係員に「あの、なんかオバサンからの電話なんだけど・・・」との声がしたのである。いまのように保留のメロディが流れることもなかったのだろう、まともに「オバサン」呼ばわりされているのを聞いてしまったのである。

 私もまだ、「若かった」のだろう、代わって電話口に出た男性に、用件より先に、女性の「オバサン」発言に抗議したのである。「市民の声の窓口ともあろう人が、そのような、いかにも市民軽視の発言や対応は許されるものではない」と。その場で、男性が一言謝罪したかもしれないのだが、私の怒りは収まらず、女性やその上司にも反省を求めた。そして、今後、同じようなことが起こらないためにも、その反省を形で示して欲しいとの要望もした。

 後日、以下のような書類が、秘書課長名の送り状付きで届いた。上が、「オバサン」発言の女性によるもので「誤解を生じやすい表現を用いたことにより、市民の方に不快な思いをさせてしまいました。・・・」の一文は、「誤解を招く」「誤解を生じる」は、現在の役人や政治家も好んで使用する「言い訳」である。「誤解」じゃないだろうと、この頃はテレビに向かって叫んでいる。
 また、上司の副申書にある「お客様」なる表現にも、違和感があり、私は、あなたの「お客」ではなく、「市民」です、というやりとりをすることが多い。

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2024年2月 5日 (月)

鎌倉文士野球クラブ「鎌倉老童軍」のこと~戦死した叔父の青春

  一つ前の井上司朗=逗子八郎の記事を書くにあたって、最近知った田中綾さんの「歌人・逗子八郎/井上司朗研究―新短歌運動との言論統制のはざまで」(『北海学園大学論集』47号 2010年11月)に、井上が「文士野球チーム「老童軍」との試合など、昭和の都市青年らしい青春を過ごした資料もある」の一文に出会った。
 「老童軍」、そう、20年以上前になるのだが、私の母方の従弟O・H
さんが、久米正雄の学生時代に『萬朝報』に連載された「学生徒歩旅行・盛岡より東京まで」(1926年8月11日~10月23日)が全集にも収録されてないことを残念に思い、まとめて復刻し、私家版(2000年7月)として出版した。私の叔父にあたる、父親のO・Kさんが、その「老童軍」の選手として、チームの監督であった久米正雄と親しくしていたということがわかったからだという。

 私家版を出版する過程で、父親が鎌倉師範の野球部にいたことから、文士らの野球クラブ鎌倉老童軍に誘われ、久米正雄監督のもと、若い戦力として活躍していたことを、当時の新聞や久米家の親族の話などたどることになったという。この野球クラブには、昭和初期、1928年頃、久米をはじめ大佛次郎、里見弴、小林秀雄、今日出海などが参加していたこともわかったという。ちなみに、小谷野敦の「久米正雄詳細年表」の1928年の項に以下のような記述があるのを知った。

この頃、里見、大仏次郎(32)らと野球チーム「鎌倉老童軍」を結成、駅裏でたびたび試合。ほかに小牧近江(35)、宇野、加能、広津、邦枝、田中純、サトウハチロー、ほかに元アマの橋戸頑鉄(50)、野球記者の太田四州(48)。

 1934年、東京日日新聞主催の都市対抗野球大会の地方予選では、神奈川県代表として東海予選を勝ち抜いて、神宮外苑での全国大会に出場したのである。チームメイトには、六大学野球部出身の選手も多く、一時、水原茂が在籍していたこともあった(水原は慶応大学出身だが、不祥事が重なって、野球部から除名されていた頃か)。

 さらに、叔父は、職業柄、久米や里見、高浜虚子の子息たちの家庭教師を務めたいたこともわかったという。その叔父は、太平洋戦争末期、ニューギニアで戦死したことは、私も母から聞いていた。O・Hさんは私より若いはずなので、お父さんの顔を覚えていないのではないか。寡婦となった叔母はKさんと兄のTさん二人を懸命に育てた。私と同い年のTさんは、高校の野球部で活躍されたのである。Hさんは、父親の青春時代を知って、どこかほっとしたとの思いをもらしていた。

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O・Hさんから送られてきた東海予選で優勝した折の切り抜きの一部(「東京日日新聞』1934年9月11日)

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全国大会出場の前年、神奈川県大会で優勝、東海予選出場を決めた折の記事(『東京日日新聞』1933年6月5日)

<追記>
その後、こんな記事を見つけました。1933年全国大会に出場、その勝敗の結果が気になっていましたが、「全台北」チームとの初戦で、10対1で負けたとありました。

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『News Letter』Vol.22/No4 ( 野球体育博物館編刊 2013年1月25日)より

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2024年2月 2日 (金)

久し振りに、「井上司朗」の名を目にした~彼のたどった道を振り返る

 下は1月30日の『毎日新聞』である。見出しは「1人の役人、登山界を軍事化」とある。

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 この記事は、太平洋戦争が始まる直前の1941年11月、日本山岳連盟の役員らに率いられた437人が丹沢の大山中腹から東京の神宮外苑までの約70キロを一昼夜かけて行軍、明治神宮国民体育大会満場の拍手で迎えられたという場面から始まる。1941年1月に、全国の登山家たちを束ねた日本山岳連盟(岳連)を結成、国策に添った活動に積極的に取り組んだ、中心的な人物、内閣情報部に情報官として1939年10月に民間から任用された井上司朗に焦点をあてた記事であった。彼は、情報局第五部第三課、文芸課長として戦時下の言論統制の一翼を担い、文学報国会の創立にも関わった人である。

 井上司朗(1903~1991))は、安田銀行の行員であったが、逗子八郎のペンネームで、山岳もののエッセイや短歌を数多く発表、『こころの山』(朋文堂 1938年11月)、『山岳歌集雲烟』河出書房 1941年7月)『山征かば』(中央公論社 1941年9月)などの単行本も出版している。『山征かば』においては「あらたなる登山精神」」なるものを唱え、「巻末記」では、出版の動機を「従来の<登山のための登山><享楽のための登山>といふ意識を<民族のための登山><錬成のための登山>の方向」へと切り換えるためと明言し、登山団体の岳連への結集の強行や官僚の地位を利用しての活動をうかがわせる。「1人役人、登山界を軍事化」という見出しの所以でもある。

 さらに、今回の記事は、情報局の文芸課長として、作家や編集者、出版社への強権的な言動による統制や振る舞いは、戦後、多くの批判を浴びたことにも言及しているが、歌人であったことには、一行だけ触れてはいるが、その歌歴や作品については書かれていなかった。

 ところが、逗子八郎には、この記事では触れていない歌人としての前歴があった。40年ほど前になるが、その前歴と記事にあるような経歴を短歌と散文や言動を情報統制組織の推移とともに検証したことがある(「ある歌人のたどった道―逗子八郎はひとりか」(『風景』1~6号 1982年4月~1983年7月。『短歌と天皇制』風媒社 1988年10月、所収)。

 彼は、中学時代から作歌をはじめ、『アララギ』の古泉千樫に師事し、文語定型短歌から出発していたが、千樫没後は、宇都野研主宰の『勁草』(1929年2月創刊)に拠り、つぎのようなプロレタリア短歌的な作品も残している(田中綾「歌人・逗子八郎研究・文芸エリート及び厚生運動の視点から(一)(二)」『北海学園大学人文論集』41号、43号 2008年11月、2009年7月)。

・その巨大な大理石の建物の下を通ると踏みつぶされた人々のうめきが聞こえるといふ(『勁草』1929年6月)

・疲れて、見上げる壁に貼り付けた山宣の死面(デスマスク)、不屈のいかりをまた俺の胸に鎔(とろ)かし込む(『勁草』1930年3月) 

 彼の短歌論、ポエジー論は、伝統的な文語定型短歌打破の方法論を探り、口語自由律短歌の主張する。1932年3月に創刊した『短歌と方法』やそれ以前にさまざまなメディアにおいて展開、それらを『主知的短歌論』(短歌と方法社 1933年2月)としてまとめている。その短歌史上の位置づけは、中野嘉一『新短歌の歴史』(昭森社1967年5月)に詳しい。

・書くそばから逃げださうとする真実にせまる文字を僕は索(たづ)ねる(「黒きノート」『短歌年鑑(昭和八年版)』 短歌新聞編輯局編 立命館出版部 1933年5月)

・肉体の午後。寂しい血が流れ始める 戦(そよ)がない石像のやうに私は戦(そよ)がない(「ホテル・ニューグランドの午後」『短歌研究』 1934年6月)

 ところが、井上司朗が前述のように、銀行員から官僚に転身すると、つぎのような短歌に変わる。

・すめらぎにささげたるみぞしましくもわたくしごとに傷(やぶ)るべからず(「飛鳥路」『日本短歌』1940年11月)

・みひかりに大き亜細亜は一つとぞ諸邦人(もろくにびと)の今ぞぬかづく(「亜細亜の花」『短歌研究』1942年12月)

・押しなべて山をうづみし濃緑(こみどり)の楠の若葉ぞもりあがりたる(「楠の若葉」『言論報國』1944年6月)

 「飛鳥路」17首の歌の前には、9行にわたる「解説」が付されているが、以下はその後半部分である。

 「この一篇は定型歌である。作家と雖も定型をつくることがあるに不思議はない。自分についていへば定型歌のみならず、小説の書けば寄稿文も詩もかく。但し定型歌をつくるのは飽迄も日記としてであり、述懐としてである。芸術の上の積極的な意図を打ち出す場合は必ず新短歌によるか、或はその外の芸術形式による」

 そして、捨てぜりふのように「判り切ったか事だが、歌壇にはこれだけの理屈もわからぬ人々が多いので付記しておく」と結んでいる。

 さらに、戦後は、しばらくメディアに登場することも少なかったが、後楽園スタジアム取締役、日本放送創立などにかかわり、富士銀行の嘱託になっている。1970年代後半あたりから、短歌雑誌に登場するようになり、井上司朗としての執筆も多くなり、『証言・戦時文壇史~情報局文芸課長のつぶやき』(人間の科学社 1984年8月)としてまとめられた。戦後の多くの文壇人からの批判にこたえる形であったが、情報局の組織変遷や内部事情にも及び陸海軍の軍人介入により文芸課長としての権限は限られたものだったなどの弁明も多い。

 「戦争」「戦時」を挟んで、積極的に立ち位置を変えた人、変えていった人、変えなかった人、変えたふりをした人、変えずに潜んでいた人・・・。<転向>という視点で検証されることが多い。「戦争」という要素がなくても、人は自らの言動を律する力が、日常的に問われているのではないか。とくに、表現にかかわる者たちにとっては、なおさらのことではないかと思う。

 そして、井上司朗=逗子八郎のような道をたどった人は、決して一人にとどまらず、多くの人がたどった道でもあり、現代にも、思い当たる人たちがいる。人間の一生は、どういう道をたどって来たのか、トータルに評価されるべきで、亡くなると、みんな「いい人」にしてしまう風潮、その軽々しさに、マスメディアも加担しているのではないかと。

 なお、前述の田中綾による論考は、歌人逗子八郎が新短歌運動にかかわる前の旧制一高時代、大正末期の井上司朗の校友関係とその人脈の多彩と『校友会雑誌』に発表した多数の定型短歌を紹介するとともに、『勁草』に拠るまでの過程を検証する、貴重な文献である。ただ、発掘した資料によって、彼の「青春の瑞々しさ」のようなものを、過度に評価する危惧も感じたのである。

 

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