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2024年2月13日 (火)

女川の町は、いま~被災地復興のモデル?

やや旧聞に属するが、1月31日(水)朝、たまたま「羽鳥モーニングショー」にチャンネルをあわせてみると、女川町の東日本大震災後の復興が特集らしかった。途中ながら、現地の須田善明女川町長とつないで、女川の復興計画がどのように実施され、成功をおさめたかをパネルにまとめて、他の自治体の復興計画のモデルになっているという流れであった。下のようなパネルが何度も大写しになっていた。

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 東北における他の被災地の復興計画の津波対策は、多くは、大防潮堤の建設であったが、想定される津波の高さに耐えうる高さとなると、港や町からは海が見えなくなり、津波の来襲も目視できなくなるリスクもあった。
 女川町は震災で最大14・8メートルの津波に襲われ、住宅4414戸の内66・3%の2924戸が全壊し、当時の人口10014人の8・3%の827人が死亡・行方不明になり、港も町も壊滅的な被害を受けている。

 東日本大震災時の女川町長の「高台に逃げろ」「高台に町を再建」の思いを引き継ぎ、翌年に就任した須田町長だが、町の中心部であった区域全体をかさ上げし、防潮堤が見えない、海の見える街、コンパクトシィティ構想の下、区画整理を遂行した。 
 ところが、私の第一の疑問、人口が増えている?であったが、女川町の統計を見てみると、以下のような推移をたどる。

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  モーニングショーのパネルは、5年ごとの2015年と2020年の10月1日現在の国勢調査の数字から作成したもので、他の被災市町村と比べて、女川町の人口だけが増加したことを示している。その実数は6334人が6430人に増えたというのである。たしかに1.5%増なのだが、2011年から2024年の推移を見てみると、人口は確実に減少しているのがわかる。大震災直前の2月の約1万人が今年の1月には約5900人であった。ということは、国勢調査の両年の10月1日の一過性の数字にしか見えない。人口増を強調することは、視聴者をミスリードしていることにならないか。人口の流出は、止めようもない事実なのである。

 「海や港が見える街」というコンセプトは、水産業が主要な産業なだけにたしかに大切で、観光の売りの一つにしたいのかもしれないが、かさ上げ後の区画整理による街の魅力が期待されるだろうか。
 さらに、女川原発の1号機は廃炉となったが、承認された2号機の再稼働の時期がたびたび延期になっている。昨年9月、火災対策の工事への対応を理由に、ことし2月から5月に延期されたばかりだったが、1月10日の東北電力の発表によればには、さらに、再稼働には5月から数か月を要するという。ケーブルの配置を変更する必要が生じたことから、工事が必要な場所が当初の予定より10か所増え、工事の完了時期が遅れているという。重なる延期に、市民の不安は募るばかりであろう。さらに、東北電力の樋口康二郎社長は1月31日の定例記者会見で、女川原発2号機(宮城県女川町、石巻市)の安全対策工事完了や再稼働の時期に関し「示せる段階に至っていない」と述べたという(河北新報 2024年2月1日)。
 そもそも、女川原発には、事故が起きた場合の避難路が確保されていないことから、再稼働阻止・廃炉を要求する市民運動が地道に続けられているが、その声はなかなか届かない。再稼働差し止め裁判も続行中である。
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原発は石巻市との境、女川町の鳴浜に位置する。 

 今回の能登半島地震を踏まえて、1月22日には、脱原発を呼びかける宮城県内の住民団体が宮城県知事に地元同意の取り消しを、東北電力には、周辺の活断層の検証や避難計画の見直しが終わるまで、再稼働をしないことを要請している(朝日新聞 2024年1月23日)。
 にもかかわらず、モーニングショーでは、須田町長は当初より原発の容認を前提にしていたし、2020年9月には、女川町議会は2号機再稼働容認を正式に表明したという経緯があるが、その女川原発には一切触れることはなかった。コメンテイターの浜田敬子、玉川徹、安部敏樹全員が、被災地復興のモデルになると手放しで絶賛していた。宮城県出身の玉川さん、「子どもの頃食べたうにがうまかった」というが、それって、少し違うのでは。

 私たち夫婦は、女川には大震災5年目、2016年4月に一度だけ訪ねたことがある。山を切り崩しての7メートルのかさ上げ工事の真っ最中であった。2015年3月に新しい女川駅が完成し、2016年3月17日には、天皇夫妻は駅からまっすぐ海岸へとのびる、できたばかりの煉瓦道の両側の商業施設シーパルピアを視察されたとかで、そんな記念写真があちこちに貼られていた。地元からも外部からも入った店があって、確かに並んではいたが、私たち旅行者にとっても、地元の人にとってはなおさら、魅力的な店は少ないのではなかったか、どこか閑散としていて、昼食をとるにも、これはという店がなかったのを思い出す。

 それから8年にもなろうとしている、今はかさ上げ工事も終わり、あの商業施設は、町はどうなっているのか。素人ながら、盛り土による宅地造成は、安全と言えるのか、土砂崩れや地震に耐えうるのか。というのも、身近な、土地区画整理事業での体験から、盛り土による宅地造成が本当に安全なのだろうか、素人ながら危惧するのだった。斜面の植栽が一晩の雨で流されたり、宅地の一画が崩れ、土石流となって隣接の住宅街の道路や車庫に流れ込んだことがあった。鹿島や清水建設の施行ではあった。

以下は、関連の過去記事の一部である。
・連休の前、5年後の被災地へはじめて~盛岡・石巻・女川へ(6)女川原発へ
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-5cf0.html 
・連休の前、5年後の被災地へはじめて~盛岡・石巻・女川へ(7)女川町の選択 
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-be09.html
(2016514日)
2022年311日、そして、これから(2022312日)
https://app.cocolog-nifty.com/cms/blogs/190233/entries/93364868

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山を切り崩し、盛土に使った土の量は、10トンダンプトラック140万台分だったという(「復興の<今>を見に来て―宮城県女川町」『UR PRESS』58号 2029年)

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いずれも、地域医療センターへの坂道から2016年4月29日撮影。周辺には、いくつかの慰霊碑が建てられていた。下の写真の左手の道路にも、多くの花が手向けられている碑が見える。

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「復航の<今>を見に来て―宮城県女川町」『UR PRESS』58号(2019年)から、レンガ道プロムナード。このエリアマネイジメントを請け負ったのが、いわゆる<まちづくり会社>、第三セクター「女川みらい創造株式会社」ということだった。

 

参考:

須田善明「地方創生政策の現場から」『日本不動産学会誌』28巻2号 2015年9月
file:///C:/Users/Owner/Desktop/29_73.pdf

 

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