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2024年3月28日 (木)

“小さい春”見つけた

 我が家の庭にも“小さな春”がやって来た。「根性スミレ」があちこちに花をつけ始めた。

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玄関への階段の隅に、外には側溝と石垣の間に咲いていた。

 庭のスイセンは、咲き始めて久しく、先日の嵐のような雨にも耐えてきた。いっときのあったかさで、ヒヨはもう来ないのではと思っていたが、しっかりとエサ台を監視しているかのようであった。夫は、そのヒヨドリのために糖度の高いミカンを、糖度表示があるイオンタウンまで買いに出るほどである。

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 きのう、ご近所のいつもの方から、菜の花を、「今、摘んできたとこだよ」といただいた。折も折、夫は、数日前の「3分クッキング」を見ていて、「牛肉と菜の葉の豆鼓炒め」を今日作ると張り切っていたところのタイミングだった。豆鼓だけは、スーパーに走り、SBの小袋(ベトナム産)を買ってきて、牛肉の200グラムと菜の花をたっぷり使って、夕飯のお惣菜となった。私は今年初めての竹の子をゆで、煮物と竹の子ご飯を供した。

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リビングの日差しも春めいて。

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球根の手入れもしないのに、定位置で毎年咲いてくれる黄スイセン

 

 

 

 

 

 

 

 

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2024年3月18日 (月)

断捨離の手が止まる (2) 戦前期『ポトナム』の気になる歌人たち

   物置同然となってしまった和室のリフォームを思い立ち、生協のワーカーコレクティブの方に依頼、仕訳をしながら、不用品を運び出してもらった。 見違えるほど広くなった!六畳間、思わずごろんと横になりたいくらいだった。が、それからが大変だった。

近代文学館に寄贈する前に

  かねて、日本近代文学館が寄贈を快諾してくださっていた、私が1960年に入会している歌誌『ポトナム』の戦前のバックナンバー(ただし、コピー)をの発送することになった。一昨年創刊百年を迎えた歌誌で、欠号は若干あるものの、1927 ~1944年(昭和2~19年)分である。講談社が昭和50年を期して企画した『昭和萬葉集』の選歌の依頼があったとき、譲り受けたものである。揃って所蔵する機関がないなかで、講談社が国立国会図書館、九州大学、立命館大学、東洋大学の図書館などでコピーして、仮製本した資料で、近代文学館でも未所蔵期間だったので寄贈することにしたのだった。発送前に、点検のためにと久しぶりに、あらためて頁を繰っていると、一結社の歌誌ながら、「昭和戦前萬葉集」さながらにも思える、激動の昭和史を読む思いがした。いざ、手離すとなると、頁を繰る手がにぶり、ついにメモを取り始めるのだった。以下敬称は略し、ややわずらわしいが、人名の後のカッコ内は『ポトナム』入会年を示す。

 つぎのような先達の名前と作品に触れると、『ポトナム』の長くも、決して順風とは言えない歴史を思わないではいられない。1960年から亡くなるまで師事していた阿部静枝(1923)、私の入会時には亡くなっていた創刊者の小泉苳三(1922)、私どもの仲人をお願いした小島清(1926)、戦後の歴代編集発行人を務めた頴田島一二郎(1922)、君島夜詩(1922)、和田周三(1933)の若かりし頃の作品にあらためて接することになった。

『ポトナム』から飛び出した歌人たち

 また、当時の同人、平野宣紀(1926)は『ポトナム』より独立して、系列誌とでもいうのか、1940年『花實』を創刊、同じく尾関栄一郎(1923)は1946年『遠天』、福田栄一(1925)は1946年『古今』、尾崎孝子(1924)は1947年『新日光』、森岡貞香(1934)は1968年『石畳』を創刊していることにも気づかされる。薩摩光三(1932)は1948年『岡谷市民新聞』というユニークな地域新聞を創刊したことで知られるが、『ポトナム』にも作品を発表しながら、1939年来『短歌山脈』も発行し続けていた。

 さらに、尾崎孝子(1924)は1931年から『歌壇新報』、石黒桐葉(本名清作、後の清介。1934)は1953年『短歌新聞』と1977年『短歌現代』、只野幸雄(1932)は1968年『短歌公論』という短歌情報誌を編集発行している。今回、数枚の古い『短歌新聞』と『短歌公論』も出てきた。『短歌新聞』の方がすっかり茶色に変色しているのに、『短歌公論』の方はあまり変色していない、など感心していると、1970~80年代の拙稿の掲載誌であった。石黒さんと只野さんには、気にかけていただいていたのだと、あらためて思い出すのだった。

 『ポトナム』には、歌壇への思いというか短歌愛が募ってジャーナリスト、出版者となっている人たちがほかにもいる。福田栄一と松下英麿は『中央公論』の編集長になっているが、小泉苳三は白楊社を、小島清は初音書房を経営している時期があり、新津亨は時事新報社に勤務しているし、片山貞美は角川の『短歌』の編集にかかわっていた。まだ私の知らない人たちもいるかもしれない。

阿部静枝の第一歌集『秋草』のあとに

・おのづからたらはぬ情(こころ)ただになやむひとをまもりつつわれもさびしき

・疲れつつつとめゆかへる夕みちに朝ゐし人夫なほ働けり

・霧さむき小屋の焚火にひととより手足の傷をいたはりあへり

・あやふきに勝ちしありがたさ祝はれてひとまへになみだかくしかねつ

・馴れぬ子の泣かん怖れをひそかにもちからだ洗ひてやりつつさびし
(『秋草』 ポトナム社  1926年10月)

   今回の『ポトナム』のコピーで一番古いものが1927年1月号で、阿部静枝の第一歌集『秋草』批評特集号であった。いわば静枝の青春歌集であったはずの『秋草』は、山田(今井)邦子が指摘したように「自意識の強い愛憎の念の深い陰影をきっかりと持った複雑な心理が鋭く起伏してゐる」(「秋草の歌」『ポトナム』1927年1月、『時事新報』からの転載)歌集となった。後に静枝自身が「普通のめでたい結婚へあっさり入りがたい事情が両方にあった」(「阿部静枝歌集」短歌新聞社1974年3月)と語り、その詳細は不明ながら、上記5首にみられる背景は、静枝のその後の生き方や作品を形成しているかのようだ。未婚の母として、同郷の無産政党の活動家の弁護士阿部温知と結婚し、夫の選挙を通じて自身も無産婦人運動の活動家となってゆく。離れた地の人に預けた子への愛と葛藤は、1938年夫の死後、引き取るまで長きにわたって詠み続けられるのである。

・さつさつと噴水の秀のくづれをりふかく入り来て街の音せず
(青山御苑 1927年1月)

・さわやかにひとり死に遂げし君にあれやねたみかそけく持ちて香焚く
(芥川龍之介氏 1927年9月)

・柵により見送れる汝を見凝めをり暗き夜汽車に涙ぬぐはず
(秋 1927年12月)

・嵐来とおぼゆる曇りメーデーの吹きなびく旗の赤さ暗しも
(いま泣いた烏がもう笑つた 1928年6月)

・するが湾こえて相向ふ富士みつつその形積む児と砂浜に
(秋 1928年11月)

・乞食等にビラを渡さは嘲られん怖れひそみにわが見ぬふりす
 (無産党闘士の妻1928年12月)

・ケーブルを降りてゆく山きりりとした秋の空気の冷たき圧力
(秋の伊香保 2029年12月)

・金!金!それを持つてゐる者は自然と私の敵となつてゆく
(選挙第一次1930年2月)

・一日の海の遊びに夕焼空のやうに日焼けた児の頬
(1930年9月)

・不幸になれた無産者がまだ頼つてゐる首相よ、神経がないのか
 (1930年10月)

・日曜の朝はなほはやく起きて呼びながしものうる児達
 (岐阜 1931年3月)

・旅立つ夫に一枚のあたらしいハンケチもてわたさなかつた
 (忽忙1931年3月)

 1929年後半あたりから、文語定型から口語破調の作品が多くなっていき、一時は、次に述べるプロレタリア短歌の詠草欄に一緒に掲載されることにもなった。それにしても、彼女の見聞・行動範囲の広さは、当時の男性歌人たちと比べても格段の差があったろうし、一般女性には想像もつかない世界であったかもしれない。夫の遊説、自身の活動、旅行などによって日本各地を訪れ、さまざまな施設にも訪れ、短歌にも詠んでいた。なお、夫との死別後から太平洋戦争期の静枝については、「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか」(『天皇の短歌は何を語のか』 お茶の水書房 2013年8月)を参照していただければと思う。

プロレタリア短歌と出口王仁三郎にどう対処したのか

 なお、すでに「『ポトナム』時代の坪野哲久」(『天皇の短歌は何を語るのか』 御茶の水書房 2013年、所収)にも書いたことだが、坪野哲久(1926年3月~28年10月)、岡部文夫(1927~28年10月)は、短いながら『ポトナム』の同人として活躍していたが、プロレタリア短歌をめざし「短歌戦線」に加盟し、退会している。ちょうど同じ頃、中野嘉一が1927年2月に入会、翌年には、復刊『詩歌』に参加、口語自由律の新短歌運動の中心となっていく。同じ1927年には、大坪晶一が入会して、『曇天と樹木』(1929年9月)『Cokaineとマダム』(1934年1月)をポトナム社から出版する勢いであった。
 また、いわゆる『ポトナム』内のプロレタリア歌人たち、当時「ポト・プロ」と呼ばれていたそうだが、松下英麿(1926)は、「我が陣営として」大津徹三、牧村浩、沼三郎、南文枝、宝井青波らの名前を挙げている(ポトナム 1931年1月)。31年4月には、創刊10周年を迎えるが、彼らの作品「景気好転の経済面の裏は、大量解雇、工場閉鎖の社会面だ、みろ、デタラメのブル新聞を」(大津徹三)などはまだましの方で、シュプレヒコールにもならない、怒号のような「短歌」がまとめられて並ぶ。同じ号には結社外部から、誌面に統一がないことや「雑誌には自ら節操というものがあつて、何でもござれ主義となつては、最早其の雑誌の存在価値はなきにい等しい」とまで批判されている(矢島歓一「対ポトナムの意見と希望」)。
 翌月31年5月号の「後記」で小泉苳三は、「プロレ短歌もシュウル短歌もすでに今日では短歌の範疇を逸脱してゐる。ポトナムとしてはその各に対しての歴史的役割を果して来たと思ふ。今後とも研究はつづけてゆくつもりであるが、現在の作品を短歌として認めることは否定したい。従つて誌上への発表も中止する」に続けて「ポト・プロの人達はいづれも年久しい同人達である。作品の上の主義は主義としてできるなら今後もポトナム内にあつてその方面の研究をつづけてほしく思ふ」とも記している。なお、大坪晶一『自叙伝青春挽歌』(短歌時代社1965年5月)には、この頃のポトナムや歌壇の様子は、『ポトナム』記念号の年史や回顧録には見られない人間関係やエピソードが綴られているのが興味深い。

 また、この時期、出口王仁三郎(1930)の出現も見逃しがたい。出口は、大本教の教祖で、第一次大本事件で、不敬罪、新聞紙法違反に問われ、27年懲役5年の刑を受けている。1930年に『ポトナム』の維持社友となったとの報告がされていて、少なくとも1931年の『ポトナム』3月から11月まで、5首前後掲載されている。前川佐美雄の『日本歌人』、前田夕暮の『詩歌』をはじめ、一時は、100を超える結社に参加、短歌を寄稿していたというが、同年の『ポトナム』9月号の「消息欄」には、『アララギ』からは除名された、との記事もある。10月号の「編輯レポート」には、名前は特定していないが「他誌に席をおく人は去就を決せられたい」との警告もなされている。この年の5月には第一歌集『花明山』(明光社)を出版し、モダズニム短歌と評価されてもいるが、『ポトナム』の掲載歌を見る限り、変哲もない自然詠、旅行詠、家族詠のように見受けられた。歌壇に旋風を起こし、「結社」という存在が問いかけられたことだけは確かである。近年では、石井辰彦や笹公人による再評価もなされている。

 発送直前の閲覧とメモを頼りのレポートとなった。もっと読み込んでおけばよかったと思う日もあるかもしれない。

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雨のあと、一気に咲き出したスイセン。3月16日写す。

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処分の直前、慌てて撮った、かつての拙作「からたちの花」。1974年、職場の文化祭に出品か。職場の宮本沙海先生の先生、内山雨海先生から1974年1月に、いただいた「光雨」だったが、沙海先生の手本をまねるばかりで・・・。何十年前にしまい込んだ書道具だけはいまだ手離せないでいる。

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2024年3月 5日 (火)

消防団はどうなる、どうする(2)各地の消防団で何が起きているのか

 佐倉市の消防団の何人かが、新年会かの帰りに酔っ払い運転で事故を起こしたという、なんとも“しまらない”一件を思い出す。だいぶ古い話になるので、ネットで調べても分からずじまいだったが。

 また、近所の中学校の校庭から、夏の夜遅く、何やらの掛け声が聞こえてくるので、不思議に思ったものである。後で、消防団の操法訓練と知った。消防操法大会というものがあってそれに向けての訓練で、たまたま帰宅が遅くなって中学校を通り抜けたとき、太いホースを走って巻いている姿に出会ったこともある。ご苦労さまと思う反面、消防団にまつわる問題も浮上してくる。

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2023年7月30日、毎日新聞より

 見落としはあると思うが、この問題について熱心に取材を続けているのが毎日新聞ではないか。

手元のスクラップを繰ってみると

  • 記者の目(岡山支局 高橋祐貴)・私物化される「幽霊消防団員」の報酬 2019年1月11日
  • 消防「幽霊団員」9000人 昨年度活動ないのに報酬/報酬「中抜き」4割超 (本誌調査)旅行や接待費に流用 2020年12月28日
  • 消防団報酬不正「野放し」 新たな情報次々 不徹底な自治体調査・20人の通帳印鑑保管・団員に振り替え指示 2022年7月19日
  • なるほドリワイド・消防団の課題 2023年7月30日
  • 外国人消防団員 活動どこまで 2024年2月2日

 3番目までは高橋祐貴記者の記名がある。見出しを見ても分かるように、団員には自治体から年間報酬と出動による報酬とが各消防団に支払われている。これらをめぐって、団員数や出動回数を水増ししたり、団員への報酬を消防団が一括して受領し、それを飲み代や旅行代に流用する例や団員に渡った報酬の一部を再徴収して消防団としてプールしたりする各地の実態などが報告されている。
 こうした実態とマイナンバー制度の導入などに伴い、政府は、報酬の団員個人へ振り込みにするよう進めているが、徹底していない。

 人口17万、世帯7万9000の佐倉市の場合、以下2023年度(令和5年度)予算の数字である。
・一般会計:518億、消防費:29億2000万円
・消防費のうち常備消防(消防署関係):26億9000万円、非常備消防(消防団関係):2億4000万、消防団員701人(定員  805人)
・消防団員報酬(年額):団長156000円~一般団員36500円計2942万円
・災害出動(1回)4時間以上8000円、4時間未満4000円、他の出動1500円 計2538万円
・交付金(年額)本部54000円、分団45000円×7、部54000×52 (消防団は地区わりで、7分団、52部より構成されている)計380万円

令和5年度消防団の概要
https://www.city.sakura.lg.jp/material/files/group/48/R5syouboudanngaiyou.pdf

 自治体によって、数字は異なるのだが、佐倉市の場合は、消防費全体の約一割強が「非常備消防」に充てられている。かつては、多くの市町村で、地域の自営業に近い人たちが仕事の傍ら、消防団業務に従事していたが、現在は会社員など被雇用者が大部分であって、十分機能しなくなっている。そこで、無理やり入団させたり、団員数を水増ししたり、自治会から後援会会費を徴収したりして、飲食代などの慰労費にあてたりする不正会計、地域の有力者による旧態然とした運営が上記の報道にも垣間見ることができる。ちなみに、佐倉市は、昨年度より、団員の報酬は団員個人の口座に振り込むことにしたという。

 そもそも、消防団は、地域の事情に詳しい団員が、防火水槽や消火栓の確保、交通規制、住民誘導などが円滑にできることがメリットとされてきたが、現在は、昼間は地域を離れている被雇用者が増えるにしたがって、活動が難しくなっている。また、消防団員たちが、消防士たちの業務や活動を補完することによって、常備消防費を抑制してきたという。しかし、ここにも、近年の防災、災害救援における行政の対応を見てとれるようだ。

 最近の災害救助、支援において、消防士も足りず、消防団員も被災者であって活動が困難な状況を目の当たりにして、ボランティア的な消防団に頼るのではなく、自衛隊の災害出動を拡大活発にすることではないかと思うようになった。
「専守防衛」のためなどという絵空事に防衛力の拡充、防衛費に莫大な予算を投入するのではなく、目の前の国民の命と暮らしを守るための自衛隊、自衛隊というより災害救援のための訓練を重ね、充分な機材をつかいこなせる隊員を育てることの方が先決ではないか。

 殺傷能力のある次期戦闘機の共同開発に兆の単位の予算が投入されるという。被災地の復旧・復興のためにと称して、新年度予算の衆院採決を強行した政府だが、補正予算でも予備費でも対応できるはずである。裏金を全額拠出するだけでも、できることはいっぱいあるはずなのに・・・。

 

 

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2024年3月 4日 (月)

消防団はどうなる、どうする(1)消防団への「お礼」って

 少子高齢化社会に加えて、コミュニティの衰退が進むなかで、近年、消防団の在り方が問題になることが多い。
 一つは、消防団員の減少と高齢化が進み、後継者の確保が困難になっているが、ざっくり言えば1950年前後200万人いた消防団員が1980年代には100万に、2022年4月1日現在、78万3578人までに激減している。消防団の担い手の確保が困難なっていることである。また近年は、消防団の任務自体も消防活動よりも災害出動の方に重点が移りつつあることである。

 私が消防団に関心を持ったのは、7・8年前に、順番に回って来る自治会の班長になって、自治会の決算書をよくよく見てみると、いつのまにか、消防団協賛金2万円という支出が続いているのを知って驚いたからである。
 というのも、もう四半世紀も前になるが、私たちの自治会では、当たり前のように、日赤の社資、社協会員、共同募金等にかかる「寄付金」を、班長がそれぞれ500円の領収書をもって集金していた。いずれへの拠出金は、寄付であって、強制的に集めるものではなく、自由じゃないのか、と疑問視する会員も多かったのだろう。私を含め主婦たちが、自治会の役員10人の半分ほどを占めることになって、集金をやめて、自由意志によるものとする提案をしたところ、班長の負担軽減にもなるというので、班長会ではすんなり承認された。ただ、自由な寄付金をどう集めるかが問題となったが、A4の茶封筒に小さめの切れ目を入れて、そこへお金を入れてもらい、手渡しで、回してもらうことになった。二十数年たった現在もその方法は踏襲されている。
 なのに、消防団協賛金という名目で、支出されていたのである。2017年になるが、佐倉市の自治推進課と危機管理課と何回か電話や文書でやり取りしたことは、以下のブログでも書いている。

防団・社協・日赤などへの寄付を強制されていませんか~自治会の自治とは(1) »
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/04/post-8f66.html

消防団・社協・日赤などへの寄付を強制されていませんか~自治会の自治とは(2) »
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/04/post-7804.html

 そこでわかったことは、消防団員は、非常勤地方公務員なので、消防団は寄付金を求めてはいけないが、協賛金、後援会費などは、自治会と消防団との間のことであり、佐倉市は関知しないとの一点張り。また、自治会支出の消防団協賛金は、地域の商店会・自治会連合体共催の夏祭りの警備のための謝礼とわかった。
 そこで、危機管理課に、祭りのときに制服を着て警備にあたっている以上、地方公務員として謝礼を受け取っているのは寄付にあたりませんか、の質問には、地域住民による自治会が、警備等のお礼の「お気持ち」であって寄付とは言えないとの説明だった。 
 この見解は、今でも変わらず、以下の「自治会等役員の手引き」では、「労をねぎらうために支援をされているもの」「消防団を支援しようという地域の厚意による任意のもの」との説明がされている。

(Q)消防団の後援会費というのはどういうものなのですか
(A)後援会費につきましては、地域の方が、同じ地域の中で、仕事を持ちながら消防団活動に従事されている方々の労をね     ぎらうために支援をされているものと考えます。

(Q)消防団の後援会費は絶対に支払わなければならないのですか
(A)あくまでも消防団活動を支援しようという地域の厚意による任意のもので強制・義務的なものではありません。 また、消防団は市内の全地区を管轄しており、後援会費支払いの有無に関わらず、火災発生時には、必ず出動いたします。

<佐倉市の消防体制>令和5年度自治会等役員の手引き(自治会活動Q&)
https://www.city.sakura.lg.jp/material/files/group/16/yakuintebiki.pdf 
42-43頁

 佐倉市の見解では、地方公務員はその業務について、地域住民から「労をねぎらうため」「厚意による任意」の金銭を受け取ってもなんら問題もない、ということになる。
 一方で、以下の「自治会等問題解決の手引き」では、「募金を自治会費にあらかじめ上乗せして集めること」について「募金の一律収集は注意が必要です」の見出しで「募金を自治会費に上乗せして集める場合は注意が必要です。募金を自治会費に上乗せして強制的に徴収するとした決議は無効であるとした裁判例があります。」と注意を促している。この文言は、令和3年度の手引きには「自治会費からの寄付金や募金等を出すことは危険です」と言って裁判例の説明が続いていた。「危険」から「注意」への変更は何を意味するのか。私には、寄付金等の一律徴収の違法性からの一歩後退にしか思えなかった。

 いま、私にとって、自治会は遠い存在になってはいるが、消防団協賛金、夏祭り参加費、防犯活動をしているNPO法人の会費が自治会財政からの一括納入になっている件ついて、会員の自由意思にゆだねるべきもので、こうした種類の募金・寄付は拡大する危惧があるので見直しをと、何回か自治会執行部に要望書を提出してはいる。しかし、なしのつぶてだったり、近隣自治会、地域住民との関係上必要との回答だったりしている。

皆さんの自治会では、どうなっていますか。

<募金の収集で悩んだら>自治会等問題解決の手引き(事例方式による問題解決の参考)
https://www.city.sakura.lg.jp/material/files/group/16/tebiki_mondai_2022.pdf  28頁

 その裁判例というのは、自治会決議による募金及び寄付金の徴収は「会員の生活上不可欠な存在である地縁団体により、会員の意思、決定とは関係なく一律に、事実上の強制をもってなされるものであり、その強制は社会的に許容される限度を超えるものというべきである。したがって、このような内容を有する本件決議は、被控訴人の会員の思想、信条の自由を侵害するものであって、公序良俗に反し無効というべきである。」(大阪高裁平成 19 年 8 月 24 日、最高裁上告棄却)

  さらに、最近は、消防団内部の運営・会計における不正、脱法が問題になっている。(続く)

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きのう、買い物帰りに、一本違う道を抜けようとすると、広い庭のお宅の門近くの樹にハシゴをかけてを剪定しているのに出会った。見上げると黄色い花をいっぱいつけていた。「立派ですね、なんの木ですか」と尋ねると「ミモザ」という。ミモザってこんな大きな木になるのか、とびっくりしてしまった。灌木のイメージが強かったのだが。道に落ちた枝を拾って「いい香りもしますね」「お持ちになりますか、どうぞ」ということで一枝いただいた。3月8日は国際女性デー、ミモザの日だそうだ。

 

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