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2024年4月28日 (日)

赤ちゃんにも選挙権!? 吉村知事、おかしくないですか?

町内会・自治会ではすでに始まっているが

  大阪府の吉村知事が、4月26日の記者会見で、前日4月25日、「人口戦略会議」の府内12市町村が消滅危機になるという分析を踏まえてか、ゼロ歳から選挙権を認めるべきとする持論を展開した。意思表示のできないない子どもたちは、保護者が選挙権を代理行使するというものだ。

ええ?? そんなことをして、地方議会や国会議員が決められたらどういうことになるのか。保護者って誰になるのか、父親か母親か、とだけ考えても、ムリ筋なのがすぐにわかる。たとえば、施設に暮らす子どもたちの保護者は誰になるのか。要するに知事は、目の前のことだけ考えて、単純に有権者を家族単位で束ねたいのだろう。かつての戸主、いまでも問題がある世帯主を中心とする「家族」制度的な発想なのではないか。「子どものころから政治や選挙への関心が高まる」?「日本の未来を決める権利がある」?というのが理由で、すでに維新の会の政策にもなっているというから、少々おそろしくなった。

  もっとも、吉村知事の「持論」なるもの、これに近い発想で、地域社会ではすでに進行している政策をご存じだろうか。私は、2017年、地元の自治会=地縁団体が法人化するにあたっての臨時総会で、詳しく知ることになった。当時の、以下4本の過去記事に詳しいが、私の疑問は、自治会が法人化されると構成員であるゼロ歳児から、議決権があることになり、子どもたちの議決権を保護者が代理行使できることによる弊害であった。意思表示ができない、まだ判断能力がない子どもたちの議決権を、多くの場合は、当然、親が、世帯主が行使してしまい、議決は住民の意思を反映することができないのではないか、という疑問であった。保護者の意見が根拠なく増幅されることを意味する。

多数決原理をゆがめることに

 地元の佐倉市でも、自治会区域のすべての住民の三分の二を自治会の構成員としなければ、法人化が認められない。住民であっても自治会に入会しない世帯、退会する世帯は年々増えているので、自治会が法人を維持しようとすれば、役員たちは、構成員の確保に必死で、まず、家族全員の登録を勧める。総会の議決権行使の際など、登録の家族の全員の記名、各議案について各人が〇☓を記すよう要請される。ということは、普通に考えて、世帯主、保護者の〇×がそのまま反映され、集計の効率化、議決の安定化が図られるかもしれないが、住民の意思を正確に反映することにはならない。どうして、赤ちゃんにまで議決権があるのかを、佐倉市に問い合わせると、納得できなければ、自治会構成員として登録しなければいいというが。

 だが、法人化のメリットとして、不動産登記が可能になることが挙げられる。地域住民が共同保有してきた山林や共同墓地などが、団体名義での登記できるようになることであった。また、法人化前は、世帯単位でしか議決権が行使できなかったのが、構成員一人一人が意思表示できることになるのは、確かにメリットであろう。たとえば、夫婦や家族で意見が異なる場合は、反映されることになる。個人単位になったことはよいのだが、だからと言って、子どもの議決権を代理行使するのは、多数決原理をゆがめることになるはずである。

無関心を助長することに

 地元の自治会は、コロナ禍のなか、対面での定時総会は中止になり、書面での議決権行使となった。ところが、今年の4月初旬の定時総会も、書面での議決となった。630世帯前後の自治会だが、構成員は約1800名、今年の表決結果は、予算・決算・事業計画・会則改訂いずれも、反対5票以下の数字であった。近年は対面の総会、行事なども中止、会員、班員同士の交流は皆無に等しく、自治会への無関心は顕著になってしまった。コロナが収まっても、法人化と相俟って、自治会活動は低迷、形骸化は進むにちがいない。 自治体や国政の選挙であっても、選挙権は18歳以上になったが、若年層の投票率は低い。自治会も、ゼロ歳からなどとせず、構成員は18歳以上として、個人あての投票用紙を配布し、要望を尋ねたり、小さな単位での、班会などでの茶話会を開いて、情報交換したり、とくに若い人にスポーツやアウトドアの行事への参加や協力を要請したりしたら、少しは関心を持ってもらえるのではないか。工夫次第だが、ダメかなあ。

いずれにしても、 吉村知事、その持論では、政治や選挙への関心は、ますます遠のきますよ。それがねらい?

<当ブログ関連記事>

<参考>

自治会・町内会等の法人化について -認可地縁団体設立の手引き-

(令和5年4月1日改訂版)(佐倉市)

https://www.city.sakura.lg.jp/material/files/group/16/jichikaihoujinka-r5.pdf

 

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開き始めたモクレンとテッセン、ツバキとツツジは、いま満開です。

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2024年4月24日 (水)

苗字を持たない人たちの人権はどうなるのか、しかし、その前に

  先に、安定的な皇位継承の在り方についての有識者会議報告書をめぐる各党、メディアの対応を当ブログ記事にまとめた。そのあと、断捨離の一環で、袋詰めの資料を整理していたが、皇室関係の切り抜きの一袋を開いたところ、つぎの記事の見出しが飛び込んできた。「うーん、これって、いったい、いつのこと?」と読んでみると、自民党が「女性天皇」と「自らの退位可能」=生前退位を認める方針を固め、皇室典範改正の検討を開始した、というのである。2001年5月9日の読売新聞だった。20年以上前、そういえば小泉首相の時代だったかも。紙もだいぶ劣化しているので、背景処理してコピーしたものだ。

 先週4月23日には、春の園遊会が開かれた。最近のメディアは、もっぱら愛子さんにスポットを当てているのを見ていると、世論調査の結果や今回の女性皇族は結婚しても皇族として残る案への傾斜を示しているように思われた。

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自民党が皇室典範改正の検討を早めたのには、前年の2000年に皇太子妃の雅子さんが流産したことがきっかけになったと思われる。

  今般、4月19日、皇位継承に関する自民党の懇談会では、2021年にまとめた有識者会議の二案 ①皇族女子が結婚後も皇族に残る ②旧皇族男子との養子縁組による皇籍復帰できる、の両案を妥当とするものだった。これまで、自民党の態度が決まらなかったのは、①案が女系天皇・女性天皇につながりかねないという懸念からだった。しかし、20年以上前は、「女性天皇」を認める方針だったことになる。
 おおよそ時代ごとになっている袋を開いていくと、皇位継承をめぐる記事がいくつか出てきて、その経緯を、あらためて知ることになった。こうしてみると、皇族たちは、なんと時の政府に翻弄されてきたことかがよくわかる。

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 2001年5月には、雅子さんの懐妊が発表され、12月に愛子さんが誕生する。2005年11月、小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」の報告書は、女性天皇、女系天皇を容認するものだったが、 2006年2月秋篠宮の紀子さんの懐妊の発表、9月に男子悠仁さんを出産すると、即日、皇室典範改正は見送りとなった。つぎの安倍首相はもともと男系維持論者であったため、以降、皇室典範改正は棚上げされた。

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現行の皇室典範によれば、当時の徳仁皇太子から文仁秋篠宮、悠仁さんへと皇位は継承される。もし、皇室典範改正されて、第一子優先の女系天皇・女性天皇が実現されていたら、徳仁、愛子、文仁、眞子、佳子、悠仁さんの順位となるはずであった。

  2009年9月、政権交代で民主党鳩山内閣に続いて、11年、野田内閣のもと、女性宮家創設を検討し始めた。小泉時代の「皇室典範に関する有識者会議」の報告書を下敷きに、「女性宮家」は一代限りの皇族となることを前提で、子どもが生まれても皇位継承権はないというものだった。しかし、2012年12月、第二次安倍政権が発足すると、「女性宮家」は、検討対象とはしない方針を固めている。安倍首相は自らの持論も踏まえ、自民党内保守派の男系維持論に与したことになる。

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  そして、2016年8月、明仁天皇の生前退位の意向表明がなされたのを機に、2017年6月には、生前退位特例法成立、2019年5月1日に徳仁皇太子が天皇になり令和期に入る。

その後も、皇位を継げる男子皇族は秋篠宮文仁、悠仁さんの二人であることには変わりがなく、「安定的」な皇位継承対策は、重要課題となっていて、2021年11月の有識者会議報告書の二案に至ったわけである。
 しかし、その内容は、当ブログ記事にも書いたように、何ともお粗末な、時代離れしたもので、二案とて、「安定的」な皇位継続が見通せるものではない。

 現在の皇室典範自体が憲法に定める人権に抵触しているし、二案による改正がなされれば、天皇家の人々、皇族の人たちの人権はむしろ広く縛られることになるのではないか。そうまでして皇位を継承して、天皇制を維持しようとする人たちは、皇族たちをなんとか利用しようと企んでいるようにも思えてくる。国民の多くは、特に若年層にとっては無関心、あるいは週刊誌的興味からながめているのではないか。

 皇位継承問題が浮上した今こそ、私たちは、憲法の基本原則と両立しがたい「第一章天皇」を持っていることを、真剣に考えなければならない時だと思う

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2024年4月19日 (金)

国民体育大会・オリンピック・大阪万博、どうする!どうなる?

 4月8日、宮城県の村井嘉浩知事は定例記者会見で、47都道府県のほぼすべてのスポーツが一堂に会し、持ち回りで開催されてきた国民体育大会(2024年から「国民スポーツ大会」に改称)の開催方法について、「継続する必要があるのか検討を始める。廃止も一つの考え」と述べたとの報道があった。見直しに賛同の知事も現れている。ようやくその声が 上がったかの思いがする。規模の縮小など図られてきたものの、開催自治体の負担がかなり大きかったからだ。「国体」は、開会に際して天皇(夫妻)を迎えることになっている。全国植樹祭、豊かな海づくり大会と並んで、天皇を迎える三大イベントの一つである。天皇の登場場面が一つ減ることになると、宮内庁は慌てているかもしれない。

 そもそも、都道府県代表の競技者が一堂に集まって競い合うことにどんな意味があるのかを考えてしまう。そのために自治体にとって、経済効果どころか、競技場やスタッフの確保、選手たちの受け入れの準備や実施は財政的にも大きな負担になってきたのだと思う。敗戦後のしばらくは、地域復興や地域振興の促進に役立っていたり、スポーツに親しむきっかけになったり、郷土愛を深めたりする時期もあったかもしれない。しかしいまはどうだろう、スポーツ観戦はテレビやネットでも大方見られるようになったし、スポーツ自体が趣味や健康志向へとシフトしている時代となった。にもかかわらず、勝敗第一主義がもたらす高校・大学の体育会、スポーツ界のパワハラ・セクハラ、暴力事件や違法薬物事件などの不祥事が絶えない。なお、冬季の国体は開催地の難航から、都道府県にまたがり種目別の分離開催となっているのが現状である。

 昨年2023年の鹿児島国体は、2020年第75回として開催予定がコロナ流行のため延期、三年の空白後の10月7日から、回数を付けず「特別国民体育大会」として開催されている。来年は、「国民スポーツ大会」として佐賀県で開催されるというタイミングで、村井知事の発言であったわけである。

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”最後の国体”「燃ゆる感動かごしま国体」の開会式には天皇夫妻が出席、「おことば」を述べ、航空自衛隊のブルーインパルスによるアクロバット飛行がなされた。自衛隊にとってはここぞと、広報のチャンスと思ってのことだが、スポーツとなんの関係もない。前日には試験飛行も行ったという。その出費を考えてしまう。また、この国体には、秋篠宮夫妻、佳子さん、三笠宮信子さんも訪れている。宮内庁も「広報効果」をねらってのことだろう。写真は「FlyTeamニュース」から拝借した。

 オリンピックについても同様のことがいえる。2年延期しても2022年実施した東京五輪にみるように、その開催地決定から、国立競技場建設、選手村建設・処分、大会運営にいたるまで、スキャンダルや汚職まみれで終わった。「選手ファースト」どころか、コロナ禍で開催され、五輪のおもて・うらで暗躍する人たちがいるのがよくわかったのである。2030年を目指して札幌の冬季五輪の招致運動が進められてきたが、2023年末時点で、招致運動の停止がきまった。IOCでは、30年、34年、38年の開催は、フランス、アメリカ、スイスと一本化されつつあるという。コロナ流行、東京五輪の一連の不祥事、機運が盛り上がらなかったことがその要因であった。

 五輪開催国は、経済効果どころか負担が大きいので、毎回、名乗りを上げる開催国は少なくなり、先細りの感を歪めない。そもそも、国民には、実施時期の選択や実施競技の種類の出入りなど不明な部分も多い。各スポーツ競技は、それぞれ世界的規模の大会を持っている。そこで競えばいいのではないか。また、さまざまな民族や出自が異なる人々によって構成される国単位で競うというよりは、個人やチームで競う場があればよいのではないか、と思ってしまう。

 また、大阪万博には、60か国の参加予定が40か国になり、建設費だけに限っても、工事費、人件費の高騰で、当初予算1250億から2350億と2倍近くになった(2023年11月現在)。他人ごとではない。大阪府民、大阪市民ならずとも3分の一は国の税金から拠出されるのである。

「万国博覧会」という発想は、もはや、前世紀、いや19世紀の遺物ではないのかと。航空機もネットもない時代は、各国情報の集約・拡散の場であり、人的交流の場であり、開催国の国威発揚にもなり、経済効果も大きかったのかもしれない。

今回の大阪万博への国民の関心はといえば、昨年12月、大阪府と大阪市が全国6000人(大阪府民4000人、その他2000人)を対象に行った世論調査によれば、以下のような結果で、地元でさえ盛り上がってないのがわかる。

「万博を知っている」88.6%
「万博に行きたい・どちらかといえば行きたい」33.8%
(21年51.3%、22年41,2%)

 国体も、オリンピックも、万博も、国民の生活向上に役立つことは何一つない。私はどれも不要だと思っている。

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2024年4月18日 (木)

安定的な皇位継承って何?~「天皇家」の存続を願う人たち

各党の対応

 2021年12月、安定的な皇位継承の在り方について検討した有識者会議の報告書が政府に提出された。22年1月には国会に提出されている。昨年末、衆議院議長より、各党に見解を早急にまとめるよう要請した。

有識者会議の報告書に示された二案というのが、(一)女性皇族が結婚後も皇室に残る案、(二)旧皇族の男系男子を養子に迎える案であった。各党はにわかに意見書をまとめ、議長に提出し始めた。

しかし、上記の二案では、安定的な皇位継承ができるかの具体策は見えない。その二案と言っても、よそ様の家に向かって、女性は結婚後も実家に残って仕事をせよ、(直系の男子がいなければ、)血のつながった男系の親類から男子を養子に迎えなさい、と言っているに等しい。天皇家の各人に、法律でそんなことを強制できるのか。結婚の自由や人権の番外地と言って済むものなのか。

 にもかかわらず、各党が議長に提出した意見書などによると、上記二案への対応は以下の通りと理解した。

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この表を作成のさなか、「読売新聞」オンライン記事で以下の表を見つけた。ご参考までに。
「政府有識者会議報告書2案に対する主な与野党の立場」(2024年4月16日)
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 なお、自民党は、4月19日の懇談会で、両案妥当の方針が固まった。それを踏まえて、毎日新聞は、以下のような表にまとめた。シンプルで見やすいかもしれない。

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 まとめてみて、あらためて驚いた。こんなにまでして、「天皇家」をまもりたい人たちがいるということだった。長い歴代の「天皇家」の継承が、グダグダであったことは、歴史的にも明らかなのに、これから先も、旧皇族の男系男子にこだわる(二)案、さらに国民民主党や自民党のいう「直接皇族」の付与など、皇族を離脱して80年近くにもなる旧皇族の子孫をたどることになるのだろうか。この時代に、現実離れした案としか言いようがない。立憲が、(二)案について、「法の下の平等」の観点から憲法との整合性を検討すべきなどとの見解をしめすが、むしろ滑稽にも思える。「天皇家」の存在、天皇制自体と憲法との整合性が問われなければならないのに。

メディアの対応

メディアは、有識者会議の二案と各党の見解をどう報じ、論じているのかを「社説」でたどってみたい。

「日本経済新聞」は、開かれた議論の必要性を説き「皇室への国民の視線は時代とともに変化してきた。近年のいくつかの世論調査で女性天皇の容認論が多数を占めていることも、多様性を重んじる現代社会の考え方の表れだろう」とし、「皇室の伝統と安定、皇族の方々の理解をどう調和させるのか。日本社会として制度を大事に守るのなら、私たち一人一人がその将来像を真剣に考える必要がある」と結ぶ(「皇室の将来見据えた継承策を」2024年1月2日)。ここでは、「皇族たちの理解」に言及し、「日本社会として制度を大事にまもるのなら」と、国民に対して「制度」自体への問題提起をしているようにもとれる結語であった。

「読売新聞」は、「皇族数の減少は、皇室制度の存続にかかわる問題だ。令和も6年となった。政府と与野党は様々な課題を放置せず、結論を出すべき時期にきているのではないか」とし、皇族女子は、「歌会始や国民の幸せを祈る 祭祀さいし など宮中行事に参加」「海外訪問を通じた国際交流」「スポーツ団体の名誉総裁などの立場で競技の普及」などを担っている現状から「皇族女子の離脱が続けば、様々な公務の継続は難しくなる。婚姻後も皇族の身分を保持できるようにすること」は、検討に値すると、(一)案を支持する。(二)案については「長く民間人として暮らしてきた旧宮家の子孫が、唐突に皇室の一員となることに国民の理解は得られるのだろうか。本人の意向を確認する作業も必要だろう」と懸念を示している(「皇族数の減少 多様な公務を担う策考えよ」2024年3月24日)。

「毎日新聞」は「国のあり方に関わる問題である。政治の責任で速やかに結論を出すべきだ」と大上段に論じ始める。皇位継承の維持が、果たして「国のあり方」に関わる問題なのか。(二)案ついては「旧宮家が皇室を離れたのは70年以上も前にさかのぼる。その子孫の民間人が唐突に皇族となることに、国民の理解が得られるのか」と疑問視する。「両案が実現したとしても、一時的に皇族数を確保するための、その場しのぎの策にとどまる」とし、「皇位継承権を女性に広げるかどうか」の議論も避けられないとする。憲法では、天皇は日本の象徴と定められ、「その地位は「国民の総意に基づく」と明記される。与野党は、国民の幅広い支持が得られる制度改正の道筋を示さなければならない」と結ぶ(「皇族確保の政党間協議 もう先送りは許されない」2024年4月10日)。
 皇位継承が途絶えたとして、現在の国のあり方が大きく変わるとも思えない。たしかに憲法第一章を削除しなければならないが、国民の暮らしが変わるとは想像しがたい。困るとすれば誰たちなのだろう。「毎日新聞」は、毎週金曜日に「皇室スケッチ」あるいは「識者に聞く皇室」という記事を連載するが、天皇家のエピソードや秘話などの紹介であり、登場する「識者」たちも象徴天皇制を前提にしての解説の域を出ない。

「朝日新聞」は、有識者の報告書が政府に提出された直後の時点の社説で。両案とも「皇位は男系男子が継がねばならない」という考えが前提で、国民の間に一定の支持がある「女性・女系天皇」の芽を摘んでしまっていると指摘する。
「価値観の一層の多様化が見込まれるなか、報告書の考え方で皇室は安定して活動・存続できるのか」、いずれの案にせよ、「(皇族)本人意思の尊重をどう考えるか」、「与野党の立場を超えた真摯(しんし)な議論が求められる」としている(「皇位の報告書 これで理解得られるか」2022年1月13日)。(二)案は、養子になれるのは男系男子に限るとし、戦後改革で皇籍を離れた旧十一宮家の男子と明記したことについて、「門地による差別を禁じた憲法に違反する恐れ」に応えていないことも指摘しているが、ここには、両案の欠陥、批判はあるが、提案や方向性が見えない。
 「朝日新聞」の不明確な論調を補う意図があったのかどうか、3月13日のオピニオン欄に原武史へのロングインタビュー記事がある。皇位継承問題にかかわり、記者の石川智也の「では、どう皇室の存続を図ってゆけばよいのでしょう」の問いに、「どう存続させるか、ではなく、そこまでして象徴天皇制を維持する必要性があるのか、もはや存廃に踏み込んで議論すべき段階です」と答えている。また、「むしろ右派が逆説的に存廃の話をしているのに、左派リベラルは存続が前提の議論ばかりしています。平成流を過度に理想化し、上皇を戦後民主主義の擁護者かのように仰いでいるのも主に左派です」という指摘も重要である。

 上記の各党の対応でみるように、日本共産党が、天皇制(天皇制度?)を前提に女性天皇、女系天皇を認めるべきだとの見解を示していることでも明らかである。

 私も、最近、ある研究会で、多くは文学におけるジェンダー論やフェミニズムの研究をしている研究者たちから「女性天皇を認めないのはジェンダー平等に反する」とか「女性天皇や女系天皇を否定するのは偏狭ではないか」といった意見が出ていたのを聞いて、マスメディアの論調や世論調査結果などの影響が大きいのではないか、左右されているのではないか、と驚いた。天皇制自体の存廃には踏み込もうとしないマスメディアの責任の重さを思うのだった。

 

 

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2024年4月16日 (火)

“春風のようなお手振り”って何なの?

 宮内庁は昨年度から、「広報室」を新設、4月1日からは、インスタグラムをスタートさせた。皇室への関心を高めようと必死といってもよい。

 昨年から今年にかけて、天皇夫妻、秋篠宮夫妻の外国訪問はじめ、佳子さん、愛子さん、悠仁さん情報の発信が活発になり、それを右から左に流すメディアは、横並びである。

 一時は秋篠宮家の佳子さん情報が目立ったが、今は、愛子さんにシフトしているようである。今年一月以降の愛子さんに触れた記事を拾ってみたい。正月の一般参賀は、能登半島地震のため中止となった。「歌会始」は、学業優先のため欠席していたが、大学卒業以降は、急増し、一人での行動も増えた。現段階では「公務」は皆無だし、「公的行為」にもなり得ず、ほとんどが私的行為である。広報室は、これでもか、これでもかと発信し続けている。それを報じる記事は、愛子さんの服装や笑顔に触れる横並びには違いないのだが、文面には若干の違いがある。なかには、あまりにも情感たっぷりの、思い入れの著しい記事、例えば、下記にあげたような、朝日新聞系列の「AERA dot.」(朝日新聞出版)の「堂々たる品格」「春風のような初々しいお手振り」「格式高い三つ紋の本振袖と凛とした紺袴で花のような美しさ」とまでの手放しの「称賛」となると読者の方が気恥ずかしくもなる。こんな情報が拡散していくのを見過ごしてしまっていいのだろうか。

<今年の1月から4月までの愛子さんの動向>

1月1日  新年祝賀の儀に参加後、一家で上皇夫妻に挨拶、女性皇族のティアラ着用復活
1月11日 「講書始」初めて出席
1月17日  一家阪神大震災への黙祷

2月6日  一家で能登半島地震の救助活動や復旧状況の説明を聞く
2月9日  ケニア大統領夫妻との昼食会デビュー、スワヒリ語で挨拶
    「堂々たる品格」AERA dot. (太田裕子)
2月23日  天皇誕生日お手振り「春風のような初々しい」AERA dot.(永井貴子)

3月9日  一家で日赤による能登半島地震被害地の支援活動の説明を聞く
3月11日  一家で東日本大震災への黙祷
3月20日  学習院大学卒業式
          「格式高い三つ紋の本振袖と凛とした紺袴で花のような美しさ」
    「春風のようなほほ笑み」AERA dot。(永井貴子)
3月26日・27日 単独で伊勢神宮、神武天皇陵参拝(大学卒業報告)
    「本物の笑顔」AERA dot.(太田裕子)

4月1日  日赤入社(嘱託職員、青少年・ボランテイア課)
4月10日  明治神宮初参拝(昭憲皇太后没後110年祭)
    「オフホワイトのロングドレスに帽子姿で」FNNニュース
    「まばゆく映えるロングドレス姿」AANnews
4月11日 大学卒業・就職報告のため上皇夫妻を訪問
4月14日 単独で雅楽鑑賞
    「めがね取り出し熱心に鑑賞」 朝日新聞デジタル(中田絢子)   

 

<関連過去記事>
女性皇族は皇室の広告塔?生き残りをはかる天皇制!20231218日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/12/post-cfe584.html

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はや、庭のツジが咲き出した

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蕾のまま終わるかと思いきや、今年は一気に咲き出した、気まぐれツバキ

 

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2024年4月14日 (日)

天皇の被災地訪問って?

   4月12日、天皇夫妻は、能登地震被災地へ、二度目の訪問である。今回は穴水町と能登町であったが、被災地や被災者にとって、皇族たちの訪問に、いったいどんな意味があるのか。いつも考えてしまう。

  避難所で、天皇夫妻がひざを折って、被災者の何人かに声をかけている様子、その被災者たちの「うれしかった」「やさしかった」などの感想が伝えられた。犠牲者追悼の拝礼をし、避難所関係者・消防団員らを労ったという。二人のためにチャーター機を用意し、能登空港からは、マイクロバスや自衛隊のヘリコプターを乗り継いでの移動であり、能登町には臨時のヘリポートが作られた。それでなくとも、遅れがちな復旧や復興にブレーキがかからなかったのだろうか。ただでさえ、人手不足の折、警備や準備のための行政への負担を思うとなおさらである。皇族たち自身、宮内庁や石川県庁にそうした想像力はないのだろうか。

 天皇夫妻はじめ皇族たちが、被災地や被災者を心配し、早く立ち直って欲しいと願う気持ちは、理解できる。だからと言って、あたかも“災害出動”であるかのようなこのような訪問をあらためて考え直す時期に来ているのではないか。

 メデイアも、このような被災地・被災者見舞いの訪問報道は、いわばワンパターン化し、代表撮影の動画や画像のなかで、天皇夫妻は、おそらく、あらかじめ“選ばれた”被災者に、「腰をかがめて」「膝をついて」「目線を合わせて」声をかける。そして被災者たちに応答の一部を語らせ、感激ぶりが報道されるのである。

 こんなことが、皇室とメディアの間で繰り返されるが、現実の復旧や復興が早められるわけでもない。多くの国民はどう見ているのだろうか。岸田首相が、支持率最低記録から逃げるようにして訪米しているさなか、あえてこの時期に実施されたことをも記憶にとどめておきたい。

 <宮の杜公園のサクラ>

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スーパーの買い物前に、ときどき足を延ばしてのウォーキングコースの公園、なんとサクラは満開、ときは夕ぐれ。広場でキャッチボールをしている子供たちの声がするくらいで、出会う人もいない。もともと調整池だった公園の直ぐ際には、200戸ほどの中高層のマンションが建っている。地元の不動産会社によって区画整理組合方式の開発がなされたところだ。工区に置かれていた廃棄物の処理、盛り土の安全性、隣接の住宅への日照権、工事車両の交通安全、工事中の騒音・振動対策などについて、自治会内の対策協議会は、不動産会社、工事会社と連日連夜?、ときには、市役所の都市計画課や市長を巻き込んで交渉したことなどを思い出す。あの頃は、住民も若かったし、サクラもまだ若かった。

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2024年4月11日 (木)

初めての百花園、初めての隅田川堤の桜へ

 九段下から半蔵門線の久喜行きに乗り、百花園へと東武曳舟で下車したところ、駅員に「東向島」駅の方が近いけれどと言われ、地図を見れば、水戸街道に出てから明治通りまで進み、しばらく歩くらしい。二人ともすでに足が重い。タクシーで行くことにした。助手席にも人がいるので一瞬驚いたが、ただいま実習中とのこと、指導員の方が若く、ナビで色々指示している。運転手不足からか、ときどきこんな光景に出会う。百花園は高齢者は入園料70円とのこと。園内は閑散としていて、江戸から明治初期の俳人や文人たちの句碑や歌碑が多い。ほとんどなじみのない人だけに素通りしてしまうのだが、草花をよく知る人にとっては楽しいかもしれない。ウメなどの種類も多いらしいが、今は、ボケの花の見ごろで、真紅や薄紅の花をつけた枝をひろげていた。ベンチで一息ついて、今度は隅田川まで歩くことにした。

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「焼きどら焼き」は本日売り切れのお知らせが張ってあったが、草もちに並んでいるのかな。

 墨堤通りに出たものの、隅田川に通じる道がなかなか見つからない。犬の散歩の人に尋ねれば、高速をくぐってすぐという。工事中の銅像公園を経てようやく堤防が見えてきた。もうかなりの人通りで、桜の花のもとでお弁当広げている家族やシートを広げて場所とりをしている人、焼きそばのパックを大事そうに持つ外国の人。人の流れが滞っていると思えば、屋台が出ているところで、行列ができていた。私たちも、誘われ、おだんごと太巻きを求め並んだ。見おろせば、川面にユリカモメが舞い、手すりにはきれいに並んで羽を休めている。すぐそこにも、対岸にも。

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屋台に並ぶ人たち。

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遊覧船が行き交い、ユリカモメもその舟を追うように。夫のスマホより拝借。

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 浅草線浅草駅に向かう。スカイツリーのてっぺんは霞んでいた。

 だんだんと足も重くなり、桜橋をへて、言問橋を目指して歩く。もうすぐ浅草駅、始発なのに、すごい混雑、昔の通勤ラッシュを思い出す。日本橋で東西線に乗り換え、座れてほっとするのだった。前日が14000歩、この日も14300歩。明日が心配、どうなっていることか。

 

 

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初めての千鳥が淵戦没者墓苑、お花見も

 翌日6日は、土曜で、好天の予報だったので、混むことは覚悟していた。麹町のホテルから内堀通りに出ると、半蔵門前辺りは、列をなして歩いている。そこを、ランナーたちがつぎつぎ走ってくるものだから身を除けながら進む。英国大使館を背に千鳥ヶ淵公園に入る。かつて、昼休みの皇居ランナーの一人でもあったときはその手前の土手の方にのぼり、休んだり、ストレッチをしたりして竹橋方面に向かっていて、緑道の方には行ったことがなかった。「戦没者墓苑」には、ぜひと思っていたので、参道に入ると、ここへくる人はわずかで、献花する人もちらほら。ボート乗り場には、長い、長い行列、たしかに、ボートからのお花見は格別にちがいない。若いカップルにとってはこの立ちんぼも楽しいのかもしれない。

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サクラと菜の花のコラボレーション、菜の花の先に揺れる白い花はなんだろう。

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国会議事堂を望む

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千鳥ヶ淵戦没者墓苑への道

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この赤い生け垣がしばらく続き、いったい何の施設かと門柱の表札を見ると「三番町共用会議所」とある。後で調べたところ、省庁共用の会議所だそうで、山縣有朋の別邸跡で、立派な庭園もあるらしい。年に数回の公開日があるそうだが、官僚たちはどんな時に利用しているのか。こんな一等地に。都内にもう一つ渋沢栄一の邸宅跡の「三田共用会議所」なるものもあるらしいのだが。

 やがて、靖国通りに出ると、混雑さは増して。九段下への坂の混雑は半端なく、武道館へ向かう人たちの列ができていた。「東洋大学入学式会場」の横断幕が見えた。警備の人たちは声を張り上げて、地下鉄利用の方は4番出口へと誘導している。

 

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2024年4月10日 (水)

数年ぶりの小平霊園、そして、千鳥ヶ淵へ

 何と親不孝な、と言われても仕方ないのだが、コロナ禍を挟んで数年ぶりのお墓参りだった。世話になっている石屋さんに寄るのも億劫で、花・線香と2リットルの空きペットボトルを持参した。東京の二人の姪たちが、ときどき訪ねてくれているので、安心は安心なのだが、いずれ、霊園内の合同墓地に移したいと話している。

 管理事務所に寄って、あたらしい案内図を見ると、著名人の墓地が一覧となっている。夫の希望で、22区の織井茂子(1926~1996)と10区の壷井繁治(1887~1975)・栄(1899~1967)の墓所にも寄ることになった。整然と区画された墓地ながら、たどり着くのは結構むずかしい。多めに持参した花だったが、3か所となると、だいぶ心細くなってしまった。メインストリートにある大山郁夫(1880~1955)のお墓も、お花なしでお参りした。小平駅前の食堂で遅い昼食後、西武新宿線で高田馬場に戻り東西線の飯田橋で乗り換え、半蔵門線で麹町下車、ホテルにたどり着く。この辺りはかつての職場のランチ圏内だったのに、初めての見知らぬ街を歩くようで、もうぐったりで、すでに1万歩を超えていた。

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 ホテルの夕食の予約が取れず、濠端のホテル(昔の半蔵門会館?)での夕食となった。歩き出したものの、FM通りがなんと長かったこと。半蔵門駅を通り過ぎたので、一駅分くらいは歩いたのだろう。久しぶりのコース料理、美味しくいただき、帰り道では、石井成城や何軒かのコンビニが目につき、緑茶のパックやデコポンなどを買ったのだった。15階の展望風呂は遠慮して、内風呂でゆっくりし、いつもより入念?なストレッチをして休んだ。

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2024年4月 9日 (火)

小石川、文学散歩に参加した~サクラには少し早かったが(3) かつての林町、今は高級マンションが

 小石川植物園の南側道に突き当たり、塀に沿って左に折れると、今どきにしては立派な火の見やぐら見えてきた。この側道は700m、総面積約16万㎡の植物園は、17世紀徳川幕府の御薬園として設けられ、明治に入って現在の東京大学付属の施設となっている。塀越しに、さまざまな高木を見上げていると、塀が途切れる辺り、木の間から見えてきた古い建物は、旧東京医学校の校舎ということだった。 

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小石川消防署

 小さなロータリーになっている正面には「簸川(氷川)神社」、ここのサクラはかなり咲き始めていた。まっすぐ進めば氷川下、学生の頃、近隣の大学生や医師などによる「氷川下セツルメント」活動がなされていたところで、友人にも誘われたものの、参加せずじまいながら「セツルメント」(地域に根差した料理講習会・子ども会・勉強会・わかもの会、法律相談、医療保健検診などのボランティア活動)には懐かしい響きがある。その角を北に曲がると植物園の短辺250mが「網干(あぼし)坂」で、川魚漁の網を干していた時代を偲びながら、坂をのぼり切った丁字路の右には文京区立十中、この近くに、『新日本歌人』の印刷所「新興印刷」(林町43)があったともいう。

 この高台一帯は、いわゆるお屋敷まちであって明治の貴族たちや実業家たちの邸宅が多い。プロレタリア演劇の推進者土方与志(1898~1959)は、明治の元勲土方久元伯爵を祖父に、久明を父として生まれ、その邸宅(旧林町64、1904㎡)は、妻梅子とともに演劇運動の拠点となっていたが、後に、訪問先のソ連での発言がもとで、爵位をはく奪される。

 また、旧林町64は、後に労働農民党の代議士となって、1929年3月暗殺される山本宣治(1889~1929) が1917年東京帝国大学に入学して、妻子とともに暮らしていた地でもある。現在、旧林町64には、25の戸建て住宅が建てられているという。現在、この辺りは、NTTや東京海上の社宅やマンションも多い。

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土方久元が日本で初めて建てた西洋館を、明治天皇が訪問したという記念碑が旧邸内の一画に建てられている。『新日本歌人』の大津留さん撮影。

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この辺り一帯で、めずらしく残っている戦前の建築物、「諸聖徒教会」

 不忍通りを下に見て、「猫又坂」を下り、千川にかかっていた猫又橋跡を左に見て千川通りを大塚駅方面に向かった。もうこの辺でと、バスに乗ってという方が3人ほどか。私の脚もかなり重くなってきたのだが、コースにある「巣鴨教会」まではと頑張ることにした。解散時間の16時をだいぶオーバー、二次会を失礼して、帰途に就いた。

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千川通りに面して建てられた碑、ここを曲がったところに巣鴨教会は、現在もある。

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巣鴨教会は、日本基督教会において、内村鑑三、植村正久と並んで「三村」と呼ばれた田村直臣が建てた教会で、「自営館」を併設、苦学生を支援した。その中に、山田耕筰や石原純がいたことで知られている。その縁で、山田作曲の北原白秋の「からたちの花」の詩碑が建てられている。

千川通り」の千川は、豊島区の千川に水源があったことから名付けられ、暗渠になっている。今の文京区辺りを流れる千川は、かつて「小石川」と呼ばれ、谷端(やばた)川とも言われていたらしい。池袋の立教大学から山手通りに向かう途中、水源近くになると「谷端川親水公園」に出会う。川の名前はややこしい。

 

 

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2024年4月 7日 (日)

小石川、文学散歩に参加した~サクラには少し早かったが(2)「太陽のない街」から「植物園」へ~「新福寺」に寄り道

 共同印刷社屋の前では、今では想像できない、谷底の街「太陽のない街」に思いを馳せる。

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共同印刷のビル、2019年のときには、工事中で、全面シートで覆われていた。

  きょうは入園の予定はないのだが、小石川植物園へと向かう途中に、「新福寺」という立派なお寺があった。コースの中には記載がなかったのだが、数人で、境内に入ってみると立派な鐘楼があった。下の文京区教育委員会の説明板によれば、「時の鐘」を打って、周辺住民から料金を徴収していたという「鐘」だったのである。時刻を知るのにタダでは済まなかった時代もあったのである。

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新福寺正門、左手には立派な鐘楼がある。近年は除夜の鐘さえ、近隣からはうるさいとの苦情がくるというが、かつては、時を知る大事な鐘であり、タダではなかったのである。この写真は、ツツジの季節か、ネットから拝借した。

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 さらに、寺の掲示板の「今月のことば」風な大きな文字の「反抗」に目がとまり、よくよく見ると九条武子(1887ー1928)の短歌と記されていた。そういえば、彼女は、西本願寺大谷家の出で、男爵九条良致と結婚している。女子教育、社会福祉活動にも熱心な、佐佐木信綱「心の花」の歌人であった。

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「いだかれてありともしらずおろかにもわれ反抗す大いなるみ手に」(九条武子)反抗を自覚し、自らの愚かさをも自覚して佛の偉大さを知るという浄土真宗の教え詠んだものらしい?

 これは後から知ったのだが、1883年、夏目漱石が16歳のとき、後の一高受験準備の英語を学ぶため、学舎に近いこの寺に、友人たちと下宿していというのである。

 

 

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小石川、文学散歩に参加した~サクラには少し早かったが(1)

 3月にしては、記録的な暑さだったという3月31日、初めてながら『新日本歌人』の文学散歩に参加した。メトロ茗荷谷駅集合、小石川植物園近辺を経て、JR大塚駅解散、約二時間なら、私にも参加できそうであった。それに、茗荷谷は、高校・大学併せて7年間乗り降りした駅でもあった。が、意外と近辺を知らなかったことは、2019年3月30日の社会文学会の文学散歩の折にも痛感したのだ。あの時は、後楽園駅集合、茗荷谷駅解散だったが、今回のコースは、少し違っていた。いずれにしても坂の地域、脚の方は大丈夫だろうか、やや不安もあったのだが。

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今日の案内人は、永島民雄さん、茗荷谷駅にて

 総勢23人、最初の坂は、かつて、名前も知らなかった「湯立(ゆだて)坂」であった。いまは暗渠になっている谷端川が渡るのに難所であったための「湯立神事」に由来するそうだ。下り初めてすぐ右側に、山林で財を成した磯野敬の旧邸があるが、正門の前を通る。地震と火災に強い建築ということで、壁を増やし、銅張にしたことから、「銅(あかがね)御殿」と呼ばれるようになったという。そして左側には「占春園」の入り口がある。徳川光圀の弟頼元家の庭園だったそうだ。かつての東京教育大学跡の「教育の森公園」と隣接する小さな公園だが、池と鬱蒼とした樹木、加納治五郎の銅像は相変わらずであった。巨樹となったイチョウはすぐわかったが、カツラ、シロマツ、足元にはさまざまな草や花が、名前を知っていたら楽しかろうに・・・。遊歩道はだいぶ整備されていた。

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湯立坂、右手に見えるのが旧磯野敬邸正門。「新日本歌人」の赤い旗ののもと、少し恥ずかしい気もしたが。

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誰でも入れる公園だが、筑波大付属小の自然観察の場でもあるという

 つぎに寄ったのが、啄木終焉の地、今は、文京区の施設の一階に小さな展示室とその傍らには歌碑が建っている。ここで一同、集合写真を撮り、播磨坂へ向かう。「さくら祭り」とはいうものの、サクラはまだつぼみで、いささか寂しいが、休日なので家族連れで結構にぎわっていた。

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唯一花をつけていたサクラ

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想定外の暑さに、子どもたちは、水遊びに余念がない

 

<関連過去記事>

文京・春日・小石川=坂と文学をめぐって(1)(2)
2029
43日/8日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/04/post-c58a.html

https://app.cocolog-nifty.com/cms/blogs/190233/entries/90880771

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