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2024年4月 9日 (火)

小石川、文学散歩に参加した~サクラには少し早かったが(3) かつての林町、今は高級マンションが

 小石川植物園の南側道に突き当たり、塀に沿って左に折れると、今どきにしては立派な火の見やぐら見えてきた。この側道は700m、総面積約16万㎡の植物園は、17世紀徳川幕府の御薬園として設けられ、明治に入って現在の東京大学付属の施設となっている。塀越しに、さまざまな高木を見上げていると、塀が途切れる辺り、木の間から見えてきた古い建物は、旧東京医学校の校舎ということだった。 

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小石川消防署

 小さなロータリーになっている正面には「簸川(氷川)神社」、ここのサクラはかなり咲き始めていた。まっすぐ進めば氷川下、学生の頃、近隣の大学生や医師などによる「氷川下セツルメント」活動がなされていたところで、友人にも誘われたものの、参加せずじまいながら「セツルメント」(地域に根差した料理講習会・子ども会・勉強会・わかもの会、法律相談、医療保健検診などのボランティア活動)には懐かしい響きがある。その角を北に曲がると植物園の短辺250mが「網干(あぼし)坂」で、川魚漁の網を干していた時代を偲びながら、坂をのぼり切った丁字路の右には文京区立十中、この近くに、『新日本歌人』の印刷所「新興印刷」(林町43)があったともいう。

 この高台一帯は、いわゆるお屋敷まちであって明治の貴族たちや実業家たちの邸宅が多い。プロレタリア演劇の推進者土方与志(1898~1959)は、明治の元勲土方久元伯爵を祖父に、久明を父として生まれ、その邸宅(旧林町64、1904㎡)は、妻梅子とともに演劇運動の拠点となっていたが、後に、訪問先のソ連での発言がもとで、爵位をはく奪される。

 また、旧林町64は、後に労働農民党の代議士となって、1929年3月暗殺される山本宣治(1889~1929) が1917年東京帝国大学に入学して、妻子とともに暮らしていた地でもある。現在、旧林町64には、25の戸建て住宅が建てられているという。現在、この辺りは、NTTや東京海上の社宅やマンションも多い。

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土方久元が日本で初めて建てた西洋館を、明治天皇が訪問したという記念碑が旧邸内の一画に建てられている。『新日本歌人』の大津留さん撮影。

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この辺り一帯で、めずらしく残っている戦前の建築物、「諸聖徒教会」

 不忍通りを下に見て、「猫又坂」を下り、千川にかかっていた猫又橋跡を左に見て千川通りを大塚駅方面に向かった。もうこの辺でと、バスに乗ってという方が3人ほどか。私の脚もかなり重くなってきたのだが、コースにある「巣鴨教会」まではと頑張ることにした。解散時間の16時をだいぶオーバー、二次会を失礼して、帰途に就いた。

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千川通りに面して建てられた碑、ここを曲がったところに巣鴨教会は、現在もある。

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巣鴨教会は、日本基督教会において、内村鑑三、植村正久と並んで「三村」と呼ばれた田村直臣が建てた教会で、「自営館」を併設、苦学生を支援した。その中に、山田耕筰や石原純がいたことで知られている。その縁で、山田作曲の北原白秋の「からたちの花」の詩碑が建てられている。

千川通り」の千川は、豊島区の千川に水源があったことから名付けられ、暗渠になっている。今の文京区辺りを流れる千川は、かつて「小石川」と呼ばれ、谷端(やばた)川とも言われていたらしい。池袋の立教大学から山手通りに向かう途中、水源近くになると「谷端川親水公園」に出会う。川の名前はややこしい。

 

 

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