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2024年5月19日 (日)

GWG(ミーヌス)8号、先程発売開始しました。。

 今日、5月19日東京流通センターで、文学フリマ開催中です。

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 昨年の11月、GWGミーヌス同人の方々との座談会に参加しましたが、下記のような表題でGWGミーヌス8号に収録、刊行されました。同時に、本日19日の「文学フリマ東京38」ブースH-22で発売中です。

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 座談会の紹介は、つぎのようになっています。かなり過激な?表題や見出しになっていますが、私の発言は、私の素が露わになることもしばしば。若い日本文学研究者に囲まれての気ままな発言を根気よく聞いてくださり、まとめてくださいました。古い合同歌集や歌集『冬の手紙』(1971年)にまでさかのぼり読んでいてくださり、身の引き締まる思いがしました。

 座談会:「臣下」の文学――「勲章」としての短歌】短歌によって天皇/制を「撃つ」ことは可能か。内野光子氏を迎え、短歌と天皇/制、「60/70年安保」と革命、結社と資本主義、第二芸術論・前衛短歌と「私性」、阿部静枝の「フィクション」、齋藤史・瀏と2・26事件をめぐり、大いに議論を展開した。

 8号の諸論文も力作で、広くて深い分析と考察には、いまさら私には手が届きそうにもないのですが、教えていただくことも多く、楽しんで読み進めています。一つでも関心のあるテーマがありましたら、お手に取ってみてください。

 

 

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皇族たちの”公務”って~愛子さん、佳子さんの”働き”を通じて

愛子さんの「夢“みる光源氏」見学が「公務」ですか

 愛子さんの日赤就職のニュースとともに、4月1日からの勤務と成人皇族としての活動の両立をはかるとの報道がなされた。さらに、5月11日には「 初めての単独公務で平安文学に関する特別展」に出かけたことが報じられていた。

「平安文学に関する特別展」とは、東京の国立公文書館で3月から開催中の「夢みる光源氏‐公文書館で平安文学ナナメ読み!‐」で、5月12日が最終日だったのである。この特別展は、今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」と連動しての企画であったのだろう。

なぜこれが「公務」なのか?違和感があったので、宮内庁のホームページで4月以降の愛子さんの単独での活動を調べてみた。

4月10日 明治神宮参拝(昭憲皇太后110年祭)
4月11日 仙洞御所(上皇・上皇后)訪問(大学卒業・就職の挨拶)
4月14日 雅楽鑑賞
4月25日 武蔵野陵・東陵参拝(昭和天皇・皇后陵)(大学卒業・就職の報告)
5月11日 国立公文書館訪問(特別展「夢みる光源氏‐公文書館で平安文学ナナメ読み!」見学)

 こうしてみると、5月11日前の4つの事案は当然のことながら、公務とはいえず、私的行為である。祖父母への大学卒業・就職の挨拶、昭和天皇墓前への報告はもちろん、神社参拝という宗教的な行為は、公的行為ではあり得ない。とすると、雅楽鑑賞が私的行為という位置づけになるが、上記特別展見学とは何が異なり、「公務」になったのかが不明である。一つ思い当たることと言えば、「主催者の願い出」により訪問したという報道であったが、「願い出」に応じると公務?というのもおかしな論理である。

天皇の「国事行為」については憲法上の定めがあるが、「国事行為」以外の天皇はじめ他の皇族たちについての行為や活動についての法令上の規定はない。宮内庁のホームページには、天皇の「宮中でのご公務など」として、以下のように例示し、あわせて、「行幸啓(国内のお出まし)」と「国際親善」が挙げられている。

新年祝賀・一般参賀/天皇誕生日祝賀・一般参賀/親任式/認証官任命式/勲章親授式/信任状捧呈式/ご会見・ご引見など/拝謁・お茶・ご会釈など/午餐・晩餐園遊会/宮中祭祀

 これらの行為は、法令に基づかない行為ながら、天皇以外の皇族をも含めて、純然たる私的行為と区別して、慣例として行われてきたにすぎない。いわゆる「公的行為」として、実施されてきた行為・活動であった。

 とくに、平成期における天皇・皇后は、災害被災者・被災地訪問、戦地慰霊の旅、福祉施設などの訪問、全国的な行事―植樹祭・国民体育大会・豊かな海づくり大会・国民文化祭・歌会始への参加、全国的な各種団体の美術展・コンサート鑑賞などの文化的な行為に積極的に取り組んできたことは確かである。「国民とふれあい、国民に寄り添う」と喧伝されて、結果的にどんどん拡大してきた「公的行為」であったとも言える。それに重なる宮中祭祀の負担も大きく、背負いきれなくなって、平成の天皇は生前退位に至ったと言えよう。

 令和期は、コロナ禍に見舞われ、活動全体が縮小したが、天皇皇后は、平成期の在り様を目指しながら、戸惑っているようにも見える。そうした中で、宮内庁サイドの広報強化策によって、愛子さんの「公務」は、どのように演出されていくのだろうか。

 佳子さんのギリシャ訪問が「公務」ですか

  佳子さんについても、宮内庁のホームページで、4月以降の単独での活動を調べてみると、4月1日全国高等学校女子硬式野球選抜大会観戦、4月12日林野庁長官の説明(森と花の祭典参加準備)、5月10日伝統工芸染色展・陶芸展見学以外は、5月25日から6月1日の日程でのギリシャ訪問関連の事案で、ギリシャ事情に詳しい専門家の進講4回受けている。他に、このギリシャ訪問を昭和天皇陵に報告し、5月16日には、ギリシャ代理大使による昼食会に招かれている。ギリシャと日本との外交関係樹立から125年を迎えるにあたり、招待されたものであるという。

 今回、進講が重ねられているには、訳があるらしい。昨年11月のペルー訪問の際、その先々での発言というか、随行記者に問われての感想がお座なりだったり、案内人への質問が的外れだったりして、ネット上での批判が多かったということである。私が知らなかったことなど以下の記事に詳しい。

「佳子さま ギリシャご訪問に“観光旅行”と批判再燃の懸念…前回ペルーでは「語彙力がない」と批判噴出」(『女性自身』2024年05月15日 )
https://jisin.jp/koushitsu/2324605/

  そこで今回のギリシャ訪問に際しては入念な事前準備がなされたのではないか。「公式訪問」と銘打たれた国際親善も、いわゆる「公的行為」、「公務」とみなされているのが現状である。

そもそも皇族の「公務」は必要だったのか

 天皇の国事行為と純然たる私的行為の間の広く曖昧な部分を公的行為として「公務」とみなし続けてきた慣例、その公務を拡大してきた経緯を見直すことなく、公務を担う皇族が減ってしまったから、何とかその担い手を確保したくて、出てきたのが有識者会議での一案、女性皇族が結婚しても皇族に残るとする案であった。共産党、れいわが反対をしている。他の党は大筋で認めているが、その細部については不透明で、今国会で協議が始まったものの、どこに着地するかは分からないのが現況である。
 「公務」の担い手を増やすより、とりあえず「公務」を縮小することをなぜ考えないのだろう。公務が減っても、国民生活に何の支障もきたさない。困るのは、宮内庁なのではないか。皇族たちが「国民とふれあい、国民に寄り添う」機会が減少して、メディアへの登場も減り、皇室自体への関心が薄れることを一番おそれているはずである。同時に、これまで、天皇はじめ皇族たちの「公務」によって、さまざまな恩恵を受けてきた政権にとっても、その縮小は不都合なのではないか。戦死者慰霊や被災地訪問、施設訪問などに見るように、政権の不始末や失政を補完したり、国民の目を反らさせたりしてきたからである。

 そんなことを考えているときに、若い弁護士の堀新さんつぎのような文献を見つけて意を強くした次第なのだ。

「すべての公務を廃止しても問題はない」皇族に残る佳子さまのために考えるべきこと「皇室の存在意義」はどこにあるのか
PRESIDENT Online 2021年11月2日
https://president.jp/articles/-/51456?page=1

そして行き着くのは、皇室自体、天皇制自体の存在意義なのである。

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2階のベランダに洗濯物を干しに出たら、ヤマボウシが一気に白い十字の苞を開き、花のようであった。

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2024年5月12日 (日)

 断捨離の手が止まる(4)1951年、小学校最後の夏休みは(後)

念願の一色海岸
 父の友人が薬局を開いている葉山へ、とうとう出かける日がやってきた。父母と前日に泊りに来ていた従姉のMさんも飛び入りで、4人となった。逗子駅からバスで15分で一色海岸に着いたのだが、母は車酔いで、顔も真っ青で、全身の汗にびっくりもした。

「波がざぶんーとくると白いしぶきを上げて遠くの方では白ほが三つ四つ、左の方には大きな岩がたくさんあってなんともいえない水の青さまるで絵のような、お母さんもたちまち元気になってしまった。」(8月9日)

 それまで、遠足で潮干狩りに行ったことはあっても、波がしらを目の前にして、いささか興奮した様子が綴られている。私より8歳上のⅯさんも海を目の当たりにして、森戸まで、水着を買いに行ったほどだった。Ⅿさんは、とってもおしゃれが上手で『ひまわり』の表紙から抜け出たようなお姉さんだったが、真っ赤な水着には一同驚いたことも思い出される。父の友人宅では、お風呂もいただき、夕飯もごちそうになって、夜十時に帰宅し、長い一日のようだった。

お盆にミシンを習う
 母の生家があり、親戚も多く、疎開先でもあった千葉県佐原へ、お盆に出かけるのは、我が家の夏のイベントであった。

「三時におきてしまった。でもそんなに早いわけではありません。だって千葉発六時四七分の汽車で行きます。家を出ようというとき停電になった。外は外とうもつかないしまっくらです。けれど新聞屋さんだけはローソクの火がみえました。千葉へついた時は明かった。」(8月14日)

 誤字や送り仮名が怪しかったりするが、はやる気持ちは伝わってきそうだ。千葉から成田回りの汽車で、佐原駅着が八時二〇分と書かれている。家を何時に出たかは不明だが、当時は秋葉原乗り換えで両国から千葉へ向かったと思われる。いずれにしても池袋はそうとう早く出たのではないか。出がけに停電に見舞われたというが、この頃もまだしょっちゅう停電があったのだろうか。新聞屋さんというのは、空き地を挟んだ隣が新聞配達所で、いつも夜更けから、人の出入りも、人声も絶えず、騒々しかった。まだ、その頃は「○○新聞専売所」ではなく、たしか、新聞各紙を配達していたのではなかったか。何人かの男性配達員が住み込んでいたと思う。
 佐原の母の生家には、疎開中、何か月間かお世話になっていた。周辺にはない屋根付きの立派な門をくぐるとき、なんだかいつもドキドキしたものだった。広い土間のかまど、母屋から離れたお風呂場、廊下に外階段が付いている客間などどれもなつかしかったにちがいない。一晩、お世話になって、翌日は、母の妹、叔母の家にまわっている。同い年のいとこもいて、五人きょうだいの賑やかな家だったが、小学校の先生をしていた叔父に、ミシンは習ったかと聞かれた。

「私は見ることはあっても実際にやったことがありません。おばさんにぼろきれをかしていただいておじさんにおさわりながらやってみたがなかむづかしいです。私もいっしょうけんめいですからあせびっしょりになってしまいました。」(8月15日)

 やっとのことで雑巾一枚を仕上げてうれしかったらしい。こんな風にして回りの大人たちの気づかいによって、あたらしい体験をさせてもらっていたのだと、いまつくづくと思う。三日目は、「ていしゃば」と呼ばれていた祖父の再婚先、駅前食堂の二階の大広間に寝かせてもらった。ただ、この家に泊まると、夜中に汽車が通って大きく揺れて、目を覚ましてしまうのだった。
 その日には、一番列車で池袋に帰るということで、かなり早起きしたらしい。目を覚ましたところ、食堂の人たちはもう働いていて、なにやら大騒ぎをしていた。

夕べはすごかったそうです。かすみが浦のそばに共産党の人がいっぱいいて、なにかやっていて、佐原のけいさつのまえにはおまわりさんが自動車にのっていて十台くらいいたそうです。そんな騒ぎを一つもしらづ私はぐーぐーねていました。」(8月17日)

 共産党らしい人たちが、集会でも開いていていたのだろうか。夕べといっても何時ごろのことなのか、霞ケ浦のどこだったのか、会場は?野外だったのか?知る術もない。当時はアメリカとの講和条約をめぐって、その条約草案がアメリカから示されたのが8月16日だったことと関係があるのか。社会党と共産党が全面講和を主張していて、それに同調する識者も多かったらしい。9月8日には吉田茂首相が講和条約と日米安保条約に調印。前年6月には朝鮮戦争が始まり、マッカーサーの共産党への強硬策が露わになり幹部を追放、復刊まもない「アカハタ」の発行停止を受けている。51年2月には、共産党の武装闘争指針が出され、メーデーの皇居前広場開催が禁止された上、企業におけるレッド・パージも盛んになされていた、という。都市部だけでなく、郡部にも緊迫した空気が流れていたのだと思う。

BHCが毒だったなんて

 うだるような暑さが続く夏だったらしく、父親の「夕べはのみかかに食われたのか一ばん中ねなかった」の一言で、畳みを上げる大掃除が始まった。6畳間と長兄の寝室になる4畳半の畳を全部上げたのだが、途中で、どこの畳か分からなくなるからと次兄が地図を書き、畳の裏に印をつけていた。

「ほこりになるからといって頭には手ぬぐいをかぶり手ぬぐいでマスクのかわりにしたちょっとどろぼうみたいでした。畳は上げたあとBHCをまきその上へ新聞紙をひきその上からまたBHCをかけた。とうとうBHCの袋を一袋つかってしまった。でも完全だと思います」(8月18日)

 まるで、一人で奮闘したような書きぶりだが、よほど達成感があったのではないか。その頃、DDTよりBHCの方が強力だということで、店でも、よく売れていた殺虫剤であった。
 ところが、1960年代になると、BHCの毒性と体内への残留性が問題となり、農薬にも使われていたので、汚染された牛乳などが全国で問題になり、1969年使用禁止となったのである。ああ、なんということをしていたのだろう。ツベルクリンも然り。コロナの予防接種は大丈夫だったのか。予防接種を7回も受けた身には、その副反応や弊害が取りざたされているのを聞くたびに不安が残る。

自由主義ってなんだ

「夕ごはんがおわった後、○ちゃん(次兄)とお兄さんが自由主義とはどういうものかまたいいところとわるいところといったようなことを大きな声をだしてしゃべっていました。私はべんきょうやっていました。うるさいので身がはいりませんでした。その話をきいているとむづかしいようでしたが、二人の話をきいている内にすこしわかるようになってきた。その二人のはなしは映画の話にかわってしまった。あのはいゆうはどだとかこうだとかしゃべっている。私はべんきょうがおくれてしまうので「うるさい」とおこってしまった。」(8月30日)

 夏休みも終わろうという夜、やり残した宿題でもあったのだろうか。二人の兄の話を聞くともなく聞いていて、「少しわかるようになってきた」とは? 当時の娯楽の最先端であった映画、兄たちも大好きだったし、父も店を抜け出して見に行くほどで、私も後に映画好きになるのだった。次兄は、大学を出て、松竹の助監督試験を受けて、面接までいった?らしい。受験生の一人に吉田喜重がいたとも。結局、次兄は中学校の教員になり、学校演劇に熱を入れていた。

 遠い昔の一夏のあまりにも個人的な思い出にふけってしまった。これは自ら仕掛けた回想法だったかもしれない。

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上:『年表昭和・平成史』(新版)(岩波ブックレット 2019年8月)より
下:『年表昭和史』(岩波ブックレット 1989年3月)、一番使い古した年表、1995年1月、13刷です

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2024年5月 9日 (木)

 断捨離の手が止まる(3)1951年、小学校最後の夏休みは(前)

 1951年7月21日から8月31日、小学校6年の夏休みの日記が出てきた。当時としては精一杯おしゃれなA5のノートではなかったか。鉛筆はHBだったろうから、うすくて読みにくい個所もあり、担任の乙黒久先生は、誤字脱字を訂正してくださっていた。また、最後には、「熱心に正確によく書けています。これから一生、なるべく日記を書き続けましょう。」と、なんとも作文が嫌いな私を励ましてくださっている。

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  作文がどうしても苦手だった私も、宿題とあって、一所懸命書いたふしがある。一日2行のこともあるが1頁のこともある。主に家庭内のことで、父、母と二人の兄たちがよく登場する。家は、池袋の平和通りで、父母と長兄三人で薬屋を営んでいた。トタン屋根の「バラック」で、定休日もなく、働いていた。次兄は、私と7つちがいの高校3年生であったか、私大のエスカレーターで、きびしい受験の体験はなかったようだ。私も、まだ、中学受験など考えていなかったので、のんきに過ごしている。
  私は何の気なしに書いている風なのだが、家族内の微妙な人間関係や復興途上の池袋という街の雰囲気、講和条約調印直前のかなり騒然とした時代を思わせる出来事もあって、いま思うと興味深い。

ツベルクリン

 父の薬専時代の友人が葉山の一色で開業していて、遊びに来ないかのお誘いがあったらしく、家族みんなで「今年こそ」と楽しみにしていた。ところが、私はツベルクリン反応が陽性になってしまっていた。次兄からは心配とも脅かしともとれる?発言があったらしい。

「『光子、ようせいになったんだからあぶないよ、海水浴は日にあてられて、つかれるから一ばんいけないよ』としんぱいしてくれたが、私はいきたい。」(7月25日)

 調べてみると、学校での一斉のツベルクリン検査もBCG接種も2003年の結核予防法改正により廃止になって、毎年の健康診断時の問診表によりツベルクリン検査やX線検査を実施してきたが、2012年からは、ツベルクリン検査自体が廃止されている。
 小学校で、毎年?ツベルクリン検査とBCG接種を繰り返していたのはいったい何だったのだろう。反応の精度がきわめて低くかったからだという。現在は、結核感染の有無は別の方法が開発されているとのことだ。ちなみに、この1951年には、日本人の死因の1位だった結核が脳卒中のつぎの2位になったと発表されているが、結核はまだまだ猛威を振るっていたことは確かである。
 結核の治療薬「パス」も市販され、店にパスのお客さんが来て、私が店にいたりすると父は店から奥に引っ込むように言われていたことも思い出した。

すいみつ・ばばな・すいか

「すいかははじめて食べるのです。いままでは、おなかをこわすからといって、たべませんでした。それからすいみつやばななはいちどもたべたことがありません。あじがわからないのでたべる気にもなりません」(7月27日)

 そのころ、果物といえばリンゴとミカン、ナシくらいしか食べたことがなく、リンゴだと国光よりデリシャスが、ナシは二十世紀がごちそうであった。家では、桃、バナナ、柿は食べさせてもらえなかった。母は、いつも「おなかをこわすから」といって買ってはくれなかったのである。過保護というより、当時はぜいたく品だったからではないか。風邪で熱を出した時には、ミカンの缶詰を開けてくれるのがうれしかった。父は、ジョホールのゴム園時代の「完熟バナナを知ってるから、青いバナナを日本で黄色くしたバナナなんて食えたものではない」というのが口癖だった。

西の東横・東の西武
「今日は休みだったかなと思ったらやっぱりしまっていた。今度は西武デパートへ行くことにした。東横の品物はたいていケースにはいっているが、西武デパートでは手にとるようにできています。私はちょっとでもめづらしいと手にさわって行きました」(7月30日)

 母と買い物に出て、池袋西口の東横が休みだったので、東口の西武に出かけた日である。東横の定休日は月曜だったのか。たしか西武が木曜、後にできた三越は火曜だった。
 東横は、この日記の前年1950年にオープン、西武百貨店が出来たのは、1949年、その前身は、武蔵野デパートで、私にもかすかな記憶がある。天井の高い、広いスペースに品物が平置きされた市場のようであった。1946年夏、疎開先から、焼け跡に建てたばかりのバラックに住みはじめたころから、池袋西口駅前の闇市には、母に連れられて、よく出かけ、たしか下駄屋さんの奥で、「ヤミ米」をひそかに買っていたこともあった。

登校日?童話会

 8月1日は、出欠自由の登校日だったのだろうか。「童話会」が開かれ、私の大好きだった「みかんの花咲く丘」の合唱の練習で、二部合唱の低音部を初めて知ったと書いている。次は担任の乙黒先生の「新吉の手がら」で、これは先生の創作ではなかったか。先生は学芸会で、自らの創作劇を演出していた。同じクラスから主役が抜擢されて、憧れもしたのだった。童話会の次の出し物はN先生の怪談だったらしい。

「N先生がこわい話をするといったら、私達はみんなしずかになりました。私は、こわい話やたんてい小説がすきですからいっしょうけんめいききました。ところが先生は小さな声を出してこわそうに話すし・・・」(8月1日)

 夏休みの一日のために、先生方は熱心に創作や準備に関わっている様子は、今の学校事情からは想像ができない。

トマトオムレツ

「『晩ごはんにどんなおかずがいいか』いうとおかあさんは、なにかの本をもってきて『これがいいよ」といって「トマトオムレツ」と書いてあった。これならできそうなのでやってみることにした。はじめにトマトに熱湯をかけて、かわをむくことだった。おゆをかけてしばらくしてむくと、おもしろいようにトマトのあのうすいかわがむけます。・・・」(8月3日)

 少し得意げなのが、見て取れる。母は、そのころ、『婦人の友』や『栄養と料理』などをときどき買っていたのを覚えている。父が「料理の本はいろいろあるけど、母さんの料理って、いつも同じだ」とか嘆いているのを聞いたこともあった。商店の主婦の忙しさは、おとなになって、私もわかるのだが、父の認識不足は続いていたのではないか。

豊島園~夢のレジャーランド

 子どもの頃の遊園地となれば、豊島園だった。家族で出かけることも、いとこたちが田舎から上京すると、もてなし?の意味もあってよく連れ立って出かけ、ボートには何度か乗っている。この日は、母と次兄との三人で出かけている。

「豊島園なんてあきるほどですが、私にはなんとなく面白いのです。」

 と書き出している。豊島園の花形はなんといってもウォターシュートだった。小舟が高いところから斜面を走って池へと飛び込むだけの単純な乗り物だった。池に着面する瞬間、船頭さんが飛びあがり、乗客とともに水しぶきを浴びる、というものだった。
 兄は、家で初めて買ったマミヤの小型カメラでその水しぶきを撮り、兄と私も乗ったとある。また、私が初めて仔馬に乗った姿を兄はカメラに収めている。

「おじさんに『すいません、うつしますからちょっとどいて下さい』といって私と小馬をうつしました。私はなんか一人でのったつもりですましてとりました」(8月4日)

 あの豊島園がなくなると聞いたときは、思い出がもぎ取られるようでさびしかった。いまは、何になっているのか・・・。

自転車とそろばん

 その頃、近所の友だちとの外遊びといえば、自転車乗りだった。三角乗りから覚えた自転車だったが、走ると言っても、平和通りから路地に入った辺りをぐるぐる回るくらいのことで、途中で友だちを誘ったり、空き地にとめておしゃべりをするのが楽しみだった。また当時、塾といえばそろばん塾で、塾のバッチもあって、4級になったとか何級に受かったとかの話になると、私にはうらやましかったが、とうとう塾に通うことはなかった。近所の音楽の先生にオルガンを習ったり、低学年のとき絵を習ったりしたことはあったが、長続きしなかった。(つづく)

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1階の一室のリフォームが始まるので、タンスを移動した。その小さな抽斗から、何枚かの新しい風呂敷が出てきた。その中の一枚に、私が短歌の手ほどきを受けた阿部静枝先生の一首が染められていた。「日の差せるまま時雨来ぬふるさとへ入る木の橋が白くながく見ゆ」であった。亡くなった数か月前に刊行された短歌研究社の短歌研究文庫『阿部静枝歌集』(1974年3月)の「地中以後」に収められている晩年の作。包み紙や箱でも残っていたらと思うが。おそらく前年10月14日、宮城県の出身地での歌碑除幕式(中田町石森伊勢岡神明社)の参加者に配られたものではないか、と思われる。ただ、歌碑の短歌とは異なるのだが。

 

 

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2024年5月 1日 (水)

「天皇制はない方がよい」3%、そこに留まる一人として

  4月29日は、天皇誕生日、いや、みどりの日だった。いや、いまは、なんと「昭和の日」だった。2007年から、みどりの日は5月4日に移動して、「昭和の日」になっていたのだった。そして、もう忘れかけそうな、4月30日には、どんな事情があったのだろう、5年前の、この半端な時期に、平成の明仁天皇が退位し、2019年5月1日に徳仁天皇が即位している。きょうの 朝刊を見ると、天皇家の令和の5年間を振り返る記事が並んでいる。「時代や社会に応じ<象徴>を模索/国民と苦楽を共にする」(東京)「国民の中に広がる活動」(朝日)、「苦難と向き合い 国民と歩み」(毎日)という見出しであった。「国民とともに」といわれてみても、私たち国民にその実感はない。訪問先や被災地でのふれあいは、限定的でもあり、一過性でもある。歌会始や園遊会、文化勲章など国家的な褒章制度などは、国民の栄誉欲と権威付けが伴う活動の場となっているのではないか。

そんなカレンダーを踏まえ、しかも、「安定的な皇位継承の在り方」に関するか各党の見解が出そろった4月28日、共同通信社は「皇室」に関する世論調査結果を発表した。

 近年の皇室に関する世論調査には、女性天皇、女系天皇の賛否を問う質問が必ず登場するようになった。上記の世論調査でも、全体で20の質問事項の中で、2問への結果はつぎのようであった。どちらも圧倒的に賛成と出た。

 問7女性天皇の賛否:

 賛成52%、どちらかといえば賛成38%、 併せて90%
 反対3%、 どちらかといえば反対  6%、 併せて 9%

問10女系天皇の賛否:

 賛成38%、どちらかといえば賛成46%、 併せて84%
 反対  5%、どちらかといえば反対 9%、 併せて14 %

(2024年4月 共同通信社世論調査)

  なお、4年前の共同通信社の世論調査結果は以下のようであった。

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「女性・女系天皇 「支持」が高く 天皇に「親しみ」58%」東京新聞 2020年4月26日 

  これは、高齢者にとっては男女平等、若年層にとっては、ジェンダーによる差別なくそうとする考え方がある程度浸透してきたことと女性皇族—美智子さん、雅子さん、愛子さんらの行動とその報道などが反映されていると思う。

 しかし、このことは、当ブログでも何度も述べているように、天皇制自体が平等を前提としておらず、男女を問わず皇族たちのごく当たり前の基本的人権が認められていない仕組みなので、女性天皇、女系天皇で皇位をつなげたとしても、その平等・人権に反する状況は何も変わらない。

 今回の世論調査で、私が着目したのは、以下の問3であった。

 問3あなたは、日本に天皇制があった方がよいと思いますか、ない方がよいと思いますか

 あった方がよい:        44%
 どちらかといえばあった方がよい:44%
 どちらかといえばないほうがよい: 7% 
 ない方がよい:          3%
   無回答:             1%

   この種の世論調査で、「天皇制」の存否をストレートに問う質問事項が登場するのは稀である。さらに、その回答は、私にとっては、“どちらかといえば” 想定外なものであった。これほどまでの差があるとは思わなかった。あわせて88%があった方がよい、であり、ない方がよい、10%という低さだったのである。私は、この質問をするならば、その理由も聞いてみたかった。が、別の問15において、即位後の活動について、評価する活動の二択において、以下のような結果だった。

海外訪問や外国賓客のもてなしなど国際親善53%、
訪問先での国民とのふれあい42%、
被災地のお見舞い38%、
憲法の定める国事行為18%
戦没者の慰霊、宮中祭祀が各8%

 ここに、あった方がよいとする理由を垣間見ることができるような気がする。国事行為の18%をのぞいては、法的根拠のない、公的行為か、私的行為に過ぎない。平成期の天皇夫妻が、拡大してきた「公的行為」であり、「私的行為」の広報や公務化を、令和期の天皇夫妻も踏襲してそのままに報道するようになった。そうしたことが、問15や問3の回答結果に反映しているのではないかと思う。

 「天皇制」はない方がよい3%にとどまって何ができるのか、どちらかといえばない方がいい7%とともに、進む道はあるのか、心細いながら考えていきたい。

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 「「皇室」世論調査の詳報」(一部) 東京新聞 2020年4月26日
読みにくいのですが、クリックすると拡大します。

 

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