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2024年5月12日 (日)

 断捨離の手が止まる(4)1951年、小学校最後の夏休みは(後)

念願の一色海岸
 父の友人が薬局を開いている葉山へ、とうとう出かける日がやってきた。父母と前日に泊りに来ていた従姉のMさんも飛び入りで、4人となった。逗子駅からバスで15分で一色海岸に着いたのだが、母は車酔いで、顔も真っ青で、全身の汗にびっくりもした。

「波がざぶんーとくると白いしぶきを上げて遠くの方では白ほが三つ四つ、左の方には大きな岩がたくさんあってなんともいえない水の青さまるで絵のような、お母さんもたちまち元気になってしまった。」(8月9日)

 それまで、遠足で潮干狩りに行ったことはあっても、波がしらを目の前にして、いささか興奮した様子が綴られている。私より8歳上のⅯさんも海を目の当たりにして、森戸まで、水着を買いに行ったほどだった。Ⅿさんは、とってもおしゃれが上手で『ひまわり』の表紙から抜け出たようなお姉さんだったが、真っ赤な水着には一同驚いたことも思い出される。父の友人宅では、お風呂もいただき、夕飯もごちそうになって、夜十時に帰宅し、長い一日のようだった。

お盆にミシンを習う
 母の生家があり、親戚も多く、疎開先でもあった千葉県佐原へ、お盆に出かけるのは、我が家の夏のイベントであった。

「三時におきてしまった。でもそんなに早いわけではありません。だって千葉発六時四七分の汽車で行きます。家を出ようというとき停電になった。外は外とうもつかないしまっくらです。けれど新聞屋さんだけはローソクの火がみえました。千葉へついた時は明かった。」(8月14日)

 誤字や送り仮名が怪しかったりするが、はやる気持ちは伝わってきそうだ。千葉から成田回りの汽車で、佐原駅着が八時二〇分と書かれている。家を何時に出たかは不明だが、当時は秋葉原乗り換えで両国から千葉へ向かったと思われる。いずれにしても池袋はそうとう早く出たのではないか。出がけに停電に見舞われたというが、この頃もまだしょっちゅう停電があったのだろうか。新聞屋さんというのは、空き地を挟んだ隣が新聞配達所で、いつも夜更けから、人の出入りも、人声も絶えず、騒々しかった。まだ、その頃は「○○新聞専売所」ではなく、たしか、新聞各紙を配達していたのではなかったか。何人かの男性配達員が住み込んでいたと思う。
 佐原の母の生家には、疎開中、何か月間かお世話になっていた。周辺にはない屋根付きの立派な門をくぐるとき、なんだかいつもドキドキしたものだった。広い土間のかまど、母屋から離れたお風呂場、廊下に外階段が付いている客間などどれもなつかしかったにちがいない。一晩、お世話になって、翌日は、母の妹、叔母の家にまわっている。同い年のいとこもいて、五人きょうだいの賑やかな家だったが、小学校の先生をしていた叔父に、ミシンは習ったかと聞かれた。

「私は見ることはあっても実際にやったことがありません。おばさんにぼろきれをかしていただいておじさんにおさわりながらやってみたがなかむづかしいです。私もいっしょうけんめいですからあせびっしょりになってしまいました。」(8月15日)

 やっとのことで雑巾一枚を仕上げてうれしかったらしい。こんな風にして回りの大人たちの気づかいによって、あたらしい体験をさせてもらっていたのだと、いまつくづくと思う。三日目は、「ていしゃば」と呼ばれていた祖父の再婚先、駅前食堂の二階の大広間に寝かせてもらった。ただ、この家に泊まると、夜中に汽車が通って大きく揺れて、目を覚ましてしまうのだった。
 その日には、一番列車で池袋に帰るということで、かなり早起きしたらしい。目を覚ましたところ、食堂の人たちはもう働いていて、なにやら大騒ぎをしていた。

夕べはすごかったそうです。かすみが浦のそばに共産党の人がいっぱいいて、なにかやっていて、佐原のけいさつのまえにはおまわりさんが自動車にのっていて十台くらいいたそうです。そんな騒ぎを一つもしらづ私はぐーぐーねていました。」(8月17日)

 共産党らしい人たちが、集会でも開いていていたのだろうか。夕べといっても何時ごろのことなのか、霞ケ浦のどこだったのか、会場は?野外だったのか?知る術もない。当時はアメリカとの講和条約をめぐって、その条約草案がアメリカから示されたのが8月16日だったことと関係があるのか。社会党と共産党が全面講和を主張していて、それに同調する識者も多かったらしい。9月8日には吉田茂首相が講和条約と日米安保条約に調印。前年6月には朝鮮戦争が始まり、マッカーサーの共産党への強硬策が露わになり幹部を追放、復刊まもない「アカハタ」の発行停止を受けている。51年2月には、共産党の武装闘争指針が出され、メーデーの皇居前広場開催が禁止された上、企業におけるレッド・パージも盛んになされていた、という。都市部だけでなく、郡部にも緊迫した空気が流れていたのだと思う。

BHCが毒だったなんて

 うだるような暑さが続く夏だったらしく、父親の「夕べはのみかかに食われたのか一ばん中ねなかった」の一言で、畳みを上げる大掃除が始まった。6畳間と長兄の寝室になる4畳半の畳を全部上げたのだが、途中で、どこの畳か分からなくなるからと次兄が地図を書き、畳の裏に印をつけていた。

「ほこりになるからといって頭には手ぬぐいをかぶり手ぬぐいでマスクのかわりにしたちょっとどろぼうみたいでした。畳は上げたあとBHCをまきその上へ新聞紙をひきその上からまたBHCをかけた。とうとうBHCの袋を一袋つかってしまった。でも完全だと思います」(8月18日)

 まるで、一人で奮闘したような書きぶりだが、よほど達成感があったのではないか。その頃、DDTよりBHCの方が強力だということで、店でも、よく売れていた殺虫剤であった。
 ところが、1960年代になると、BHCの毒性と体内への残留性が問題となり、農薬にも使われていたので、汚染された牛乳などが全国で問題になり、1969年使用禁止となったのである。ああ、なんということをしていたのだろう。ツベルクリンも然り。コロナの予防接種は大丈夫だったのか。予防接種を7回も受けた身には、その副反応や弊害が取りざたされているのを聞くたびに不安が残る。

自由主義ってなんだ

「夕ごはんがおわった後、○ちゃん(次兄)とお兄さんが自由主義とはどういうものかまたいいところとわるいところといったようなことを大きな声をだしてしゃべっていました。私はべんきょうやっていました。うるさいので身がはいりませんでした。その話をきいているとむづかしいようでしたが、二人の話をきいている内にすこしわかるようになってきた。その二人のはなしは映画の話にかわってしまった。あのはいゆうはどだとかこうだとかしゃべっている。私はべんきょうがおくれてしまうので「うるさい」とおこってしまった。」(8月30日)

 夏休みも終わろうという夜、やり残した宿題でもあったのだろうか。二人の兄の話を聞くともなく聞いていて、「少しわかるようになってきた」とは? 当時の娯楽の最先端であった映画、兄たちも大好きだったし、父も店を抜け出して見に行くほどで、私も後に映画好きになるのだった。次兄は、大学を出て、松竹の助監督試験を受けて、面接までいった?らしい。受験生の一人に吉田喜重がいたとも。結局、次兄は中学校の教員になり、学校演劇に熱を入れていた。

 遠い昔の一夏のあまりにも個人的な思い出にふけってしまった。これは自ら仕掛けた回想法だったかもしれない。

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上:『年表昭和・平成史』(新版)(岩波ブックレット 2019年8月)より
下:『年表昭和史』(岩波ブックレット 1989年3月)、一番使い古した年表、1995年1月、13刷です

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